王都入城?
長かった、のだろうか?
それとも、
短かった、のだろうか?
二、三日のような気もする。百の夜を超えたような気もする。
何回目の夜を超えたか、もうすでにリルは数えるのを止めていた。それは決して悲観的な意味からではない。ハルトと出会ってから、夜は怖いものではなくなったから。
視界が急に晴れた。ずっとずっと、二人の頭上を覆っていた森の木々たちが、さっと、その身を引く。
「――わあっ!!」
目の前には大きな河。向こう岸が遥か遠くに見える、そんな大河。
マルキー河。
二人をずっと案内してくれた小さな名もなき川はマルキー河と交わる。
遂に、遂にたどり着いた。
――ありがとう。
そんな風にリルは、自分をここまで連れてきてくれた小川に感謝する。物心ついた時からずっと傍にあった。この川を見ながら大きくなった。そして、今日、初めてその流れとお別れする。
小川の上にかかった、小橋を、とんとん、と必要以上に音をたてて渡る。それが決別の証。
少女は一つ成長した。
「――――んんっ」
むん、とリルは大きく背伸びをする。ぽきぽき、と小気味よい音が体のあちこちから鳴った。
「ここまで来れば、あとちょっとですよハルトさん」
「ああ、そうだな」
リルの後ろからよたよたとハルトが続く。歩き通しの毎日でもう体力は殆どないが、しかし、最後の最後、気力は次々湧いてくる。
大小さまざまな船が河を行き交う。たくさんの木箱を積んだ商船。獲りたてピチピチの魚を運ぶ漁船。一人乗りの小さな舟。賑やか、とても賑やかだ。まるで水上でお祭りをやっているかのようだ。
そんな様子を見つめるリルの瞳から流れる涙はきっと太陽が眩しいから出た涙。
「あ、あれ」
ハルトが空を指さした。
リルが見上げるとそこにはたくさんの《ハネビト》の商人たちが忙しそうに飛び交っていた。
「獲れたての魚ぁ!!」「雪の国製の手織布あるよお」「雷の国出身某有名作家の新刊入ってますよう」「干し肉」「新聞、新聞、今朝の新聞はいらんかねぇ?」
彼らはあちらこちらで船の上の人間と交渉をして物を売ったり買ったりしているようだった。二人はそんな異種族間の交流を生まれて初めてその目で見る。
「見えた……」リルは呟いた。「あれですよ、ハルトさん。あれがウェアス一番の大国、晴れの国、その首都サナライズです」
『太陽に愛された都』サナライズ。ウェアスに生きるものでその名を知らない者はいない。文化、軍事、経済、政治。ウェアス一の大国の様々な機能を集めたこの都は至極簡単なたった一言で表現できる。
世界の中心。
リルの指さす先には石で出来た背の高い壁が見える。首都は頑丈そうな城壁と深い堀とに囲まれていた。そしてその壁と堀はリルの視線の届く限り、どこまでも遠くに続いている。
「凄いなぁ」ハルトが呟く。「こんなの見たことないよ」
ニホンの教科書に、中世のバグダードの図が載っていたのを覚えている。この都はそれをさらに何倍にも大きくしたかのような感じだ。
「……想像していた以上です。おとぎ話みたい」
リルも声がでないといった風に言葉を吐いた。
本の挿絵に載っていた絵は決して大げさではなかったのだと、この目で見て初めて知った。この世界には自分の知らないものがまだまだいっぱいあるのだと、その時初めてリルは実感することができた。
気が付くとリルは自然と小走りになっていた。足が自分の意思よりも先に動く。
くすす、
自然と笑いが漏れた。
「おい、待ってくれよ」
リルの後をハルトは重い荷物をえっさえっさと抱えながら追いかける。その顔も、しかし、笑顔だった。
今までの半分獣道だった野道ではない。石畳のきちんと舗装された道路だ。王国の東西を結ぶ道路。
道路の端には魔石灯が立つ。流通の馬車が通る。自分たちと同じような旅人もたくさん見える。立派な鎧を着た兵士が一定間隔で警備についている。
二人の歩幅はどんどん大きくなっていった。
あはは、あはは、声が漏れた。
楽しい、楽しい。
この感情が、たとえ一時の気休めだとしても。少女はそれを受け入れて、昔の、愛され上手のリリアーヌへと戻る。
リルはその身に感じるすべてが嬉しくて、ぴょんと、大きく前へ跳んだ。
空に浮かぶ太陽はこの都を今日も愛している。きっと。
※※※
王都サナライズは四方を壁に囲まれた城塞都市の側面を持つ。
