真っ赤な彼女はきっと優しすぎるから
あらかじめ注意ですが、この物語に出てくる国及び人物は基本的に実在する国や人物とは関係ないです。だから史実とか文化とかも全然関係ないのです。ええ。はい。
フィクションかどうかは誰にも判別できないですけど。
彼女が赤い理由の説明は簡単だった。この場所においては、「それ」以外の説明もなかった。
でも、それが、彼女が赤い理由ではなかった。
真っ赤な花。
深紅のイブニングドレス、肩甲骨辺りから毛先が少しだけウェーブした、漆黒の髪。
ミルク色の肌、湯上りのように、ほんのりと上気した頬、ドレスと同じ色の唇。
頭にはこれまた真っ赤な花の髪飾り。
年のころは二十代くらいだろうが、西洋人のマークには十代の少女にしか見えなかった。顔の造作は東洋人のそれである。
「それ、なんて花ですか?」
マークが聞くと、彼女は、作業の手を休めないままぼんやりとこちらの方を向き、その後ハッと驚いたように目を丸くした。
「驚いた。まだ喋れるんだ」
自分がなんとなく発した問いに対する答えではなかったが、マークは、一見東洋人にしか見えない彼女との間に会話が成立したことに安堵する。
今この場において、彼女以外に「この場」を説明できそうな者は無かったのである。どう見ても東洋人の彼女に、言葉が通じるかどうかが不安だった。
彼女は手に持っていたモノを投げ捨てると、マークに体を向ける。
「それ、って、これだよね?」
彼女が、自分の頭を指差して問う。そう、その髪飾りだ、と、マークは頷いた。
「東洋ではヒガンバナって言うんだけど、えっと、西洋だったらなんて言うんだろう。カタカナだったらえっと、リコリス?」
生憎のことマークは赤い花と言えばバラくらいしか知らなかったので、彼女の言葉には相槌を打つことしかできなかった。
逡巡して、マークはまた違う問いを発した。
「あの、すイません。一体、なにをしているんデすか」
「なにを……って言われても。これ?」
彼女は、先程投げ捨てたモノを振り返って言った。
マークはそれです、と、返す。
「いや、普通に、食事だけど? 人間はみんなするもんじゃないの?」
「そレは……その通りですけど」
世の中には触れない方が、手を出さない方が良かったと思うような出来事が多々ある。しかもそれらは、さらにタチの悪いことに、実際に触れたり手を出してみたりしないとそうであると気付かない物ばかりだ。だから今回マークが手を出した――出してしまったものは、明らかに一目見て「そう」であるとわかる、いっそ良心的だともいえる出来事であったのに――よせばいいものを、マークは、聞いてしまったのだ。
そう、後悔は、いつだって後に来るものなのだ。
「ナニを。たべテルん、でスカ」
ひゅ、と、喉が鳴る。唾液は乾いて口中が張り付いていた。
「なにって。見りゃわかるでしょ」
「ニン……げん」
にんげん。人間。マークの目には、彼女が先ほどまで食していたものが人間にしか見えなかった。見えなかったのだ。「ここ」まで来て、今更自分の目を疑いやしない。
しかし彼女は、否定した。
「あー、違う違う」
「いや、ダッて、にんげンじゃ」
「うん、まあ、人間って言えば人間かもしれないけど、違うから。君が言いたいのは、人間の、肉を食べてるって、そういうことでしょ?」
そうにしか見えない。マークは辛うじて首肯した。しかしそれは彼の主観の話でしかなく、実際のところは彼が頷いたと思っただけで、首は微動だにしていなかったが、彼女にはそれで通じたようで――あるいは通じていなかったが、マークを無視した結果として――、
「別に私は人間の肉を食べてるわけじゃないよ。ほら、血、ついてないし」
