chapter3/転生エルフ・秋年宵子(あきとしよいこ)の独白
現代の日本。わたしが前世の記憶を取り戻したのは、中学生になる直前のこと。それまでは普通の人間の子どもとして、生活していた。
両親が早くに離婚し、わたしは父と二人で暮らしていた。父が離婚の際、どうしてもわたしの養育権を譲らなかったらしい。父は優しい人だったので、わたしは父をひとりぼっちにしたくなくて、家を出る母についていかなかった。
わたしの名前は秋年 宵子。現在の家族構成は、母は離婚して家を出ていき、父一人、わたし、兄の三人暮らし。
今わたしは高校一年生。兄は同じ学校に通う。彼と「再会」したのは、三年前のことだ。
わたしたちは武蔵野市の駅から離れた住宅街に住んでいるのだが、吉祥寺駅近辺で父と買い物をし、食事をした後のことだった。
空気が乾燥していたからか、飲み物が欲しくなって、父はコーヒーを注文しにカフェの中に入って行った。その軒先はドリンクとア
イスクリームの販売コーナーになっていて、わたしも父の後をついて行こうと思ったところで、一匹の猫を見つけた。
どこかの飼い猫なのか、野良猫だったのか、当時のわたしにはわからなかったが、その太った猫をかまいたくなって、わたしは父から離れてしまった。
子どもは、犬や猫が好きなものだし、いまのわたしも動物は好きだ。猫も女子小学生には警戒心を見せず、わたしたちは束の間の触れ合いを楽しんでいた。
「宵子」
店の奥から父の声が聞こえた。手にはソフトクリームを持っている。わたしの視線が猫から反れた。そのとき、歩道に寝転がって子どもに腹を見せていた猫のしっぽが、通行人の男に踏まれた。
「ウウギャー!!!」
悲鳴を上げ、道路に飛び出した猫。そのまま道路を走り抜けていれば良かったのだが、まさにその刹那、一台のセダン車が車道を駆けた。
迫り来る車を見てしまった猫は、車線を横切る横断歩道の真ん中で立ちすくみ、金縛りに遭う。
信号は青信号。運転手にも落ち度は無かった。それだけに一瞬の出来事に運転手は猫の存在を知覚さえできなかった。
「だめ、ネコちゃん!」
わたしも、猫が車道へ飛び出したのと同時にその後を追っていた。
体が固まった猫を抱きあげ、運転手がはっと目を見開く。彼の心臓は縮み上がったことだろう。
急ブレーキを踏むも、その距離わずか1メートルに満たない。
スローモーションで、周囲の情景が流れる。
異変に気づき、アイスクリームを取り落とした父親が腰を曲げた。我が子を救わんと、駆け出そうとする。勘定を終えた、別の客が店から出て来た。大学生だろうが、右手を上げて、わたしを指差すのが精一杯だった。
キキキキキキキキーーー!!!!!
長いブレーキ音が、父の眼前を過ぎていく。
黒いセダン車は横断歩道を通り抜け、わたしのいた位置から一〇メートル先の地点で停止していた。
「あ、あわわわわ」
運転手が腰を抜かしたまま、車から降りて来た。定年を迎えた前後に見える初老の男だった。
やがて、往来に人が集まって来る。みな、同じく一点を注視していた。それは道路にぶちまけられた血の海ではなく、横たわる少女と猫の痛ましい姿でもなかった。
通行人の視線の先にあるもの。みな、ぽかんと口を開けて、ある上空の一点を見つめていた。
地上から五メートル。車道用信号機に「彼」は右腕一本でつかまっていた。左腕にはわたしを抱え、わたしは猫を抱いている。
愛娘が車にはねられる瞬間、父親は目をつぶった。
ドシン、という車の前部が爆ぜる音が彼の鼓膜に響いた。
「ひぃっぃぃ」
おそるおそる目を開けて見たのが、いまの光景だった。
「いまの見た?」
「え? ううん。どうなったの?」
通行人の声がする。
子どもが車道に飛び出した瞬間、手前の女子高生の携帯電話は、「彼」の視界の隅で、虚空に浮いていた。
スローモーションで展開する交通事故の再現映像の中、「彼」だけが他者とは異なる時間軸を移動していた。わたしとは反対側の歩道にいた「彼」は子どもを追って、ダッシュで駆け出した。反対車線を駆け抜け、セダン車との距離30センチの地点で、しゃがみこむわたしの背に覆いかぶさる。
脇から手を回され、児童の体が宙に浮く。両足で第一のジャンプ、高さではなく瞬発力を優先し、セダン車の前面グリルを飛び越えた。第二のジャンプで、彼の右足が車のボンネットに陥没を生じる。その蹴りは、車のエンジンをも破壊するほどのものだった。
常人からすれば驚異的と呼べるだろう跳躍力で、空めがけて飛び上がった二人の足の下をセダン車の天井が通過していく。
信号機のアームが近づく。わたしの体から右手をはなし、信号機を支える鉄柱をつかんだ。ふたたび二人の体に地球からの引力の支配が及ぶ。
ざわざわ。往来の人間たちが集まって来た。彼の跳躍を目撃した人間は数人いたようだが、それらの人々は、自分の目を疑って目尻をおさえたり、頭を振ってまばたきしたりしていた。
ぞろぞろと集まって来るのは、なにが起きたのかもわからない野次馬ばかり。
「なんだ、なんだ?」
「事故か?」
「え、どうしてあんな高いところに子どもが?」
口々に当然の疑問を口にする。
「宵子! 宵子!! 無事か!?」
父親がようやく目を開ける。我が子の姿を求めて、左右に首を振っている。
「誰か下に行ったほうがいいんじゃないか? 子どもをおろさないと」
「早くしろ!」
数人の野次馬がわたしたちの真下へやって来た。
(なるほど、この少女を助ける手伝いをしようとしているのだな)
「え?」
彼のつぶやきが聞こえた気がした。
「ど、どうするの?」
路上から呼びかける声がする。
「きみ、わたしたちが受け止めるから合図をしたら手を離すんだ!」
このときの彼は、「下々」の言葉をすべて理解することはできていなかったようである。
「子どもを受け止めるから! 大人にまかせろ!」
(とにかく、子どもをおろせと言っているようだ)
地上では、スーツを脱いでわたしを受け止めようとする男たちの円陣が組まれた。
(あの鉄の箱の背に降りればいいのだな)
彼は左手の力を抜いた。ゆらっと、落下する二人の体。まだ準備ができていなかったのか、悲鳴を上げる大人たち。