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短編No.01-20

No.05 大歩道橋の真ん中で

作者: 藤夜 要

 天王寺駅前の大歩道橋を通るのが、アタシは嫌いや。

 そこでは、ストリート・ミュージシャンとホームレスが我が物顔で公共の場所を占拠している。異臭も漂う夜十時、十七歳のアタシは二十二歳だったアタシの男をドラマティックな演出をして振ってやった。


 パ――……ンッ!


 って、本当に音が反響したんちゃうか、と思った、あの時は。

 だって、広志の頬が腫れ上がっとったもん。そして、アタシの手も、じんじんと痺れる痛みを感じてた。

「こ……んの裏切り者っ! 東京に帰るなんて聞いてへんわっ!」

 こんな情けない(ツラ)した、法的にしか大人になれてへん優柔不断な男に、二年も本気で惚れてたなんて、そんな自分が情けない。

 彼はアタシの強打でひしゃげた眼鏡を無理矢理かけ直して、口の端から血を垂らしながら、ヘラヘラとした笑顔で言い訳をした。

「裏切り、って……。内定した会社の研修が東京っていうだけで――」

 このど阿呆が、この期に及んでまだ言い訳するか?!

「もうええっ! 言い訳すんな! 別れたるから、とっとと帰れ! もう二度とアンタの顔なん、見たぁ無いわっ!」


 美沙絵、話を聞いて、と食い下がる広志にそんな捨て台詞を吐いて、この大歩道橋から走って帰ったのは……え、嘘。もう二年も前の事になるのん?


 ……本当は、後悔してんねん……。

 実際に自分も大学に入って、就活している先輩達の必死さを見て、広志がどんだけ苦労して就職先をゲットしたのか、言うのん、アタシは今頃になって、ようやく知った。


 あれから広志は一度も連絡をして来ない。アタシも意地になって、携帯電話から奴のデータを削除した。奴からの電話を待ってる自分が惨めで、携帯の番号も変えてしもた。

 母さんには「あいつには何にも教えんといて」と頼んでおいた。それを聞いた父さんの嬉しそうな顔ったらもう、むっちゃ腹立つほどでしばき倒したかったわ。

 家を出て、寮に住んで、諸々のデータと一緒に、アタシの脳内データも消そうと努力した。


「何で消えてくれへんねん……」


 小汚い歩道橋の手すりに寄りかかり、ホームレスのおっちゃんに邪魔扱いされながら、アタシは暫し、二年前に広志を殴り飛ばしたその上で、行き交う車のテイルランプを眺めていた。




 (美沙絵、ボクが一人前になったら、一緒に東京に来てくれる?)


 ジリリリリリ――……ッ!

 いつもの夢、いつもの目覚ましのけたたましい音で、今日もアタシの一日が始まる。

 ぼーっとした頭を起こす為に、まずは洗面台に向かって歯を磨く。

 鏡に映るアタシの髪は、あの時衝動的に切ってしまって。広志好みのロングヘアにはまだまだ全然、程遠い。

「う~……まだ、肩すれすれやん」

 一番面倒臭い長さ。

 アタシのこの恋煩いも、一番面倒臭い時期。音信普通になってから、長いような短いような、確固たる別れの言葉をアタシだけ聞いてないが為に、いつまでもこうして引きずってる。

 もしかして、あいつはもう本当に別れたつもりでおるのんかな……?


 いつもの様に、環状線に乗る為、今日もアタシはあの大歩道橋の上を通る。

 ひしゃげた眼鏡を無理矢理かけて、へらへら笑ったあいつの顔を、また立ち止まって思い出す。

 ぼさぼさのセミロングを乱暴に束ね、よれよれのみっともないチェック柄のシャツに穴だらけのジーンズがあいつのトレードマーク。

 そんな風貌の奴を見かける度に、つい正面に回って覗き込んでしまう。

 ひしゃげた眼鏡でもなければ、無精ひげもない、顔立ちの整った他人を確認する前に

「何やねん、この女、きしょっ」

 と、相手の方から先に、あからさまに言われては逆切れしてしまう事もあった。

 逆ナンと勘違いされて「ジョシコーセー?」なんて馴れ馴れしく肩を抱かれ、張り倒して逃げた日もあった。

 ……ちょっと、何か……言葉にしてみたら、えっらいごっつ落ち込んで来た。

 これじゃあアタシ、『いかにも日本橋界隈に湧いてそうなヲタ男に恋して暴走する自分』の解説してるみたいやん。

「タコ広志。早うアタシを探しに来いっちゅーねん」

 独りアホみたいに呟いて、今日もアタシは寄りかかった大歩道橋の手すりから離れて駅へ向かった。


 (美沙絵、ボクが一人前になったら、一緒に東京に来てくれる?)