言われて気が付いた。真っ赤なのは彼女の唇、そのスレンダーな体を包む申し訳程度のイブニングドレス、そして頭の――ヒガンバナの髪飾り。そして、怪しく強い光を発する赤茶色の瞳だけ。
「それじゃあ私は何を食べてるでしょ――? はいそこの素敵な金髪の君! 答えて!」
そこの金髪、といわれても、今この場にはマークと、真っ赤の女しかいなかった。指差された彼はビクッと体を震わせて、身を縮こまらせた。声をかけた時には「忘れていた」寒気が、今更になってぶり返す。酷い寒気が全身を這い、思わず自分の体を抱こうとして、左手に違和感。
しかし左手に視線を送るよりも早く、彼女が言葉を作ったせいで、マークの注意は彼女の方に向いてしまった。
「ぶっぶー! 時間切れで――す! 罰ゲームはまたあとで発表しま――す!」
寒いのは、さきほどからしきりに降り注ぐ雪のせいだけではなかった。雪に意識が行って初めて気が付いたが、彼女の周りの雪にも血はついていないようである。しかし足元に目が行ったことで、マークは、あるものをその視界に入れた。
「答えは、じゃ――ん!」
彼女は背後に、彼女自身が形成した山に振り返り、そして、それを両手で示して、言った。
「人間の、『魂』! でした――!」
黒だかりの山。動かない人間が積み上げられてできたその山は、つい一時間ほど前に、彼女が形成したものだった。
覗く顔は、マークにとって見覚えのあるものばかり。同期の兵士たちや、怖かった隊長、それから上役たち。憎き敵たちの制服も見えていた。
「あなたは、もしかして――」
マークは振り絞るようにして言う。
「死神、ですか」
なぜか声は震えなかった。
×
共産主義露国からの解放だ、と、マークの住む地方の人々は、むしろ歓迎して、「卍」を掲揚して侵略してきた軍隊に協力した。若者たちは自ら志願して義勇隊を形成し、戦争に身を投じる。
しかし戦場は豪雪地域、一度は躍進した「卍」軍であったが、不利な気候に一度引き返すことに。それを好機と見て、マークの地方の人々の様に共産主義脱却を望んだ地方の中に混じっていた、共産主義の賛成派の者たちが露国軍を引きこみ、撤退戦は激化してしまう。
指令系統も滅茶苦茶、軍は壊滅状態。潰走した兵隊が、からがら生き残った者たち同士で集まり、なんとか大集団を形成したその時であった。
捕虜にした敵兵が、懐に仕込んであった爆弾で集団自決した。潰走の混乱でボディチェックがいい加減になっていたのが災いして、一人、チェックから逃れた者がいたのだ。
小さな爆発だったが、大打撃だった。憔悴しきった軍隊が、ほんの少しの休憩のために「卍」軍協力派の村に腰を落ち着けた直後だったのである。突然の爆発に、敵軍が追いついてきたと当然勘違いした軍は、再びの混乱を得てしまったのだ。
そして臨時将校に押し上げられた者の指示がまるで通らず、てんでばらばらなうちに本当に敵軍が来て、また交戦状態になったのである。マークは、提げていた鉄砲を持ち、勇んで戦場に身を躍らせたうちの一人だった。
「死神っていうのとは、ちょっとだけ違うかもしれないなあ」
だって死神って、刈り取った魂を冥府に届けるんでしょ? と彼女は続ける。
「私は食べるだけだし」
はあ、とマークは一息置き、さらに言葉を送った。
「じゃああなたはなんなんですか?」
「さあ?」
「さあって」
「そういや考えたこともなかったからわかんないや。平和を愛する女の子とでも定義してくれると良いよ」
平和を愛する……とマークが彼女の背後の山に視線を送った。
「いやいや、よく考えてごらんよ」
その視線に気付いたのか、彼女が少し考えて、言葉を作る。
「世界から戦争がなくなったらどう考えても平和でしょ?」
「それは……そうかもしれません、けど」
