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始まりは影の中

 食べられる。食べられない。うーん、これは食べたら死ぬ。

 森で摘んだ野草とキノコを、家から持ってきた本と一つ一つ見比べる。明かりの少ない森の中。手のひらをぼろぼろにして作った火の元と、空には優しい光源と。知識が躍る紙の上。満月に照らされる文字は無機質で、少女の求める現実味のある答えを教えてはくれない。


「わかんないよ」


 だから少女は本が不愛想に教えてくれた『食べられる』モノを、ちょびり、と噛んでみる。噛んでみて「うえぇ」とその青臭さに吐き出してみる。そうやって一つずつ味を確かめる。『食べられる』モノが即ち進んで食べたいモノではないと少女は知る。旅に出る前には、決して味わうことのなかった感覚。苦みの混じったリアリティー。


 少女は厳しい現実の中でもがく。元より現実が眩しいものなのだとしたら、彼女がもがき方を身に着けたことも、それは幸福なことだということもできる。数日前までは暖かな毛布の中で、お菓子の夢を見ていたような少女。

 たき火の灯が少女の影を揺らす。十四歳の少女の小さな身体が森の木々に大きなシルエットをつくる。

 大きな瞳、肩のあたりで整えられた髪、小さな唇、透き通った二つの瞳。その少女を纏う使い込まれた旅用のマント、その下にはそれとは不釣り合いな一目で高価だと分かるワンピースドレス。


「……うん、これ。ピリリと辛くていいかも」


 少女は自分の舌で一つの野草を選び出し、それを火にかけていたお湯の入った鍋に投げ入れる。

 村から持ってきた獣の油をひとかけら、森で取った味のないキノコ、香草。それだけのスープ。そのスープに黒麦のパンを浸して、柔らかくして食べる。夜風に当たって冷えた少女の身体がぽかぽかと内側から温まる。


 まだ家を出て四日目のはずだが、もう何度もこうして一人の夜を過ごしたように思う。

 柔らかいベッドも、お日様の匂いする枕も、もふもふとしたウサギのぬいぐるみも、ここにはない。生まれて初めての一人旅。小さな女の子の大きな冒険。夜風が少女の髪を揺らす。


 さらさらと小川が流れる。かさかさと木々が揺れる。どこかで獣が動く気配。夜の森は意外と様々な音であふれている。


 ――ずずず。


 木を削って作ったスプーンで掬い、小さく音を立てて温かなスープを啜る。見上げた空には、ぽっかりと大きく丸いお月様が夜空に浮かんでいた。


「……おいしい……」


 出来立てのスープがゆっくり喉を過ぎるのが分かる。

 優しい味だ。


 しかし、

 言葉とは裏腹に少女の声は寂しさに満ちている。


 ぽつり、ぽつり。

 雨が落ちる。少女の瞳から、静かに雨が降る。


 孤独が少女の胸を、とん、と叩く。孤独が胸を叩くたびに少女の涙は色を増す。悲しみが広がる。

 雨降り雲を散らす風がいつ降るのか、それは誰にも分からない。


「う……ひっく、ひ、……ひっく……」


 家を出てから何度目かの涙。毎夜、ウェアスの大地を濡らす。


「……お父さん、……お母さん、……会いたいよ」


 少女の声が、震えては、消える。

 夜の闇が少女の身体を優しく包んだ。


 ※※※


 リリアーヌ。

 それが少女の名前だ。


 木々に囲まれた小さな村の、大きな邸で産まれ育った。花と、鳥と、虫と、川と遊んだ。土をいじり馬にまたがった。たくさんの本も読んだ。世界地図を眺めることが好きだった。少女はすくすくと育ち、そして誰が見ても立派な女の子へと育った。

 村の人々は皆、少女のことを「リルちゃん」「リル嬢」と呼んで可愛がった。

 それはリルが花の様に可愛く、それでいて聡明で、誰にでも優しかったからだ。そんな少女を皆が愛し、またリルもすべての人を愛した。愛するということにおいて彼女は誰よりもその才能を発揮した。


 彼女は愛することの、そして愛されることの天才だった。


 邸から眺める花々、空を往く小鳥、行き交う人々、温かな家族。

 リルは幸せだった。リルの周りにはいつも愛が溢れていた。


 ※※※


 それが今は、独り、闇の中。

 冷たい闇。ぽつねんと一人、闇に漂う。

 ざわざわと木々が少女の恐怖心を煽る。


 淋しくない、淋しくない、淋しくない。

 唱えてみても、孤独は募る。唱えれば唱える程、それは現実だと分かる。オオカミの遠吠えが死を連想させる。

 寒い。淋しい。暗い。悲しい。


 少女の心を闇が覆う。

 生まれてから自然に出たことのない飼い犬が、突然野山に投げ出されたかのよう。少女の小さな身体に初めての一人旅は厳しく覆いかぶさってくる。リルはそれに飲み込まれてしまわないように、必死になって、涙を流しながら、抜け出そうと、もがく。生きる。


