03
赤髪男は、ひどく憤慨していた。どこにぶつけていいのか分からない怒りが、自分の中でぐるぐると回り、出口を求めているかのようだ。その衝動を少しでも放出したくて、壁をドンと殴りつける。
「なら、俺は…っ」
「もういいでしょう。貴方の復讐は終わったはずです。彼らは死んだ。与する者も、いずれ炙り出される。―――それとも、こんなにアッサリと事が運んで、終わった気分にならないのですか?」
痛烈な一言は、まさに彼の状態を指し示していたのだろう。ぐ、と詰まった彼に、殿下、と真面目男は呼び掛ける。
「折れないなら、いいでしょう。好きなだけ彼女を虐げればいい。幸い、彼女はそういった扱いを受けることに慣れているようだ。貴方は恨まれませんよ」
「………お前」
「で、どうなさいます?」
唸り声を上げながら、赤髪男は憎々しげにオリビアを睨んだ。その視線を、彼女はなんの気負いもなく受け入れる。
「………」
無言の末、赤髪男を絞り出すように言った。
「…俺自身が見極める」
「分かりました」
結局、どういうことになったのだろう。荒々しく音を立てながら出て行った赤髪男の背中を見送ると、残った真面目男が、オリビアをまじまじと見つめた。
「ひょっとすると、本当に、貴女はあの時に死んだ方が良かったのかもしれませんね。…どう転んだとしても、ここで貴女は幸せになれない」
「幸せ?」
なんだそれは、とばかりに不思議そうな響きを孕んだ発言に、真面目男が痛ましそうな顔をした。
それから、部屋を眺める。
「殿下が貴女に会うというなら、もう少し確りした部屋に移しましょうか。身なりも整えて、…まあ多少の噂は仕方が無いとしても、評判を落とすようでは困る」
無表情のまま自分を見つめるオリビアに気付き、真面目男は、安心させるように笑い掛けた。
「書物も用意しますから、ご安心を」
ならいいか、とオリビアは思った。
の、だが。
「落ち着かない…」
部屋が広過ぎて、綺麗すぎて、落ち着かない。自分の格好も妙だ。なんでこんなに重たくてヒラヒラしているものを着なくてはならないのか。体力の無駄である。身体を磨かれ髪を梳かれ、ドレスアップの上で放り込まれたオリビアは、部屋の隅に座り込んだ。
部屋に備わっている長椅子やベッドなど、とてもではないが、使えなかった。ふかふか過ぎて落ち着かないのだ。
「オリビア姫、書物をお持ちしました。―――って、きゃあ! 何をなさっているのです!」
豊満な身体つきをした美麗な女性が、目を丸くさせた。ともすれば、持っていた本を取り落としそうな具合である。
素直に口を利くべきか。いやしかし、真面目男は、赤髪男と自分のみ、という制限を加えていた。ならばそれ以外への対応は、これまでと同じだろう。
じ、と黙っていると、女性がパタパタと近付いてきて、机の上にドンッと本を乗せるなり、オリビアの腕を引いて起こした。
「もう! 折角可愛らしい格好になったのに、そんなに隅にいたら台無しよ!」
女性は、言いながらぐいぐいとオリビアを引っ張り、長椅子に座らせた。これでよし! と満足そうに頷いた女性は、思い出したように手を打った。
「兄様に言われて、本を持ってきたのよ。あ、あとね、私が貴女の世話係になったの。ビシバシやるから、覚悟してね。そうだわ、名乗るのが遅れたわね、私はシャルロッテ。貴女はオリビア姫で良いのよね?」
「…はい」
若干気圧されながら、オリビアは答えた。こんなに快活な人間には、これまで会ったことも無かった。人間の表情はこうもくるくると変わるものなのか。
「それにしても、見事な色だわ」
シャルロッテの名乗った女性は、オリビアの髪を見て、ほう、と息を吐いた。オリビアの髪は薄汚れたグレーから、輝くような銀色に変化していた。肌も、まるで陶器のように透き通っている。汚れた時には、暗く不気味な印象を強めていた瞳も、こうしてみると黒曜石のような輝きを放っている。
全身を眺めていたシャルロッテは、見られている側のオリビアが居心地悪そうにしていることに気付き、「あらやだ、失礼」ところころ笑った。
「それにしても、貴女も大変ね。リアン殿下に目を付けられるなんて。兄様も止めてあげればいいのに、なんだかんだで甘いんだから」
話し掛けられているのか、それとも独り言なのか。どちらにせよ、答える権利はオリビアには無い。
黙ったままの彼女を、シャルロッテはちらりと見た。観察するような瞳に、正面から向き合う。
「ねえ、貴女には不満は無いの? 母国が滅んだんでしょう? いえ、貴女の事情は少しは聞いたから、悲しめという訳では無いのよ。でも折角解放されたんだから、何かやりたいことくらい言って良いのよ。全部じゃなくても、叶えられることは掛け合ってみるし」
同情か。それにしてはカラリとしている。その光が、暗闇でしか生きられなかった者との差なのか。それとも、例え同じ境遇にあっても彼女はそう言うのか。オリビアには分からなかった。
「ちょっと、返事くらいしなさいよ」
「………」
「………あ! 分かったわ、“例の制限”ね。ちょっと待っていてよ」
言うなり、シャルロッテは部屋から出て行く。しばらくその体勢のままジッとしていると、再び扉が開いた。
