神崎冬也
イオンのフードコートにてハンバーグにがっつく如月愛を、横の席に座る亜美は静かに眺めていた。
視線を前に移すと、二人の男が不動でそこに座っている。
突如として現れた、鬼頭風林と呼ばれる中年男、そして一切の動揺を見せない宮澤睦。二人は執筆業において師弟関係を築く小説家だ。
一周回って溜め息の出る亜美であった。
携帯電話を出して鬼頭風林の画像を検索すると、確かに本人のようである。目の前にいる鬼頭風林は、スパイ映画さながら顔の皮を剥いだりしなければ、本物である。
今日のイオンは人気歌手がイベントか何かで姿を見せているらしく、心なしか人の数が多いように亜美には思えた。若い夫婦が連れた二人の子どもが、亜美のすぐ横を大声を出して通り過ぎた。
風林と思しき中年男は、鼻をひくつかせながら、「君を守る」と言った。意味を理解できなかった亜美は、風林の首辺りをぼんやりと眺めていた。風林のねっとりとした視線に生理的に耐えることができないが、顔を逸らすのもどうかと思って首を見ることにしたのだ。すると、ぬるんと風林の顔が亜美の視界の中にまで下がってきた。覗き込むような姿勢だ。
「君を守る」
亜美の顔に、嫌悪感が滲み出てしまった。
上目遣いで風林を睨みながら、「キモイなぁ」と如月が呟いた。
亜美は、宮澤にすら懐疑心を抱いている。何故、この意味不明な状況で、冷静にしていられるのだろうか。宮澤は風林の登場に、驚いた様子はなかった。恐らくは、宮澤にとって予定通りの展開なのだろう。しかし――。
「そもそも、鬼頭風林はロシアにて殺害されている。暁からはそぉ聞いたけどぉ~?」
暁の用意した如月愛という変化球が、仮に風林側の予定に悪意が含まれていたとしても、自分を守ってくれる筈。亜美は無意識の中で、既に如月を信用していた。
…………ありがとう、暁。
宮澤が口を開く。
「篠原亜美、君を騙そうとしたことを謝ろう。これは、俺と鬼頭風林の苦肉の策だったんだ」
「どう、いう、ことですか」
如月が亜美の腕を掴んだ。
「篠原ちゃん、気を付けてね。意識を集中させなきゃダメだよ? 相手はあの宮澤睦と鬼頭風林。言葉一つで操られる可能性がある。自分が信じられるモノを心に描いて。そうすれば、間違えないから」
如月の横顔は真摯だった。亜美の心に、その言葉が一拍遅れて響き始める。
「鬼頭風林が死んだという情報はガセだ。ちゃんと俺の横で呼吸をして生きている。神屋にガセの情報を流したのは、核兵器がロシアから盗まれた話を吹き込むのに利用しただけだ。もう一度だけ言うぞ。王里神会教祖K、鬼頭風林は生きている」
「け、K?」
さっそく操られた気のする亜美であった。如月の言葉を思い出す。気を強く保たねばならない。亜美は心の中にある人物を思い浮かべた。
「俺は鬼頭風林と鬼頭火山の考えに賛同しただけだ。順を追って話す時間はない。まず先ほどの拉致について説明する。風林はKの立場を利用して拉致グループを用意した。あの地下駐車場で尾行や発信器対策と偽り、拉致グループには数名を除き帰ってもらい俺と風林とその数名で君をある場所へ連れて行くつもりだった。その数名はこうするつもりだった」
宮澤がスタンガンをテーブルに置くと、それを見た風林もソワソワと同じ物を出した。スタンガンを仕舞って宮澤は続ける。
「つまり俺と風林が君を保護する予定だったのだが予想外の事態が発生した」
宮澤が亜美の隣を一瞥する。如月はハンバーグを食べながらニヤリとした。
「にゃるほろ、ね。で? 保護するって聞こえたけど、どういう意味なの。あと、ある場所ってどこ」
「保護は保護だ。実行班は危険な目に合う可能性が高い。篠原亜美、君は――」
風林が宮澤を手で制止した。目だけはじっと亜美を見据えている。涎が糸を引いて、その小ぶりな口が開く。
「シノハラアミ、君を、守るために、来たんだ」
一字一句、篭るような口調でゆっくりとそう言った。
亜美は、ただ首元を見ることしかできなかった。
「あーハイハイ、怖がってるぢゃん。その粘着質な言い方はやめてもらえる? で、場所」
「港区のビル林立地帯の一角に聳え立つ王里神会本部ビルだ。そこで君を保護する予定だった」
フードコートの一角に張りつめた空気が流れた。その意味するところは、宮澤の発言の意味不明さである。
「篠原ちゃん、確か王里神会に狙われているんでしょ?」
「う、うん」
「行くわきゃないぢゃん! ね?」
「違う。行けなくなった、が正確だ。君さえいなければ全ては予定通りだったが、我々はこの状況でも問題はないと思っている。それどころか好都合なのだ」
宮澤は如月の戦闘能力を間近で見ている。風林も拘束された拉致実行班を見て、間接的に如月の実力を知ったのだ。今、如月を抑えて亜美を連行することは不可能である。
亜美が弱々しく尋ねる。
「宮澤さん、好都合って…………」
「解からないか。風林も言ってるが、俺と風林は、君を守るためにこうしているんだ。しかし戦闘能力のある仲間はいなかった。如月愛、君が協力するなら我々は力を得たことになる」
