POLARIS
鬼頭火山の提示した危険な作戦の裏で、暁はもう一つの作戦を組み込んでいた。
その作戦の全貌とは――
永田町の喧騒は一見して毎日変わりがない。同じことの繰り返し、人で溢れ、人が引き、そしてまた溢れる。しかし、このままではそれも今日で途切れる連鎖の一つである。王里神会によって予定されているテロの前日、それに対抗するために東京に集結した暁たちは早くも驚天動地の展開に巻き込まれ始めていた。
ビジネスホテルの一室、神屋、高木、冴木、赤城という仲間を前にして、暁はコホンとひとつ咳払いをして、ようやく自らの作戦について語り始めた。
「尾行の実行者は如月という高校生で、戦闘のプロです。尾行や調査も素人レベルではない。彼女が失敗する可能性は低いでしょう。少なくとも尾行は上手くやるはずだ。問題はその先です。そろそろ亜美たちの居場所が判るはずです。それを受けて、俺は如月を襲撃させて二人を救出するつもりでいます。……もちろんこんなことになるとは思っていなかった。万が一の為の作戦だったんです。もしも鬼頭との合流が上手くいっていれば無かった事にするはずだった。だから不安なのは拉致の実行犯が予想以上に強かった場合です。如月はおそらく大抵の人間には勝てますが相手が複数の達人だったら逃げるように言っています。本人は歩き方や警戒の仕方で勝てるかどうかは判別ができると言っていましたが……」
如月の勝算に関しては予想できなかった。そもそも暁は現段階で亜美たちが如何なる方法で拉致されたのか把握していない。強行的な拉致なのか、それとも比較的穏やかに移送するタイプの拉致なのか。
「暁、そもそもにして、監視役がいるならば何故拉致された段階で連絡が来るようにしておかなかった? もちろんなるべく僕らに知らせずに事が済むのが一番だと考えていたのだろうが、拉致されたのが早期に判るならばそれに越したことはないだろう」
神屋はおそらくその場のみんなの疑問を代弁したのだ。現段階では少なくとも「拉致された可能性が高い」ということしか判っていない。監視役がいるならば当然もっとクリアな情報を手にしているはずだと誰もが思うだろう。
「俺ももちろんそうするように言っておいたさ。もしも突然襲いかかってくるようなことや強制的に身柄を拘束するようなことをされている風ならば連絡は向こうから来るはずだ。つまり重要なのは“俺から異常を伝えなければ監視役である如月は拉致であると決定するに至らなかった”ということだよ。だから俺は鬼頭が極めて怪しいと思っている。鬼頭が拉致の首謀者ならば亜美たちは警戒しない。いずれにせよ俺の元に来る報告で拉致された時の様子はある程度判るだろう」
「……なるほど、そういうことか。どうやら現在進行中の君の作戦を先に把握しておいたほうが良さそうだ。僕達には君の言う報告というのがいまいち判っていない」
「そうだな。まずはそれを説明しておく必要がある。俺の計画ではさっき言った監視及び尾行役の如月と、彼女と俺との情報を橋渡しする役割の男が協力者として存在する」
「情報の橋渡し……?」
「ああ。そいつの名は――そうだな……“クマ”だ。俺達は一応匿名で説明ができるようにコードネームを作っていて、その情報伝達役の名前は“クマ”だ。如月は“ヒメ”で、俺は“イザヤ”。とりあえずここでは協力者の一人は“クマ”として説明する」
「クマ……?」
神屋は怪訝な顔をしている。それが誰を指すのか、神屋でさえ判っていない。そもそも二人の協力者に真面目に作戦を伝えた暁に向かって、如月が遊び半分に作ろうと言い始めて一応控えておいたコードネームだ。コードネームから人物を割り出すのは流石の神屋でも不可能だろう。本当に使うかどうかは考えてもいなかった。だが意外にもこのコードネームは役に立っている。
「俺はさっき、鬼頭と協力関係が決裂した後に、“クマ”に電話した。電話の内容はこうだ」
暁は先程の廊下での“クマ”との会話の内容を思い返した。
「もしもし、暁だ。“クマ”か?」
『もしもし――そのくだらないコードネームはやめてくれ、それで、どうした、もしやとは思っていたが問題が発生したか?』
「ああ、悪いが仲間が近くにいる、コードネームを使うぞ。時間がない、簡潔に聞く。そっちから連絡がなかったということは“ヒメ”は緊急事態が起きたと判断しないで、遠目からの尾行に移行しているのか?」
『そうだ。作戦通り、異常なく合流したと判断したら一定時間距離を空けた尾行を行った後に尾行を解除し今回の作戦はなかったことになる。如月は、例の二人は黒いフードの男に連れられて車に乗せられたと報告している。車に乗る直前、やや不穏な空気を感じたと言ってはいたが、合流自体は異常と言えるほどではなかったと言っている』
