数学の叡智
‐1‐
暁と亜美は、学校が終わるとすぐに市内最大の図書館へと向かった。
市内最大と言われ思いつく場所は一つしかない。そもそも、図書館と言われて思いつくのは二人にとっても共通である。
「あそこでしょ? 市内最大って」
「ああ、てかそこしか俺は知らない……名前知らないけどな」
なんと、学校から歩いて二十分の地点にある、二人もよく利用する図書館だ。そこにあの有名小説家の鬼頭火山が自分たちに暗号を残した……まるで宝探しゲームだね、と亜美が小さく囁いた。
やはり平日の夕方頃とあって、市内最大の図書館と言えど人影は少なかった。館内は広い容積を誇る反面ひっそりとし、周囲を見渡しても数人いるかいないかといったところである。一階には主にビデオ、CD、DVDなどが置いてあり、二人の目的は二階のブックコーナーだ。
「いよいよだな」
「うん……」
亜美はここに至り、一抹の不安に駆られた。
……もし、ハズレていたらどうしよう。
「亜美」
「……えっ?」
「心配するな。きっとあるよ」
「……あ、うん」
このとき暁が発した言葉は、亜美に想像以上の効果をもたらしたと、果たして暁は感じ取ることができただろうか……。
亜美は階段を上る暁の背中を見つめ、意味もなくニヤけてみせた。
目当ての本は言語に関する本棚に隠れている。まずはその本棚を探さねばならない。だが市内最大とは伊達ではなくその広さには肩を落とす。
「言語ってどこにあんの~?」
「……まぁよく来てるんだが、普段意識しねぇしな。分類なんて……」
暁が言い終わるか終わらないかの内に、彼の前に従業員とおぼしき男性が目の前を横切った。
「あ、すいません。ちょっと、言語の分類って……」
「あ、あちらですね」
男性は右の腕で暁の肩越しにその場所を指し示した。
暁は数秒あっけにとられ、身動きが取れなくなってしまった。
「……あ……」
眼球だけを左に傾け、至近距離にある男性従業員の袖のまくられた腕を凝視する。そして暁はあのときの光景とそれにまつわる記憶を映像と共に鮮明に、クリアに思い出していた。目の前には男が立っていた。あの、忌まわしき記憶の影の創造者……そして、あいつを奪った――。
しかし、暁はそこで現実に戻った。立ちくらみが徐々に引いていくのに伴い、耳に声が、遠く響いてくるように……。
「――暁?」
気づくと、暁の肩からは男性従業員の腕は消え、亜美が顔を覗き込んでいた。
どしたの? と今にも言いそうな顔で亜美は半ば放心状態の暁を見つめていた。
「な、何でも無い……」
「……大丈夫?」
「ああ……」
それは一般にデジャヴと呼ばれるもので、暁にとってはある意味で恐怖心を煽る最大の原因と化していくのだった……。
「……これか」
途中暁に災難は降りかかったものの、二人は無事に目的の本を手にしていた。
「…………すごい。ほんとに、キリスト関連の哲学書が……鬼頭火山の第一の暗号はクリアだね!」
『キリストの哲学』
著者 宮澤睦
「……宮澤、ん?」
「なんて読むの? それ」
「あつし。……コイツどっかで……」
「あつし? あれ? なんかその人どっかで……」
「あ!」
二人は同時に目を見開き、顔を見合わせた。
「コイツは……!」
宮澤睦、現在六十八歳のベテラン哲学者でありながら評論家でもあり、キリスト教の専門家でもある。5年前、そのキリスト教への精通の高度さから、あるネットユーザーが『キリストJapan』と有名掲示板にて打ち込んだのがきっかけで、蔓延、彼は一躍、時の人となった。
だが暁と亜美が驚嘆の声を上げたのはそれらの事実からではない。
「この人って、『鍵穴』の解説書いた人だよね?」
推理小説の金字塔と称された鬼頭火山の最高傑作『鍵穴』の解説をつとめた男、それが今二人が目にする名を持つ人物だった。
暁は最終ページを開いた。
そこには六〇九の数字があり、やはりこの本で間違いないようだ。
