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undecided  作者: らきむぼん(raki) &竜司
王里神会篇 急ノ後
69/73

Abyss

前回の続きです。






 八月一日 土曜日 午後六時四十五分



 夕陽は夜の闇に消えかけていた。

 坂本洋平は海が好きだった。時折、名も知らぬ鳥が海を舞うのも、情趣がある。洋平が海を好むようになったきっかけは、自身の名前である。祖父が付けた「洋平」という名はどこか太平洋を思わせる。しかし洋平が好きな海は大洋よりも、浜辺から観る小さな海だった。小高い丘から手のひらを伸ばせば、包み込めてしまいそうな小さな海。掌の海は、浜辺まで近付くと逆に自己を包み込む小宇宙に変わる。

 海と空の境目は、曖昧な一直線で分けられている、その中心に太陽が重なり、眩い朱色の光を空気と水に反射させる。空の先に在る果てない宇宙に、人類を生かす巨大なエネルギー源が浮かんでいる。

 宇宙のことを考えることは洋平にとって、世界や人間について考えることに等しかった。多くの人間にとって、宇宙は科学である。しかし洋平にとって、宇宙は哲学だ。だが、洋平自身はそもそも哲学と科学とを対立させて考えるのは愚かだと感じている。

 科学は哲学から出た学問だ。かつて学問は思考の坩堝であった。すべての学問は哲学であり、哲学はすべての謎を思考する領域を指したのだ。いつのまにか、哲学は利益を生むもの、具体的なもの、物質的なもの、というように人間の社会に役立つ学問の割合を多く含むものを切り離していった。いまや、哲学が指す領域は一般的に実学的でなく実益に繋がることもなく、抽象的で解りにくいものになっている。全ての根幹を成す、もっとも重要な思考領域は、多くの分裂を経て、最もゴミ箱に近い位置にある学問になってしまった。

 哲学的な思考をする者は、現代でも真に必要な存在であるだろう。だがそれを説明して理解できるものは数少ない。思えば、洋平にとっての信頼の置ける友人とは、そのような思考を容認できる者を指すのかもしれない。

 ――暁は、きっとそれが解るだろう。

 ザァーン……――

 波が大きく打ち上がった。一瞬だけ、海から吹く風が強まる。洋平は風の吹く先に目をやった。

「……ほう」

 珍しくこの時間に人がいる。高波対策にやや高く作られた砂浜沿いの車道のすぐ手前、つまり歩道の辺りに人が見えた。背の高い男だ。黒い服に身を包んでいる。どこかで観た顔のようにも思える。やや距離があるために誰であるか判別できなかった。この町には観光客は少ない。おそらく町民であると推測できるが、どうも妙な違和感を覚えた。

 黒衣の男はしばらく立ち止まっていた。まるで石像であるかのように動かない。傍から見れば不審であるが、洋平には男が何をしているか解った。おそらく思考しているのだ。思考せぬ者には通じないが思考するものには通じる話の一つである。時に立ち止まって時のない思考の世界に落ちることがあるのだ。洋平も、客観的に見れば浜辺の石像であるに違いない。

 男は、しばらくしてようやくふらふらと歩き出した。そして再び立ち止まり、こちらを見た。目が合った気がした。しかしよく考えれば、洋平は太陽に背を向けている。おそらく逆光で向こうからは影しか見えていないだろう。それでも、視線を感じたのだろうか、男は階段を通じて浜辺に降りてきた。砂に足を取られながらふらふらと黒衣の男はこちらへ向かってくる。

 似ていた。かつて仲の良かった男に似ている。だが同一人物であるか判らなかった。洋平は黒衣の男に鴉のイメージを感じた。

 ザッ――ザッ――。

 男は洋平の近くで立ち止まる。

「もしかして……君は洋平か?」

 男は、洋平の名を知っていた。まさか――まさかこの男は――。

「神屋……神屋、聖孝か?」

「そうだ、久しぶりだな、洋平」

 間違いない――男の整った顔には少年時代の面影がある。暁との再会ではすぐに誰か判ったが、目の前の男は記憶の中の神屋と随分違っていた。薄暗くなり始めたせいだろう、すぐには判らなかった。