「ちょっ、ロッティ! 引っ張る、な………?」
真面目男を連れて来たらしい。彼は、オリビアを見てピシリと固まった。
「うふふ、見惚れる程綺麗でしょう」
「っ、な! 違う!」
「…そこでさらりと褒め言葉が出せないから、兄様もリアン殿下も結婚できないのだわ」
呆れた、と言わんばかりにため息を吐いて駄目出しをしたシャルロッテに、どうやら彼女の兄でもあるらしい真面目男は、「それこそ余計なお世話だよ…」と疲れたように肩を落とした。
「大体、僕が結婚する前に、殿下をどうにかせねば…」
「あら、縁談は来ているんでしょう? 各方面からたーくさん」
「来ているよ」
果たしてこういったこの国の事情を自分の目の前でしていいのだろうか。オリビアは無表情の裏で考えたが、別段自分が知っていようが知っていまいが、どうでもいいことである。本当に心底、どうでもいい。
「今はそんな場合じゃないとかなんとか言って断ってきたけど、アドフォース王国が滅んだ今、今度こそ…」
「かの王国の土地を纏め上げるのに多忙極まってそれどころではない。とでも言うつもりじゃない?」
「………有り得るな」
真面目男はがっくりと肩を落とした。余程苦労しているのだろう。真面目男から改名して、苦労男にするべきか。
「話を持って行くと殿下は不機嫌になるし、断ると陛下が不機嫌になるし。おまけに貴族が喚く」
完全なる愚痴に、妹たるシャルロッテはもはや慣れているのか、「ハイハイ、大変ですねー」と棒読みで応えた。
「挙句、このような…」
オリビアを見た彼は、はあ、と息を吐いた。余程疲れている。
「せめて今回の件で、復讐心から解放されたらと思ったのだが」
「まだチャンスはある。そのための、オリビア姫よ」
目の前でいけしゃあしゃあと有効利用宣言をされても、オリビアは何も思わなかった。彼女の意識は、既に本に向かっている。早く読みたい。しかし、この場に自分よりも“上”の人間がいる中で、それをしてはいけないということは、本能的に分かっている。
「そういう訳だから、期待してるわ、オリビア姫」
「………」
オリビアは、生まれて初めて、自分の意思で返事をしなかった。返事をする権利が無かったことも、当然あるが。
期待している、という言葉は、不自然な程に重く感じた。期待とは、嫌なものなのか。オリビアは微かに眉を寄せる。
「ああ、そうだわ。兄様、オリビア姫に、私に対してもちゃんと返事をするように命じてくれる?」
そこでようやくシャルロッテは、兄を呼びつけた理由を思い出したらしく、にこりと笑った。
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静かな空間で、本を読み耽る。本の世界に入っている瞬間だけが、オリビアにとって、自分が自分で在る瞬間だと感じた。唯一、自分が自由に思考できる時間なのだ。
本を読むことに没頭していると、ついつい時間を忘れてしまう。不意に窓の外を見ると、空が真っ赤に染まっていた。この色も、もう何度目かだ。最近ようやく慣れた。しかしどうやら今日は、いつもよりも眩しい。不思議に思って、近寄ると、太陽が地平線にちょうど隠れて行くところだった。幻想的な光景に、心が震える。
「今度は窓から逃げるつもりか?」
背後から声が聞こえた。この部屋には自分と、おそらくこの声の主しかいない。だから、この言葉は自分に向けられたものだ。
「ここは高いから、出たら死にます」
「死を以って逃げるかもしれない」
なんと答えて欲しいのか、よく分からない。押し黙ると、「なんだ」と睨まれた。ふるふる、と首を振る。それが、何に対する答えになるのかも、意識はしていなかった。
「…お前は不思議だ。何故、死のうとしない?」
「分かりません」
「何が?」
「何故、死ぬ理由があるのです?」
真っ直ぐに赤髪男を見た。彼の瞳からは、何も読み取れない。
「死にたい程、痛い目に遭うかもしれない。辱めに遭うかもしれない」
痛い目。辱め。その言葉を聞いても、どういう目に遭うのか、ピンと来なかった。
「…多分、私は、痛い目には、遭ったことが無いのだと思います。だから、よく分かりません」
痛いという想いをするほど、人と関わり合いが無かった。
「でも、それが私に与えられるということは、それは私に相応しい扱いなのでしょう」
虐げられることに慣れている。真面目男はそう言ったが、おそらくは違う。本格的な悪意など、生まれてこの方、向けられたことが無かった。忘却の片隅で、たまたま生かされていた。善意も、悪意も、知らない。赤髪男から向けられる憎悪なるものも、初めて見たのだ。ただ、“新しい主”から与えられた初めてのものを、オリビアが受け入れることができた。それだけ。
あるいは。
「お前が幸せになれる道など無いというのに、馬鹿なことだ」
悪意でさえも、自分に向けられることが物珍しい。
そんな気持ちもあるのかもしれない。
その心理は、負のストロークを求める、人間の本能的なものかもしれません。
そこがキッカケで、他の感情も紐解ければいいのですが、彼女にとっては難しいのです。