「うぃ~~……」

 ……飽きもせずに、夢の中にだけは、きっちり毎晩出て来てくれよんねんな、クソ広志……。

 もう、この夢を見た数を数えるのん、ここまで来ると、別れた日からの日にちをカレンダー通りに足した方が早いっちゅーねん。てか、無意味やし。

「……うしっ、今から広志を殴りに行こ」

 あれから、気付けば一〇八四日も経っていた。下手に計算なんかする所為で、年月よりも、夢の回数の方が鮮明に覚えとる。現実よりも、夢ん中での方が、なんぼ広志と会えとるんやっちゅーねん。ふざけろヲタ男。

 アタシは意を決し、ゼミの仲間で唯一アタシを「女優の常盤ちゃんみたい」と言わなかった、東京出身の麓朗(ろくろう)に案内を頼んだ。




 携帯電話の美沙絵のデータのメモ欄に、一〇八四と入力してから上書き保存をして、僕の一日は始まった。ダメ元で今朝も、通話ボタンを押してみる。

 ……やっぱり、今朝も出ない。きっと、着信拒否設定にしてるんだろうな。今朝も電話に出てくれない。

「美沙絵~……ちょっと今回は長過ぎだよ。僕、もうそろそろ限界だよぉ~……」

 今朝も僕は、泣き言から一日が始まった。


 渋谷のスクランブル交差点を渡って、東京本社に向かう最後の朝。大きなスクリーンに映し出された、『Osaka LOVER』を歌う、ドリカムの美和ちゃん。

 ――近そうでまだ遠い大阪

「美和ちゃん……僕の代弁者」

 スクランブル交差点の真ん中で、つい声に出してしまって、通行人に滅茶苦茶怪しげに見られてしまった。

 僕のこんなところに美沙絵も愛想を尽かしてしまったんだろうか?

「遠かったよなぁ、大阪……」

 普段の僕は、とぼとぼと俯きながらスクランブル交差点を渡って会社に向かう。

 傍からみたら、そう変わりないんだろうけど、今日の僕は、ちょっと違う。


 会社のビルの一階のトイレで、鏡に向かって呪文をかける。

 (僕は未来の美沙絵のダンナで、一人前まであと一歩)

 短く切り揃えた髪も、いつの間にかまた少し伸びて、今日は取り敢えずオールバックで誤魔化した。

 今日の辞令を貰って大阪に着いたら、仕事の後で彼女の自宅を訪ねる前に、床屋に最初に寄って行こう。

 今日の僕は、ちょっと違う。やっと一人前になれたんだ。

 ポケットに忍ばせた小さな小箱を、僕はきゅ、と握り締めた。




 辞令を貰って、すぐに大阪へ。二年掛けて貯めたお金の一部を使って、ムーンストーンのリングを買った。

 六月生まれの美沙絵の誕生石。選んだ理由はそれだけじゃなくって。

 ジュエリーショップのお姉さんが言っていたんだ。

「恋人にプレゼントすれば、お互いの絆が深まる、とも言われているんですよ」

 って。

 宝石言葉は『純粋な愛』。美沙絵が僕にくれたものそのものじゃんか。

 平凡で目立たなくて根暗な僕に、最初にバイト先で声を掛けてくれた彼女。僕の一目惚れに気付いてくれて、ある日あの大歩道橋の上で、いきなり裏拳をかまして来た。

『アンタ、言いたい事あるんやったら、はっきり言いやっ! 待ってるこっちが苛々すんねん!』

 僕は彼女の見た目じゃなくて、僕を男にしてくれそうな、ぶきっちょな世話女房っぷりが愛しかった。


 残りの貯金は結婚資金。目標の三百万まで、あと百万円。

 社会人になっても親元から通う、なんて貯金の仕方を、美沙絵が聞いたら怒るだろうな。

 でも、そうでもしないと、早く彼女を迎えにいけないから。

「一緒に東京に、なんて言ったけど、大阪で一緒に、なんて話が変わっちゃったの、美沙絵はまた“約束と違う”って怒るかな……」

 あ、ダメだ……またへたれな僕に戻ってしまう。

 もっとポジティブな事を考えよう。

 散々文句を言われた、だらしの無い恰好しか知らない彼女は、今の僕を見て惚れ直して許してくれるかな。

 電話も出ないし、手紙の返事もくれない美沙絵。今の僕は、強引に出る男気くらいは持ち合わせる男に成長したんだ。

 あ……いかん、恋しくて涙出て来た。こ、コンタクトがずれて痛いっす……!

