エピソード3:影の圧力
「ゴフッ……!」
カイが視線を落とすと、そこには巨大な血塗れの角が、自分の腹を突き破って生えていた。
力が抜け、弱々しく首を巡らせる。背後に立っていたのは「猛牛」のリクだった。黒い体毛を逆立て、荒い鼻息を吐いている。
この野獣は煉瓦の壁を――そしてオオカミ師匠が印刷した光沢紙のポスターごと――突き破り、カイをケバブのように串刺しにしたのだ。
「見つけたぞ、ゼロ」
カイは叫ぼうとした。だが、込み上げてくる血が喉を詰まらせる。
「あ、ああああああああっ!!!!!」
ガシャアアアン!!
「どこだ! どこにいやがる!!」
カイの父親が金属バットを振り回しながら、バーサーカーのごとき形相で寝室に飛び込んできた。パニック状態で机の上のコミックをなぎ倒す。
カイはベッドの上で飛び起き、胸を鷲掴みにした。 角はない。血も流れていない。あるのは、パジャマをぐっしょりと濡らす冷や汗だけだ。
「……夢?」
父親はバットを下ろした。その表情は恐怖から、瞬く間に激怒へと変わっていく。
「朝の7時からなんだその悲鳴は! 起きろアラシ! お前は外出禁止だ。学校も遅刻だぞ。これ以上妙な声を上げたら、そのベッドを売り払ってやるからな!」
肺が焼けつくような痛みを覚えながら、カイはなんとか校門までたどり着いた。 足を止め、息を整える。安堵感が胸に広がる。着いた。ここは学校だ。ここなら安全だ。
「あれ……アラシじゃないか?」
電柱の周りに人だかりができていた。 そこにあったのは、巨大な光沢紙のポスターだ。泥を食む猛牛リクと、その手前で拳を突き出すカイが写っている。 オオカミの汚い手書き文字で、こうキャプションが添えられていた。
『ゼロからヒーローへ:牛殺しの参上』
「嘘だろ、合成写真じゃん」 「でも顔を見てみろよ。数学の授業で指された時と同じ、あの情けない顔だぜ!」
カイは誰にも見つからないように俯き、正門をすり抜けようとした。 だが、即座に見つかった。
「訂正してくれよ、ゼロ・カイ。ゴミ拾い係ってのは街を綺麗にするのが仕事だろ? なんだこのクソみたいなゴミは」
アメフト部のキャプテンとその取り巻きたちが立ちはだかり、入り口を完全に塞いだ。 悪夢のパニックが蘇り、心臓が早鐘を打つ。
「中に入れてくれよ」カイは懇願した。「殴るなら中でいいからさ」
「どうしてそんなに卑屈なんだ、ゼロ・カイ? 人生を諦めたのか? だとしたら、我が校にお前を入れるわけにはいかないな。ここは勝者のための場所だ。お前のような敗者はドブの中に――」
キキィィィッ!!
