No will
スプリット・マウンテン・シティ。
そびえ立つ山の黒い岩肌を削って築かれた街。その頂は、まるで神々に両断されたかのように鋭く真っ二つに割れている。
ここに暮らす人々は、鉱夫であり、商人であり、そして戦士だ。
だが今日、街中が騒いでいたのはたった一つの話題――
セイシン試験。
三年に一度開催されるその試験は、神童も、兵士も、狂人でさえ、自らの「意思」を試す場。
この究極の意志の試練を突破する者には、想像を超えた名声と機会が与えられる。
失敗すれば忘れ去られる――あるいは、それ以上に酷い結末が待つ。
ほとんどは一回戦すら突破できない。帰ってこない者も多い。
十七歳の嵐カイは、そんなことを一切考えていなかった。
彼が考えていたのは、自分の人生がどれほど最悪か、ということだけだ。
ギイイイイ――。
笛が、死にかけの動物みたいな悲鳴を上げる。
カイが笛を下ろすと、クラスメイトの笑い声が爆発し、彼の顔は真っ赤になった。
「ゼロ・カイ、またやらかしたぜ!」
教師でさえ、深くため息をつく。
「座れ、嵐。ただ……座れ」
***
数学も、やはりダメだった。
二十三パーセント。
答案用紙の大きな赤丸は、まるで的のようだ。
「おい、ゼロ・カイ! 全部勘で答えたんだろ?」
ハイエナのような笑い声と共に、答案は教室を回っていく。
教師は首を振った。
(勘でも、統計的にはもう少し取れるはずだが……)
***
体育はストレス発散のチャンス――のはずだったが、ひと押しでカイはマットに沈んだ。
「少しくらい抵抗しろよ?」
またしても、あのコールが湧き上がる。
「ゼロ・カイ! ゼロ・カイ!」
カイはうつ伏せのまま、頬をマットに押しつけて動けない。
(床まで俺にガッカリしてる気がする……)
***
昼休み。
ロッカーを探っていたカイは、不意の突き飛ばしで弾き飛ばされた。
スケッチブック、しぼんだサッカーボール、ハーモニカ、未開封のプラモデル――持ち物が床にぶちまけられる。
不良たちは散らかった物を物色しながら笑った。
「なんだよこれ、ガラクタ屋か?」
「見ろよあいつ――音楽、スポーツ、美術、なんでも手を出して全部失敗。諦めろよ、ゼロ・カイ」
カイは必死に拾い集める。
「ただ……ただ、何が得意か、まだ見つかってないだけだ」
一番背の高い不良がニヤついた。
「違うだろ、ゼロ・カイ。お前は世界一だよ――失敗のな」
笑い声を残して連中は去っていき、散らばった荷物の前でカイはしゃがみ込む。
(あいつらの言う通りかもしれない……本当に俺は何もかもダメだ……)
足はいつの間にか、学校のトロフィーケースの前で止まっていた。
金色のカップ、磨かれたメダル、額入りの新聞記事。
『嵐アヤメ、全国新記録樹立!』
ガラス越しに、姉の笑顔がこちらを見ている。学校史上最高の生徒――家の才能を全部持っていって、自分には何も残らなかったみたいだ、とカイが感じることもある。
立ち尽くすカイの横を生徒たちが通り過ぎ、憧れ混じりに囁く。
「アヤメって本当にすごかったよな。セイシン試験にも出たし!」
「あれが弟? 信じられない!」
「マジ? 嘘だろ!」
カイは拳を握った。ガラスに映る自分は、姉の隣でひどく小さく見える。
脳裏で、父の落胆した声がよみがえる。
『アヤメにはウィルがある。お前には……ない』
カイは奥歯を噛みしめた。
「違う! 俺にだってウィルはある。いつか絶対、すごい奴になる」
「へえ? で、何で“すごい”んだ、ゼロ・カイ?」
自分が口に出していたことに気づかないまま、胸が高鳴り、笑っている生徒たちに振り向き、気づけば叫んでいた――
「俺は勝つ!」
廊下が静まり返る。
掲示板のポスターが、風にぱたぱたと揺れ、皆の視線がそこに集まった。
――優勝
――賞金十万円+セイシン試験ワイルドカード出場権
――三分間耐え抜け! 相手は“ブル”のリク!