この本の二三〇ページと二三一ページの間に次の暗号が隠されている。
逸る気持ちを抑え、暁はページをめくった。
「………………」
「え? 暗号あった?暁」
暁は手を止めて考えた。紙1つ挟まっていない二三〇、二三一ページをじっと睨んで考えた。
……どういうことだ? まさかハズして……。
暁は、ページとページの間には鬼頭火山が暗号を記した紙が入っているとばかり思っていたが、開いてみるとそこに紙らしきものはない。
とすると、考えられるのは……。
「このページの中に、暗号があるのか」
ということになる。予想はしていたことなのでそこまでの動揺は暁にはない。むしろ、彼は喜んだ。これで紙でも入っていれば逆に興ざめである。暁には新要素という意味で良い刺激となったのだ。
「さて、亜美。第二の暗号だ……解くぞっ!」
‐2‐
「へいらっしゃい! お嬢ちゃん、今日は何が欲しいんだい?」
「今日は大根ですっ」
「おお、デッケェのが採れたんでさぁ!」
「え? ホントっ! 買う買う」
「へへっ! 嬢ちゃんはお得意様よお、十円に負けてやらぁ!」
「ええ~? 十円! おじさん優しいっ! ありがとねっ」
「いいってもんよ! まいど!」
六月二十六日(金)
「お母さーん。大根買ってきたよ~」
「あ、早かったわね、亜美」
「うん。またあのおじさん負けてくれたんだよ。しかも十円」
「あらまぁ、十円? よっぽど若い女の子が好きなようね、あのおじさんは」
篠原亜美の母、篠原優子はタバコをふかしながら、
「アタシが行っても一円も負けねぇくせによ……」
と小声で呟く。
母が機嫌を悪くする前に手を打たないと、延々と続く愚痴を聞かされる羽目になる。経験上その末路が良かった試しはなく、亜美は速攻でご飯の支度を促すことにした。
「お母さん、お腹減ったから、もうご飯にしない? ほらもう時間も押してるし」
壁に掛けられた時計の針は、ちょうど二十時を差そうとしていた。
「そうね。……そろそろたべとかないと、ママ、お仕事間に合わないわねー」
随分気の抜けた声をタバコの煙と一緒に吐き出した優子は、立ち上がってキッチンへと向かった。
「今日はお鍋よ。大根グツグツ」
優子の顔は、何やら危険な笑みで一瞬満ちかけたが、すぐに気の抜けた顔に戻った。
「あたしも手伝うよ」
三年前に夫と離婚した優子はその日以来、今日まで女手一つで亜美を養ってきた。そんな母の苦労が判らない亜美ではない。母にはできる限り楽をして欲しかった。
「亜美は優しい娘……」
「え?」
「あたしがあんたくらいの時はね、ロクに勉強もしないで、人の車に傷つけたりしてさ。よく親にメーワクかけてたよ。アタシバカだったのよ」
「…………」
「…………」
水道の音がやけに響く夜だった。
六月二十七日(土)
自宅でくつろいでいた暁に、亜美からの電話が鳴った。
時刻は午前九時ちょっと前あたり。
「もしもし暁ぁ?」
「………………はい」
「え? もしかして寝てたかな? その声は」
「……何だよ。ねみいん……」
「オキロー! ……てわたしもそんな元気じゃないんだけどね」
「…………暗号はどうだ」
「暗号全然ダメ! お手上げだよ。そっちは?」
「……同じく」
「ああ、残念」
「…………」
二日前、市内最大の図書館にて第二の暗号とおぼしき本を発見した二人は、それを借りじっくり検証することにした。
二三〇、二三一ページのコピーを亜美が、本体を暁が受け持ち、それぞれが自宅でも謎解きに励んだ。勿論、授業を抜け出して学校の屋上でもアレコレ悩んだ。先生に見つかり怒られた。
――――そうこうする内に、もう二日。第二の暗号に二日も掛けてしまっている。
……だんだん二人は思い始めた。こんなことしてていいのか? と。
「………………」
亜美は静枝に頼まれている分もあるが暁はただ協力しているだけである。止めようと思えば止められるのだ。