高性能タイヤがアスファルトを削る音が、嘲笑を切り裂いた。 黄金の紋章が入った漆黒のセダンが、カーブを描いて歩道に乗り上げたのだ。その紋章は――『セイシン評議会』。
いじめっ子たちが凍りつく。 ドアが開き、磨き上げられた白いブーツが砂利を踏みしめる。
アヤメ・アラシ。 彼女は学校の制服を着ていなかった。評議会役員だけが着用を許される、白い詰襟の軍服に身を包んでいる。
「下がりなさい。全員よ」
鋭い言葉だった。 その場の空気が突然重くなった。物理的な重量を持ったかのようなその威圧感に、いじめっ子たちは悲鳴を上げ、もつれる足で後ずさりした。
「アヤメ……姉さん?」
カイが姉に会うのは一年ぶりだった。 「どうしてここに?」
彼女はコツ、コツとハンマーのような足音を響かせながら歩み寄り、電柱のポスターを乱暴に剥がし取った。
「評議会にも報告がいっているわ。彼らはこういう冗談を好まないの、カイ」
背後で生徒たちが囁き合う。 『あれがアイツの姉貴か?』『評議会の役員だって?』『ヤバいじゃん……』
「特にリク大尉はご立腹よ。私を派遣したのが彼で運がよかったわね。今日中にこのポスターをすべて撤去しなさい。いいわね?」
カイは口を開いた。そして、周囲の誰もが驚く言葉を口にした。
「……嫌だ。撤去なんてしない」
「なんですって?」
「今朝目が覚めた時、僕は死ぬほど怖かった。リクに殺される悪夢を見たんだ。ここなら安全だと思って、必死に走って学校まで来た。でも、ここにも僕の人生を惨めにする連中が待ち構えていただけだった」
カイは顔を上げ、姉を見据えた。
「姉さんには分からないよ。姉さんは人気者で、この学校の伝説的な優等生で、今は評議会の一員だ。でも僕には何がある? 何もない。友達もいない。誰も僕を信じてくれない。……だけど、どういうわけか僕は『ワイルドカード』を手に入れたんだ。これは、僕が何かを成し遂げるための、たった一度きりのチャンスなんだ。だから僕は勝つ」
それはカイがこれまでの人生で語った、一番長いセリフだった。表情は暗いままだったが、体の奥底から何かが湧き上がってくるのを感じていた。
だが、アヤメは冷淡だった。
「トライアルは遊びじゃないのよ、馬鹿者。あそこは危険な場所なの。毎年死人が出ているのを知らないの?」
「関係ない――」
「馬鹿なことを言わないで!」
アヤメが一喝した瞬間、カイは見えない巨人に胸を圧迫されたように息ができなくなった。
「ラッキーパンチが一発当たっただけで、戦士になったつもり? 本当にあちら側の世界に入りたいなら、私に見せてみなさい。私を納得させてみなさい」
彼女の瞳が青く輝く。津波のような重圧がカイに襲いかかった。
『お前は弱い。お前は敗者だ。お前は無だ』
頭の中に声が直接響く。その言葉はあまりに重く、骨がきしむほどだった。カイは膝をつき、喘いだ。
「アヤメ……やめ、て……」
彼女は慈悲のかけらもない瞳で見下ろすと、ふっと圧力を消し、車へと踵を返した。
「勘違いしないで、弟よ。これはあなたを愛しているから言っているの。セイシン・トライアルには近づくな。ゼロに居場所なんてないのよ」
昼休み。カイはトイレの個室に鍵をかけ、冷たい水で頭を冷やしていた。鏡を見つめながら、アヤメの言葉で重くなった手足の感覚を振り払おうとする。
「あんな酷い姉さん、初めて見た。しかも全校生徒の前で……。一体どうしちゃったんだよ。それに、あれは何だったんだ? アリーナでオオカミやリクが対峙した時と同じ空気だった。息ができなかった。……本当に、僕の味方は誰もいないのか?」
宇宙というものは、こういう実存的な瞬間にこそメッセージを送ってくるものだ。
ブゥゥゥゥン……
一匹の蚊が、力なくカイの肩に止まった。
「あー……すみません。今、実存的な瞬間に浸ってるんですけど」
蚊はカイを無視して両手をこすり合わせると、刺すべきかどうか品定めするかのように体を這い回り始めた。
「虫にすら興味を持たれないほど、僕はゼロなのか? ……いや、待てよ」
カイは先日、オオカミが父親から身を隠した時のことを思い出した。
『見られたくないという意志が、見ようとする意志を上回る時――人は消える』
「集中すれば、僕だって気配を消せるかもしれない。なんたって、ゼロが無になるなんて簡単だろ?」
カイは目を閉じた。 透明になれ。ゼロになれ。無になれ。
チクッ!
「痛っ!」
カイは額を叩いた。だが蚊は悠々と勝利の旋回を続けている。
ブゥゥゥン
「馬鹿にしやがって……!」
ドンドンドン!
