01
足が、酷く冷たい。痛いくらいだ。
当然だろう、と理性が嘲笑う。裸足で冷たい石造りの上を歩いているのだ。指先から、ひんやりとした冷気が出ているような錯覚さえ起きる。
しかしそれももう少しの辛抱だと、オリビアは知っている。螺旋の階段の行き着く先は、常にひとつだ。
吐く息は白い。羽織ったケープの留め具を、両手で引き寄せる。気休めにもなりやしないが、しないよりはマシな気がする。気分的に。
やがて、螺旋階段を降り切った先に、重厚な扉があった。全力で押して入る。普段使う者がいない分、錆び付くのも早いのだ。オリビアが使うようになって、定期的に掃除も始めたから、これでも以前よりかは良い。
扉の向こうにある物も、変わり映えはしない。薄っすらと埃の被った絨毯と、天窓と、それから、壁という壁にズラリと並ぶ本棚と、そこにギッシリと詰まった書籍だ。絨毯は、これでも綺麗になった方だ。最初なんて、上に乗ることすら躊躇われたくらいだ。本も同様。
トン、と絨毯の上に乗る。それだけで少し、救われた気持ちになる。
オリビアは、本棚から数冊の本を引っこ抜いた。今日のお供だ。天窓の下へ足を運ぶ。灯りが無いこの場所では、月の光が唯一、オリビアに使えるものだった。ちょうど部屋の真ん中に腰を下ろして、本を自分の隣にドサリと置く。
「………月が綺麗だ」
今日の月は水色だ。しかも真ん丸。この世界では、暦を月の色と欠け具合によって判断する。らしい。そう本に書いてあった。多分今も変わっていないはず。
本が間違っていたら、もうオリビアには真実は分からない。なにせ、彼女にとっては、ここにある本だけが、知識の元となる全てなのだから。
幸いなことに、まだ読めていない本もたくさんある。時間はたっぷりあるので、いずれ読める本は読み切ってしまうだろうが、あくまでそれは、手の届く範囲での書物という意味だ。新しいものが読みたければ、手の届かない本を取る方法を考えればいい。そうでなければ、復習がてらもう一度読み直してもいい。
何度も言うが、時間はたっぷりあるのだ。
オリビアはごろりとその場に転がった。服や手足、髪が汚れるかもしれないが、関係なかった。どうせ元々汚れているし、汚れたからといって気にする人間もいない。
はー、と息を吐く。
窓越しに見える月は美しい。
けれど。
「いつか、何も通さずに見てみたいものだ…」
叶わぬだろうと思いながら、オリビアは無表情で呟いた。
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オリビアの日常は、淡々と進む。一日という概念は、届けられる食事によって辛うじて保たれている。
服は一週間に一度だけ取り替えられるので、それもまた、時間の目安になっている。とはいえ、だからなんだ、という話だ。今日が“いつ”であろうと、やることは変わらないし、変えようが無い。
死なない程度の質素な食事を摂りつつ、ボンヤリと自室を見る。ガラリと空いた空間には、窓ひとつ無い。逃げられることを恐れてか、それとも“見られたくない”のか。
部屋にあるのは、簡素ながら足が四本揃っているベッドのみ。せめてもの慈悲なのか。この部屋にも絨毯があるのも、救いのひとつである。あとは、こちらも週に一度だけ替えが貰える、掃除道具。
基本的にここには人は立ち入らないので、そういったものは、全て自分でやる。やらせてもらえるだけ、まだいい。そう思いつつも、つくづく自分をここに閉じ込めた人間は、殺したいのか生かしたいのか謎だ、と思う。
しかし殺したいのなら、とっくの昔に殺しているはずである。閉じ込めることが可能なら、殺すことはもっと容易なはずだ。
「私を生かして何がしたいのだろうか」
ついつい溢れる独り言は、自分が声を忘れそうで怖いからだ。まあ、使う場面もありはしないのだが。
やれやれ、と思いながら、ベッドに潜り込む。身体を動かす時間は決まっている。それ以外の時間に下手に動くと、体力不足を起こして、最悪死ぬ。
手っ取り早い自殺手段であるが、オリビアはそれをしない。何故なのかは、自分でも分からない。本を読む限り、自分の生活は結構酷いと思う。絶望したっていいと思う。しかし、オリビアには絶望も無い。故に積極的に死のうとも思っていない。かといって希望も無いわけだが。
つまり、文字通り淡々と過ごしているのだ。
物心ついた時からこの生活だ。無理も無い、と思う。自分にとって、この生活こそが、“人間の生活”なのだ。
「ああ、もしかして…」
自然と死ぬ、あるいは故意に自分で死ぬことを、待っているのだろうか。
ふとそんな想いが過る。
まあ、それこそ、だからなんだ、という話だ。
過去に一度だけ、世話係が独り言で零した。娘に対してこの仕打ちとは、と。ここに閉じ込めているのは、どうやら近しい関係にある者らしい。
しかし、見ず知らずの人間の意向に従う謂れは無いだろう。例え、血が繋がっていようとも。肉親の情など、信じる信じない以前に、知りもしないものだ。例えるなら、伝説の剣と同じ。あったらすごいな。でも普通無いだろう、そんなもの。その程度。
そのままオリビアは眠りについた。
「―――!」
「――――――!」