あくまでこのイベントの主犯は篠原亜美、外崎暁ではない。
「亜美」
「……んー?」
眠そうな亜美には悪いかも知れないとは思いつつも、暁は正直な気持ちを言うことにした。それがお互いにとっても好ましいことだと思ったからだ。それにもうすぐ期末テストも控えている。そろそろ現実を見るべきだ。
「明日、俺の部屋に来い。絶対ェー、解くぞ」
「…………え」
そう。だらけている暇はない。暁はつい最近になって感じ始めた日常の変化とやらに、全てを託すことにしたのだ。今回の期末は赤点二つくらいは出るだろう。しかし、そんなことは関係ない。この繰り返される毎日から『脱出』すること、それさえ叶えば彼は満足だった。
だから、暁は休日の午前だというのにベッドから身を起こした。突き詰めれば、彼は幸せが欲しかったのだ。
六月二十九日(月)
亜美は日曜日に暁の家へ行かなかった。
「調子が悪い」という内容のメールを受け取った暁は、仕方なく一人で暗号の解読を試みるがあえなく失敗。彼はここにきて焦り出した。暗号解読……どちらかと言えば自分は得意な方だという自覚はあったが、ここまでチンプンカンプンな暗号の解読には経験がない。
……そもそも、本当にこの本であっているのか?
「……いやいや」
暁は留まる。わざわざ『鍵穴』の解説者の本というオプションまで付いていた訳は、やはりこれが本物の暗号であると確信させるために違いない。
暁は今一度、机の上に開かれたそれに目を落とした。
そこには前のページからまたがって、キリスト教網要云々について詳しい記載が成されているだけで、これといって目立った箇所はない。単なる文字の羅列である。しかも本のサイズは少年コミックの約4倍。……デカい!
「くそ……皆目見当つかない」
あっという間に時間は過ぎ去り、日付が変わる頃、暁は眠りに落ちた……。
そして迎えた今日。
偶然の刹那、その謎は解かれることとなる。
騒がしい学校の廊下を歩く1人の男が、水道で手を洗う暁に声をかけた。
「よお、暁、久しぶりだな」
暁が振り返った先にいたのは暁の友人の高山竜司である。
「久しぶりでもねーだろ……あッ、竜司!」
この男なら、暗号を解けるかも知れない……。
暁には確かな予感があった。
「今、お前が俺に話しかけたのは偶然かな? どっちにしろ、お前が俺の運命を変える手助けをするかもな……」
「はぁ?」
不敵な笑みを浮かべ、暁は竜司の肩にポンと手を置き、
「協力、してもらうぜ? 竜司君」
暁の胸の内は、久々に活気付いていた。
‐3‐
約束の期日まで、残り十五日となった放課後、高山竜司は学校の図書室にて暗号の解読に着手し始めた。
一方、それを頼んだ外崎暁は、二日も顔を見ない篠原亜美を訪ねるため、学校を後にしていた。
誰もいない図書室にて、竜司は暁から手渡された本の二三〇、二三一ページを開き、どこか暗号として機能しそうな箇所はないかと、ただ全面が小さな文字だけで埋め尽くされた二ページにひたすら見入っていた。
「答えは、二三〇、二三一ページの間に隠されている……」
別れ際、暁が放った一言を口に出して言ってみたが、やはり何のインスピレーションもわいてこなかった。
試しに、もう何度も黙読した二三〇ページの文頭から文末までを声に出して言ってみる。
「リスト教神学の全領域を聖書に基づいて体系化」
二二九ページの一番下の右隅には「キ」とあるのを確認した竜司だが、その行為に意味が無いことは重々承知の上である。竜司は頭をかきむしり、暁との約束を思い返していた。
……もし、この暗号が解けたら、お前の欲しがっていたアレをやるよ。
暁のその一言で火の付いた竜司であるが、一向に手のつかない暗号解読を前に、そのやる気はだんだんと、着実に萎えていった。
……本当にくれるんだろうな、アイツ。
竜司は本を閉じた。その行為に大した意味は無い。言ってみれば、なんとなく閉じたのだ。物語には常に偶然が付きまとう。その偶然の連鎖が語られる価値のある物語を偶然にも創造するのである。