ドアが激しくノックされた。
「おい開けろ! クソしたいんだよ!」
カイは凍りついた。「ご、ごめん、ちょっと待って」
「ああん? その声、ゼロ・カイか? お前が探してる人生なら、とっくの昔に水に流れて消えちまったぞ」
外で笑い声がした。 カイは鏡を見た。額の真ん中を刺されている。必死にこすり、水をかけて冷やすと……腫れは十倍に膨れ上がった。
「うわ、最悪だ! こんな顔で外に出られないよ。こんなの見られたら一生笑い者にされる。『ゼロ・カイが虫に負けた!』『ゼロ・カイがユニコーンになった!』って!」
彼は便器の上に駆け上がり、開いた窓から強引に体を押し出して脱出した。 振り返りもせず、ただ走った。 行く場所は一つしかない。 鉱山だ。
カイはフードを目深に被り、通りを急いだ。
「オオカミ師匠、助けてください」
「学校はどうした? ワシは忙しいんだがな」
「冗談じゃないですよ! 師匠のふざけたポスターのせいで人生めちゃくちゃだ。どこに行ってもリクに殺される気がする。夢にまで出てくるんですよ! 気のせいだなんて言わないでくださいね、評議会から『ポスターを消せ、さもなくば』って警告されたんですから」
「さもなくば?」
「さもなくば、リク――リク大尉が僕を引き裂きに来る! 姉さんが学校に来て大騒ぎになったんです。僕は笑い者ですよ」
「ほう、姉ちゃんは評議会の人間か……面白い。で、その額のタンコブも姉ちゃんにやられたのか?」
「え……まあ、はい」 カイは視線を地面に落とした。
「あんな姉さん、初めて見ました。酷かった。『お前は何者でもない、ただのゼロだ』って。そう言われた瞬間、世界が凍りついたみたいになって、自分がどれだけ敗者なのかを思い知らされた気がした。……だから、僕は消えたいんです。あの画廊で師匠がやったみたいに。透明になれば、評議会にも見つからないし、リクにも殺されない。世界中が僕のことなんて忘れてくれる。教えてください。お願いします」
オオカミはカイに歩み寄り、額の腫れ物をじろりと見た。 「ふぅむ、それがお前の言い分か?」
カイは頷いた。
「なら、お前の姉ちゃんはずいぶん小さな手をしてるんだな! ガハハハハ!」
カイは歯を食い縛り、怒って立ち去ろうとした――その時、足元の地面が揺れた。
ゴゴゴゴゴ……
「冗談じゃよ、小僧。姉ちゃんにお前の内面に入り込まれただけだ。だが『投影系』相手じゃ仕方あるまい」
「投影系?」
オオカミの顔から、珍しく真剣さが覗いた。
「『意志の四柱』というものがある。投影、防御、強化、そして操作。どのカテゴリーに属するかで、意志の発現方法は変わるんじゃ」
オオカミは続けた。
「ワシのような『強化系』はパンチの威力を増したり、小さな振動を地震に変えたりできる。お前の姉のような『投影系』は、自分のイメージを世界に押し付け、世界がそれに同意するよう強制する。心の準備ができてなけりゃ、精神をかき乱されるのも当然だ」
「じゃあ、僕は? 僕は何系なんですか?」
「普通は適性テストを受けるんだが……リクをKOしたあの一撃を見る限り、お前は古き良き『強化系』で間違いないだろうな」
オオカミは尖った小石を拾うと、岩壁に円を描いた。
「いいか、強化系ってのは困難に出会った時、隠れたりしない。正面からぶっ壊すんだ」
ドカンッ!!
オオカミが軽く腕を振るっただけで、岩肌に直径1メートル以上のクレーターが穿たれた。 カイはぽかんと口を開けた。「そ、そんな……」
オオカミは手の埃を払い、別の場所に円を描いた。
「セイシン・トライアルは金曜に始まる。不可能を可能にするまで、あと三日だ」
ガィィィン!!
