06
「行くぞ、小娘」
呼び掛けに、はい、と応える。
「リアン殿下、もういい加減に…」
「煩い」
聞く耳持たずの赤髪男に、真面目男は、がくりと肩を落とす。
「意地になっちゃってまあ…見てらんないわ」
シャルロッテは、これ以上無いほど呆れた顔で吐き捨てた。全くだよ、と真面目男も妹の発言に続く。
「オリビア、何かあったら、ちゃんと逃げるのよ」
「はい」
「本当に分かっているのかしら」
分かっていないかもしれない。オリビアの防衛本能は、多分、正しく働いていない。逃げろ、という命令によって身体が動くのは、おそらく他の人間よりも遅い。
今日も今日とて、赤髪男と共に歩くのだ。そろそろ本格的に、雰囲気が危うくなってきていることは、鈍感なオリビアでも分かる。
「………」
「………」
会話は無い。無言だ。これのどこが仲睦まじく見えるのだろうか。それも、少し不思議だ。
中庭に差し掛かる。ぼんやりしていたからか、オリビアは低い階段で足を取られ、躓いた。傾く身体を、赤髪男が抱き留めた。
「大丈夫か?」
「………はい」
「………ならいい」
身体が離される。それは、当たり前のことだ。だけど、何故か…。オリビアは小首を傾げた。不思議、だ。
「―――覚悟ッ!」
鋭い声が飛んだ。光。ああ、刃の光だ。のんびりと思う。令嬢方の甲高い悲鳴が上がる。周りでそれとなく控えていた護衛が、対処に掛かる。極めて現実味を帯びない光景。だが、現実だ。
相手の数も相当らしい。次から次へと現れる刺客に、いったいどこに潜んでいたのだろう、と思う。あるいは、あえて全てを泳がせていたのか。十分に有り得る話だ。なにせオリビアは最悪死んだって構わない。
目が合う。狙われているのは、やはり自分らしい。オリビアはそう判断した。しかしその直後に赤髪男へと目を向けた時、その肩越しに、不気味な光を見た。彼は、別の刺客の相手をしている。
動いたのは、反射的なことだった。頭の冷静な部分が、何も考えずに動くなんて初めてのことだ、と言う。何事も無ければいい。誰かが気付いて対処していればいい。―――そうでなかった時のために。
この薄汚れた命で何かを返すことができるなら、それで満足だと思ったのだ。
熱い。そう思ったのは、初めてのことだった。いつも寒い土地で過ごしていたから。熱い、熱い、痛い。でも、狂いそうな程では無い。こんな時でさえ、心は冷たいまま。ヴェールを被ったように、自分の心が見えないままだ。
けれどそれは、どうでもいいことか。
「オリビア姫!」
悲鳴が聞こえた。シャルロッテだ、と思う。ごめんなさい。言い付けを、多分、破っている。ああけれど、あの赤髪男は、死は逃げることだと言った。ならば、これは逃げたことになるのだろうか。そうなら、いいのに。彼女は、こんな自分にさえ情を移していたようだから、せめて悲しまないように。
声が聞こえる。
「―――オリビア!」
遠退いていく。声が。
身体が、不意に軽くなった気がした。
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「オリビア! オリビア…!」
狂ったように名を呼ぶ彼の頭を、思い切り殴った。
「しゃ、シャルロッテ…」
「貴方様が招いたことです。取り乱している場合ですか」
彼の腕の中にいるオリビアは、既に意識を失っており、流れる血の量も多い。腹から肩に掛けて斜めに入った裂傷は、どれほどの深さかは不明だが、浅くないのは確かだった。
シャルロッテの兄が、残党を叩き斬りながら、周りに指示を出した。
「救護班を! オリビア姫を死なせるな!」
その声を聞きながら、彼女の主は、血に塗れた手で、オリビアの頬を撫でる。
「………ほんと、情けない主様ですこと」
小声で主を罵倒してから、オリビアに縋る。
「オリビア姫、どうか馬鹿で阿呆で愚か者で、自分で招いた事態だというのに問題を起こしてからでないと自分の阿呆さ加減に気付かない主ですが、願いに応えてやってちょうだい」
「お前…」
俺は主だぞ、と言えない立場になりつつあるが(言われた内容に対して、否定できる材料が無かった)、視線だけで抗議する。そんなものは一切気にも留めず、シャルロッテはオリビアの手を握った。
「こんな馬鹿な主だけれど、良いところもあるのよ。オリビア姫、どうか、もう一度だけ、チャンスをください。それにね、それに、貴女だって、こんなところで死んじゃ駄目よ。まだ幸せになってないでしょう。幸せの意味だって知らないでしょう」
反応の無いオリビアに、ひたすら切々と語り掛ける。それは、オリビアが救護班に預けられるまで続いた。