「戻ってきたのか、この町に」

「さっき戻ったばかりさ。まさか、君に最初に会うことになるとは……いや、そもそも君に会うことになるとは思いもしなかった」

「お前、随分背が伸びたな。昔は小柄な方だっただろうが」

「五年も経てば、内も外も多少は変わるさ。君は随分丸くなったみたいだね」

「尖ったままじゃ、どうにも生きづらい。昔の暁ならそれでも受け入れただろうがな」

「……暁」

 暁の名を口にすると、神屋の表情は少しだけ深刻になったようだった。そもそも、神屋は何を目的に帰郷したのか。

「暁は、こっちに住んでいるのかい?」

 神屋はどこか慎重に尋ねた。

「いや、あいつは月代学園に進学した。自宅もその近くと聞いている。ずっとこっちには戻ってこなかったが……いや、戻ってきていたのかもしれないが、俺と会うことはなかった。だが今年の夏はどうも不思議な夏だ。今年だけは暁と再会したし、こうしてお前とも再会した」

「暁は……暁は確かに月代学園の生徒なのか?」

「ああ、それがどうかしたか?」

「いや……」

 神屋は狼狽していた。暁の通う高校が月代学園高校であったからといってそれが何か問題になるのだろうか。洋平には、直感的に数年ぶりに再会した神屋がなにか深刻な事情を抱えているような気がしていた。暁に再会した時もそうだ、暁はどうも良い方向に変わったように感じた。その背景には暁の元々の性格が他者と自己とを同一化して問題を抱えてしまうような性格であったことが関係していた。彼は他者の悩みを自分の悩みのように感じるところがある。それ故にいずれ解決できない他者の悩みに触れ、自己を追い詰めることになるかもしれないと洋平は危惧していた。だが、久しぶりに会った暁は強い達成感に包まれているような雰囲気であった。幸いにも中学以降に難題に直面しなかったのかとも思ったが、どうやらそうではない。一緒にラーメン屋に入った時に、さり気なく過去に探りを入れると、暁は意図的に明るい話題に転換しようとしたように思えた。本来、辛いことがあってもそれが解決できたなら親友に隠す意味は無い。隠すならばそれは解決に至っていないか、あまりに深刻な内容であるかだろう。暁の表情は、闇の中にようやく光を見つけたというような表情であった。確証はないが、洋平にはそう思えたのだ。

 対して神屋の表情は、仮面のようだった。洋平は人の心理を読むのが得意な方だった。真意を掴めるからこそ、解り合える人間とそうでない人間がいる。神屋の表情と暁の表情は深いところで似ている。だが、神屋のそれには光がない。昔とは明らかに違う。しばらく会わない間に何かがあったのかもしれない。神屋の本質はどこか孤独なのだ。それを隠す技量があるからこそ孤独は深まる。

「洋平、暁と会ったと言っていたけれど、彼はまだここにいるのかい?」

「いや、行き違いだろう。もうこの町を出たはずだ」

「そうか、それは残念だ。ちなみに、君は暁の現住所を知っていたりしないか?」

「残念ながら知らないな。なんだ、お前暁に会いに帰ってきたのか? お前と同じように、暁は中学からここを離れていたんだ。この町にいないかもしれないことは予想できただろう」

 洋平が問うと、神屋は何かを言いかけて、少々悩んだ風だった。しばらく沈黙すると、何かを決意したように、「実は……」と口を開いた。

「暁を探している。いま、僕は暁に重要な用事があるんだ。訳あって暁に前もって連絡を入れることはしたくない。住所が判れば直接尋ねるつもりなんだ」

 神屋はそんな奇怪な内容を口にした。洋平には神屋の言う意味が判然としなかった。一体どんな用事があれば、そんな条件が生じるのか。

 洋平は次第に、神屋という男が自分の知らないところでどんな事情に陥ったのかに興味を持ち始めていた。つい先日まで一緒に事件に巻き込まれていた暁と、神屋は直接会うために帰郷したという。神屋と暁に一体何が起きたというのか。