 僕は慌ててリクライニングを起こし、新大阪に着く前に潤んだ瞳を乾かす為に、洗面台へと走っていった。


 二年振りに、やっと美沙絵に会える。

 僕は、そう信じて疑わなかった。

 だって、知ってるんだもの。

 あいつは『常盤ちゃん似の美人』じゃなくて、普通の不器用な女の子って事。

 見た目に振り回されて理想を押し付けられては傷ついてるのに、それを空手の技をかけて蹴り倒す事でしか表現出来ないぶきっちょさん。そんな彼女が愛しくて。

 きっとでも、彼女らしい美人になってるんだろうな――。

 洗面台の鏡に映る、僕の顔がだらしなくゆるんだ。




 渋谷のスクランブル交差点を、トボトボと渡る。半ば強引に案内を頼んだ麓朗と一緒に。

 アタシってば、よう考えたら広志の実家の電話番号を覚えてへん。広志は有名企業に就職したさかいに、強硬手段でその会社に乗り込んでん。――見事、玉砕。

『野々村、でございますか? 本日付で異動になりましたが』

 個人情報なんたら言うて、個人として訪問したアタシに、広志の連絡先を教えてくれへんかった。ちっくしょう、だから東京女は気取ってて嫌いやっちゅーねん!


 もくもくと湧き上がって来る不安。

 悔しいけれど、東京女は垢抜けた美人が多い。アタシなんか、霞んでまう。立ち去るアタシの背中越しに、受付嬢達が小声で喋っとった会話が、お耳ダンボなアタシにも聞こえた。

『婚約者、って言ってたわよ。本当かしら? 美智子って確か、野々村君をタゲってなかった?』

『そうそう、それに、弥生もこの間一緒に食事の約束こぎつけた、とか言ってたし』

『えー、何、じゃ、野々村君って結構雑食? 可愛い顔して、エグイ事してんじゃん』

 ひ・ろ・し~……っ!!

『美沙絵! 止めろっ! んな事したら、先輩に迷惑掛けるだろ!』

 此処は先輩の勤め先なんだぞ、という麓朗の言葉で我に返った。

 アタシは、ロビーのソファを蹴り上げて、周囲の人をどん退きさせてた……。

『……帰るっ!』

 カツカツとヒールの音を響かせて闊歩するアタシの後ろを、小走りについてくる麓朗の溜息が聞こえた。溜息を吐きたいのはこっちやっちゅーねん。

 でも……。

『麓朗、堪忍。アンタにも恥を掻かせてしもた』

 気にすんな、と肩を抱く麓朗の友情が堪らないくらい有り難かった。




 美沙絵の実家を辞して、トボトボと歩く。取り敢えずは、南海電車に乗って天王寺に出よう。


 最初の内、美沙絵のお母さんは僕が広志だって信じてくれなかった。

『どちらさん?』

 までは、僕のプライドをくすぐった。そのくらい、僕は内外共に一人前に成長出来た、それをお母さんが認めてくれた、なんて思ったから。

 だけどその内、あまりにも信じてくれない事が切なくなって。

『広クンはもっと、引きこもりのニートっぽい、しょぼくれた子やった筈』

 とか言って玄関の扉を閉めようとするんだもの。

 流石にちょっと自信がなくなって来た。

 美沙絵は、僕の基本は好きな筈。その基本まで僕はなくしちゃったんだろうか?

「いや……それならこんなにメソってないか……」

 新今宮のアナウンスの声に従って、ざわめく夜のホームでJR線に乗り換えた。

 美沙絵は、何処にいるんだろう? 僕を一目で見つけてくれるかな……?