「じゃあ君。えっと、ごめん、なんて名前だっけ」
「マークです」
「ああそう。よろしく。で、マークくん、君、この世から戦争をなくそうと思ったら、どうする?」
マークは首を捻った。
戦争のなくし方なんて考えたこともなかったからだ。ただ住んでいた町が戦争に賛成で、友達や知り合いがみんな兵士になり、親がお前も戦えと言ったから参加しただけだったのである。
そういえばなぜ戦争が起きたのか、とか。何を以ってしてこの戦争が終わるのか、なんて。
「考えたこと、それから考える暇、ありませんでした」
マークがそう言うと、彼女は小首を傾げ、怪しい笑みを浮かべて見せた。マークは耳元まで女の口が裂けたのを幻視したが、もちろん気のせいである。瞬きのうちに目の錯覚は消え、もとの端整な顔立ちの女の微笑に戻っていた。
「じゃあ今、ちょっと考えてごらん」
小学校の先生が生徒をあやすように、彼女はマークに言った。マークもちょうど彼女の態度が、つい一年ほど前まで通っていた小学校の先生みたいだと思っていた。
彼は言われた通りに考えてみた。戦争の終わらせ方について。
「敵軍を全部殺す、とか……」
彼女はマークがこぼした言葉に片眉を上げたが、マークは気付かない。
そして五分ほど唸った後、彼は顔を上げた。
「えーっと。これくらいしか……思いつかない、です」
「ホントに? とっても簡単なことだよ?」
「すいません、歴史の授業は苦手だったんです」
「じゃあ、ヒント、えっ、ヒント……? うん、ヒント的なモノをあげよう。『君のさっきの答えは半分くらい正解』だよ」
君のさっきの答え、と言われても。マークは心中で呟いた。敵軍を全部殺すで半分正解しているということは、敵国を滅ぼすだとか、そういうことだろうか。でもそれだと、敵国の領土や権益が欲しいからという戦争開始の動機を達成できない。
じゃあなんだ? と考え込んだマークに、彼女がしびれを切らした。
「はーい時間切れでーす! それじゃあマークくん、答えをどうぞ!」
「すいません、思いつきませんでした」
「先生素直な子は嫌いじゃないので、無知蒙昧なマーク君のためにちゃっちゃと答えを発表してあげまーす!」
「ムチ……なんですか?」
「無知蒙昧です」
聞いたことのない単語にマークは首を傾げた。
それ以上無知蒙昧について説明する気はないのか、彼女は微笑を深め、とびきりの笑顔を作ってその「答え」を告げた。
「答えは簡単です!」
彼女は息を吸った。
「敵軍とか味方とか関係ありません! 戦争する奴はみんなダメなんで、全部全部全部全部殺しちゃえば、世界は平和にユートピア! 素敵だよね!」
マークは息を飲んだ。
×
「いやいやだってそうじゃない? 戦争する奴には戦争するなりの事情があるっていうけど、そんなもん『逃げ』でしかないよね。領土広げるために他国の侵略なんてまず理由にもならないし、他国の権益を得るために自国の財産、つまり民やら国土やら生産力やらなんやらを犠牲にするのとか、もうアホとしか言いようがないよ」
陶酔したような表情で立て板に水とばかりに次々と言葉をまくしたてる彼女の言葉に、マークは反駁する。
「僕たちが戦争をするのは、過酷な共和制の支配から逃れるためです。他国の権益どうこうなんて話じゃありません」
「あっそう。じゃあ、なんで君は人を殺すの? 鉄砲なんて当たったら、人は簡単に死ぬじゃない? なんでそんな簡単に他人に銃口を向けられるの?」
「敵だからです」
そう言うと、彼女はまるで興味がないとでも言うかのように、ふーん、という返事を寄越した。
「ねえこれ、どう思う?」
振り返り、背後の「山」を指差して彼女。
「見たまま言うと、死体の山……ですよね」
