05
陰口を言われることにも慣れた頃、赤髪男に問題が発生したらしい。
「もうそろそろ逃げられませんよ。―――妃選び」
真面目男が恐ろしい笑顔で、夕刻に訪れた赤髪男を引っ張っていった。
王族というのは大変なのだな、と思う。オリビアには、王族の自覚など、今だって無い。
だからまさかこの時は、この問題によもや自分も巻き込まれることになろうとは、これっぽっちも考えてはいなかったのだ。
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「おい小娘、出掛けるぞ」
「何故ですか?」
前例を打ち破り、赤髪男は朝からやってきた。本のページと赤髪男の顔を交互に見ながら、訊ねる。暗に本を読みたいと主張するオリビアの瞳には、若干の不審も見て取れる。
「以前の、何も疑わずに従うお前はどこにいった」と赤髪男は半眼で睨む。当時、言われるがままに動いていたことは、承知していたようだ。
「良いから、黙って従え」
「………」
拒否権は無い。仕方なく本をパタンと閉じて、立ち上がる。これみよがしにため息を吐いた。
「おい」
「なんでしょうか」
「なんだその態度は」
「シャルロッテ様が、嫌なことを命令された場合は、このようにしろと」
淡々と話すオリビアに、赤髪男は、口元を引き攣らせる。そろそろシャルロッテから引き離すべきか、という呟きが聞こえたので、精一杯嫌そうな顔をしてみせた。シャルロッテのことは、多分、好きだ。
「参ります」
軽いケープを肩に掛け、赤髪男に告げる。日を追うごとに、オリビアは女らしく、綺麗になっていく。見ていると吸い込まれそうになる瞳に囚われ、赤髪男はしばし、言葉を失った。
訝しげに顰められた眉に、ようやく我に返る。んん、と空咳をして、「なら、行くぞ」と言う。
廊下に出る。王家の廊下は、どこを通っても同じような造りをしている。迷ったら、調度品の種類を見て渡り歩くのだ。幸い、記憶力には自信のあるオリビアである。既に歩いたところであれば、脳内の地図が完璧にできあがっている。
だからこそ、無闇矢鱈と歩いているようにしか見えない赤髪男に、首を傾げた。更に彼は、オリビアに、彼の横を歩くことを強要した。
これではまるで、仲睦まじく連れ立っている者に見える。
「………そういうことか」
ボソッと口から漏れた。
つまりは、妃選びの牽制だ。誰に対する、なのかはいざ知らず。まるで、オリビアを“特別扱い”しているような形で。
そうすれば、注目を集め、誹謗中傷されるのはオリビアだろう。彼はきっと、自分を傷付けたいのだ。
それにしても、なんとも面倒なことをするものだ。オリビアは内心で嘆息した。
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長くいれば、情が移るのは、道理だ。心を殺せる者でなければ、土台無理だ。
「ちょっと、殿下! どういうおつもりですか! オリビア姫をあんな場所に連れ出して、矢面に立たせるなんて!」
「別に。静かになるかと思っただけだ」
「なるはずないでしょう! 逆効果ですよ、ヒートアップしますよ! 下手したら、殺されるか謀られるかしますよ、彼女が!」
「いいのではないか?」
その言葉は、ひどく冷たく響いた。シャルロッテの怒鳴り声によって活気づいた場が、一気に冷える。冷酷な光を宿した瞳が、シャルロッテを捕らえた。
「いつから、お前は俺ではなく、アレの味方となった」
「それは…っ」
「隠れ蓑にはちょうどいい。これでしばらくは俺自身は楽ができる」
くつくつと笑う彼は、どこか、狂っているようにも見える。シャルロッテは、静かに返す。
「…それで貴方が、解放されるなら、そうしたらいいのですわ」
踵を返した。今の主人は、隣国を滅ぼした時以上に、復讐に囚われている気がした。
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隣に並んで歩く頻度は、増えていた。
それに比例するように、周りからの冷たい視線も増えていく。
この頃になってくると、シャルロッテを連れずに一人で歩くことも多くなった。後ろ盾のないオリビアには、容赦ない罵声が浴びせられた。
「………やはり害は無いが」
ただ、鬱陶しい、というのはある。
いつぞやの令嬢に肩がぶつかった。
「ごめんあそばせ。…あら、オリビア姫様ではありませんか。この間仰っていた、なんらかの形での恩返しとは、あの噂の事でしたのね。なんて厚かましい御方なのかしら。よもや殿下の妃に、などと」
「私自身がその地位を望んだことはございません。しかし、殿下のお力になりたいという気持ちは本当です」
苛立ちの雰囲気が更に濃くなったような気がする。関係が無い…例えこれで嫌われ、命を狙われたとしても、尚。
それに、先程の言葉も嘘では無い。お陰で最期は、美味しいものを食べて、自由に外を歩くことができた。その点において、感謝していることは紛れも無い事実だ。どの道、あのままではそう長くは生きられなかったことは明白だ。
オリビアのビジョンに、長生きする自分の姿は無い。
部屋に戻ると、中に赤髪男がいた。別の者なら、部屋の主がいない間に上がり込むなど、失礼に当たるだろう。しかし、彼はオリビアの主であり、そもそもこの部屋自体、オリビアが借りている側だ。部屋の物で、オリビアの持ち物など何一つ無い。だから、文句は無い。
「そろそろ参ったか?」
「いえ、特には」
答えながら、嘘でも堪えていると言った方が良かっただろうか、と首を捻った。しかし、嘘を言ってもすぐに見破られるだろう。
「………お前はどうしたら傷付く?」
嫌そうな顔をされた。
「下町に放り出しても、素直に死んでいきそうだな」
「はい」
それはそうだろう。オリビアは、生活力の無さなら、自信がある。どんな汚いところでも居られる自信はあるので、もしかすると、案外なんとかなるかもしれないが。
「さっさと傷付いてくれよ」
懇願するような声に、「どうかしましたか」と思わず訊ねた。オリビアから赤髪男に何か話し掛けるのは、初めてのことだ。
「お疲れのようですが」
「…お前には関係無い」
「そうですね」
違いない。
オリビアは頷き、長椅子に座ると、本を手に取った。赤髪男の用事はもう済んだだろうと思ったのだ。
腰まで伸びた銀色の髪を一房、手に取られる。「どうかしましたか」と再度訊ねた。
「綺麗になったものだな」
「シャルロッテ様がよくしてくれますので」
「そうか」
会話は終了した。この人は何をしたいのだろうか、とオリビアは訝しむ。
「…傷付かないなら、いっそ俺から逃げ出してくれ」
「それが貴方の望みならば、善処しましょう。しかし、心を作ることすら上手くいかない状態ですので、どこまでご期待に添えるか」
「………お前は、本当に」
泣き笑いの表情で、赤髪男はオリビアを見つめる。何を想って、そんなことを口にしたのか、人の心に疎いオリビアには、さっぱり見当がつかなかった。
恐る恐る、縋るように、まるで強く抱き締めて壊れることを危惧するように、震えた腕の中に閉じ込められ、オリビアは窓の外を見た。ちょうど、夕日が沈みきり、夜が訪れるところだった。
しばらくの間、抱き締められたままだったが、どうやら、そのまま眠ってしまったらしい。朝起きると、赤髪男の姿は無く、自分自身も長椅子ではなくベッドの中にいた。
誰かの腕の中で眠るのは、初めてのことだった。胸に手を当てる。とくり、とくり、といつも通り動く心臓。なのに、どこか同じではない。
不可思議だ。
しかし、オリビアは考えることを放棄した。これ以上考えても、分かることではない気がした。
揺れ動く心は、誰のものか。