セイシン試験への参加は本来、選りすぐりの精鋭のみ。セイシン委員会が、全国の王者、戦功の英雄、天才たちの中から手ずから選ぶ。
だが盛り上げのため、誰にでも狙えるワイルドカード枠が常に二つだけ用意されていた。
もちろん、その獲得条件は悪名高く難しい。地下闘技も、その中でも最も危険な部類だ。
そして、学校史上最大の落ちこぼれ・嵐カイがそれに挑むと宣言したのだから、周囲の懐疑は正しく当然だった。
「ブルに八つ裂きにされるぞ」
「体育すら勝てないくせに!」
爆笑が弾け、カイの顔は真っ赤になる。
だが――同級生に認められる唯一の方法が“不可能をやってのけること”なら、やるしかない。カイはそう決めた。
***
「お前が? 論外だ。帰りな、坊主」
カイは受付の机に両手を押しつけ、身を乗り出す。
「お願いします。チャンスをください。ワイルドカードを取りたいんです」
帳簿を抱えた大柄な主催者は、鼻をほじりながら言った。
「ダメだ。ルールはルール」
「違うんです、聞いてください……」
カイは“ノー”で引き下がる性格ではなかった。何をやっても盛大に失敗してきたくせに、次こそは上手くいく、といつも言い張る。
だが焚き火から焚き火へとはねる小さな火花のように、長く留まって大きく燃え上がる前に、すぐ別のものへ移ってしまう。
当然、父も教師たちもカイの虚勢にうんざりし、「一つに腰を据えてやり抜け」と言い続けてきた。
それでもなぜか、カイはいつも自分の望みを人に信じさせてしまうのだ。
「やらせて、ください」
主催者のペンが空中で止まった。瞳孔がわずかに開き、何かの流れに呑まれたように。
「……分かった。出場を認める。ただし、後悔するなよ」
カイは瞬きをしてから、ぱっと笑顔になる。
「本当ですか? ありがとうございます! 絶対に後悔させません!」
カイが駆け出すと、主催者はこめかみを押さえた。
「待て……俺はなぜ今、頷いた?」
未成年は参加不可――それは厳格な規則である。にもかかわらず、なぜかサインアップ欄に「嵐カイ」の名が書かれている。
(しかも俺の字で……?)
理解できない。ペンをカチリと鳴らし、線で消そうとした――が、手が止まった。
あの少年の目の光。あの必死さは、確かに心を打った。だが今はそれとは別に、何か形のある力が義務を妨げているように感じる。
震える自分の手を見つめる。まるで誰かが物理的に引き戻しているみたいだ……。
――――――――
「見たか? あのガキ、リクに挑戦申し込んだぞ。死にたいのか?」
「シーッ! 黙ってろ。他のやつにバレたら困る」
「は? なんでだよ」
「黙ってりゃオッズが美味しくなるかもしれねえだろ」
「おお、いいじゃねえか! あんなガキ、リクの顔見りゃ生きる気力も失うさ」
二人の賭け屋がにやける。
「ウィルだと? お前たちに何が分かる」
声をかけたのは、傍目にはひ弱で耄碌した老人にしか見えない男。残念ながら、この二人には目も口も鍛えが足りなかった。
「うるせえジジイ」
「杖持ってとっとと失せろ。さもないとその杖をケツに――」
ゴゴゴ……。
闘技場の床が震え、無作法な賭け屋二人は尻もちをついた。
スプリット・マウンテン・シティでは地震は珍しくない――が、老人が殴られる寸前に都合よく揺れるとは、ずいぶん運が良すぎる。
老人は杖で床を軽く叩き、転がる男たちをまたいで歩きながら、口の端を歪めた。彼もまた、先ほどからカイを見ていたのだ。
「ふむ、面白いガキだ。こんな場所にウィル使いとはな。リクはどう出る? 今年は少し稼げるかもしれん……」
老人はにやりと笑った。
***
パート2
***
観客席に、男の体が叩きつけられ、闘技場が揺れた。
「またしてもノックアウト!」
アナウンサーがマイクに向かって吠え、観客を煽る。
「偉大なる“ブル”――リクを飼い慣らせる者は他にいないのか!」
角を持つ獣がリングで咆哮する。
無数の傷と筋肉の山。その恐るべき“獣”は、すでに挑戦者の列をなぎ倒している。生き残ってこそ手に入るセイシンのワイルドカード――それも納得だ。
“ブル”は地面を蹄で掻き、頭を振って次の挑戦者を呼び込む。
「次はお前だ。汚すんじゃねえぞ」
アナウンサーに押し出され、カイはリングへ。
「ま、まちがえた……絶対、まちがえた――」
カイの口は黒い穴のように開いたまま。背後では鋼鉄のゲートが無慈悲に閉ざされる。
観客の輪は、飢えた狼の群れのように遠吠えを上げる。
「孤児院に在庫があったみてえだな!」
「二十で賭けるぜ、ビビって漏らす」
汗、酒、揚げ物の匂いが充満する。
リングの上には熱い照明、周囲は鋼のフェンス――逃げ道はない。
カイは息を呑んだ。“獣”の狂気じみた目が、自分にロックオンする。
「嵐カイ、三分間だ。幸運を祈る!」
ブザーが鳴り、リング上方のデジタル表示がカウントダウンを始める。
ドガッ!!