「車で移動しているんだな? 了解した。“ヒメ”の感覚は当たっているどうやら俺たちは騙されたようだ。“ヒメ”に伝えてくれ、発信機を車につけるように、と。“クマ”、お前は“ヒメ”が発信機を付けた車の位置情報を、判り次第早急に俺に伝えてくれ。それを聴いた上で、“ヒメ”を突入させるか判断する」
『了承した。如月に伝えることは?』
「バレたと判断したら無理せず引いてくれ、それと、発信機を取り付けたらくれぐれも接近した尾行はしないように。尾行対策の二台目が無いとも言い切れない。十分な距離を保ってくれ。発信機があれば尾行は相手の車を視認しなくても可能だ」
暁は会話の内容を慎重に伝えた。おそらくこれで、暁の作戦がどのような内容であったか把握できたはずである。
高木が暫し考え、口を開く。
「つまり、“クマ”という男は、如月という子とリアルタイムで通信できる状態で全く関係ない場所で待機しているのか? そして監視役の如月は亜美ちゃんたちが無事に合流を果たしたとしてもしばらくは慎重に尾行する。その尾行中に暁から連絡があれば発信機を取り付けて姿を消す。そして別の場所から“クマ”が発信機からの情報をマッピングする」
「そうです。“クマ”は鬼頭とも俺達とも関係ない場所にあるホテルの一室でPCとマッピングの設備を整えて待機しています。如月は亜美たちの移送方法に合わせて尾行します。車の可能性も高いと判断してバイクを用意してあります。ヘッドフォンで“クマ”と如月は頻繁に連絡を取り合っています。現在はさっき俺が伝えたとおり、発信機の取り付けを行っているはずです。ある意味最も至近距離に近づくことになるのでここが一つの賭けです。尾行さえバレなければ発信機を外部から設置されるとは考えていないでしょう。それが成功すれば、“クマ”から俺に亜美と宮澤さんの位置情報が伝えられます。そうすれば――」
「その如月という戦闘員に襲撃させて二人を奪還できる……というわけか」
冴木が暁の説明を受けて不安そうに呟いた。冴木の不安がどこにあるか、暁も解っている。
「もちろんこの作戦にはまだ穴がある。成功するかは判りません。まず如月が車に接近するタイミングが難しい。もたもたしていれば発信機を設置する前に敵がアジトに到着する。そうなれば如月一人で襲撃させるのは無理です。そもそも走行中の車を襲撃させるのも基本的に不可能です。俺が希望を賭けているのは、敵の“発信機対策”です。車での移動ならば、途中で車を変えるのではないかと俺は期待しています。それが無理ならば少々襲撃は目立つことになる」
冴木は感心した様子で暁の説明を聞いた。確かに、勝算が無いわけではない。
「なるほど……思ったよりは条件を考慮している。高校生にしては上出来だ。発信機や通信設備は、その如月という高校生がその手の道に通じているということだな?」
「はい、彼女の助けで設備面での準備は比較的容易でした。俺としては全くの一般人の“クマ”を巻き込むことの方が随分と悩みましたが」
“クマ”の作戦参加はある意味で事故のようなものだった。暁としては、最終的には協力を頼むことになったが、いまでも参加させるべきではなかったかもしれないという後悔がある。もしも亜美たちが救出できればその時点で“クマ”を日常に戻すべきだろう。そうすればおそらく彼に被害は及ばない。感謝と同時に、最大の配慮をする必要がある。
暁の作戦が明らかになった今、室内は再び緊張感を増していた。何故、このような事態になったのか。鬼頭火山は王里神会を結託していたのだろうか。もしそうならばこの戦いの根幹が大きく揺らぐ事態だ。否、この件が今までの鬼頭とKの対立構造の中で行われたものであったとしても、基礎が揺らぐことには変わりない。信じ抜いてきた前提が崩壊する。
張り詰めた空気の中暫し沈黙が場を制した。暁は予感めいた何かを感じた。
……状況が動く。
――プルルルルルルル
暁の携帯が静寂を破る着信音を響かせた。
「……来たか」
暁は力強く通話ボタンを押した。
「暁だ。どうなった?」
『上手くいった。数分泳がせたが、バレている様子はないぜ。如月は既に一キロほど離れた場所から追いかけている状態に移行した。現在地は千代田区内だ。どうも目的地まで遠回りをしているとしか思えない。拉致された二人は目隠しでもされて移動距離から場所が割れないようにしているんじゃあねえかな』
「なるほど……それで、その目的地ってのは?」
『正確なことは判らない。だが、どうやら目的地はこの辺りじゃ一番大きな地下駐車場のようだな。ちょうど今はもう使われていないみたいだが。あくまでも俺の予測だけどよぉ、おそらく発信機を使った追跡はここまでだ。車を変える可能性が高い。どうする? 事を起こすならこのタイミングしか無いだろう、今なら安全に如月を送り込める』
「そうか――! 少し待ってくれ! 仲間と相談する」
『早くしろ、もし俺の見込みが当たっていればだが、地下駐車場にはすぐに到着する。猶予は三分もないぞ!』
暁は“クマ”の予想を急いで伝えた。このチャンスを逃せば救出の機会は遠のく。