「……負けるもんか……」

 少女の声。


「……絶対、負けるもんかぁ……」

 ふり絞る、生きるための呪文。


 ※※※


 と、突然。

 木々が、森が、地面がまるで宙に浮かび上がるかのような錯覚をリルは覚えた。

 闇の色。

 闇の音。

 闇のにおい。


 無意識に恐怖を呼び起こす、ある種の本能的な忌避。少女の身体が震える。心の奥から真の恐怖が沸き起こる。


「……あ、あ、あああああ――」


 来た、来た、来てしまった。


 動く災厄。闇の使者。悪魔の落とし物。

 様々に形容されるそれはオオカミや孤独なんかよりも、もっと、ずっと恐ろしい現実。

『ワキモノ』だ。


 地面から闇が持ち上がる。それは最初、炎の作る影法師のようだけど、禍々しくその影は形を変え、遂には闇が動き出す。

 一体、二体。

 そして三体。

 次々とそれは地面から湧き出す。

 目の前のワキモノは大きな蜘蛛のようなカタチをとる。リルが今まで見たことのないタイプのワキモノ。


 そもそも、こうやって、襲われるものの立場としてワキモノと相対したことはなかった。

 地より湧き出し、人に害なす存在。それがワキモノ。

 ウェアスの世界において人々の最大の天敵。


 ※※※


 リルは素早く立ち上がり、懐からナイフを取り出す。鞘から勢いよく引き抜くと、それは月光にきらりと鋭く光った。旅に出るときに家から持ち出した家宝のナイフ。もちろん動くもの対して向けるのはこれが初めて。


「来ないで! 来たら刺します!」


 そう言う少女の声はひどく震えている。ナイフを持つ手と同様に。

 ワキモノに知能があるのかどうか、リルは知らないが、目の前のワキモノたちはリルの言葉に一切の反応を見せないまま「シュルル」と奇妙な鳴き声をあげながらにじり寄ってくる。


「勇気……、勇気……、勇気……」


 リルは自分を鼓舞するが、湧き出る恐怖は、べっとりと粘り気の強いペンキをまるで雑巾で引き延ばすようで、どうしようもないほどに濃くて簡単には拭えない。

 しかし、それを何とか拭わなければ、命が終わる。

 終わってしまう。

 こぼれた牛乳は二度と戻らない。


「……お兄ちゃん、お姉ちゃん。私に勇気を下さい!」


 生きたい。

 ううん、違う、生きなくてはならないのだ!

 生きなくては、生きることだけが、彼女にできる唯一の!


 ※※※


 ――シュッ。

 ワキモノたちが一斉に動いた。中型犬ほどの大きさの蜘蛛たちが自分めがけて跳びかかってくる様子を、リルは生きるため、しっかりと目を開き、目標を捉え、ナイフを突き出した。


 ――ザンッ。

 鈍い音。

 一体のワキモノにナイフが鋭く突き刺さる。


 リルは顔をしかめる。そこに実際に存在するのに、しかし存在しないと言われれば信じてしまいそうな程度の存在感。そんな曖昧な感触を手に感じたから。しかし、少女は一瞬の油断を見せずにすぐさま回避行動に移る。手に持つナイフにワキモノを突き刺したまま地面を横に転がる。先ほどまで少女の頭のあった位置で二体目のワキモノがガチンと牙を鳴らした。


 リルはすぐ体勢を建て直す。そしてナイフに突き刺さったワキモノを見て呟く、


「……ゴメンね」


 ワキモノの胸に突き刺さったナイフを一気に下へ引く。ワキモノの胴体が引き裂かれた。するとその傷口からはいきなり黒いものが、どっ、と吹き出し、そのワキモノは闇の中に、溶けて、消えた。


「一体目……」


 リルは呟いてナイフ握る自分の右手を見た。その手には確かに生き物を突き刺した感覚と、その身体を二つに裂いた感覚が残っている。

 しかし目の前には、さっきまでそこに動いていたはずの蜘蛛型のワキモノがいたという、その痕跡がどこにも残ってはいない。

 それがとても奇妙で、そして恐ろしい。


 ――シャア……シャア。

 残り二体のワキモノが少女を威嚇する。


 リルはナイフを構え、必死に勇気を絞る。


 ――ッド!

 跳びかかってきたワキモノの顔にナイフを突き立てる。そしてそれを地面に叩きつけ、少女の持つ全部の体重を込めて、その頭を踏みつぶす。

 ぱん、と木の実が爆ぜるようにして、それは闇に混ざる。あとには小さな球が残った。地面にころりと転がる。


「あと、もう一体」

 リルの声。


 他の二体がやられたからか、先ほどよりも激しく、少女に対して威嚇を行うワキモノ。しかしもう少女は怯まない。生きるために勇気を出す覚悟が、少女には出来たから。


「来なさい!」


 が、


 ――シュルルルル。

 リルにとってそれは予想外のことだった。


 それはリルがまだ旅人として未熟だったせいであり、並の旅人であったならば容易に想像出来得ることではあった。また、例えそれが予想外の行動であったとしても、特に初めて対峙する相手との戦いにおいては、相手の『予想外の行動』が致命傷とならないよう『予想外』を予想の内にいれるよう常に心掛けなければいけなかった。