「…………ん?」
竜司は本の側面を見ていてある発見をした。
本を形成する紙一枚一枚が、ある一箇所に集約され固定されているために紙はバラバラと散らばらないなどと、いちいち口に出して言うことすら馬鹿馬鹿しいが、紙が集約されたその箇所の名称を竜司は知らなかった。というより、そんな所に名称など無いと思っていた、いや、そもそも話題にすら上がらないため、あったとしてもどうでもいい箇所。そんな箇所に、竜司はある発見をしたのだ。
注意して見なければ見落としてしまう、その程度の異常……まるで、ページとページの間にノリを塗り、それが側面からほんの少しはみ出たような跡……それが、紙が集約された部位で見つけた竜司の発見だった。
それを見た途端、竜司は閃いた。だが、それとこれを結びつけたのはやはり竜司の力量があってこそと言える。
今まで受けた数学の模試では常に学年トップ、更には県内一位、いく時には満点で全国一位も獲得したことのある竜司は、予備校や塾には頼らず、そのほとんどが常人離れした数学的思考能力によった、言わば数学の天才なのだ。
今回の結びつきが数学的思考を必要としたかは別として、その柔軟な思考は、暁の発言にヒントを得た。
「答えは、二三〇、二三一ページの間に隠されている」
あたかも子供騙しのようなカラクリだと、竜司は鼻で笑った。
「謎は解けた」
竜司は、二三〇、二三一ページをもう一度開き、両端をグッと力強く掴んだ。そして、それをそのまま外側に向けて更に開いていった。
ビリビリという音に混じり、パリパリという音が耳に聞こえ、竜司は口元をニヤリとさせた。
……鬼頭火山も大したことはないな。
最後にバリッという音がして、二三〇と二三一ページを境に、本は真っ二つに割れてしまった。
「あ……やべ」
まあいいか、と竜司は呟き、校内では使用の禁止が原則の携帯電話を取り出し、ずっと欲しかったアレがとうとう手入るのかと、小躍りした。
『ピンポーン』
と、篠原という表札の掛かったアパートの一室の呼び出しリンを押したのは、不安げな表情を募らせる暁であった。
前に何度か来たこともあり、すっかり自宅から篠原宅までの道順は覚えたものの、常に不安は拭えない。暁はあの人が出てこないことを祈った。
「はーい」という声と共に、『ガチャリ』とドアが開いた。
「……あら! 外崎君! 久しぶりじゃないの~! どーぞ上がって」
「あ……失礼します」
暁の祈りは虚しく、出てきたのは亜美の母、篠原優子であった。暁は苦笑いしつつ、遠慮がちに靴を脱いだ。
「最近勉強の方はどうお? ……もしかして亜美のこと心配して来てくれたん?」
優子は、台所で素早く客人用に飲み物を用意した。
「あ……すいません。なんか、いきなり来て……。えーと」
暁は、1LDKの比較的広くない室内を見渡し、亜美の姿がないことに気が付いた。
暁の様子を見て、優子は暁が訪ねてきた目的を理解した。
「亜美ならいないよ」
「……どこですか」
「今は病院。点滴受けてるのよ」
「ああ、そーなんですか……」
暁は、自分が今ここにいる意味が無いことに気付き、さっさと帰ることにした。
「あの。亜美は……そんな重体? なんすか……」
優子はタバコをふかしながら応えた。
「んーん。平気みたいよ。お医者さんも、あと二、三日もすれば元気になるだろうッてさ」
「あ、そうすか、良かった。うん……」
「亜美になんか伝えることとかあるの? 良ければアタシが……」
「あ、大丈夫です。そんなに状態悪くないなら、安心したんで、ちょっと心配だったんで、じゃあ、失礼しました」
暁は軽くお辞儀をして玄関に向かった。
「また来なね」
「はい、失礼しました」
『ガチャン』と扉を開け、暁は家路に戻った。
――ブルルル。
ちょうどアパートから出た辺りで、暁の携帯が振動した。
