善悪の彼岸
亜美と宮澤が拉致された可能性が高く、鬼頭火山との連携も破綻した、その状況で暁はある人物に電話をかけた。そして神屋、高木、冴木、赤城の待つ部屋に戻った暁は亜美たちの安全のため、秘密を明かす。
八月二十日木曜日 午前八時四〇分
東京都千代田区永田町 某ビジネスホテル
如月愛による篠原亜美、宮澤睦の救出、数十分前
「冴木さん……いや、皆。俺は皆に隠していたことがある」
暁のその言葉によって、決して広くはないこの空間に静寂と緊張が訪れた。
暁は最初に冴木の目を見た。そして神屋、高木の目を見る。最後に赤城……赤城の鷹のような目は酷く威嚇的だった。赤城は灰皿に短くなった煙草を押し付けた。そして新しい煙草に火をつける。
「聞こうじゃないか、“一般人の”高校生が果たして今まで共に戦ってきた仲間に何を隠していたか。内容によっては俺はこの件から手を引くがな」
赤城は少し荒らげていた声のトーンを落とした。彼の様子を見て神屋たちも一息ついて暁の話を聞く体制に入る。
「まず……」
暁は迷った。一体何から話すべきか。問題は冴木刑事である。警察が介入したのは暁にとって想定外であった。数日前、高木が冴木の存在を明かした時、暁もまた「新しい協力者」について、その存在を明かそうか迷ったのだ。だが結局彼らの存在は暁の胸のうちに留めておいた。もしも彼らの出番がなかったならば、きっとそれが一番良いことだったのだ。
“殺し屋”についての話はとりあえず最後に回そう、暁は焦燥感を抑えながらどうにかそう判断した。
「まず、鬼頭火山との合流場所周辺の監視カメラを調べる必要は多分無いです。そもそもそんな時間はないと思います。時間がかかれば二人を拉致したのが鬼頭であれ王里神会であれ“どっちも”であれ、監禁場所に到着する。そうなったらきっともう救出は難しい。救出できたとしても二人が無事とは限らない」
暁はあえて自分で最悪のケースを口にして、僅かに震えた。もしも――もしも亜美が犠牲になったら、そう考えると悠長なこと言っていられない。
「暁、そうは言っても、監視カメラを調べるのが最短で二人を救出する方法だろう。それとも君は篠原さんや宮澤さんが今リアルタイムでどこに居るのか判るとでも言うのかい?」
神屋は鋭かった。さすがにこの状況でも冷静である。おそらく彼だけは暁が隠していたことがどの類のものか見破っている。
「鬼頭火山は追跡や盗聴を可能とする機器を身につけることを禁止した。だから俺は監視役を置いたんです。鬼頭と亜美たちが少なくとも無事に会うことができるかを監視する役を。そしてその監視役にはできるところまで尾行してもらっている。具体的には人気がない場所に移動したら安全のため追尾をやめるというような条件で可能なところまでの追跡をしてもらっています」
「尾行……一体誰にそんなことを頼んだ? 暁、解っているだろうが素人の尾行など一瞬でバレる。もしも尾行をつけていたならばそれを見破られて篠原さんたちが拉致された可能性だってあるよ」
神屋は真剣な顔で言った。確かに神屋の言うとおり、暁の付けた尾行がもしも鬼頭にバレてしまえば契約違反として二人を拉致する強行に及ぶ可能性がないとはいえない。
「その点はおそらく問題なかったはずだ。俺が尾行を依頼したのは素人ではない。そして今この瞬間は既にバレるような距離での尾行はしていないはずだ。……だが、正確な位置情報はまもなく届く」
「まもなく届く……? 暁、君は誰にどうやって何を依頼した? 僕が現れるまで君は平凡な毎日を送っていたはずだ。君にそんなことができるとは思えない」
「それを話すわけにはいかないんだ。俺は俺なりに、“俺以上の一般人”を事件に巻き込んでしまうことの責任と考慮をしている。誰にも名前を言わなければ、この後そいつが何かされることはまずない。それに一人は冴木さんのいる前では名前と依頼の経緯を言う訳にはいかない。必要悪とも言える存在なんだ」
如月愛――「殺し屋」の存在について暁が言えるのはこれが限界だった。これ以上は冴木との交渉が必要になる。それに「もう一人の仲間」に関しては、暁も特に熟慮した上で協力してもらった人物だ。本来なら絶対にこの件に名前が上がることのない人物である。たとえ味方にも、簡単に名前は明かせない。
「暁、君の用意した人間は二人ということか」
