ある疑念
-1-
亜美の目に映っていたのは、無機質で一寸の愛情も無さそうなコンクリートの床――その上に転がる小石の欠片である。
だらっと髪の毛が垂れて、きっと誰からも今の自分の表情は見えていないんだろうなと思うと、聞こえてくる話し声を差っ引いて孤独な世界を感じたが、別に哀しくはならなかったし、疲れていてじめじめと暑いからそもそも自分の感情が薄れていて何だか笑える…………亜美はそういう心情で、だらっと小石の欠片を見つめいていた。
亜美の脇の下に如月の手が入り込んだ。
「ほら立って、篠原亜美ちゃん」
ぐいっと体を持ち上げられ、亜美は如月の筋肉量を疑った。立ち上がると強い眩暈を感じたが、側の石柱に左手を添えるだけでバランスを取ることができた。
亜美は意識を失ってからものの数分で復帰した。非現実的な異常事態に、身体が無意識の警報を鳴らしていたのだろうと亜美は思った。
「――お客さんだぁ」
「え…………?」
適切な短時間睡眠は実践した者の意識を非常にクリアにさせる。亜美の場合は意識を失ったわけだが、教室である程度の緊張感を保ったまま机に突っ伏して昼寝をした後のような、明瞭な感覚を取り戻していた。冴える世界は、裏を返せば鈍感な世界だ。
地下駐車場の入口に宮澤と如月が見入っている。真っ白な光が容赦なく降り注ぐ中、その中心に、何者かが立っていた。
逆光で誰なのか判らない。
それはゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「嬉しい誤算、それとも、我々は失敗したのか」
コツコツと響く足音に混じり、聞き覚えが有るような無いような声を亜美の鼓膜がされるがままに受信する。逆光も治まりしばらくじっと見ていると、誰なのかを思い出した。
「鬼頭」
宮澤が鬼頭と呼んだ男は、亜美と宮澤を拉致グループの車まで誘導したあの黒フードの男であった。夏に似つかわしくない暑そうな格好をしている。黒フードの男はフードを外して首から上を露わにした。短髪の中年男だった。
「あれは誰がやったんですか」
顔を見せるなり、中年男は亜美の肩越しを指差し尋ねた。片方の眉がつり上がっていることを除けば、極々普通の表情である。亜美が振り向くと、そこには如月により拘束された拉致グループの男たちが項垂れて地面に座っていた。
宮澤はじっと中年男を見据えてから、口を開く。
「作戦はある意味、成功した。嬉しい誤算だ。ニューアンチマターには強力な戦闘員がいたらしい。この小娘だ」
「小娘って、それが命の恩人に対する態度ぉ?」
「ということは――そっちの君がシノハラアミか」
中年男は、亜美の方を見て僅かにはにかんだ。亜美はまだ警戒している。簡単に首は振れない。
「そうだ。彼女が篠原亜美だ」
宮澤が重みを感じさせる声音で答える。「ちょっと待ちなさいよ」と如月が囁く。
「アンタ誰なのよ、いきなり現れて」
亜美が気絶している間に、如月は坂本洋平を通じて暁たちからの指示を受け取っていた。この地下駐車場から二〇〇メートルほど離れた大型ショッピングモールへ到着せよとの指示である。一行のリーダーを任された如月にとって、鬼頭などと呼ばれる謎の中年男の出現はこの状況に対して、決して好ましい事柄ではない。
宮澤が表情一つ変えずに口を開く。
「鬼頭風林。俺の弟子だ」
亜美の瞳と中年男――鬼頭風林の瞳が一直線に通じ合っていた。
-2-
坂本洋平――“クマ”からの作戦成功の報せを受けた実行班は、歓喜の叫び声を張り上げた。
「ィやッたぜェエエエエエエッ!」
「ッしゃあァ、やッたな暁ァッ」
「成功か! 凄いぞ暁!」
高木と神屋は暁の肩を叩いて喜んだ。冴木は無言でガッツポーズをした。「うるせぇぞ、おめぇらここはビジネスホテルだ静かにしやがれ」と赤城はニヤニヤしながら青年たちを優しく叱りつけた。
作戦は成功した。
…………亜美は無事だ!
興奮冷めやらぬまま、暁は次の展開に意識を向けた。
「次はどうする? とりあえず安全な場所に避難させたい」
「“クマ”って奴はマッピングしてんだろ? 近くに人が沢山集まる所はないか探させて、そこへ移動させたらどうだよ。人目がありゃあ、簡単には捕まンねェだろ。亜美と如月ってのが黄色い声で叫べばいい」
赤城は煙をふーっと吐き出しながら冷静な意見を述べた。
「僕もその意見に賛成です。しかし、気になる点がある」
神屋はこめかみの少し上に手を添えて目を細めた。
「鬼頭火山が指示した場所はイベアリングスという全国展開しているファミレスだよね。あの場所はストリートビューでも確認したけど人目に触れているし、無理矢理に拉致なんかできっこない。それこそ篠原さんが叫べば周りの人間が騒ぎ立てる。一体、どのようにして拉致は実行されたのかな」
沈黙が流れる。
暁が「んー」とひとつ唸る。
「電話で鬼頭は、亜美の姿が確認できなかったと言っていた。如月からの報告では、黒いフードを被った男に二人は穏やかな誘導を受けたそうだが、どうなんだ。黒いフードの男が鬼頭だと確認できたから、二人は信用して付いて行った。そういうことだよな? しかし実際には複数の男達が二人を拉致する形となった…………よくわかんねーな。何かを見落としてる気がしないでもない」
暁が言い終わると同時に、高木が口を開く。
「如月愛からの報告をまとめるぞ。①合流自体は不自然ではなかった。つまり黒フードは危険でないと二人は判断した。だから黒フードは鬼頭火山、神崎冬也だった。②車に乗り込む際はやや不自然であった。周りは不審な男達に囲まれ、釈然としない様子で二人は車に乗り込んだ。この時、やばいと思えば亜美ちゃんが叫んでどうにかしようとする動きがある筈なんだが、それはなかった。神崎が敵であるとその時になり初めて理解してショックを受けてしまった可能性もある。
③男達は使われていない地下駐車場に進入、恐らく尾行、発信器対策で車をチェンジしようとした。しかし、如月愛の突入でそれは失敗した。敵の増援は今の所ない模様だが、既に乗り換える車なりが手配してあると考えるのが普通だ。地下駐車場にそれらしき車はないようだから、恐らく替えの車は地下駐車場から少し離れた所にあるんだろう。男達からの連絡がない、ないし次の車――移動手段へのアクセスが遅れれば、それを担当する奴らに不審に思われて、また戦闘が発生する可能性が高い。チンタラしてる時間はないぜ」
「さすが高木さん! 状況をきちんと把握できました。感謝します。聖孝、お前の疑問はもっともだが、とにかく今は亜美たちを移動させる。それでいいな?」
暁に問われ、神屋は眉間にしわを寄せながら、「ああ、如月愛に指示を出してくれ」と小声で呟いた。
相変わらず唐突に話が進展する小説だなぁ(笑)
僕が止めてたせいで、竜司が書くundecidedも久しぶりですね。
来週も更新します。