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―――痛い。
朦朧とした頭が、痛覚の刺激を訴えてくる。痛い、痛い。痛いということは、生きているのだろうか。
痛い目に遭うことになるのに、生きたいのか。死んだ方が楽では無いか。
その言葉を思い起こす。…大した事は無い、と思った。痛みは体力を削るが、それだけだった。心が削られる程、自分の心は育ってはいないのだ。
薄っすらと目を開く。
「オリビア…?」
「………ぁ、ぐ」
はっ、と息を吐く。それだけで、身体中に痛みが走った。自分の名を呼んでいるのは、赤い髪の男性だ。
身体を起こそうとしたが、無理だった。指先を動かそうとしただけで、激痛が走る。大人しく諦めることにした。
眠ろうにも、痛みが邪魔して眠れない。いっそ気絶した方が楽か、と思ったが、意外と忍耐があったのか、気絶することもできない。
名を呼ぶ声が遠くに聞こえる。
痛みを紛らわせようと、これまでに読んできた本の内容を、一冊一冊、思い出していく。内容は頭には入らず、すぐに抜けていってしまったが、一時的な気を紛らわせることはなんとかできそうだった。当然、死ぬほど痛いことに変わりはないが。
ぷつん、と糸が切れたように、意識が途切れた。
次に目を覚ましたと認識した時、周りには誰もいなかった。静かな部屋で、一人きりだ。痛みは、随分とマシになっていた。まだ動くことは無理そうだが、なんとか冷静な頭は保てている。
全身が、疲れていた。おそらく、目覚めたのは実は二度目では無いのだろう。それまでに何度も何度も痛みによって目覚めていたはずだ。記憶に残っている“一度目の目覚め”は、初めてか、それとも何度目かなのか。それすら定かではない。
―――会いたい。
誰に、だろう。その答えを出す前に、再び意識が落ちて行く。
「―――ア」
呼ばれた気がした。
目覚める。ぼやける視界が、まるで波のように広がっている。あまりにもグラグラして、瞼が下がっていく。
「――ビア」
誰だろう。名を呼ぶのは誰だろう。
視界が黒に染まっていく。
「―リビア」
誰だろう。名を呼んでほしいのは、誰だろう。
闇の中は、やはり落ち着く。
「オリビア」
突然、光が差し込んだ。
焦点が急に定まっていく。
目が合った。名を呼んでいた人。名を呼んでほしかった人。心ができあがっていく。
「ぁ…」
「オリビア、目が覚めたか」
「は…ぃ」
上半身を動かそうとして、止められる。まだ動かない方がいいらしい。
「…なんで、俺を助けた?」
その問い掛けに、オリビアは答えを探す。
彼は王族で、頑張っていて、だから自分よりも生きるべきだと思った。元々オリビアは長く生きるつもりは無かったし、いずれ恩を返そうとも思っていた。命を投げ打つことに、さしたる抵抗感があったわけでもない。
やがてオリビアは答えた。
「恩返しを、しようと思いました」
「恩返し…だと?」
「はい。命を救って、頂きました、から。それに」
繋げるための言葉を口にしてから、これは言わなくてもいいことか、と後悔する。突っ込まれなければ、そのまま無かったことにしようと思っていたのに、赤髪男は、それを許そうとしなかった。
「それに?」
続きを促される。しばらく粘ったが、諦める気は無さそうだった。仕方なく、話し始める。
「私は、生きても死んでも、同じですので、それならば、同じではない方が、生きればいい、と」
ギリ、と歯軋りの音がした。ぱちり、とまばたきする。
「何故、貴方が悲しむのですか」
「悲しんでなどいない」
「では、どうかしましたか」
「どうもしていない」
なんでもないと言い張る赤髪男に、「そうですか」と返す。その言葉は不自然に擦り切れた。
「オリビア?」
「………」
少し、疲れた。微睡んでくる。すー、と息を吐く。オリビア、と切羽詰まった声で名を呼ばれる。少し眠るだけですよ、と思ったが、声を出すのも億劫だ。
瞼が下がってくる。
「生きろッ!」
声が聞こえた。耳で拾った音の方へ、視線を動かす。ぼやけた視界の先で、彼が泣いている気がした。
「生きても死んでも同じなら、生きろ。生きてくれ。頼むから死ぬな。復讐なんて、もういい。もう十分だ。違う。復讐よりも、貴方が大事だ」
この人は何を言っているのだろう。
訳が分からない。分かりません、と伝えたいのに、声が出ない。
視界がぼやける。身体を斬られた時とは違う熱が、眦から溢れていく。
「…ゃ、すみ…なさ…」
また、起きるから。貴方の声は、聴こえたから。
祈りを込めて、目を閉じた。
夢現での邂逅は、彼と彼女の関係を、一歩進めるキッカケになったでしょうか。
少なくとも、彼にとっては、現実での出来事であるはずですが。