「そう。いや、厳密には私が殺して集めた魂の山であって、肉体を伴うものじゃないんだけどね。多分肉体的な意味での死体はそこら中に転がってるよ」
「死んでるん……ですよね」
「いや? 私が殺したから確かに肉体は死んだけど、魂って死ぬとか死なないとか、そんなもんじゃないし」
まあそれは今は関係ないんだよ。私が言いたいのは、
「人間の違いってさ、何? 死んだらみんな同じじゃない? どうせ百年の栄華を誇ったところで、死んだら強国の王様も弱小国の貧民も、みんな死体だよね。人間、まあ生きとし生けるものすべてだけど、この場合は人間、人間は、死んだらみんな同じなのに、何を争ってるの? 何を競うの?」
「どういう、意味ですか」
「ちょっとは考えてごらんよ君もさー」
そんなこと言われても、とマークは思う。死んだらみんな同じ? 確かにその通りだ。
「……死んだらみんな同じ……だからこそ、みんな『死ぬまで』を競うんじゃあ、ないですか」
「ほう。続けて?」
「えっ。えっと……なんというか、国の偉い人が戦争しようって決意するのって、そりゃ私腹を肥やすためだって言われたらそうかもしれないですけど、やっぱり、国のためなんだと思います。
国の偉い人が国の偉い人であるためには、その国がずっとなければならない。死んだらみんな同じだって言うのなら、みんな、死ぬまでで順位をつけるしかないじゃないですか。死ぬまでの優劣が他人との優劣になるんです。そもそも生命っていうものは自分以外のすべてと競い合っているものなんですよ。他人より、よりよくなるために」
学校で先生に当てられた時でも、こんなに長く喋ったことはなかった。
「で? それ本当に、君が思った、思っていることなのかな? ぶっちゃけると君、どうでもいいでしょ、なにもかも。自分の命すら」
今更気付いたが、ちらつく雪が彼女にも、彼女の背後の死体の山――彼女曰く魂の山――にも、そして自身、マークにも積もっていなかった。半時間ほど、ずっと同じ場所で立ちっ放しであるというのにだ。
「ああそうだ、もう気付いてるかもしれないけど、君も死んでるから。今君は魂。私のトドメが甘かったのか、なぜか元気みたいだけど」
で、と彼女は続け、
「さっきの話の続きだけど、私からすると、人間どもがくだらない理由で戦争をし続けてるのがよくわからないわけなのよね。領土増やしたからなんなの? 他国を子分にして貢いでもらったからなんなの? 一生かけても使い切れないようなお金をきっちり使い切るような馬鹿な王様とか指導者のために命を捧げて敵と戦う兵士ってなんなの? 私からすると、お前ら人間がなんでそんなもののために、他人を殺してしまえるのかがわからない。共産制からの独立のための戦争だなんだって、被害者ぶってみせても、結局人は殺すんでしょ?」
「でも、そうじゃないともう、町の人たちはやっていけなくて」
「だから独立戦争? まあ確かに、君の上にある国がとてつもない力を持ってるのは知ってるから、確かにかわいそうだとは思うけどね? でもさあ、戦争なんていうぽんぽん人が死んじゃう手段とってさ、万が一独立できたとしても、そのとき生き残っている人ってどうなの? 嬉しい? 最愛の人がいない、家族がいない、家もない、あといろいろ。
死ぬくらいなら、厳しい支配を耐えるほうが良いんじゃない? そのときの悪者はどう考えても支配者側でしょ? 向こうにも聞こえの良い理はあるのかもしれないけど、でもほら、そこでその支配者側の兵士たちを殺しちゃうっていうのは違うじゃない。
もし戦争をしたいなら、平等に、代表同士が剣持って土俵の上で殺しあったら良いと思うな私は。無駄に人死なないしそうしたら。ねえ、大量の人間を殺して、また味方も殺されてもたらされた勝利って、なに?」
