chapter2/卯月楓(うづきかえで)の憂鬱
眠らない街、東京の夜の喧騒を見慣れた楓にとって住民のほとんどが寝静まり、電気の明かりもなく、月明かりのみに照らし出される石畳の街並は旅情に溢れている。
卯月 楓はここ、シーブル国で唯一の日本人だ。いえ、この世界で数えるほどしかいない地球人の一人でもある。
「見事なものね」
めずらしく、クラスメイトの秋年 明に賛辞を贈る。現実世界から来た同胞が数少ないから、日頃は彼に愚痴を言ってばかりだった。
変わり者のクラスメイト、親友の肉親。そして今は、騎士となった彼女の上官。
われらがシーブル傭兵騎士団長は連戦連勝の武功を立てながら謙虚な振る舞いを忘れず、どのような身分の者にも偉ぶること無く、高潔な英雄として民衆の喝采を浴びている。
「まさか、身近なところに異世界の戦士さまがいたなんてね」
彼と出会うことができなければ、自分は見知らぬ土地で今頃命を落としていただろう。
騎士と兵士たちは束の間の休息の時間を与えられた。
明の副官である楓は格別な計らいで王宮の一室に住まわせてもらっている。こんな静かな夜には、この世界の紛争の中にあることを忘れてしまいそうだ。
夜も更ければ市民は寝静まるが、夜警は軍人と夜に店を開けている酒場とその客たちの仕事だった。
街並みを見下ろすバルコニーからはるか遠く、この国はすべて石積の堅牢な城壁に守られている。城塞都市の内と外を寝ずの番が見張る。万里の長城のように続く城壁のあちらこちらに、漁火のような灯が見えて、安心感を与えてくれる。
「さて今ごろ、明はどうしてるかしら? たまには労いの言葉でもかけてあげようかな」
部下たちを送り出し、自分は一人になってくつろぎたいと離宮に引きこもったはずだ。
彼に対して日ごろの感謝の気持ちを伝えたいけれど、こんな夜中に寝所を訪ねるのはふしだらだろうか?
「そうですとも。あくまで労いなんだからね……ってわたし、誰に言ってるんだろ」
部下たちは皆、気ままに行きたい場所へ赴いた。楓が家にいるのも、ようやく勝手がわかってきたとはいえ、ひとりで気軽に遊びに行く場所など無いからだ。
「考えてみれば唯一の同胞であるわたしをほったらかしにしていないで、向こうからこっちへ来るべきじゃないかしら」
まあいい。日本にいたときから、あいつは朴念仁だった。ここはやはり自分が出向くべきだろう。
王宮で暮らしているので、出入りするときには衛兵に声をかけるなどいくつかの手間があった。
「そういえば」
公女・リリーナ・フォーミュラ姫の顔が脳裏に浮かんだ。公女が一人の女性として自分のクラスメイトを慕っていることは明らかだった。
「姫、安心して。わたしが目を光らせているからね」
今では楓も彼女と親友のような間柄だ。
今回の出兵前もちょうど、公国領内の有力商人が救世主一行を労う宴を催していた。明たち即席騎士団の倍の数の客が商家に集っている。彼らをもてなす、あられもない姿の美女の踊り。
「ゴホン」
楓は咳払いした。女の身であってもむやみに退席できない。美女たちの容姿は様々で、髪の色も肌の色も瞳の色もみな異なる。共通しているのはみな抜群のプロポーションに、生地の少ない水着のような衣装の上に宝石や金銀のアクセサリーを揺らしながら扇情的な振り付けで身をくねらせている。その腰が男たちの鼻の先まで近づく。
(こういうの、地球ではベリーダンスって言ったっけ)
「うん、なんか言った?」
(明、だらしない顔しやがって)
王と公女の信頼厚い明を接待する商人や貴族たち。何か下心もあるのだろう。彼を取り込んでおいて損は無い。両脇を美女に挟まれ杯に果実酒を注がれている。向かいの席からその姿を、楓と救世軍の女性陣は不機嫌そうな顔で眺めている。
『明、早く日本に戻れるようになんとかしなさいよ』
『向こう側に帰りたいのはやまやまだが、そうせっつくなよ』
明は日本のことを『向こう側』と言った。わたしにとっては故郷だが、彼は同じように考えていないらしい。
『そのためにはまずこの世界で起きる怪異を収束させねばならない。おれが必ずなんとかする』
楓が姫に正直なことを言うとするならば、彼一人を放っておくとふらふらと誘惑に流されてしまいそうなところだ。が、彼のそばには常に自分や女騎士・ローズウィップがいて、彼がハニートラップにかかりそうになると、その耳を引っ張って耳もとでわめき散らのだ。
「あんたね、なに鼻の下のばしてんのよ」
こんな調子でいろいろ監視が厳しいために、勇者はいまのところ清廉潔白を貫いている。それが彼の良い評判になって民衆から慕われる一因にもなっているのだから悪いことではないのだが。
「ときにアキトシ卿、いかがですかな。今宵は英気を養っては」
地方の公爵や、やり手の商人には、日本風に言うと「ガッハッハなおっさん」が多くいて、純粋に厚意と労いで夜伽を勧めてくれることもあった。
「絶対に許さないよ」
楓がギロッと睨む。宿で待っていれば女性が訪ねて来たのだろうが。こういうチャンスもことごとく彼女が叩きつぶした。
「我らは矛を持たぬ民の盾。女にうつつを抜かしている暇など無い!」
剣を掲げ高らかに宣言する。周囲は感心しきり。明はがっかり。
「そうよね、リーダー!」
冷たい目線でリーダーに釘を刺す副官。
「うん……そうだね」
無理矢理でも清廉潔白に振る舞わされているので、出会う土地の者たちは彼を枢機卿かと思いこむ者までいたぐらいだ。
そんな行いと武功が幸いして、秋年明は傭兵の客分であるにも関わらずシーブル公国筆頭騎士に任じられた。そんな彼の王族への影響力を期待して、とくに明がリリーナの信頼厚いことから、下手すれば王配になるかもしれないとの商人たちの思惑がある。
心が痛む。
(ごめんね、リリーナ。いずれ、わたしは明を連れて日本へ帰らなければならない)
楓は純粋にそのとき、彼とともに地球に帰ることだけを考えていた。このときには、まだ後々、自分を含む多くの女性たちの想いが錯綜する修羅場のただ中になることとは想像もできないでいた。