ツルハシが黒曜石の壁に弾かれ、衝撃がカイの腕を走った。
「くそっ!」
オオカミは新聞から目を離さずに言った。 「強く叩こうとしても無駄だぞ。これは筋肉や技術の問題じゃない。意志の問題だ」
カイはツルハシを振り回した。「さっきからそればっかり! どういう意味か全然分からないですよ!」
「火事場の馬鹿力って知ってるか? お婆ちゃんが車の下敷きになった孫を助けるために、車を持ち上げたって話だ。その婆さんがジム帰りのボディービルダーだったと思うか? トヨタ車をベンチプレスして鍛えてたと思うか?」
「思いません」
「じゃあ、どうやった?」
「分かりませんよ。そうするしかなかった、とか?」
「違う。選択肢は二つあった。『持ち上げる』か『持ち上げない』かだ。だが『自由な選択』と『自由意志』は違う。その瞬間、婆さんはそれを純粋な意志の問題にしたんだ」
オオカミは足元の小石を拾い上げ、指先だけで粉々に砕いてみせた。
「拳を握る時、お前は拳に『握らない』という選択肢を与えないだろう? それと同じだ。叩く時、岩に選択肢を与えるな。いいか小僧、岩に頼むんじゃない。命令しろ」
翌朝。 カイの手のひらはズタズタに裂けていた。血を流し、疲れ果て、坑道の壁にぐったりと寄りかかっている。
グゥゥゥ……
オオカミは坑道の入り口で大の字になり、顔に新聞紙を乗せてイビキをかいていた。
「……よくあの騒音の中で寝られるな。ああ、そうかよ。『寝たいという意志』が『起きていたい意志』より強いってか……笑わせるな。岩に命令したくらいで壊れるわけ――」
『もちろん壊れないわ。あなたには何もできないもの』
突然、声が響いた。 カイはツルハシを掴み、慌てて立ち上がった。「誰だ?」
『怪我をする前にそれを置きなさい。自分がどれだけ不器用か知ってるでしょう? 12歳になるまで、パパに矯正箸を使わせてもらっていたくせに』
「アヤメ?」
闇の中から姉が姿を現した。評議会の軍服を身に纏い、青く光る瞳で彼を見下ろしている。
『トライアルには近づくなと言ったはずよ、カイ。ここで何をしているの? 強くなろうとしている? 笑わせないで。ただ自分を騙しているだけよ。ゼロからイチへの距離は無限だって、まだ学んでいないの?』
ゴフッ。
カイの手からツルハシが落ちた。視線を落とす。巨大な血塗れの角が、自分の腹を貫通していた。
悪夢と同じだ。背後には「猛牛」リクが立っていた。黒い毛を逆立て、唸り声を上げながら角を引き抜く。カイはその場に崩れ落ち、胃液を吐いた。
「見事です、伍長。慈悲がない。貴官の意志は実に強固だ」
アヤメは冷ややかに微笑んだ。
「買いかぶりですよ、大尉。結局のところ――あの子は一度だって、私の弟ではありませんでしたから」
二人はカイを見下ろし、高笑いした。 カイの頬を涙が伝う。
「姉さんはいつもそうやって僕を虐める……。一生姉さんの影で生きてきただけじゃ足りないのか? 才能も、友達も、父さんの愛も、全部姉さんが持っていたのに。今になっても、僕を弟だと認めてくれないなんて……」
リクが巨大な蹄を振り上げ、カイを踏み潰そうとした。
「……もう、たくさんだ。僕はもうゼロじゃない。お前を倒す!!」
その瞬間、カイの恐怖は消え失せ、白熱した怒りへと変わった。 カイの拳が握りしめられる。
「キエェェェェェッ!!」
ズドォォォォン!!
世界が暗転した。
「……おい小僧? おい!」
カイは目を開けた。辺りには灰色の粉塵が立ち込めている。 オオカミが彼を見下ろし、コートの汚れを払っていた。 「一体どうしたってんだ? ワシが寝てるとこに――ああん?」
オオカミはカイの背後の壁を凝視した。
粉塵が晴れると、そこから月明かりが差し込んでいた。 かつて黒曜石の壁があった場所には、何もなかった。 扉二つ分ほどの大きさの穴が、山を綺麗に貫通し、向こう側の夜空を晒していたのだ。
「見ろ、小僧。立派な強化系になりそうじゃないか。ガハハ!」
オオカミは笑ったが、その目は笑っていなかった。 (岩を壊したんじゃない……コイツは岩を『殺そう』としたんだ)
カイは震える拳を見つめた。拳の皮は剥けているが、鋼鉄よりも強く感じられた。
「僕が……これを?」
「ああ。しかもトライアル開始まで、まだ丸二日もある」
カイは目を剥いた。「あと二日しかないの!?」