彼女が言葉を作り続ける間、マークは口を挟むことができなかった。彼女はずっと笑顔であったが、それはまるで仮面のようで、マークには、怒っているようにも泣いているようにも見えたのだ。
マークは何か言おうと思って口を開いたが、しかし結局、なんの言葉も思いつかず、口を閉じる。
両者の間に沈黙が流れ、ふとマークは、さきほど左手に感じた違和感を思い出した。視線を送る。手首から先がなかった。
×
突如爆発した音が自分の悲鳴であると気付くのに数秒かかったが、目の前の彼女はその間に仮面を取り繕い、微笑の形に形成し終わったようである。
「ねえ、君、ぶっちゃけどう? 全然この世にしがらみがないんだけど、なんで戦争に参加してたの?」
彼女は見ていた。ほとんど無謀とも言える特攻で敵陣に乗り込み、普通なら蜂の巣にされて一巻の終わりであるところを、逆にそうであるがゆえに生き延びていた、生きながらえていたマークの姿を。自分の命なんて微塵も顧みない行動は、かえって敵側からの攻撃を避け、また敵を撹乱した。
ただ運が良かっただけだったが、それでも、命を顧みない特攻によって、命を顧みて塹壕に隠れ、一網打尽にされた味方軍のお仲間にならなかったのは事実だった。
「ぶっちゃけ君、死ぬために戦争に参加してたでしょ」
彼女がそう言うと、今まで黙り込んでいたマークは、迷ったように首を振り、口を開けり閉じたりを繰り返す。
「いいよ、聞いてあげる。話してごらん。私がいるから」
優しい声に、マークは決心を固め、 やがて訥々と話し始めた。
敵軍に両親が捕らえられ、殺されたこと。戦争に参加した三人の兄がみな「バラバラになって」帰ってきたこと。実家のあった町まで侵攻してきた露国の兵士に妹が捕まり、慰み者にされた挙句切られた首だけが家に投げ込まれていたらしいこと。十三年間慣れ親しんだ家が燃やされたこと。親友が敵に捕まり、拷問されて雪原に放置され、氷漬けで発見されたこと。自分のことを知り、また自分が知っている人間が、場所が、なにもかも結局、なくなってしまったこと。
「もう本当は、僕が守るべき人も、家も、町も、全部全部、この世にはないんです」
戦争によって、失われてしまったんです。
「戦う理由なんてもうないんです。だから、敵に殺されたみんなみたいに、 僕も敵に殺されて死のうと思ったら、なぜか運良く生き残り続けて、それで……!」
それで? と促す彼女の顔には、もう、笑顔は浮かんでいなかった。
それで? と聞かれたマークは、もう、何と返すべきかわからない。
沈黙の帳が下りた二人の間に降る雪が強くなる。そのまま雪が一帯の血を白く染めたころ、マークがついに、言葉を発した。
「改めて、僕を、殺してください」
「無理。もう私は君を殺した後だし、実際君もう死んでるし」
「でも、あなたは、人間を殺して、その魂を食べるんですよね。それじゃあ……」
マークが彼女の背後に視線を送ったのに合わせて、真っ赤なイブニングドレスに身を包んだ彼女もまた、背後を見た。
「あー、ダメダメ。君、マズイし。この世になんのしがらみもない奴はダメ。なんの味もしないから」
戦争に参加してる馬鹿は大体何かへ執着してるもんだから、君みたいに完全に無味無臭な奴なんてとっても珍しいんだよ、と、彼女は続けて、
「まあかなり薄味な奴も今までに何百人といたけどね? それでも絶対、なんらかの執着はあったんだよ。どんなに微細なものでもね」
「それじゃあ、僕は食べてもらえないん、ですか」
彼女を一目見たとき、自分とは違うと思った。
そして人間とは違うと悟り、自分も殺されると思った。
やっと死ねると思った。絶対に死ねると思った。