どうやらEメールを一件受信したようだ。送ってきたのは……。
「……竜司? もう解いたのか?」
すぐ横を車の行き交う歩道を歩きつつ、その文面を確認した。
よう(`ε´)
暗号見つけたぜ
お前 本当にアレくれるんだろうな。まぁあってたらでいいけどよ
これが暗号だ↓
740 670 700 720 690 680 730 710
十字架を背負いし者に
数と方向をあたえよ
‐4‐
竜司から受け取った暗号を元に、暁は自宅に帰ってからその解読に挑んでいた。
740 670 700 720 690 680 730 710
十字架を背負いし者に
数と方向をあたえよ
暁は、この暗号の構成に見覚えがあった。これも鬼頭火山の作品に登場する暗号の一つに似ているのだ。
今回の暗号ゲーム……どうやら鬼頭火山の作品を熟知していれば、解読のおおまかな手順について困ることはないらしい。それが判ればいくらか安心できる。
暁は竜司とのメールのやりとりを思い返した。
『どうやってその暗号を導き出した?』
『単なる偶然……。本に細工があった。普通じゃ開かないレベルにまで本を開き、そこに小さな、人が書いた文字があった。それが、さっき送ったヤツだ』
『はぁ? もっと詳しく教えろ』
『痕跡を残さないように、鬼頭火山はノリで本を元通りの状態にしたんだ。明日お前に実物を見せるさ。見れば一発で理解できるさ』
『そっか、わかった。じゃあ、明日。本な、持ってこいよ。ところで、どうだ? お前が見て、この暗号解けそうか』
『何とも言えないが、とりあえず暇があったら今夜にでも取り組んでみよう』
『そうだぜ。お前、暗号を見つけてくれたのには感謝するが、アレをくれてやる条件は、暗号を解くことだ。せいぜい頑張れや』
『てめー』
……ありがとよ、竜司。
暁は心の中で礼を述べ、再び暗号に目を落とした。
――まずは、数と数との何らかの規則性を見つけねばならない。
暁は、比較的数学のできる方であり、この手の暗号には自信があった。
最初の直感が大切である。暁がこれらの数字を見て最初に脳裏に浮かんだ言葉、そう、単なる数字の並びを人類は数列と呼ぶ。
数列の基本は、一般項を求めることにある。
740 670 700 720 690 680 730 710
「この数列は……等差数列でもなければ、等比数列でもないな」
等差数列とは、次のような数列を言う。
10 15 20 25 30 35
つまり、数が規則正しい差をもって変化していく数列のことを言うのだ。この場合、初項は10、項差は5であり、等差数列の一般項の公式から、
5n+5
が一般項となる。nに3を代入すれば、この数列の3番目にくる数字が判るというわけだ。
等比数列とは、次のような数列を指す。
10 100 1000 10000
つまり、規則正しい比をもって変化していく数列のことを言う。この場合、初項は10、項比は10となるので、等比数列の一般項の公式から、
10×10のn-1乗
が一般項となる。これも等差数列と同じように、nに3を代入すれば、この数列の三番目の数字を導き出せるというわけなのだ。
740 670 700 720 690 680 730 710
この数列は、上記の二つに当てはまらない。等差数列、等比数列以外にも数列には種類があるかもしれなが、暁はこの二つの数列しかまだ知らない。
「……調べるのも面倒だ」
ゆえに、暁に残された選択肢は、この数列を並び替え、どうにかして等差数列もしくは等比数列のどちらかにもっていくことである。というより、暁は初め、この数列を、見た時あることに瞬間的に気付いていた。数字を並べ替え、
670 680 690 700 710 720 730 740
という数列に変形することで、この数列の一般項を導き出せるということに……。
「………………」
数列において、果たして数字の並びを変えるなど、していいことなのか?