外が騒がしい。
「………ん?」
オリビアは、うとうとしながら、目を覚ました。喧騒で目を覚ますなんてこと、初めてのことだ。そもそも、物音や人が騒ぎ立てる声なんてもの、初めて聴いた。
「………」
目は覚ましたものの、オリビアは動かずにいた。下手に動くと体力を消耗して、死んでしまうからだ。
騒ぎ声は、どんどん大きくなる。しまいには、オリビアの部屋の前で、扉の錠を壊す音がした。この扉は、中からも外からも、自然には開かない。外についている錠を外し、かんぬきを取らなければならない。やがて、乱暴にかんぬきが外され、地面に打ち付けられる音がした。
この時になって、ようやくオリビアは動いた。動いたといっても、身体を起こして、足を絨毯につけたくらいだ。
彼女が見ている中、扉が吹っ飛んだ。
「………かんぬきを外したなら、扉を飛ばす意味など無かろうに」
思わず癖で口から出た独り言は、幸か不幸か、扉が壁にぶつかる衝撃音で、掻き消された。
扉を潜って入ってきた男は、燃えるような赤い髪をしていた。それよりも深みのある瞳は、冷酷な色を纏っている。
必要最低限の鎧をつけ、抜き身の剣を手にしている。その剣先から溢れた赤い血が、オリビアの部屋の絨毯を汚した。
男は、ベッドに腰掛けるオリビアの前でピタリと止まり、彼女を見下ろした。
まるで虫でも見るかのような目だ。
オリビアは、そう思ったが、しかしこれといって怒りは湧かなかった。自分が虫であろうと人間であろうと、大して差は無い気がしたのだ。
「お前が最後の王族か」
おうぞく。
その言葉に、オリビアは微かに眉を寄せた。自分の持っているものなど、この部屋のベッドと絨毯、それから掃除道具に、勝手に見つけたあの秘密の場所くらいしか無い。“おうぞく”などというものは、持っているつもりは無かった。
「何をしでかし、ここにいるかは知らんが、お前の親兄弟は全て死んだぞ」
残念だったな、と続けたかと思ったが、空耳だったようだ。しかし、心ではそう言っているだろうから、似たようなものだろう。
残念。ふむ。…残念?
オリビアは首を捻った。そういった感覚が、自分の中にあるようには思えなかった。
「肉親が死んでも、無反応か。成る程、アドフォース家の者は、みな心が堕ちていると見える」
存外、お喋りなのだな、と場違いな感想を抱く。近寄り難い雰囲気を醸している男は、会話すらも拒んでいるように見えたが。会話など生まれてこの方、はい・いいえの返答のみで事足りた身には、難易度の高いものだ。
心が堕ちる。この言葉はなんだろう。知識を検索し、ヒットする。ああ、闇に染まる。あるいは、性根が腐っている、ということか。しかし、額面的な意味は分かっても、実際にどういう状態なのか分からない。言葉というのは難しい。
「何か言い残すことはないか?」
「………」
少し考えたが、思いつくことはひとつもなかった。残したいものなど、何も無い。
答えないことが反抗的に映ったのか、「アドフォース家の人間にしては、強情だ」と褒めているのか貶しているのか判断しかねる言葉を、蔑んだ視線を浴びせられながら、言い放たれる。
血塗れの剣が、構えられる。
これが、自分の命を奪うものか。オリビアはしげしげと見つめた。
積極的に死にたい訳では無いが、積極的に生きたい訳でも無い。だからこそ、動き始めた剣に対しても、何も思うことはなかった。自分を殺すこの男にすら、なんの恨みも無い。
しかし、その剣は、オリビアの首筋に薄い血の筋を作らせただけで、止まった。
「お前、恐ろしくは無いのか」
このレベルの問い掛けならば、オリビアにも答えられる。
「はい、別にどうとも」
淡々と答えると、「何故だ」と更に問われる。それは、難しい問いだ。黙り込むと、男は冷笑した。
「死ぬ方が救いだと思ったのか? そうか。だとしたら、ここで殺すのは止めよう。肉親が全て死に絶えた中で、孤独に生きるが良い。無論、楽には生きさせないから、覚悟しておけ」
覚悟。それはどういったものだろう。まあ、どうでもいいことである。生きられるならば生きるし、死ぬなら死ぬのだろう。辛いことがあるというなら、それもまた仕方のないことだ。抗ったところで、変わるものではないのなら、受け入れてしまえばいい。
燃える色を持った男は、乱暴にオリビアの腕を掴み、しかし少し眉を寄せた。
「お前、なんだこの細さは」
「………」
細い。それは何と比較してだろうか。自分と比較しているのならば、当然である。人体の構造上、仕方のないことだ。
またも黙るオリビアに、男は「もういい」と苛立ちを募らせた声で吐き捨て、ぐいぐいと引っ張る。
代わりにどこかで動かない時間を作らなければ死ぬだろうな。そう考えながら、生まれてこの方、歩いたことの無い道を、足早に進む。流れていく景色の先から、風が流れてくる。
やがて、外に出た。
ところどころに死骸が転がっているが、静かだ。足をくすぐる草に、オリビアは少しビックリした。絨毯とは違うが、面白い感覚だ。思わず、二度三度と踏みつけてしまう。
これが外か。心の中で呟いた。
読んで頂き、ありがとうございます!
新連載、短い間になる予定ですが…
よろしくお願いします!