高木が不安げに口を開いた。慎重になっている。高木は暁たちの保護者のような立ち位置だった。責任があるのだろう、暁が味方を新たに引き入れるタイミングがあったとすれば、鬼頭との作戦会議の期間だ。数日前に暁はトニーを護衛につけて二時間だけ外出していた。それを許可したのは高木だった。唯一の戦闘員であるトニーが高木邸を離れることを解った上での外出許可だ、それだけの理由があると察し、高木は暁を信用した。だがその結果暁は独断で動いた。高木もまた独断で冴木を仲間に引き入れたし、神屋はやはり独断で宮澤と接触した過去がある。だが暁が独断で大きな決断をしたのはあまりにも意外だったのだ。だからこそ――高木は最もその明かせない秘密の内容を不安視している。
「そうです。俺が呼んだのは二人です。二人でなければ安全な作戦は立てられないと判断しました。しかし、二人とも素性は簡単には言えない……」
「てめえ……いい加減にしろ小僧が!」
突然赤城が怒鳴り声を上げた。否、この場合一番状況を把握していないのは彼だろう。彼にとっては不満が大いにあって然るべしであった。
「言えない、で済む問題じゃねえ。お前が秘匿した情報一つが命取りになることだってある。情報というのは生きてるんだ。情報が人を殺すことだってある。たかが高校生が俺たちに対等に駆け引きしようというわけか? 言っておくがお前はまだド素人だ!」
赤城はギラギラとした目つきで暁を睨んだ。だがどこか展開の変化を楽しんでいるような目であるようにも、暁には見えていた。彼の言うところの「たかが高校生」が何をしたのか興味がないでもないのだろう。暁としても最早赤城に怯えている場合でもない。暁は成長している。たった十数日間の非日常が、突然の「戦争」が、単なる高校生の枠を超えさせていた。
「赤城さん、俺だってあなたの言っていることは解っているつもりです。だから僕の提案に乗っていただきたい。まずは約束をしてもらいます。俺が作戦に組み込んだのは実行者と補助者の二人だ。実行者については冴木さんに一つの確約をいただかないと詳細は話せません。補助者についてはこの場の全員に今後一切、その補助者に事件についての用件で関わらないことを約束していただきたい」
冴木が暁の目を見る。彼には解ったはずである。暁が彼を名指ししたことの意味が。
そして冴木が何か発言をしようとした瞬間に、神屋が手を上げて「待って欲しい」と合図をした。
「暁、僕には君の作戦が朧気に見えてきた。そうか……なるほど君はどういうわけか“あの悲痛な境遇を持つ少女”のことを知っていたわけだね」
「!?」
暁は目を見開いた。いま、神屋は何を言った?
如月愛のことはまだ何も話していない。だが神屋は「悲痛な境遇を持つ少女」と言った。どう考えてもこの状況ではそれは如月を指す言葉だ。何故、神屋が「如月愛が殺し屋であること」を知っているのか。暁は目に見えて狼狽した。
「神屋、お前知っていたのか? そうか、お前なら確かに知っている可能性もないわけではない。だが今回ばかりはさすがに驚いた」
「驚いたのは僕の方だ。何故君があんな物騒な裏情報を知っている? それに彼女は特に君と親しかったわけではないだろう。どう考えても、うまくいくはずがない。仮に君が彼女の秘密を知っていても彼女は君の依頼に応じるはずがない。君は知っているかもしれないが、彼女は裏世界での生活が『日常』だったんだ。それを深刻に悩んでいたとも言える。正直、彼女の父親ならともかく、彼女自身に関してはあの仕事は重荷だろう。酷であるとしか言いようがない。君が軽々しく依頼したら寧ろ君は始末されていてもおかしくない」
驚くほどに神屋の予想は当たっていた。まさに一ヶ月ほど前、暁は殺されかけたのだ。殺し屋の娘であることの特異性、母親と兄を失ったこと、簡単に「自分を愛そう」とすることへの反発。そして人を好きになることの恐怖。快活過ぎる「表」の顔と、その内面に潜む重大な影。最初に真の如月と会った時に暁が殺されていなかったのは幸運でもあった。あるいは「偶然」か「奇跡」か。あの田舎での事件がなければ、暁と如月に強い絆など決して生まれていなかった。
「悪いがここで詳細を話す余裕はない。ともかく神屋、お前の知っている彼女の情報は最新のものじゃあない。彼女の闇は完全には解決していないが、約一ヶ月前、俺と彼女の間には強固な絆ができた。絶対に信用できる」
「……なるほど、まあいい。まず本当に彼女が君に味方をしたということなら、君が言うように信用できる関係になったということだろう。一ヶ月前か、つまり君が帰省している間に稀有な事件が起きて君は彼女の秘密を知り彼女を救済したということか。なんとも君は奇妙な事件ばかりに出遭っているな」