 少女にはまだ戦いの経験が少なすぎた。


 つまり、その、リルにとっての予想外は、今、彼女にとっての致命傷となった。


 ※※※


 太い糸。蜘蛛の糸。少女の身体に巻き付く。ワキモノが吐き出した糸が、リルの腕に、胴に、足に絡みつき、動く自由の一切を奪う。


「あ、ダメ! やめてっ! 嫌ぁ!」


 リルの自由は蜘蛛の吐き出した糸に絡めとられる。ナイフで糸を切ろうにも、もう遅い。糸は彼女の四肢をミノムシのように覆っていた。


 魔法。詠唱。

 いや、もう無理だ。陣を描くための指先までも、もう、動かない。


 助けて、助けて。

 叫んでも、その声は暗い森の中で虚しく響くだけ。唯一自由なはずの助けを呼ぶための口さえももう恐怖で動かなくなっているのを少女は数瞬遅く気が付く。絶望の色が悲しく弾けた。


 まるでリルの身体を弄ぶかのように、ワキモノはその上を這いずりまわる。八つの脚が別々の意志を持つ生物かのように動き、少女の悪寒を刺激した。気が付くとリルの身体は近くの木に、文字通り獲物らしく、吊られていた。蜘蛛の巣に絡めとられた哀れな蝶々。


 目が合った。

 ワキモノの真っ赤な目と、少女のもはや涙さえも恐怖で乾いた瞳が重なる。


 ――シャア……シャアアア。

 ガチ、ガチと牙を鳴らしながら、まるで少女の顔を嘗め回すかのように、ワキモノはゆっくりと少女の顔に自分の口を近づける。感じる生温かさは錯覚かもしれない。


 ああ、自分に力があれば。

 リルは自分の非力さを呪った。


 ここで私は死ぬんだ。

 もう自分の助かる手立てはない。


 ワキモノはそんなリルの心を読んだのか、クキャキャキャ、と喜びの声を挙げた。蜘蛛の姿をしてはいるが、どう聞いてもそれは蜘蛛の鳴き声ではなかった。

 そして、時が来た。ワキモノは大きく顔を仰け反らせ、獲物――リルに勢いよく齧り付く姿勢を見せた。


「……ィャ」


 もうリルには声を出す力さえ残ってはいなかった。


 食べられる。

 リルは強く目を閉じた。


 お母さん。

 お父さん。

 お兄ちゃん。

 お姉ちゃん。

 頭に浮かぶのはみんなの笑顔。せめて、命が散ってしまうその瞬間までは愛する家族の笑顔を思っていたかった。


 ――シャア!

 ワキモノが跳んだ。

 もう、ダメっ!


 ※※※


 ――バキバキ、ドン! ガラ、ドッシャン!


 ※※※


 大きな音。地面が揺れた。

 森の音。風。木々がざわざわと揺れる。

 それは暗闇深い森には、あまりに愉快すぎる音だった。


「…………ぇ」


 リルはゆっくりゆっくり目を開けた。そして同時に自分がまだ生きていることを確認する。


「痛てててて……!」


 リルの声ではない。少年の声。


 リルのほんの目の前に大きな音の正体は居た。

 尻餅をついて、その下には蜘蛛型のワキモノを敷き、リルに背を向けている、そんな少年の姿。


 ――ク、シュルルルルゥ……。

 文字通りの意味で少年の尻に敷かれたワキモノは小さな声を漏らし、そして闇に消えた。

 何が起きたのか分からなかった。しばらく沈黙の時間が流れた。やがて、風が吹き、木々のざわめきが一層強くなったころ、少年はポリポリと頭を掻きながらよっこら立ち上がった。


「……ったく。ここはどこなんだ? 何で俺はこんな森の中にいるんだ?」


 少年はゆっくりと周りを見回す。

 木、焚き火、月、小川、そして糸でぐるぐる巻きにされている少女。

 目が合う。ばっちりと。


「…………あ、どうも」


 彼の故郷の大方の人間がそうするように、浅い角度でちょこんと、彼は腰を折った。

 可愛い女の子が木に巻き付けられている光景はとても奇妙だ、と場違いの感想を彼が持ったことをリルが知るすべはない。


「えっと、えっと、……」少年は吐くべき言葉を選別している。「俺は春人。ここがどこだか教えてくれない?」


 どうやらこの少年は、リルの置かれている奇妙な状況には一旦目をつぶるようだった。彼は至極手短な自己紹介と質問をした。リルはそんな少年の顔をしばらくポカンと見つめる。まだ生きている心地がしないまま、それに、答えた。


「……ここは晴の国、首都サナライズへと続く森です……」

「晴の国? なんだそれ、群馬からはどのくらい離れているんだ?」

 

 リルとハルトはこうして出会った。


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