「あっそ。そんで、全く信用できないんだけど、どうする気? 特攻でアタシを潰してみる?」
嫌味たっぷりに如月が微笑んだ。
宮澤はまるで恐れる様子もなく、「それもありだが、可能性としてはゼロに近い」と呟いた。風林は先程から鼻をひくつかせて亜美を見据えているだけだ。
「如月愛、できれば君にも共に来てほしい」
宮澤は真剣な表情で訴えかける。
「だ、か、ら! 全ッ然、信憑性ないッつーの。そんな話を信じてもらえると思ったの? 期待外れだよ。もう少し歯ごたえのある話術が炸裂するかと思ったのに。ただまぁ…………」
「ただ?」
「嘘を吐く人間に特有の挙動がまるで見て取れなかったのは認める。アンタたちレベルの手合いなら、その辺は当然なのかも知れないけど」
如月は最後の一口を平らげてコップの水を飲んだ。ビールジョッキをドカンと置くのを真似るように水の入ったコップをガンッと置くと、ハンバーグを切るのに使ったナイフをぷらーんと風林に向けた。その顔に「殺し屋」の表情が顕れている。
「つーか、本当にアンタがKならアタシを前にそれを明かすのは自殺行為としか考えられないんだけど。暁から王里神会については少しだけ聞いてるの。ここで話したことは全て暁に報告するし、アンタも拘束することになると思う。宮澤オジサマ、アンタもね」
デミグラスソースで汚されたナイフの切っ先に、宮澤の影が映る。
「君を前に風林がKであることを暴露したのが、我々が嘘を吐いていない証拠であると汲み取って欲しかった」
「ムリ! 篠原ちゃん、アタシとこの二人のどっちに付く? 勿論、暁たちはアタシと同意見だと思うよ」
亜美は――。
揺れていた。
何が正しくて、何が誤りなのか。それを、その身を其処へ投じることなく理解するのは不可能だ。
だから亜美は心に浮かべた人物、外崎暁ならば自分にどうしろと言ってくるのかを想像してみた。
『俺が亜美に付いて行く』
『全部終わったら、大事な話がある。だから、必ず無事でいろ』
亜美は、Kこと鬼頭風林の目をまっすぐに見据えた。
「私は今、危険な目に晒される訳にはいかない。如月愛さん、あたしを守ってください」
強い意志の感じられる声音であった。
如月は「そうこなくっちゃね」とウインクし、耳に小型のマイク付きヘッドフォンを装着した。
「もしもーし。こちら“ヒメ”。ちゃんと聞こえてた?」
「全て筒抜けか…………」
宮澤が静かに呟いた。
地下駐車場で如月の口から出た“クマ”なる人物と通信しているのだろうと亜美は思った。そして如月の振るまいから察するに宮澤が話した内容も“クマ”には丸聴こえだったようだ。
如月が通信している間、亜美は疑問に思っていたことを宮澤に尋ねた。
「もし、神屋君が宮澤さんを待機班に加える提案をしなかったら、どうしていたんですか?」
宮澤は腕を組み、静かに口を開く。
「それはない。神屋は俺に――操られたんだよ。否、俺と風林に、か。神屋の意識に俺が浮上するように仕掛けた。神屋と会ってチェスをしたのも、ロシアの核兵器が盗まれた話をしたのも、全ては俺と風林の策だ。待機班として君だけをこちらが要求すれば、必ず誰かを同行させてほしいと交渉してくるだろうと、風林には解かっていた。君たちニューアンチマターは風林の掌の上で踊ったんだ」
亜美の背筋に、冷や汗が流れた。
「まさか、ボイスチェンジャーの人は…………」
「私だよ」
鬼頭風林が返答した。亜美をじっと、じっと見つめている。その視線からは逃れることができないのではないかと亜美は恐怖した。
「保護するって、どういう意味ですか? それに、暁でも神屋君でもなくて、あたしを守る理由は………………」
「王里神会本部ビルの地下に、核シェルターを作った。そこへ君を連れて行く。核爆弾の被害範囲に王里神会本部ビルは含まれないが、それでも万全を期すに越したことはない。何故、君なのか。これは神崎の願いだよ。神崎は君を巻き込んでしまったことに強い罪悪感を覚えた。君だけは守らなければならない。君だけは絶対に助けなければならない。その想いを、俺たちが受け継いだのさ」
神崎冬也。
その名が口にされ、漸く彼のことを思い出した。不意に登場した鬼頭風林の存在感に、神崎冬也の存在が亜美の中で埋もれてしまっていた。
「あの、神崎さんは、今、どこに居るんですか?」
「さぁな、俺も知らないよ。否、俺どころか、この世の誰も知らないだろう」
嫌な予感が、亜美の中で燻った。
宮澤は、亜美の目を覗き込みこう言った。
「君たちは、固定観念に囚われすぎている。フロム・ヘブンを書いたのは神崎冬也か? ボイスチェンジャーを使った人物の正体は神崎冬也か?
神崎冬也は、もう死んだんだよ。今年七月八日水曜日、自宅で首を吊り自殺した。奴は仲間の死を糧に敵を討てるほど強い人間ではなかった。もうこの世にはいない」
亜美の心に、厭な雷鳴が響いた。
「自分が信じられるモノを心に描いて。そうすれば、間違えないから」
敵か味方か。協力か裏切りか。