カイは突然、叩き潰された虫みたいに床に張りついた。
(俺……気絶した?)
(いや、きっと掲示板が落ちてきたんだ。体が全然動かない)
そうであってほしかった。恐怖で気絶したなんて、あまりに恥ずかしい。
だが、どちらにせよ“野獣に引き裂かれる”よりはマシだ――
不幸なことに、今まさにそれが起きているのだが。
「や、やだやだやだ――」
バシィッ!
世界が回転し、胃がひっくり返る。
ドンッ!
体が床にめり込み、唇から血が飛ぶ。
観客が罵声を浴びせる。
「起きろよクソガキ! お前に賭けたんだぞ!」
カイはよろめきながら立ち上がる。全身が恐怖とアドレナリンで震えている。
鋼鉄のフェンスへ駆け寄り、必死に乗り越えようとする――だが群衆に押し戻され、再びリングの中へ。
ドスン、ドスン、ドスン――
“獣”の蹄が鳴り、カイはリングを横断するようにぶっ飛ばされた。
地面に投げ出され、血を吐き、苦鳴が漏れる。
「出してくれ!」
だが“獣”は容赦なく突っ込んでくる。
すでに何度も打ち据えられ、カイの体力は残りわずか。
膝をつきながら、かろうじて角を顔面に受けるのだけは避ける。
「やるじゃねえか、坊主!」
「そのまま耐えろ!」
(え、応援してる……?)
カイは額の血を拭った。上を見れば、残り六十秒。
(そうか。賭けかけてるからか……)
関係ない。肺は焼けるように痛み、体はボロボロだ。
体育の授業と同じで、立ち上がる意味はほとんどない――
実際、立ち上がった瞬間、またも“獣”に叩きつけられる。
ミシッ――。
鋼鉄フェンスに背中を叩きつけられ、カイはずるずると崩れ落ちた。
「立て、坊主!」
「もう一度だ!」
(本当は、そんな声にふさわしい自分でいたかった。俺だって、得意なものを見つけたかった)
「立てや、クソガキ!」
タトゥーだらけの男がフェンス越しにカイの髪を掴み、引きずり起こす。さらに二人が両腕をつかみ、カイの体を固定した。
立っている限り、試合は終わらない。
腫れた瞼の隙間から、筋骨隆々の“ブル”がリングの端から突進してくるのが見える。
「……もう、“ゼロ・カイ”でいたくない」
涙がにじむ。
クラスの嘲笑。
父の失望。
そして、命に満ち、必ず成功すると信じているような――姉の顔。
「“ゼロ・カイ”でいたくない……」
もう、敗者のままでは終われない。
このリングを障害者として去るくらいなら、もっと最悪だ。
ドスン、ドスン、ドスン――。
リク=“ブル”が迫る。角を腹めがけて。
カイの体は震えている。だが、目は逸らさない。
(たしかに、俺は全部ヘタかもしれない。ウィルだって、ないのかもしれない。だけど今だけは……一度でいい、俺は――)
カイの目が閃き、足元で砂塵が巻いた。
「キエ――ッ!」
***
「おい、今、何が起きた?」
耳に残る自分の叫びが消えたとき、カイは“獣”が床に転がっているのを見た。
分厚い舌がだらりと垂れ、動かない。
先ほどカイを押さえつけていたタトゥーの男が、呆然と見つめている。
観客も全員、同じだ。
「茶番かよ?」
「クサいな。カネをだまし取る気か」
「返金しろ!」
カイは震える自分の拳と、気絶した“獣”、そしてゼロになったデジタル時計を交互に見た。
「……勝った?」
アナウンサーも同様に混乱していたが、目の前の光景が全てを物語っている。
彼はカイの勝利を宣言するしかなかった。
闘技場が沸騰する。
「イカサマだ!」
「詐欺師ども!」
怒れる群衆が鋼鉄フェンスを乗り越え、四方から押し寄せる。
逃げたい――だが体は震え、動かなかった。ショックで足がすくんでいる。
「その少年に触れた者がいたら、わしがこの手で終わらせる」
強い声が、場の空気を一瞬で支配した。
皆の視線が向かう先、ロビーで見かけたあの老人が群衆の中を歩いてくる。
杖が床をコツ、コツと叩く。
「なんだと、ジジイ」
「この試合は仕組まれてたんだ、金を巻き上げられた!」
「黙れ、愚か者ども! あの方は大上蓮司師範だ!」
