#2
周囲の嘲笑も止んだ。
「ナニスンダテメー」
明に携帯電話を壊された男が胸倉をつかもうとして、手が泳いだ。上半身甲冑に包まれているためにシャツの襟をつかむようにいかない。少し迷って、羽織の端を握った。
戦闘能力の低い町人だと一目でわかったので、殴り倒すのは少しの間保留した。
それより周囲の風景に明は関心を奪われた。男が顔を近づけて、「ガン」をつけてきたので、手首を軽くひねると男は地面に膝をついた。
「うまそうな匂いがするな」
明の嗅覚はそこここの飲食店から漂ってくる食べ物の匂いをかぎ取っていた。
「空気にも混ざりものが、たき火でもしているのか」
排気ガスの正体がわからない間は漠と不快に感じた。
通りの向こうの軒先に、父子がいた。カフェの軒先はドリンクとアイスクリームの販売コーナーになっていて、父がなにか注文している足下で、女の子が野良猫をかまっている。
「猫もいるのか」などと考えていると、店先の父親がソフトクリームをカウンターで受け取っていた。子どもから視線が反れている。
そのとき、歩道に寝転がって子どもに腹を見せていた猫のしっぽが、通行人の男に踏まれた。
ウウギャー。悲鳴を上げ、道路に飛び出した野良猫。
そのまま走り抜けていれば良かったのだが、まさにその刹那、一台のセダン車が車道を駆けた。迫り来る車を見てしまった猫は、車線を横切る横断歩道の真ん中で立ちすくみ、金縛りにあう。
信号は青信号。運転手にも落ち度は無かった。それだけに一瞬の出来事に運転手は猫の存在を知覚さえできなかった。
「だめ、ネコちゃん!」
子どもも、猫が車道へ飛び出したのと同時にその後を追っていた。女の子が固まった猫を抱きあげ、運転手がはっと目を見開く。彼の心臓が縮み上がったことだろう。
急ブレーキを踏むも、その距離わずか一メートルに満たない。
スローモーションで、周囲の情景が流れる。
異変に気づき、アイスクリームを取り落とした父親が腰を曲げた。我が子を救わんと、駆け出そうとする。勘定を終えた、別の客が店から出て来た。大学生だろうが、右手を上げて、少女を指差すのが精一杯だった。
キキキキキキキキーーー!!!!!
長いブレーキ音が、父の眼前を過ぎていく。
黒いセダン車は横断歩道を通り抜け、少女のいた位置から十メートル先の地点で停止していた。
「あ、あわわわわ」
運転手が腰を抜かしたまま、車から降りて来た。定年を迎えた前後に見える初老の男だった。
やがて、往来に人が集まって来る。みな、同じく一点を注視していた。それは道路にぶちまけられた血の海ではなく、横たわる少女と猫の痛ましい姿でもなかった。
通行人の視線の先にあるもの。みな、ぽかんと口を開けて、ある上空の一点を見つめていた。
地上から五メートル。車道用信号機に明は右腕一本でつかまっていた。左腕には少女を抱え、彼女は猫を抱いている。
少女が車にはねられる瞬間、父親は目をつぶった。
ドシンという車の前部が爆ぜる音が彼の鼓膜に響いた。
「ひぃっぃぃ」おそるおそる目を開けて見たのが、いまの光景だった。
「いまの見た?」
「え? ううん。どうなったの?」
通行人の声がする。
子どもが車道に飛び出した瞬間、手前の女子高生の携帯電話だけが明の視界の隅で、虚空に浮いていた。
スローモーションで展開する交通事故の再現映像の中、明だけが他者とは異なる時間軸を移動していた。
子どもを追って、ダッシュで駆け出した。セダン車との距離30センチの地点で、しゃがみこむ少女の背に覆いかぶさる。
脇から手を回され、児童の体が宙に浮く。
両足で第一のジャンプ、高さではなく瞬発力を優先し、セダン車の前面グリルを飛び越えた。第二のジャンプで、明の右足が車のボンネットに陥没を生じる。その蹴りは、車のエンジンをも破壊するほどのものだった。
常人からすれば驚異的と呼べるだろう跳躍力で、空めがけて飛び上がった明の足の下をセダン車の天井が通過していく。
信号機のアームが近づく。女の子の体から右手をはなし、信号機を支える鉄柱をつかんだ。ふたたび明の体に地球からの引力の支配が及ぶ。
ざわざわ。往来の人間たちが集まって来た。明の跳躍を目撃した人間は数人いたようだが、それらの人々は、自分の目を疑って目尻をおさえたり、頭を振ってまばたきしたりしていた。
ぞろぞろと集まって来るのは、なにが起きたのかもわからない野次馬ばかり。
「なんだ、なんだ?」
「事故か?」
「え、どうしてあんな高いところに子どもが?」
口々に当然の疑問を口にする。
「宵子! 宵子!! 無事か!?」
父親がようやく目を開ける。我が子の姿を求めて、左右に首を振っている。
「誰か下に行ったほうがいいんじゃないか? 子どもをおろさないと」
「早くしろ!」
数人の野次馬が明の真下へやって来た。
(なるほど、この少女を助ける手伝いをしようとしているのだな)
「ど、どうするの?」
「きみ、わたしたちが受け止めるから合図をしたら手を離すんだ!」
このときの明は、彼らの言葉をすべて理解することはできなかった。
「子どもを受け止めるから! 大人にまかせろ!」
(とにかく、子どもをおろせと言っているようだ)
地上では、スーツを脱いで子どもを受け止めようとする男たちの円陣が組まれた。
(あの鉄の箱の背に降りればいいのだな)
明は左手の力を抜いた。ゆらっと、落下する明の体。まだ準備ができていなかったのか、悲鳴を上げる大人たち。
「きゃー」
思わず、女の子も悲鳴を上げる。
「おおっと!!」
予想外に鉄板は柔く、明と少女の体重を受け止めて、ズムッっと天井がひしゃげた。窓ガラスに無数のひびが入り、車内が見えなくなるほど。
少女の身体をかばって着地した明は姿勢をくずして、車体から転げ落ちた。ボンネットをつたって、アスファルトの地面に背中を打ちつけた。
「痛えぇ」
だいぶわかりやすい文章になったと思うのですがどうでしょうか?
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