 天王寺駅前の大歩道橋の上から、今夜もアタシは行き交う車のテイルランプを眺めてる。

 正直、勝手で悪いと思いつつ、いつまでも隣におる麓朗が超うざい。

「野々村先輩のキャラ考えたらさ、別れたつもりがないんなら、とっくにお前を見つけ出して、許してもらう為に謝り倒してるんじゃね?」

 やかまし、黙れ、どっか行け。今は、広志を思い出させる東京弁は聞きたく、ない。

「美沙絵、もういい加減、潮時じゃね?」

 麓朗はそう言って、アタシの肩を抱いた。――きしょっ! 何かヘンなオーラ漂ってんねんけど?!

「ねえ、俺が何でお前と同じゼミを選んだか、解ってる?」

 人がメンタルブロウ食らうてる隙狙うんか、このえげつない関東星人め……っ。

「知らんわ。アタシ、広志以外はどうでもええもん」

「野々村先輩の何処がいいのよ。シフト一緒だった時さ、いつ見てもどう見ても、お前とは全然釣り合わない奴だったじゃん」

 ――折角の常盤ちゃん似の美人なんだからさ、もうちょっとマシな男と付き合おうよ。


 あ……コイツもアカンわ。友達としては、アタシの中身を見てくれる、いい奴だって信頼してたのに。


 バキャ――ッ!


「せやから、惚れた、とか言いたいん?」

 言い終えた頃には、麓朗は大歩道橋の上で、伸びていた。

 今ではマブダチちっくになったホームレスのおっちゃんに、拍手喝采されてもうた。

「いやもう、横で聞いとって、痒い、痒い。ゆっくり寝られへんかってん」

 ふん、と鼻息を荒くして、聞き耳立ててんなや、とおっちゃんを一瞥してから、アタシは振り返って仰天した。

 大歩道橋の真ん中の、反対側の手すりに寄り掛かり、散々東京で探してた奴が、変貌した姿でこっちを凝視しててんもん……。

 何で奴が広志って解ったか、って……?

 皆が恐怖で敬遠している中、ただ一人頬を赤らめて拍手喝采なんかしとったさかい。

「美沙絵……恰好いい……」




 美沙絵と僕の繋がりを探す。やっぱり最後に行き着くのは、天王寺にある、あの大歩道橋。

 張り飛ばされて告らされたのも、引っ叩かれて最後に喧嘩したのも、あの歩道橋の上だったから。

 不器用な美沙絵の事だから、きっと素直に言えなくて、僕を思いながらあそこで僕が来るのを待ってくれてる筈……だと、思いたい。

「……いないし」

 僕は深い溜息を吐く。手にした小箱を、この上から投げ捨ててしまおうかどうしようか、と、手すりに寄り掛かりながら悩んでいた。

 あれは美沙絵のぶきっちょな文句じゃなくて、本当に別れの言葉だったのかなぁ……。


 僕の本気を早く示したくって、仕事を覚える事を優先したのが間違ってたのかな、と悩み出す。

 でも、男はやっぱ、仕事に誠実なのが一番やろ、と言ってた美沙絵の言葉を信じたい。

 だから、僕は頑張れたんだ。だから大阪本社に転勤も出来た。


 バキャ――ッ!


 その懐かしい殴打の鈍い音に、驚いて僕は振り返る。そこで目にした光景は――。


「せやから、惚れた、とか言いたいん?」

 と、凛々しい姿で仁王立ちする、大人の女性に成長した美沙絵がいた。ふぁさ、と落ちていくフレアスカートから覗く太腿が、何ともまた……色っぽい。

「美沙絵……恰好いい……」

 僕は手にした小箱を落とした事も気付かず、ただ恍惚とした目で彼女を眺めながら、拍手喝采を彼女に送っていた。




「な……にが、恰好いい、やねん……っ!」

 カツカツと歩み寄って来た美沙絵が恋しくて。

 僕も彼女に向かって一歩を踏み出す。

 天王寺駅前の大歩道橋の上で。

「美沙絵――っ!」

「この……クソ広志っ!!」


 やっと出逢えた美沙絵と僕。

 ……普通なら、此処で“ひしっ!”と抱き合うのが、セオリー……だよね……?


 ドカ……っ!