円い形の都市。東西に一本大きな河と、南北に水路。大ざっぱに言えば漢字の『田』型になっている、とでもいえばいいのだろうか。正確な円に二本の線が交差し四つの区域を生み出している。ニホンのトーキョーなどと比較にならないほど『分かりやすい』構造になっている。
ハルトたちがこれから入ろうとしているのはその『田』の右上にあたる区。『春区』と呼ばれる区域だ。
この都の四つの区はそれぞれに城門を持っている。中に入るにはその四つの門のうちのいずれかを通らなければならない。都を横断するマルキー河には水路という役割もあるので、東西の水門。陸路を含めて計六経路、それ以外に都へ入る方法は原則存在しないということになっている。
それぞれの門から入城するには規定の手続きが存在し、都の中の治安を守る役割を、四つの門は担っている。
しかし、その構造がリルとハルトにとっては問題となる。
「え、何? パスポートとか必要なの?」
ハルトは聞いていないよ、といった声をあげる。
「そうでした、すっかり失念していました。サナライズに入るには教会か組合の発行する許可証が必要なのです。私にはもちろん準備があるのですが、ハルトさんの用意がありません。どうにか入る方法を見つけなくてはいけません……」
ウェアス一の大国『晴の国』は軍事大国でもある。さまざまな国を平定して領土を拡大したという歴史がある。そのため、いわゆるテロ行為への対策のために検問を通らなければ誰も都へ入ることは出来ない。
しかし軍事大国であるのと同時に、サナライズはこの国の物流の中心地でもある。テロ対策のために完全に都への人の流入を止めてしまえばその機能が働かなくなってしまう。そのため許可証を厳しい審査の代替としている。王が認めた有力者、貴族、豪商、大魔法士などは、サナライズへの入都を許可する権限を与えられる。都への用事があるものはその有力者に保証人となってもらうことで、サナライズ入城の権利を得ることができる。
有力者たちは何も一人一人をきちんと審査して、入城の許可を与えるわけではない。
端的に言ってしまえば、幾ばくかの心づけと引き換えに許可証を発行するのだ。
これは、許可証の発行権が、徴税権としての役割を担っているということを表している。
まあ、それはつまり裏を返せば金さえ払えば都に入れるということでもあるのだから、冒険者や旅人にとってはありがたいことと言えなくもないのだが――。
「ですから教会や大商人の店に行ってお金を払えば許可証はもらえると思うのですが……」
「金がない、と」
「……はい」
ハルトはもちろんウェアスのお金を持っていない。リルが腰から下げた袋の中に入っているコインもどうやら二、三週間の食料を買うほどしかなく(それでも十四歳の少女が持ち歩くには大金ではあるが)とてもじゃないが許可証を買う(?)ことが出来るほどの金ではないという。
「金目の物もないことはないのですが」
リルはワキモノと戦った時に振るったナイフをマントの下から取り出す。それは確かにいろいろな宝石が柄のところにちりばめられていて見るからに高価そうだ。
「駄目だ。俺のためにそんな高そうなものを手放すなんて」
ハルトはリルにナイフをしまわせる。自分のせいでそんな高そうなものを売り払わせるわけにはいかない。
「俺が都に入るのを諦めればいいだけの話なんだから、な」
その言葉にリルは怒ったように顔を真っ赤にした。
「ですが、それだとハルトさんはどうやってグンマーに帰るのですか!? 当てはあるのですか!? 一人で知り合いもいないで、生きていけるんですか!?」
リルの剣幕に押されつつも、ハルトは言葉を返す。
「当てはないけど。この刀があるからワキモノは、まあ、多分、何とかなるし。それにリルに迷惑をかけるなんて、それこそできない。リルだって何か目的があって王都を目指してたんだろうし。俺は一人でも――」
「ダメですよ!! ハルトさんはウェアスのことを何も知らないではないですか! 魔法のことも、ワキモノのことも! 一人で放っておくことなんて私には出来ません! 果ては飢え死に野垂れ死にですよ!!」
リルは大きく声を上げた。そしてハルトの背負っている荷物をひったくる様に奪い取ると都とは反対の方に歩き始めた。
「お、おい、リル!! どこに行くんだよ」
「行きましょう!!」
「へ、どこに?」
「決まっています」
リルは、とん、と言った。
「お金を稼ぎに、です」
リルの頑固さを、初めてハルトは身をもって覚えた。