始まりはグンマーから
『桜井春人』の高校生活について特筆すべきことは何一つない。
朝、六時前に起床し、七時半に学校に到着。部活の朝練に一時間ほど精を出したあと、授業を受ける。授業よりも昼休み、昼休みより放課後が好きな普通の高校生。彼の日常は同年代の他の学生たちと比べてそう大きく違うはずがなかった。
彼にとって自慢できることといえば、この三年生の春まで、一度の遅刻も、ましてや欠席さえもしたことがないくらい。
彼は、つまり、そういう少年だった。
「ねえ、もし今とは違う世界に行けたら、どうする?」
同じ部活のクラスメート、『夏芽みかた』がそう言ったのはある日の夕方のことだった。雨上がりで街に水のにおいが残る、そんな放課後のことだった。ゆるやかな曲線を描く帰り道。二人は寄り添いあって縫うように歩く。
「そこではね、私たち、やろうとさえすれば何だって出来るのよ。やる気と勇気と、ちょっとだけの愛があれば。いわば無限の可能性、だよ。ねえ、行ってみたくない、そんな異世界に?」
みかたのそんな物言いに春人は妙な面白さを感じて、半笑いになりながら返した。
「異世界? 何だって出来る、って何だよ?」
コンビニおにぎりのフィルムをほどいて、春人はぱくりとそれを齧る。中身は酸っぱい梅だった。
「私はね。私たちのいる世界の有限性みたいなものに飽き飽きとしているの。知っている世界、おにぎりを食べながら、梅干しの酸っぱさに頬をすぼめるような毎日にね。子供のころ何も知らなかったころには無限に感じた世界の小ささに気づいてから、私は毎日をただあなたの隣でぼうっとしながら過ごしているんだよ」
「だから異世界?」
「そう、だから異世界」
みかたはくすすと無邪気な子供のように笑った。
「たとえばダンジョンの奥にたくさんの財宝があるのね、私たちは冒険者。危険を顧みずに私たちはダンジョンに入り込む。中には山ほどのモンスター。私たちは剣と魔法を駆使してばったばったの大活躍。ついに一番奥までたどり着くんだけど、そこには財宝の守り手ドラゴンが!! おのれ、ドラゴン!! 私はその財宝を持って帰り、億万長者になるんじゃあ!! ってことで私たちは命をかけた決戦に挑むのであった、みたいな」
「金のために命を張るのはごめんだ」
「じゃあ、私はお姫様。春人は勇者。ある日、私は悪い魔王に攫われちゃうの。何たってこんな美少女ですからね」
「はいはい」
「そしたら、ハルトはきっと助けに来てくれるでしょ。『姫、助けに参りました!!』『ああん、勇者様。お待ちしていました。必ず来てくれると信じて……』『ええ、あの憎き魔王はこの手で、討ち果たしました。姫、もう大丈夫です』みたいなラブなロマンスがあるかもよ」
「お前の頭が大丈夫か?」
おにぎりを口の中に入れ、ハルトは空を見上げた。茜色に染まる空。
異世界。
そんなものあるはずはないと思った。いや、あっては困る。
ただでさえこの世界は、高校生の自分たちにとっては大きすぎる。この世界で見つけなくてはいけないものさえ、自分たちはまだ見つけていないのに。こことは違う世界のことを考えるのは、あまりにも、果てが無さすぎる。
二人の足の下にはいくつもの自動車が通る。排気ガス。さび付いた歩道橋を渡り切り、二人は並んで階段を下りる。
「俺はいいよ。ここで十分だ。だってそんなドラゴンやら魔王やらがいる世界ならきっとおにぎりもまともに食べられないだろう」
春人は言うと、みかたは少しきょとんとした後、くすす、と笑った。
「春人にとってはおにぎりが重要なのね」
「ああ、最重要だ」
三つ目のコンビニにぎりを平らげながら、みかたの隣で春人は歩いた。
河川敷。遠くにはビル。自転車に乗る人。犬と遊ぶ子供。カラスが鳴いている。ずいぶん夕日も傾いた。
「ねえ、春人」
「ん?」
みかたがスカートの端を少しだけ揺らして春人にささやく。
それは静かな泣き声と同じ色のしたほほ笑みに交じった息遣いだった。
「じゃあ、もし図らずも私たちのどちらかが異世界に行くことになったら、その時はちゃんとお互いのことを思い出すこと。いい? あなたにとって一番重要なおにぎりの、その、次で、いいから――」
※※※
声が聞こえた。それは悲しさを破裂させたような音。誰かが自分を呼んでいることだけを感じた。気のせいかもしれないと一度は無視したけれど、その声はハルトの頭の中で反響し続ける。
ハルトは空を見上げたまま、その声に耳を傾ける。
その声はどこか懐かしくて、それでいて新鮮な響き。涙というものに音があるのだとしたら、この声はきっとそれに近い。
うるさい。うれしい。それぞれを半分ずつ混ぜ込んだ返事を彼はする。
「みかた、少し寝かせてくれよ。なんだか、凄く疲れてるんだ」
しかし、その声が止むことはなかった。ただ悲しさだけが積もっていく。胸の上にのしかかったそれはやがて息をすることさえも阻害するようになる。
目の前の空は相変わらず汚い。
青。汚れた青。
世界中の綺麗なものと、それと同じくらいの汚いものを混ぜると、きっとこんな色になる。濁った空の色。
彼は次第に瞼が重たくなっていくのを感じながた。
晴れた空が今日はやけに遠い。
だから、
