知識と閃きと――
‐1‐
目を覚ますと、カーテンから光が漏れていた。時計は八時二十五分を差している。外崎暁はベッドから降りて伸びをするともう一度時計を見た。
ヤバイ……絶対遅刻だろこれ!!!!
暁は着替えるとすぐに家を出て、走った。どうせ冷蔵庫にはろくなものは無いはずだ。朝食をとるつもりはなかった。にしても、一昨日も同じルートを走ったような……。
「おーい!!」
後方から聞き覚えのある声が聞こえる。関わりあいたくないので、そのまま加速して振り切ることにした。
一方、暁の後方を走っていた男、木原晋也は暁が加速したのを見てにやりと笑った。
「にゃろ~、この俺から逃げようってか」
晋也は暁のクラスの違う同級生だ。「典型的チャラ男」と呼ばれているほどの、だらしのない若者の代表である。
晋也が暁に追いついたのはその一分後だった。
「ちっ、追いつきやがったな」
「逃げんなって。もう遅刻の心配はないだろ?」
事実、晋也から逃げることで多少の余裕は生まれたようだ。暁はここからは歩くことにした。
「お前さ、あんまり俺に近づくなよ。亜美にも俺たちが仲良しだと勘違いされてんだぜ」
暁は露骨にいやな顔をしてみせた。
「ひでーなー。ウチの学園の数少ないおな中だろ~?」
「死語だろ、それ」
「ナニナニ? 亜美ちゃんと二人きりで遊びたいわけ?」
こいつといるとイライラする。心の底からそう思っていた。
「お前と一緒にいるのが嫌なだけだ」
「ふーん。俺はてっきり『あのこと』を忘れて楽しくやっていく決心が出来たのかと思ったけどね……」
「…………」
暁は立ち止まった。
「もう一度言ってみろ、晋也」
暁の目は鋭い視線を晋也に向けて放っていた。
「お、おい……。冗談だって……。お、お前の気持ちはマジでよく分かってるさ。悪かったよ……な?」
「あのこと……亜美に話すんじゃねーぞ」
「ああ。分かってるよ。…………ほ、ほら、遅刻すんぞ。俺は先行くかんな。遅れんなよ」
晋也が去ったのを確認してから、暁はまた走り始めた。
「セーフだよ、暁。気を付けないと、今日は授業抜けるんだからさ」
チャイムと同時に着席すると、亜美が近づいてきてそう言った。
「授業抜け出すのと、遅刻すんのはカンケーないだろ?」
「あるよ。先生に見つかったら抜け出しにくくなるもん」
「どっちでも同じだろ……この学校、学力はまあまあだけど、ゆるいし」
つい、亜美を味方する発言をしてしまい後悔した。
「じゃ、決定。先生来る前に抜けよ?」
まさか、とは思っていたがどうやら本気の脱出を図るようだ。
「マジでやんのか?」
「晋也に無理やり連れてかれたってことにするから平気だよ」
その一言が決定打だった。
「へぇー。なるほどね。……それじゃ、了承しよう」
「やった! そうこなくちゃ。じゃあ、屋上にでも行きますか」
ホームルームを無視して、暁と亜美は屋上に向かった。亜美に、授業を受けたくなかっただけだろ、と疑いの目を向けながら。
屋上には爽やかな風が吹いていた。広いスペースにベンチが1つという殺風景な場所ではあるが学校という縛られた空間から独立した空間であるような雰囲気があった。校庭では、一年生がスポーツテストをしていた。二人はベンチに腰掛けると、それぞれコピーしておいた暗号を取り出し、解読を始めた。
「で、亜美? 暗号は解けたのか?」
無理だと分かっていたが、試しに聞いてみると
「無理だよー、全然解んないし」
と予想どおりの返答だった。
「ねえ、『ノア』ってなあに?」
唐突な質問だった。暗号の前半、言葉の羅列の中にある「ノア」のことをいっているのだろう。
「多分、聖書のノアの箱舟のエピソードに出てくる『ノア』だろ」
「やっぱりそっか。でもさ、あの羅列ってつながりないんだよね」
正直、ヒントなしでは難しいように思われた。犯人を当てるのは得意な暁だが、暗号となると話は別だ。それに、どう見ても言葉の羅列に共通項はなかった。
「もう無理。あたし、頭痛くなってきた」
「ああ、何も思いつかない。参ったな、ホント」
時間はただ過ぎ去っていくだけで、何のヒントもくれやしなかった。くだらない話をしながら数時間が過ぎた。その間も絶えず暗号を見ていたがインスピレーションはなく、傍から見たら怠惰な気持ちに負け、だらけている高校生でしかなかった。暁はいつの間にやら座っていたベンチから追い出され、そのベンチには亜美が寝そべって、退屈そうに足をバタバタさせていた。
「お昼何食べる?」
「学食でカレー」
「ふーん。あたし、パンでいいや。あっ、そういえば、パンといえば昨日学校の帰り道にあるパン屋で松田見たよ」
暁は松田と聞いてピンとこなかった。知り合いに松田なる者がいただろうか?