「なあ神屋」

「……なんだい?」

「お前、一体何があった?」

「……それはどういう意味だい?」

「俺にそんな偽りは無用だ。何を動揺している? 悩みがあるなら話せ」

 神屋はやや驚いたような、感心したような表情で自嘲気味に笑った。

「……フッ、どうやら僕は自分が捨てた町に戻ってきて少々平常心を失っているみたいだ。それとも、君はなんでもお見通しの千里眼でももっているのかな」

「お前は暁と違って、誰にも助けを求めないんだ、昔からな。いや……お前にとって唯一相談できる人間が暁なのか。お前はどこかであいつに頼っていたんだろう、だが暁は暁で、今となってはお前を助けるだけの力があるとは思えんな。迷っている人間に迷っている人間を救うのは難しい。せいぜい一緒に悩みを共有して協力するのが関の山だろう」

「……確かに、君の言うとおりかもしれないな。しかし、暁に何かあったのかい?」

「そうやって話を誤魔化すなよ神屋、お前、暁に会ってどうするつもりだ? 自分の悩みを聞いてもらおうって言うなら、俺にも協力できることはある」

 洋平は、神屋を説き伏せようとしていた。神屋は頭の回転が凄まじく早い。遠回しに話していればいつになっても神屋の真意は掴めない。それに神屋の態度はどこかおかしい。何か焦りを感じている風だ。

「洋平、別に僕は暁に悩みを解決してもらうために会いに行くわけじゃあない。僕にとっての個人的な事件に、たまたま暁が関わってくるだけだよ。君は僕を心配しているのだろうけれど、残念ながらいくら君にでも話せることは少ない。……否、さっき言ったことが全てだ。本来、君にこんなことを話すつもりもなかったんだが、きっとそれじゃ納得しないだろう」

「おい、幼馴染にそう幾つも秘密を持つもんじゃねえぜ。正直なところ、俺はお前の顔を見た瞬間、『危ねえ』って思ったんだ」

「危ない? 何がだい?」

「お前、人でも殺しそうな顔に無理やり笑顔の仮面を被せてるみたいなんだよ。そんな不自然な顔してる奴を止めるのは当たり前だ。それに、俺はあの時の暁みたいに、お前を変えるべきだと思っただけだ」

 嘘ではなかった。洋平は先日まで奇妙な事件に巻き込まれてきた。非現実的な存在、非現実的な因果、死をすぐ近くに感じた。自分は結局、何も出来やしなかったのだ。暁はやはり、如月愛を救った。暁は導かれた必然とも言っていたが、如月は偶然と考えているようだった。偶然が重なったからこそ暁の意志が結末を変えた、と。導きでも、偶然でもなんでもいい。ここで何かを背負った神屋に再会したのは、きっと自分に何らかの役目が回ってきたということだ。そうでなければ、数日の間に、連絡も寄越さなかったかつての友人が次々と訪れるなんてことなどない。

 神屋は、遠くの海に目をやった。波の音が、喧騒に聞こえる。

「…………君は、もしかしたら全部解っているのかもしれないな。昔から君は達観していた。子供らしさはどこか感じられなかったしね。でも、同時に君には何も解らないよ。それに知るべきじゃないこともある」

 彼は洋平の差し伸べようとしている手を強く否定した。昔の神屋なら、他者の強い意志を受け入れただろう。おそらく、今の彼の中にはさらに巨大な意志が在る。

 温い風が砂を舞い上げる。洋平は思考した。

 ――引き下がるべきか。思った以上に神屋は何か深い事情を抱えているようである。

「…………そうかもしれないな」

 ――いや、俺も……ここで変わらなければならない。これはきっと“神屋だけ”の話ではないのだ。

「それでも、一つ聞かせろ、神屋」

「なんだい?」

「暁も、お前と同じ問題を抱えているのか?」

「……さあね。暁は僕が探しているなんて思ってもいないだろう。きっと君が言ったとおりなんだ。彼が僕のやろうとしていることに関わってきたのは偶然だが、僕はそれが判った時点で、また何かを変えてほしいと思ってしまっている」

