道案内
夏の夕方、山は不自然なほど静かだった。
日が沈みきる前の、オレンジ色が濃い時間帯。
ただ、エンジン音とカーナビの合成音声だけが、やけに大きく響いていた。
「目的地まで、残り十二キロです」
その声に、少し苛立ちを覚える。
もう三十分以上、同じような山道を走っている気がするのに、集落らしいものは一向に見えない。
「……本当に合ってるのか、これ」
独り言を言ってみても、返事はない。
電波はとっくに圏外で、スマホは役に立たなかった。
カーナビは、あくまで落ち着いている。
「次の分岐を、左方向です」
従うしかなかった。
ここまで来て引き返す勇気もない。
左に曲がった途端、道は急に細くなった。
アスファルトはひび割れ、ところどころ雑草が顔を出している。
まるで、もう誰も使っていない道みたいだった。
少し進むと、道の脇に石造りの地蔵が現れた。
よくある道祖神だと思ったが、なぜか視線が離れない。
赤い前掛けは色あせ、苔がこびりついている。
その横には、黒ずんだ石碑。
近づいて見てみると、「慰霊碑」と刻まれていた。
「……中津村之碑」
嫌な言葉だった。
そういえば、このあたりにはダムがあると聞いたことがある。
昔、村ごと沈められた場所がある、と。
背中に、じっとり汗が滲んだ。
そのとき、カーナビがまた喋った。
「次の交差点を、直進です」
交差点など見当たらない。
あるのは、細い道がそのまま山の奥へ続いているだけだった。
なのに、不思議と「誰かに案内されている」ような感覚があった。
視線の先、道の向こうに、見えない何かが立っている気がして。
気配だけが、確かにそこにあった。
道は突然、開けた。
山を抜けた先に、巨大なダム湖が広がっていた。
夕焼けを映した水面は、やけに静かで、動きがない。
風が吹いているのに、波一つ立っていなかった。
「……こんなところに」
思わず車から降りて、周囲を見渡す。
本来なら立入禁止区域のはずだが、ゲートも看板も見当たらない。
湖の縁には、石段があった。
水の中へ続いている。
そして、その石段の横に、また慰霊碑。
今度は文字がはっきり読めた。
――中津村 水没者慰霊碑
村の名前には、見覚えがあった。
子どもの頃、今は亡き祖父が昔話のように語っていた村だ。
「ダムができてな、全部沈んだんだ。家も、人も」
人も。
胸の奥が、ざわつく。
ふと、車内で音がした。
スマホだ。
圏外だったはずなのに、着信が表示されている。
発信者は「非通知」。
嫌な予感を抱えつつ、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
返事はない。
代わりに聞こえてきたのは、
――ごぽ……ごぽごぽ………
水の中で何かが動くような音。
泡が弾けるような、不規則な響き。
「もしもし!? 誰ですか!」
声を張り上げても、音は止まらない。
ごぽ、ごぽ、と、確実に近づいてくる。
恐怖に耐えきれず、電話を切った。
その瞬間、カーナビが低い声で告げた。
「目的地に、到着しました」
「……は?」
目的地?
設定した覚えなんてない。
画面を見ると、行き先の名前が表示されていた。
――伊藤 浩太
一瞬、意味が分からなかった。
なぜ、自分の名前が目的地になる?
背後で、何かが動いた気がした。
振り返っても、誰もいない。
なのに、確かにいる。
水面の向こう、沈んだ村の方から、こちらを見ている懐かしい気配。
地蔵の視線が、こちらを向いているような錯覚。
カーナビが、もう一度言った。
「安全のため、速やかに進んでください」
進む?
どこへ?
視線は、湖の中へ伸びる石段に、吸い寄せられていた。
エンジンをかけたのは、自分の意思だったのか分からない。
気づけば、車はゆっくりと前に進んでいた。
アスファルトは、いつの間にか消えている。
タイヤの下から、水音がした。
ごぽ……ごぽごぽ……
あの電話の音と同じだった。
「やめろ……」
ブレーキを踏んでも、車は止まらない。
まるで、道が最初から水の中に続いているかのように。
フロントガラスの向こう、水面が近づく。
夕焼けが歪み、沈んでいく。
そのとき、ようやく理解した。
この道は、人を外へ案内する道じゃない。
水没した村へ、戻すための道案内だ。
地蔵も、慰霊碑も、カーナビも。
全部、迷った人を連れ帰るためにある。
ダムの底には、村があった。
家があり、道があり、名前を持った人間がいた。
――祖父が、その村の元住民だったことを思い出した。
なぜ自分の名前が目的地だったのか。
それは、すでに登録されていたからだ。
最後に、カーナビの音声が優しくなった。
「おかえり、浩太」
車内に、水が流れ込む。
ごぽごぽという音が、はっきりと聞こえる。
誰もいないはずの後部座席で、
祖父が、ほっと息をついた気配がした。




