再生Place
その日は、イベントが行われる予定はなかった。
ただ、数ヶ月前にハシミコフが握手会をする予定だった小さなステージで、アマチュアのアーティストが声を張り上げて歌っている。 時折吹く穏やかな風に前髪をなびかせながら、夏季は二階のバルコニーから彼らをぼんやりと見つめていた。 不意に人影が近づいた。 忍だった。 気付いた夏希が顔を向けたが、すぐにステージに視線を落とした。
「あら。 今日は誰の監視?」
「いや。 今日は非番だ」
「そう。 暇なのね」
忍は夏希の横に立って、夏希があごを乗せるフェンスに腕を置いた。
「怪我の具合は?」
簡潔な質問に、夏希はふと左腕に手をやった。
「まだ傷は残っているけど、もう全然痛みは無いわ」
「そうか…………」
「ありがとう」
「え?」
夏希はにこりと微笑みを向けた。
「入院している間も、退院する時も、花を送ってくれてたでしょう? お母さんも喜んでたわ。『とても優しい刑事さんなのね』って」
忍はそっと銀縁眼鏡を指で押し上げた。
「三ヶ月」
「え?」
「人は、三ヶ月経つと、心に変化が起きる。 夢中だったものに飽き始めるのもそうだし、噂が消えるのもそうらしい」
夏希はしばらく考えたあと、理解したように頷いた。
「そうね。 あれからもう三ヶ月か。 もう話題にも上がらなくなった。 まるで何もなかったかのように、ごく普通に、以前の生活に戻ってる」
夏希はフェンスに頬杖をついた。
「つまらない」
忍は、夏希を横目で見つめた。 夏希は冷たい目で、相変わらず大声でひとりよがりの歌声を披露するアーティストを見つめながら、ふと微笑んだ。
「あの刺激的な出来事は、忘れたくないな。 なんだか、今生きてるのは、あれがあったからだと思うの」
そして夏希は、楽しそうに話し始めた。
「あの時のあたし、無理矢理生きてたの。 何かに夢中になってるフリをしていたら、きっとそのうち何もかも忘れて、本当の元気を取り戻せるんじゃないかって、思ってたから!」
忍は眼鏡の奥に表情を隠しながら、静かに聞いていた。
「フラれたショックって、結構大きいのよね~~。 でも、あの事件があったことで、ちょうど良い感じで乗り越えられたわ。 だから、感謝してる」
夏希は、忍に微笑んだ。
「あたしを巻き込んでくれて、ありがとう!」
忍は小さく息を吐いて、夏希に視線を送った。 切れ長の瞳が、どこか切なそうに揺れた。
「調子が狂うな」
「うん?」
「意外なほど元気だから」
「あははっ! もしかして、慰めようとしてくれてたの? 残念だったわね!」
笑う夏季に、忍は困ったように一度視線を空にやった。
「でも、嬉しい。 刑事さんって、事件の事はちゃんと最後まで責任持つのね。 例え仕事でも、その気持ちはすごく嬉しいわ」
夏希は、腕にあごを乗せたまま、忍を見上げた。
「弁償……する」
「えっ?」
思わず顔を上げた夏希は、吹き出した。
「いいわよ! あんなの、古着屋で千円もしない服だもの。 お気に入りだったのは本当だけど。 だけどほんと、気にしないでいいわよ」
手をパタパタと振りながら笑う夏希に、また困ったように眼鏡を上げ、忍は夏希を見つめた。
「あの時俺は、本当は自信がなかった。 もし怪我でもさせたら、社会の信用も失う。 それだけじゃない。 キミの、俺たちに対する気持ちも踏みにじることになる」
「そんなこと、考えてたの?」
「当たり前だ。 公務員には公務員なりの重圧がある」
「優しいのか、真面目なのか、どっちかしら?」
夏希はキョトンとした顔で首を傾げ、また笑った。
「よく笑うな」
「そう?」
「まだ、無理してるのか?」
「えっ?」
「目が……笑っていない気がするから」
夏希はプイッと顔を背けた。 それを見た忍は、はっと息を飲んだ。 再びステージを見つめる夏希の横顔は、さっきまでとは打って変わって影を作っていた。 しばらく沈黙が続いたあと、夏希がポツリと呟いた。
「無理にでも笑ってないと、ツラいのよ」
腕に顔をうずめる夏希の頭を、ポンと忍の手が撫でた。
「あのアーティストは、誰だ?」
「知らないわ。 ヘタな歌だし!」
「今度は、いつ行くんだ?」
「何が?」
「その、好きなプロレス」
「来月」
「面白いのか?」
「ええ、すごく」
「俺も空けておく」
「えっ?」
夏希は思わず忍を見上げた。 ステージを見つめたまま、忍は淡々と言った。
「どうせ、一人だろ?」
それを聞いて夏希は、プウッと頬を膨らませた。
「悪かったわね! 来月の五日、日曜の夜よ! あなたこそ、無理しなくてもいいんだからね! もう仕事は終わったのよ!」
忍が見下ろす前で夏希は腕を組み、そして笑顔を見せた。
その目尻には涙が光っていたが、それが夏希の本当の笑顔だと、忍には気づいていた。
夏希は忍の口元に微笑みが浮かんでいることに気付き、嬉しそうに見つめた。
新しい風が吹く予感を少しだけ濁すように、エコーの効いたビブラートが会場にこだまし、夏希はとても楽しそうに笑った。
とても楽しそうに、声を上げて笑った。
お付き合いいただき、ありがとうございました♪