「俺はあいつの親友だ……そして神屋、お前も親友だ」

「…………」

 神屋は呆れたように笑った。懐かしい。まるで小学生の頃の日々が一瞬蘇ったようだった。

「神屋、暁の住所は俺が聞いてやる。その方が都合がいいんだろう? だから俺の家に来い、今夜は泊めてやる」

「……いや、今からなら一泊せずとも帰れるよ」

「なんだ、急ぎか?」

「暁に会う必要がある」

「だったら尚更だ。暁の情報を教えてやるよ。何か裏があるんだろ。お前も暁も、どんな事件に巻き込まれてるかは知らないが、難題にぶち当たってるってことはわかるさ」

 洋平は決めた。自分も必ず変わる。いつまでも平凡な観測者でいても、真理は掴めない。

 神屋は、風に前髪を揺らした。その目に海が映る。

「……負けたよ洋平、解った。君の話じゃ暁も変わっているのだろう? “千里眼”の君が暁に深淵を見たというならば、僕も予め暁について知っておきたい。君も久しぶりの再会だったのだろう? 今夜、率直な感想を聞こう」

「深淵……か」

 暁の深淵とはなんだろうか。結局洋平は暁にそのことを聞くことはなかった。如月の事件がなければ聞いたかもしれないが。しかし、その深淵は神屋にだってある。

「洋平、僕は君に多くは話せない。せいぜい僕が君に言えることは僕が入会している新興宗教のことくらいだろう。それから、僕は暁に多くの嘘を語ることになる。暁が君に何かを聞いた時に、君には僕の嘘に話を合わせてもらう必要がある。そのことについては話すことになるだろう」

「宗教……? それが、お前の深淵か」

「君は気付いているんだろう、僕の深淵はあまりに“非日常”なんだ。君だけだよ、そんなことを見透かすことができたのは。僕はそもそもそれを悟られないためにいままで性格まで変えてきたんだ」

「ふっ……だったら暁にはもっといい演技を見せるんだな」

「忠告ありがとう……まあ、宗教についてはあとで詳しく話すさ。そうだ、僕からも君に忠告しておくよ」

 神屋はようやく自分のペースを取り戻したようだ。俄然、何を考えているか読み難くなった。

「俺に、忠告?」

「“怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ”」

 神屋は、抑揚のない声で言い放った。『善悪の彼岸』の一節だ。

「ニーチェか」

「洋平、僕についてはあまり深く詮索するべきじゃないよ。調べれば、僕が何を背負っているか君には判るのかもしれない。だが、そこで止まらなければ君はいずれ舞台に引き摺り出されるよ。気が付けば闇の中という結末だってあり得る」

「よく、考えておくよ」

 舞台――その舞台にはきっと暁もいるのだろう。喜劇なのか悲劇なのか、それともただ混沌としているだけの迷宮か。神屋の忠告はよく考えておく必要があるだろう。だが、ここで何もしないで日常に戻るのは、あまりに滑稽だ。洋平は、暁のように、そして如月のようになりたかった。

 すっかり日は落ちていた。空には、宝石のような星々が輝いている。如月の赤い宝石の魔力が、もしも自分の手にあるならきっと天の星にかざし、願っただろう。空を見上げると如月の十二星座であるさそり座のアンタレスが輝いている。洋平の十二星座は、その隣の天秤座であるが、余り目立つ星はない。そのせいか、洋平は昔から、ある星が好きだった。それは古くから船乗りの“ミチシルベ”であった星、北極星(ポラリス)である。

「さあ――そろそろ行こう」

 この日、洋平は北の空のポラリスを首星に持つ星座、“こぐま座”を目に焼き付けた。星は、洋平を複雑怪奇な舞台へと導こうとしていた。


実は洋平は前から再登場させようと思っていました。ただのゲストキャラにしておくのはもったいなかったので。これで鬼頭火山篇、帰郷篇、王里神会篇の全てが繋がりました。次回からは竜司のパートです。申し訳ないですが更新は遅れる不定期になるかもしれません。

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