やっと、やっとやっとやっと、死ぬことができる、という「喜びに声が震えた」。
でも、また。
自分は、死ねないと言う。
正確にはもう死んではいるので、完全に、思考することができない状態になりたかった、というわけだが。
「左手はもう食べちゃったから返せないけど」
と、彼女は言って、
「でも、まあ、まだあそこに君の死体も転がってると思うし、頑張れば生き返れるんじゃない? さすがに左手の感覚は死んで戻らないと思うけど、今まで君みたいに、会話できるくらいに自我をはっきり保ってた『魂』って見たことないから、わかんないな」
もはや目の前の少年には興味を失ったのか、彼女はマークに完全に背を向けて、背後の山から「魂」を拾うと、口をつけ始めてしまった。噛み痕から血が流れる気配はない。
「そんな、ことって……。僕は……僕は、このまま、生き続けなけりゃならないんですか!」
もはやマークのことは彼女の意識外のようだった。
彼は雪の積もった地面に膝をつき、両手をつき、しかし左手がないのを失念していたせいでバランスを崩して体勢を崩し、地面に体を投げ出した。
×
「……ク……ーク! ……マーク! 起きないと遅刻するわよ!」
大声。母親の声で目が覚めた。少年は右手で布団を跳ね除けて、飛び起きる。
「学校に遅刻するわよ! 今日から六年生でしょ! しっかりしなさい!」
家だった。
二階建ての家だ。マークは一階に下りると、台所でなにやら忙しそうに動いている母親の姿を見て、
「ど、どうしたの? どこか痛いの?」
「ううん、違うんだ。違うんだよ」
突然泣き出した息子の姿を見て、母はびっくりしたようにマークに聞いた。
「悪い夢を見たんだ」
「悪い夢? なんだ心配して損したわ。もう、今日から六年生なのよ。しっかりしなさい。ほら、顔洗って、着替えてきなさい」
母にはそう言われたが、マークはその場から動かず、再び言葉を作った。
「ねえ母さん。戦争はダメだよ。絶対にしちゃダメなんだ」
「なぁに、歴史のお話?」
母は釜戸でパンを焼いているみたいだった。
違うよ、と、マークは涙を流しながら続ける。
「ねえ、もしこの国に『卍』の国が来ても、協力しちゃダメだよ」
「あらマーク、あんたいつ新聞なんて読むようになったの? 今ちょうど、我が露国に戦争を仕掛けるために、卍軍が準備をしてるかもしれないって。怖いわねえ」
「絶対に、戦争はしたらダメなんだ! 人がいっぱい死ぬんだ!」
「大丈夫よ、今朝お父さんが帰って来たとき、うちの町は露国に保護してもらうことに決まったって言ってたわ。今はもう寝ちゃってるけど、学校から帰ったら聞いてみなさい。それよりほら、さっさと顔を洗ってきなさい、可愛い坊や。お兄さんたちも妹も、もうみんな家を出たわよ。お寝坊さんはマークだけ」
母親が朝ごはんを並べてくれた食卓に座る。
そうするとなんだか落ち着いてきて、先程まで見ていた悪夢の、つまりは夢について騒いでいた自分がなんだか恥ずかしくなった。
その恥ずかしさを紛らわせるために、朝ごはんを勢いよく書き込もうと「左手」でスプーンを持とうとして。
「ねえ母さん、今朝、僕は夢を見たんだ」
「どんな夢かしら」
「うん、神様が出てきた夢」
「へえ、神様。もしそれが本当なら、マーク、あなた預言者様よ。神の啓示を聞くなんて!」
母が全然本気にしていない様子で言うが、マークは気にしなかった。
「一体、どんな神様だったの?」
「うん。神様は、真っ赤なドレスを着て、リコリスの髪飾りをしているんだ」
それで、その神様は、一体どんなことをあなたに託したの? と、母が聞き。
「戦争禁止、だってさ」
マークは「右手」でスプーンを持ち上げると、言った。