彼はゆっくりと目を閉じる。
現実味のない浮遊感。まるで夢の中にいるような感覚。
さっきまで自分が何をしていたのか? 自分がどこにいたのか? それすら思い出せない。
この曖昧な感覚すらもまた夢のようで。
先ほどまで聞こえていた声が、もう、聞こえなくなっていることにハルトは気が付かなかった。
彼は薄ぼんやりとした意識の向こうを覗いていた。ゆっくりと両目を開ける。
そこは雲の上。眼下には灰色の雲。視線を上げれば星々の光が目に眩しい。大きな月もぽかりと浮かんで笑っている。
瞬間、強い風が身体を叩いていることに気が付いた。高い。黒い背景の中に、彼は漂っている。
さっきまでは、確か、授業中だったはず。いつの間に夜になったのか。
春の日にうたたねをした後のように、時間の感覚さえもあやふやだ。
それにしても、とハルトは漠然と思った。
――こんなに綺麗な星空は初めてだ。
大きさも強さも疎らな光。手を伸ばせば掴めそうな輝き。
空が近い。それだけでここまで月の輝きが違って見えるのだろうか。
彼は、不思議とこの状況に、恐怖は感じなかった。
空の上にいるはずなのに。宙に浮いているはずなのに。落ちたら死んでしまう、なんて考えは微塵も浮かんでは来なかった。
彼には、もう、自分が死んでいるのか生きているのかも分からなかった。いや、そんなことは、もはや、どうでもいいのだ。
何かが始まる。誰かが自分を呼んでいる。それだけは何故だか胸の奥で確信していった。
「――ああ」
声が漏れる。
身体が、ゆっくりと、地面に向かって引き寄せられる。
落ちていく。落ちていく。
空では星が、月が、見たこともないほどに大きく明るく笑っていた。
彼は下を見る。
ぱっくりと口を開けて、世界が、彼を待ち受けていた。
恐ろしいほどに大きな世界が、そこには横たわっていた。
※※※
「空から落ちてきたんだ」ハルトはリルのナイフで彼女を縛る蜘蛛の糸を切りながら言った。「気が付いたら空の上にいて、ふわふわとゆっくりこの森の方に身体が近づいたと思ったら、どすん、と落ちた。バキバキって木の枝を折りながら、ね。最初は夢かと思ったんだけど……」
黒をバックに少年と少女。焚き火。月。二人を照らす。
「夢じゃないんだよな」
「ええ、きっと、私の知る限り、これは夢ではないはずですが……」
リルにとってのここ数日の出来事は、すべてが夢であってくれればと思えるものではあったけれど。
風が優しく吹きつける。闇を連れ去ってくれそうなほどに心地よい風。リルはそんな不思議なことを言う少年の言葉を聞きながら、空に目をやる。
「グンマーというのはお空にあるのですか?」
リルは少年の言う、今まで聞いたことも見たこともない土地の名前を口にする。
「違う、違う。群馬だ。ぐ・ん・ま」ハルトはリルのした発音を訂正する。「俺の暮らしていた群馬は空にはない。山の中だ。ついでに言えば海もない」
グンマーから来た、とハルトは言った。しかし、リルが知りうる限りにおいて、この世界にそんな名前の国はないはずだ。言い慣れない異国の響きを持つその名前を何度か口の中で唱えてみる。
「グンマ、グンマ、グンマー……」
そして、確信する。この少年は自分の知らない遠い世界からやってきたのだと。そしてもしかしたら、それは、自分を助けるために――。
「そうですか……。グンマーは空にはないのですか……」リルが、とん、と呟く。「ではハルトさんは天使ではないのですね」
空には知られずの国があると本に書いてあった。時折そこから地上に人が落ちてくるという話があった。神が信徒を救うために、神の使いに人のカタチを与えて地上に遣わすという話。
「……残念ながら、天使じゃあない。羽もないしな。あったら空から落ちてはこないだろ。たぶん」
「そうですか。それでも、ハルトさんは私にとっては命の恩人なことには違いありません。天使でも、そうじゃなくても」
ぷちん、とリルを縛っていた糸が全部切れる。
リルはゆっくり身体を起こし、ハルトに向き直る。
「……本当に、ありがとうございました」
その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。助かった喜びと、闇を見た恐れとが混じった雫。
「……どういたしまして」
ハルトは言い慣れなそうに、その言葉を言った。
からん。
沈黙が響く。火の燃える音。木々の囁き。小川のせせらぎ。風の息吹。
いまにもウェアスの神々の息遣いが今にも聞こえてきそうに、リルは感じた。
「リリアーヌ、です」リルが闇に消え入りそうな声で言った。「私の名前です。みんなはリルと呼びます……」
ぱちり、ぱちり、と火の中の木々が弾ける。ハルトはしばらく空を見上げ、何かを考える風を見せてから、うん、と頷いた。
「よろしく、リル」
リル。
こうやって、人から名前を呼ばれるのは、村を出てから初めてだった。村を飛び出してきてからそれほどの時間は経ってはいないはずだが、それでもリルは、それだけで安心を感じた。
「はい、よろしくお願いします。ハルトさん」
ぱっ、とリルに笑顔が咲いた。今夜、いや、旅が始まって以来の表情。その笑顔はまるで太陽のように輝いていた。