三人目の観客のこの一言が、結果的に数十人の命を救ったのかもしれない。
“山砕き(マウンテン・ブレイカー)”――岩を割る一撃を編み出したとされる伝説の武術家、その人である。
「失望は理解できる。賭けて、負けたのだ。だが“不正”だと叫ぶ者には、反対の保証を与えよう」
大上はカイと群衆の間に立ち、ポケットから札束を取り出した。
「損を取り返したいだと? ならばこう言う――くそくらえだ!」
静寂。
そこへ、さきほどのタトゥー男が一歩前へ出る。
「爺さんが誰だろうと関係ねえ。金を返せ」
「俺もだ!」
四人が群衆から飛び出し、拳を振り上げ――
コツン。
杖が床を打つ音が、異様に大きく響いた。
カイの位置からは老人の顔は見えない。ただ、四人の男の顔に刻まれた恐怖だけが見える――全員が石像のように固まっていた。
空気が重く、胸を押し潰す。
荒い息すら奪われる。周囲の男たちも同じ圧に押し潰されているようだ。
「な、何が……起きてる……」
タトゥー男の声は絞り出すように細い。
コツン。
ゴゴゴ……。
杖が再び床を打ち、激しい揺れが走った。
四人は――そして他の者たちも――まとめて床に薙ぎ倒される。
「地震だ!」
「逃げろ!」
老人は口角を上げる――
「もういい、オオカミ(大上)」
先ほどまでの恐怖が十分に酷かったとすれば、次の瞬間、群衆の顔は千倍ひどいものになった。
カイもすぐに理由を理解する。視線の先で、“獣”が立ち上がっていたのだ。
まず四つ足に。それから、ゆっくりと二本足で直立する。
(……化け物)
その男は、どんなボディビルダーよりも筋肉が肥大し、上腕と胸は硬い索のように盛り上がり、全身を覆う黒い体毛は獣皮よりもなお粗い。
カイが今まで見た中で、もっとも恐ろしい“男”。
「何してやがる、オオカミ」
声すら獣じみている。
だが老人は微動だにしない。
「倒れておれ、リク。ウィルなき愚か者どもに躾をしておる」
「それはお前の役目じゃねえ。だが、やりすぎれば止めるのは俺の役目だ。お前はもうこの街を十分に傷つけてる」
その言葉に、大上は横目で睨み、二人は視線をぶつけ合う。
カイは二人の間に挟まれ、圧倒的な重圧に押し潰されそうだった。まるで重力が増したかのように。
「まだ評議会の犬をやってるのか」
「まだ弱者を安っぽい詐欺で食い物にしてるのか? 卑劣な真似だ」
リクの視線が、大上の手に握られた札束へ落ちる。
大上は冷笑した。
「なるほど。なら、この怒れる群衆に少年を差し出せばよかった、と?」
「勘違いするな。それだけが、俺が今ここでお前を地面に沈めていない理由だ」
「ほう。やれるものなら、やってみろ」
ゴゴゴゴ……。
床が再び揺れる。先ほどよりも強く。
こっそり立ち去ろうとしていた連中も、その場でバランスを崩して転げ落ちた。
タトゥー男が歯を食いしばる。
「なあ、ブル。もしジジイがイカサマしたって言うなら、俺たちの味方ってことだよな!」
「黙れ、下劣な者ども。お前がこの少年を不当に拘束した悪を、私は見た。後で相応の裁きを下す」
リクの野獣のような眼光が燃え上がり、タトゥー男の顔色が一瞬で失せる。
背後の群衆も、羊の群れのように怯えた声を漏らす。
カイはさらに苦しかった。
大上とリクの間に漂うこの圧はますます重くなっていて、呼吸すら難しい。
何であれ、この奇妙な“圧”に、もう長くは耐えられないと本能が告げていた。
――そしてこの瞬間、嵐カイは意識を手放した。
Chapter 1 "Zero Kai!" That's it! ゼロからヒーローへ――カイの物語は今、始まったばかり。これから修行編、苛烈なバトル、そしてウィルを操る力を身につけながらのレベルアップが待っています。
カイの初めてのノックアウト、どう感じましたか? ただの運なのか……それとも何か大きな力のきざしなのか?気に入ってくれたら「ブックマーク」をポチッとして、感想や考察もぜひコメントで書いてください!
カイの登り始めた道は、まだ始まったばかりです。