いや、鬼頭は初めからそうさせることを企んでいたのだ。何故なら、それが、暗号が暗号として成り立つための醍醐味的な要素となってくるのだから。
暁はものの数秒で変形した数列の一般項を叩き出した。
10n+660
この一般項を目にした途端、暁は驚愕の表情を見せ、声にならない悲鳴を上げた。
今一度、暗号の下部の記述を確かめる。
『十字架を背負いし者に
数と方向をあたえよ』
「これは……」
即ち、十字架とは10を、背負いし者とはnを指していたのだ!
暁はここで肩の力を抜いた。
初めはチンプンカンプンだった暗号が、解読に一歩近づいた。悩んだ時間が多かった分、達成感は大きい。
……亜美、お前が復帰する頃にはこの暗号は解けてるかもな。
「早く良くなれよ……」
そう小さく呟き、暁は静かに、ゆっくりと、目を閉じた……。
六月三十日(火)
いつものように登校してきた暁に、亜美が声を掛けた。
「おはよー」
暁は振り返り、一瞬目を丸くしたかと思うとすぐにもとの冷静沈着な目つきになり、
「ああ……良くなったのか」
と一言告げ、前に向き直った。数秒の沈黙が流れた後、亜美がくちをとがらせて言った。
「ちょっとー! 少しは心配しなさいよ!」
「ああ……ハハ。元気そうだな」
「うん、ちょっと熱出ちゃったんだよね。最近疲れてんのかな、あたし……」
言いながら、亜美はいつの間にか暁の横に付き一緒になって歩いていた。
「……おい。あんまくっつくな。……勘違いされるだろーが」
暁がちょっと困った表情でそんなことを言うものなので、亜美は余計に暁との幅を詰めた。
「にひひー」
「にひひーじゃねぇよ。バカかお前っ……!!」
暁が顔を赤らめてそう言うと、亜美は恥ずかしそうにちょっとだけ暁との幅を広げた。
「おおっ! お二人さん……いつの間にそんなラブラブな関係になったんですかぁ!?」
「…………!??」
暁と亜美のすぐ後ろで、そう大きくさえずったのは……。
「あ、おはよ。晋也じゃん」
不良高校生、木原晋也である。
「晋也……お前また髪染めたな。こんどこそ特別指導じゃねぇのか?」
「そんなん知るかよ」
「お前な……」
暁が呆れた途端、亜美が口を開いた。
「言っときますけど、別にラブラブじゃないから」
怒ったフリをしてそんなことを言う。
「は、は、は!! いや立派なカップルですよ! 一緒に学校来ちゃうなんてね」
「晋也……おふざけもほどほどにしろよ」
暁の結構ホンキな声が聞こえたため、晋也は早々にその場を後にすることにした。
「ではお二人さん、バイバーイ!」
「……ったく」
前を走っていく晋也を眺めながら、亜美が言った。
「……あたしたちも走ろーよ。ほら、遅刻しちゃうよっ」
亜美は暁を置いていきなり突っ走っていった。
「あっおっい! ……クソ! もーこんな時間かよ!!」
暁も、二人の後を追うようにして走り出した。
昼休み、昼食を持って誰もいない屋上に集まったのは、暁、竜司、亜美の三人であった。
ここなら、周りの雑音は耳に入らず、集中して暗号解読に取り組む事が出来る。
三人は円形になって地べたに座り込み、弁当を広げた。
竜司は唐揚げを頬張りながらバッグから本を取り出した。宮澤睦『キリストの哲学』である。
「見ろ」
竜司は真っ二つに割れたその本を両手に持って、二人に暗号を見せた。
「……おお、なるほど。そういうことか」
暁は暗号の位置を見て全てを理解した。第一の暗号の全てを。
