魔力、虹色
急にやってくる。突然やってくる。前触れはない。人類最大の敵といわれるそれは闇から湧きでる災厄。
「どこにだってそれは突然湧き出します。時間も場所も関係ない。暗い闇から湧き出るモノ。奴らの名前は『ワキモノ』です」
――ニョロニョロ
芋虫型のワキモノがその身体を左右に揺らす。筒形の身体に、いくつものイボのような足が見て取れる。一メートルほどの体長の芋虫がくねくねとうねる姿は、見るものに圧倒的な不快感を与える。
「グンマーにはワキモノはいないのですよね。本当に……うらやましい限りです」
「ああ、心底同情するよ。何だ……あれ、気持ち悪い」
二人は十分な距離をとってワキモノの様子を観察する。数は一匹。強そうなワキモノには見えないが、リルにとっては以前のこともある。危険を回避するためにはこの程度で慎重すぎるということはない。
「ワキモノは熊や猪みたいな獣とは違います。獣が人を襲うのはその身を守るためですが、あれは違います。人を襲うためにワキモノは生まれるのです。そもそもその存在自体が災厄なのです」
「人を襲うため?」
ええ、とリルは頷く。
「ワキモノは人を攻撃すること、しか、しません。それがやつらの行動原理なのです。だから例えば家畜を殺したり、川を氾濫させたり、そういったこともワキモノはしますが、それは全部その行動原理からの帰結なのです」
「恐ろしいな……」
「ええ、本当に……」
言いながら、リルは地面に下ろした大きな旅の荷具から弓と矢を取り出した。どちらも木を丁寧に削って作られている。
「だからワキモノを見つけたら迷わず倒さねばなりません。それが生きるために最も必要なことなのです」
リルはその大きく丸い瞳でワキモノを、しっかりと見据える。
「リルは、弓なんか使えるのか?」
「ええ、嗜み程度には。小さいころから兄の真似して練習してきましたから」リルは微笑みの中に少しばかしの苦みを混じらせる。「まあ、ワキモノに向かって放った経験なんて一度もないんですけどね」
あの遭遇が、リルにとって初めて一人でワキモノと対峙した経験だった。しかし、その一度の経験が彼女に覚悟を覚えさせた。彼女はもう数日前までのただ守られるだけの存在ではなかった。
数匹同時に相手をする場合だと連射性の効かない弓矢は不利だが。敵が一体なら距離の取れる分ナイフより何倍も安全だ。
「見ていてください。いきますよ」
――キリリ。
弓を引く。狙う。定める。集中。外さぬように、気持ちを込めて。
放つ。
――タン。
当たった。ワキモノの胴体に尖った矢は見事命中した。
――ク、クキュルルルルル。
ワキモノの鳴き声。苦しそうに鳴く。ゆらゆらと揺れる。傷口からは闇が吹き出し、明るい世界に黒をまき散らす。
その姿の醜さは町を押し倒して進む濁流のそれに似ていた。
まだ倒しきれてはいない。
ワキモノを倒すとは、すなわち闇へと返すこと。
「大丈夫なのか、あれ。変に刺激したら余計危ないんじゃないのか?」
言いながら、ハルトは日本刀を手元に引き寄せる。刃は抜かない。鞘に納めたまま、しかし、いつでもそれを打ち込めるように構える。
自らと共にウェアスの大地へやってきたニホンの刀。何故、ハルトのもとにそれがあったのかはハルト自身にも分からなかった。
しかしその刃は今、少年が少女を守るためのものとして彼の手の中にあった。
「ハルトさんは剣の覚えがあるのですか?」
「……学校で剣道をやってたんだ。子供のころからな。もちろん真剣なんか、振ったことないから。この世界の人からしたら、真似事みたいなものかもだけど」
「ケンドー?」
矢の突き刺さったワキモノは明らかに先ほどの様子とは違い、こちらに向かって威嚇を繰り返している。
節々を互い違いに動かし、ハルトとリルの方へにじり寄ってくる。
刀を握る力が強くなる。
「安心してください。これだけの距離が離れていれば、安全に魔法の詠唱が可能です」
「……ま、魔法?」
ハルトが驚いたような声を出したが、もうリルは詠唱の構えに集中していて聞いていない。
距離がある。相手の動きが鈍い。
前回とは違う。焦らず、集中。気を込めて、消す。
リルは宙に春魔法の陣を描く。右手に魔力を込めることによってリルの指の軌道通りに魔法陣が浮かび上がる。魔方陣の意味は『春を司るナチュール神への賛美』。
「光源無き影。暗き闇。地から湧き出る黒を、今、春風にて清めん。浄化『春風のお掃除』!」
詠唱が終わると書いたばかりの魔方陣から一筋の光が伸びる。その光はワキモノに刺さった矢まで伸び、そしてその矢に染み込み、広がり、そして、
――クキュゥ……。
ワキモノはまるで身体の内側から溶けるようにして消えた。