「もし罠じゃなければ、俺の作戦はうまくいっていることになる。もし駐車場で別の車に変えるならば、亜美たちは一瞬車の外に出ることになる。そのタイミングなら如月が敵を制圧できるかもしれない。どうする?」
暁の提案に最初に答えたのは意外にも赤城克己であった。
「悩んでいる場合ではないだろう。ここまでやって作戦を失敗させたくはあるまい。俺はその如月という戦闘員の実力を知らない。お前が判断しろ、俺は止めん」
次いで神屋が口を開いた。
「上手くいけばこれが次の一手への突破口になるかもしれない。宮澤さんたちに事情を聞き、あわよくば拉致犯からも情報を引き出せる。僕は……君が導き出した作戦を信じる。如月愛の実力も……!」
冴木と高木も神屋に同意した。暁には凄まじいプレッシャーがかかっている。彼の決断が打つ手なしの袋小路から抜け出す一手になるかもしれないのだ。そして同時に、これが失敗すれば犠牲が出ることは免れないだろう。下手をすれば、亜美の命も危ない。
「…………俺が決めなきゃ……救えないんだ」
誰にも聞こえないほどの小さな音となって、心の声が溢れ出た。
……亜美を救わなければならない。宮澤さんも命をかけて味方についてくれた。そして如月たちも……
「よし……! “クマ”、如月に伝えるんだ、地下駐車場にて敵を制圧、亜美と宮澤さんを救出してくれ!」
暁は、今までで最も強い意志を言葉に込めた。瞳には決意の光が宿っていた。
“クマ”は、暁がそれを決断できると確信していたのか、感情のこもった声色で返す。
『了解した――! ウチの“ヒメ”に伝言はあるか?』
暁は如月の腕を信じている。だからこそ、自分の思いを託そうと決めた。
「こう伝えてくれ『俺の代わりに思いっきり拉致犯をぶん殴ってこい』ってな」
暁がそう言うと、“クマ”は「ふっ」と微かに笑った。電話先の音が消える。十数秒して“クマ”の声が戻ってきた。
『たった今、如月を地下駐車場に向かわせた。地下だから通信はしばらくできないだろう、上手くいけば連絡をする。もしも時間が経っても連絡がなければ失敗だ。……それから“ヒメ”様から伝言がある』
如月から伝言――作戦会議の日以降、彼女とは会話をしていない。一体何を言われるのか。
『“今度はアタシが暁の願いを叶えるから”……だそうだ』
「如月……」
暁は別に自分が如月に対して特別なことをしたとは思っていなかった。如月の心境に変化があったとしたらそれは紛れも無く如月本人の力で成し得た変化だ。だが、彼女はきっとそのきっかけを作った暁に恩を感じているのだろう。それを返すことは彼女のひとつのプライドなのだ。
『暁、そこに神屋はいるのか?』
“クマ”は唐突に意外な人物の名を口にした。
「いる……が、それがどうかしたのか」
『電話を代わってくれ』
「何故だ? そんなことをしたらお前の正体がバレるぞ?」
『構わない』
暁は一瞬、迷った。この頼みには応じるべきだろうか、と。しかし数秒考え、問題無いと判断した。冴木や赤城ではなく、神屋ならば、甚大な問題は起き得ないだろう。それに、神屋ならばいずれ自力で“クマ”が誰なのか見破ってしまうに違いない。
「神屋、“クマ”がお前に代わって欲しいと言っている」
神屋は意外そうな顔をした。やはりまだ“クマ”の正体に思い至ってはいないようだ。
「僕に……?」
暁は「ああ」と返し頷いた。“クマ”は神屋に何を話すつもりなのだろう。くだらない世間話の訳はあるまい。
神屋は椅子から立ち上がり、長い腕を伸ばして暁から携帯を受け取った。
「どうも、神屋です。“クマ”……さんですか?」
『……よお、神屋』
「!?」
神屋は電話先の声をよく知っていた。約一ヶ月前に神屋はその声を聞いている。どこか懐かしい声色だ。
「そうか、“クマ”は君だったのか」
『お前ほどの男が気づいていなかったのか』
「暁もそうだが、まさか君が如月愛と繋がっているとは思わなかったよ。君は一ヶ月前のあの時、そんな話を少しもしていなかった」
『俺は言ったはずだぜ、幼馴染にそう幾つも秘密を持つもんじゃねえってな。隠されれば知りたくもなる。これがお前の言うところの“深淵の怪物”か。大層な怪物だ』
「君はこれ以上関わるべきじゃないよ」
『俺もそのつもりはないさ。ただ一言お前に忠告したかっただけさ』
「忠告?」
『“怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ”。お前があの時俺に言った忠告だ。俺もまたお前に同じこの言葉を贈っておこう』
「――――フフッ……君は凄いやつだ。怪物を倒す方法に、自らが怪物になる以外の方法があるというのだろうか。まあ折角の忠告だ、深刻に受け止めておくよ」
『神屋聖孝、怪物に呑まれるなよ』
“クマ”――坂本洋平は旧友を案じる声で、そう言った。
サブタイトルのポラリスはこぐま座の北極星から。道標を指します。