神屋は暁から帰郷時に何があったのか詳細を聞きたいという欲求を半ば無理矢理に抑え込んだ。確かにそれを聞いている余裕はないだろう。納得はしかねるが、如月にとって暁が信用に足る存在になった、そして暁にとっても如月が信用できる親友のような存在になったことは確かなのだろう。
「暁、君が冴木さんに交渉したいことも理解した。彼女について調べられるとマズイのは確かだ。僕も、何も考慮しない“正義感”だけで彼女を警察に引き渡すことをよしとは思わない。善悪はともかくとして、今回の件でもしも君の作戦がこの戦いの光を掴むような結果を齎したら、僕にもひとつ恩義ができる。冴木さん、僕からも頼みがある」
神屋は冴木と向き合った。冴木は何がなんだか解らないという様子だった。
「君たちの会話は少しも意味が判らなかったが、君たちは私の警察としての立場を憂慮しているということは判った。一体何を望む?」
「冴木さん、暁の作戦はもしかしたら本当に最善策かもしれません。ともかく彼の話を聞くためにも、あなたにはここで聞く話を警察として聞かなかったことにしていただきたい。畢竟するに、暁の協力者は警察からしたら犯罪者に当たります。しかし今回は僕も僕の仲間も少なからず罪を犯している。どうか我々と同じ待遇を暁の協力者にもしてやって欲しい」
神屋は頭を下げた。暁もそれに倣って深く頭を下げる。確かに神屋は裏の情報屋や死体処理の専門家と連絡を取っているし、王里神会幹部として犯罪の情報を秘匿したりしている。トニーに関してもそうだろう、彼に関しては正当防衛とはいえ沢山の命を奪っている。神屋やその仲間もまた本来刑事と仲良く戦えるような立場ではない。
「……もちろん刑事としては、本来それは了解できない」
冴木はそう言った。だが含みがある。
「了解はできないが……私は刑事としては君たちの話を聞いてなどいない。今更君たちの犯罪行為を事細かに暴いても無闇に犠牲者を増やすだけだ。それに――赤城、お前も叩けば埃が出るだろう?」
赤城は黙している。だがかすかに笑ったように見えた。何本目かの煙草をふかしている。
「もし私が何か不義理を起こすようなことがあれば、私も刑事の職を辞す。今も上の命令に背いて動いているんだ。私達は皆、自分の犠牲を担保にしているようなものだ。これ以上私に警察官らしくないことを言わせないでくれ。もう私達は、仲間だ」
冴木は穏やかな表情で言った。暁は思った、きっとこの人は正義感もあるが優しさもある。
「ありがとうございます」
暁はただ一言、そう言った。それだけでいい。この人はきっと裏切らない。
「尾行を実行しているのは――」
言いかけた暁に神屋が近づく。神屋はそっと暁に耳打ちをした。
『君のことだ、今回の件で死人は出すつもりがないのだろう。ならば如月愛がその道の者と紹介することはない。調べればバレるだろうが積極的に言いたいことでもないだろう? ちなみに僕が彼女について知っていたのは単なる偶然だ。彼女の父親を調査する機会があってたまたま娘のことも知ったに過ぎない。詳細を調べたのは僕の好奇心だ。同級生だしね。だからこの件は王里神会にも報せていない。安心して話していい』
『そうか、少し安心した。ありがとう、後で帰郷した時のことを話すよ』
神屋の助けは暁の不安を軽減させる十分な要素であった。彼がいなかったら冴木に上手く話せていたか分からない。暁は、やはり神屋には敵わないと思った。如月のことを知っていたこともそうだが、状況の理解が天才的に早い。彼に何度助けられたか分からないだろう。心の中で、暁は神屋に深く感謝した。
高木が語った神屋の危機について、暁は思い出した。何のことを言っていたのか今でも暁は解っていない。しかし神屋が道を誤った時は、自分がそれを止める。少なくとも高木はそう考えて暁を実行班に入れたのだ。鬼頭火山やKに選ばれた駒はどこまで行っても彼らの手のひらの上かもしれない。しかし高木と暁は鬼頭火山が直接選んだ人間ではない。だからこそ、神屋が誤った時、それを止めるのは高木や暁であるという。そして暁は神屋の友だ。それが暁こそが神屋を救済できる理由だと高木は考えている。
暁には神屋がそんな誤りをするとは思えなかった。この十数日、いつだって神屋は暁を助けてきた。果たして自分が神屋を救う時が来るのだろうか。答えの判らない疑問だった。だが、だからこそ本当にそんなことになった時はやり遂げようと暁は思っている。暁にとって神屋は既に単なる仲間ではなく、親友だった。
「では――俺の作戦と協力者について話します」
いまの暁の言葉は、ようやく全員に注目されるだけの重みを持ち始めていた。
サブタイトル『善悪の彼岸』はニーチェの著書です。
ちなみにこの本の副題は「将来の哲学への序曲」