「本来なら見るハズもない所……つまり角の固い部分に沿って鬼頭は暗号を記し、万が一見えないように暗号の上から薄くノリ付けしていやがった」
竜司は最後に「結局俺には通用しなかったがな」などと言ってお茶を濁した。
ふと竜司と亜美は目が合った。二人は初対面である。
「……凄いですね。暁も判らなかったのに。あ、篠原です。よろしくね」
「ああ、高山です」
「自己紹介は後でいいだろ…………二人共コレを見てくれ」
そう言って暁が真ん中に置いたのは、何やら書いてあるルーズリーフだ。
「その本に書いてある暗号を俺なりに解読してみた。すると紙に書いてあるように、これらの数字はこの一般項を持つ等差数列に変形することができるんだ」
740 670 700 720 690 680 730 710
十字架を背負いし者に
数と方向をあたえよ
↓↓
670 680 690 700 710 720 730 740
10n+660
紙を見て竜司が口を開いた。
「理屈は合ってる。だが数列なら並び替え次第で他にも作れるぜ」
「暗号の記述だよ。10は十字架を、nは背負いし者……どうかな?」
「ほんとだっ! すごーい」
亜美が驚いた。
「……多少強引な気もするが、とりあえずはこれでいってみるか」
竜司はまだ疑っているようである。
「よし……! じゃあまずはnに数と方向をあたえるぞ」
暁の声に触発されたのか、亜美が突然声をあげた。
「……nは北!」
驚いたような表情で暁の顔に指を指して固まっている。
暁は眉間にシワを寄せてパンを口に頬張った。
「北……北か」
「じゃあ数字はなんだ?」
竜司はコーラを一気に飲み干し、数秒でその自問に自答した。
「ふー……14か13……だな」
「???」
ハテナマークを浮かべてエビフライをかじる亜美にすかさず暁が説明する。
「アルファベット順。Aを1とすればNは14。Aを0とすることもあるからな」
「なるへそ」
「13と14……代入しか思いつかない」
「俺もだよ、暁」
暁はシャーペンを胸ポケットから取り出し、パンにパクつきながら紙の余白に計算した。
「出た!」
亜美も竜司も、体を前屈みにして覗き込む。
「800と790……」
この数字を見た途端、亜美は今までにないほど目を大きく見開き、
「あーーーーーーッ!!!!」
「……え??」
「亜美?」
竜司も暁も、亜美が何故叫んだのかが判らない。まさか亜美が自分たちより先に隠された数学的な秘密をこれらの数字に見いだしたとは思えない。
「800よ!」
「……800? これがなに? 篠原さん……大丈夫かい?」
亜美は興奮しているようで、息が荒かった。暁も竜司も、興味津々である。
そして亜美は遂に真相を口にした。
「あたしの家の近くにあるのっ! 800はまさに『八百屋』!! うちの近くに八百屋さんがあって、あたしが行くとスッゴい安……じゃない! そこの主人は北野さんなのッ!!!! てゆーかその店の名前は『北の八百屋』なのぉッ!!!!!! ね!? コレは、来たんじゃないの!??」
「………………」
竜司も暁も、もはや絶句するしかなかった。
重要登場人物の紹介
・木原晋也
暁の中学の同級生。チャラチャラした外見とお調子者の性格から、不良あるいはだらしのない若者として、しばしば見られる。
学園内で暁の過去を知る者の一人。
・高山竜司
暁の高校一年からの友人で、数学の天才。
頭の回転は速く、暁とテストの点数で競争をしていたりする。
暁の持つ「アレ」を欲しがっており、暗号解読の報酬として譲り受ける約束をする。