 僕の最愛のぶきっちょな彼女は、未来の夫に踵落としを食らわせた。

「はら……?」

 肩に走る激痛さえも、今の僕には心地よい。

 めげずに倒れず踏み堪え。僕はようやっと、二年間恋焦がれ続けた彼女から、初の唇奪取に成功した。

「――ぶは……っ! ちょ、いきなり何すんねん!」

 そんな文句を言いながら、ほら、やっぱり美沙絵は僕の腕から逃げようとなんか、しない。

「本当は僕の方が強いに決まってるじゃん。美沙絵、二年も強がり過ぎ」

 周囲が「ひゅーっ!」と歓声を飛ばす中、彼女を思い切り抱き締めた。

「ただいま、美沙絵。やっと一人前になって帰って来れたよ。いっぱい待たせてごめんね。やっと仕事を自分の名前で取れたんだ」

 そう言って、改めて結婚の申し込みをしようとした時、初めて小箱を落としてた事に気がついた。

「あ、あれ……指輪……」


 広志……何て相変わらず大ボケな……。

 今の今まで、あんたの恋人が他の男に口説かれてたっつーのに、ジェラる前に拍手喝采かいな。

 あまりの腹立たしさに、つい踵落としを食らわせてしまった。

 でも……今回はこれで、許したる。やっとキスしてくれたから。


 二年振りに会った広志は、めっちゃごっつ男前になっていた。

 それは別に、コンタクトにした事とか、髪と無精ひげを整えて、本来の端正な素顔が見えたからとかでなくって。

 元々のへたれなとこは相変わらず愛しいまんま、自信を付け加えていた、その瞳の強さに惚れ直してしもた。

「あ、あれ……指輪……」

 此処一番の決め所で、やっぱり広志はへたれ野郎や。そんなところがまた愛しくて。

 マブダチになったおっちゃんが、小汚い手で広志のそれを握って小箱を手渡してくれた。

「アホやな、俺。この子に毎日“タコ広志。早うアタシを探しに来いっちゅーねん”なんて聞かされてへんかったら、これ売って一日は凌げたんやけどなぁ~」

 この子に伸ばされるのは怖いさかい、兄ちゃんにちゃんと返したるわ、言うて、おっちゃんは河岸を変える為に立ち去った。




 周囲の目が恥ずかしかったけど、それでも此処に居たかってん。広志との思い出がいっぱいの場所やさかい、どうしても此処におりたかってん。


 周りがアタシ達に注目しなくなった頃、改めて広志が言うてくれた。

「本当はね、もしかしたら、本当に美沙絵に嫌われちゃったのかな、とか思う事、いっぱいあったんだ。電話も出ないし、今日なんか家に行ったら家を出てるなんて言われるし」

 そして、アタシの指にムーンストーンのリングをはめながら、照れ臭そうにこう言うた。

「でも、もし美沙絵に嫌われちゃったとしても、この大歩道橋の真ん中で、もう一度出逢い直せばいいや、って自分に言い聞かせて来てたんだ。何でかな。此処は、絶対美沙絵にとっても、特別な場所だって信じ切ってたんだよな、僕」

 ホームレスやストリート・ミュージシャンに混じって、公共の場を私物化するアタシ達は、いつの間にかまた見世物になっとったみたいやねんけど、その時のアタシらは、そんな事に全然気づいてなくって。

「ぶきっちょで、照れ屋さんで、寂しがり屋の美沙絵が、好き。一緒に東京に来て、って、嘘になっちゃってごめん、だけど、此処で、これからも僕の世話女房してくれますか?」

 彼は、異臭漂う小汚い場所で、相変わらずのへたれシチュエーションでプロポーズをした。

 アタシは体育座りをしたまんま、スカートが汚れるのも気にせずに、お尻をずりずりと彼の方にずり寄せて。ぺったりとくっついて彼に答えた。

「広志はアタシがおらんとすぐ周りの声に流されるさかい、しゃーない、ずっと傍におっといたげる」

 そしたら彼は、人目もはばからずにもう一度“ちゅ”って、してくれた。


 天王寺駅前の大歩道橋を通るのが、今のアタシはめっちゃ好き。

 広志との初めての思い出の場所、初めてのキスの場所、プロポーズの場所、になったから。

 せやから、今日もホームレスのおっちゃんと喋りながら、彼の仕事が終わるのを、此処の手すりにもたれて待つねん。

 大好きな広志を、今日もアタシは待ってんねん。

 この、大阪で一等好きな、異臭漂う小汚い場所で――。

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