「誰だっけ?」
「合唱部の顧問、英語科の松田だよ」
亜美は呆れ顔で言った。
「ああ~。いたな、そんなの。一年のとき英語の担当だったやつだよな、確か。でも、アイツがどうした?」
「別に。見ただけ」
「なんだ、不倫でもしてたのかと思った」
完全に暗号の話から逸れていた。一瞬、亜美は暗号の存在を忘れてるんじゃないかと思ったが、次の一言でそれが杞憂だったと知った。
「どうせ解んないしさ、単語を英語にでもしてみる?」
もともと関係のないものでも変換することで共通項を見つけられるかもしれない。可能性は低いかもしれないが、念のため試してみても悪くはなかった。
「ちょっと待ってて」
亜美は暗号解読のために電子辞書を持ってきていたので、スクールバッグから取り出し、単語を英語に直し始めた。
二、三分経って亜美はメモを渡してきた。
「どう? 何か気付きそう?」
メモの左側には日本語が、右側には英語が書かれていた。
市場 a market
内閣 a cabinet
最果て the farthest land
大雨 a heavy rain
ノア noah
図案 a design
書斎 a study
館長 a director
ニアミス a near miss
行雲 Floating clouds
ケア care
「うーん。やっぱり解んないな……ん?」
ふと、暁はこの表に間違いを見つけた。
「なあ、亜美。『noah』って人名だから『Noah』だろ?」
「あっ、そーか。そうだよね、書き間違えちゃった……」
この瞬間暁はある重大なことに気が付いた。最初の文字だ……。全ては「初め」に記されていたのだ。
「謎は全て解けた!」
暁は何処かの探偵漫画の主人公の気分で声高々と言い放った。
「えっ、マジですか!! 何? 何が分かったのよ?」
「言ったろ。全てだ」
「もー!! めんどくさいなー!! 早く言いなさいよー」
亜美は真相が知りたくてしょうがないようだ。
「亜美、お前、書いてて気付かなかったのか? このメモを縦に読んでみな」
「……えっ、縦に? …………あっ!!!!」
それぞれの単語の初めの一文字を読み繋げると「市内最大ノ図書館ニ行ケ」となるのだ。つまり「初めが肝心である」とはそういうことだった。
「凄い!! さすが暁。よく思いついたね?」
「お前が『Noah』を小文字で書かなかったら解らなかったよ。縦読みなんていきなり思いつけないし」
偶然ではあったが、この一歩は大きかった。
「よおし。あとは後半の解読だけだね」
「いや、その必要はないよ」
暁の一言に亜美は目を丸くしていた。
「な、何で?」
「図書館の棚に数字が書いてあるのを見たことがあるだろ? アレは日本十進分類法っていう方法で本を分類して分野ごとに本を置いてるからなんだ。つまり、後半の数字は分類を表している」
暁はざっと説明しながら携帯電話を取り出してネットに接続した。
「なるほど……でも、それぞれの数字が何を表してるのか分かるの?」
「それを今から調べるんだよ」
暁は検索フォームに「日本十進分類法」と入力して、『鉢』『位置』『位置・灸・霊』つまり、『8』『1』『190』が分類法上で何を示すのか調べた。
「よし! 分かったぞ。『8』は『言語』に関わる本、『1』は『哲学』に関わる本、『190』は哲学の中の『キリスト教』を示してる。『禄・霊・灸』のパーツとはおそらく『609』のページのことだろう。となれば『荷・酸・霊』『荷・酸・位置』は『230』『231』ページということになる」
それを聞くと、亜美は実際に暗号を訳してみせた。
「さっき暁が言ったことを暗号文に反映させてみるね。『市内最大の図書館に行け。言語に関する本の棚の中に哲学に関する本が混ざっている。哲学に関する本とは詳しく言えば、キリスト教に関する本であり、六〇九ページからなる。その本の二三〇ページと二三一ページの間には次の暗号が隠されている』」
亜美の訳はほとんど正しいものであると、暁は確信していた。
「ついに、解いたな。意外に早かった。まあ、最初の暗号だけど……」
「うん。暁と協力して正解だったみたい。学校終わったらすぐに図書館だよ。棚の整理とかされたらシャレになんないからさ」
亜美の言うとおりだった。今回の暗号を解いて分かった。この勝負は時間との戦いでもあるということが。
屋上の爽やかな風は二人にとって追い風であるようであった。
「亜美、勝つぞ、この勝負」
「うん。絶対ね」
今、鬼頭火山との真剣勝負の火蓋が切って落とされた。
縦読みは理解していただいたと思います。
さて、問題は日本十進分類法のくだりですが、解ってもらえたかなぁ。
まさに「知識と閃きと」が必要なわけです。
ある程度の運と発想力、知識がないと解けない仕組みになってるので、僕の暗号は。
現文の先生に「図書館の分類の数字何て言うんですか」って質問したなぁ。
懐かしいですww