たん、とワキモノに刺さった矢が地面に落ちる。ワキモノの姿はもうそこにはない。ワキモノは闇へと還った。そこに残るのは、ワキモノの心臓と呼ばれる、小さな石『核』だけ。
「魔法……」
目の前の光景を眺めながら、ハルトはぽつんと呟いた。
魔法と、ワキモノ。
グンマーの常識では測れない現象を目撃した。
「魔法もグンマーにはないのですか?」
「ああ、ない」ハルトは言う。「魔法なんて、初めて見た。すごい、……うん、すごい」
すごい、しか言えないでいるハルトを見て、リルは少しだけ、くすり、と笑った。
「さっきの魔法くらいでそんなに驚かれるなんて、私も初めてです。きっと王都には私なんか比べ物にならない凄さの魔法士さんがいますよ」
リルは矢を拾い、ハンカチーフで丁寧に、生き物に刺さっていたとは思えないほどに綺麗な矢尻を拭って、旅荷に仕舞った。
「私たちは子供のときから魔法の勉強をさせられます。もちろん皆が魔法を使いこなせるようになるわけではありませんが、それでも多くの人が魔法と共に生活をしているのです」
人間には生まれながらに自身の生命力を魔力に還元することができる機能が備わっている。自身の中で練り上げた魔力を、精霊との契約を結ぶ媒体とすることによって、ウェアスの人々は魔法という神秘を扱うことができた。
「ですから、きっとハルトさんにも、魔法が使えますよ。たとえ別の世界から来た人でも、同じ人間であることに違いはないのですから」
「俺にも?」
「ええ、もちろんですよ」
言ってリルは目の前でその右手に魔力を帯びさせた。空気に放出されたリルの魔力は黄色く光っている。リルはその手でハルトの手を取った。
「ハルトさん、やってみましょう。心を落ち着かせて、自分の中にある生きるための『力』みたいなものを身体の外に出そうとイメージしてみるのです」
リルの手はやけに温かかった。それが彼女の手の温かさいよるものなのか、そもそも彼女の魔力に温かさがあるのか、それは分からなかった。しかし、異世界で感じるこのぬくもりだけは本物だと確かに思えることができたから、ハルトは彼女の言うとおりにしてみる。
力。
呼吸を整える。
ハルトにとってそれは自然な動作だった。十八年弱の人生の中で、それは身に沁みついた行為のように思えた。幼いころより何度も道場で繰り返したその息遣い。今は異世界の空気を胸の内に入れる。
目を閉じて、息を吸う、呼吸を止めて、集中。
「そうです……。ハルトさん、ゆっくり……」
リルの声を遠くに聞いた。
彼女の瞳を近く覗く。
とても綺麗な瞳だと思った。
大きく、透明で、よく磨かれた水晶のような瞳。
リリアーヌ、という名前の響きの通り、弾けば高く澄み切った音を鳴らしそうな瞳に思った。
しかし、しかし、と、
ハルトはその奥に、何か見てはいけないようなものを見た気がした。綺麗なシーツの上にこぼされた一点のコーヒーのシミみたいに。それは真っ黒なものよりも、暗く見える白布に落ちた闇に見えた。
途端、体内から熱が放出されるような感覚に襲われた。
精神、という抽象的な言葉が表す、自身の活動の原動力が燃え出すようなイメージ。ハルトは内から押し出されるエネルギーを肌に感じた。
「ハルトさん、そうです。……そうです。ゆっくり」
つながれた手がやけに熱くなった。
黄色く光っていた、彼女の手が、その色をそっと抑え始めると、今度は少年の手がゆっくりと輝きだしたのを彼自身が目撃する。
それは赤色。それは青色。それは黄色。それは緑色。それは黒色。それは白色。それは虹色。それは無色。
ハルトの目の前でそれは万物万象の理を体現するが如く、少年の知る限りのすべての色に変化して見せた。
「すごいです。……これが、ハルトさんの、色なんですね」
次第にその放出は、ハルトの意思とは無関係に、勢いを弱め始めた。
彼の魔力は、複数の色をもって輝いた。
それを世界に放出したこと、何より自分自身がそれを確認したことは、ハルトにとって重要な意味をもった。
「本当に異世界に来たんだな……」
ハルトがぽつんと呟く。
文字通り、ウェアスは、剣と魔法の世界だった。
ワキモノ。
バーディア。
魔法。
どれも彼の十八年弱の人生とは無関係のものだった。
異世界に、もし、来たら。
そんなことを話し合った少女の横顔を思い出していた。
「……おにぎりの次でいいから、か」
呟いてハルトは荷具を背負う。
「オニギリ?」
リルが聞きなれない言葉に首をひねる。
「群馬の食べ物だ、いや、まあ日本のだけど。とにもかくにも群馬に帰る方法を、早く見つけないといけないな、と思ったんだ」
ハルトの言葉に、リルは力強くうなずき、荷物を背負った。ハルトも自身の荷物と、リルの荷物の半分を背負い、歩く。
晴の国の首都サナライズを目指して。
グンマーに帰るために。