二つの力
永田町に建つとあるビジネスホテル。鏡台、ベッド、机、数脚の椅子が整然と並ぶ室内で四人は未だ起立したままだった。
冴木のいきなりの涙に当惑した暁、神屋、高木だったが、冴木の感慨を込めた言葉の意味は皆理解していた。だからこそ三人は自分たちの行動が無意味でなかったのだと改めて感じられた。
「申し遅れたが、警視庁刑事部捜査一課長の冴木だ。予め聞いていたとは思うが、今回の作戦に協力する人間の一人だと思ってくれ。少なくとも俺のことは信用してくれていい」
空調の効いたビジネスホテルの一室で冴木は言った。涙を拭ったハンカチは畳まれた状態で彼の左手に持たれている。
暁は冴木の様子を見て、迫力とその気質を感じていた。正義という言葉が似合う人に違いない。
高木は沈黙する暁と神屋に自己紹介を促した。それを受けて暁は背筋を伸ばして口を開いた。
「外崎暁です。えーと、この中では一番普通で非力な高校生です……が、出来るだけのことはしたいと思います」
暁は申し訳なさそうに金色の髪を掻き上げた。悪事を働いた訳でもないのに警察と聞くと改まってしまう。それを見て冴木は微笑した。
「俺が君くらいの頃にこんな事件に巻き込まれたならば、きっと逃げ出している。ここにいるだけで君は十分に強い」
実際は、ここまで事態が深刻になるまでに逃げるタイミングを逸したのかもしれない。暁は自分でそう思っていた。だが、結果として今では逃げるつもりはない。状況が心を決めるのも悪くはない。それに、暁は自分が逃げるという判断を下すことは、どちらにせよなかっただろうと思っていた。何かを失うかもしれないということは、それだけで怖いことなのだ。
続いて、コホンと咳をして神屋が口を開いた。
「神屋聖孝です。ここまでの主な指揮は僕が二人の助けを借りつつ執り行いました。冴木さんは高木さんが信頼する人で、しかも刑事。プロの意見が反映されれば僕らもより動きやすくなると思います。協力感謝します」
神屋はナイフのように鋭い瞳を意識的に韜晦して言った。目的を達成する時が近づく中、彼は思考を研ぎ澄ましていた。どうにかしてKと相対しなければならない。そしてそれを邪魔されてはいけない。あくまでも指揮は自分が執ると暗に示したつもりだった。
……復讐を阻止されない為に注視すべきは刑事であるこの人だ。
「君が神屋君か……只者でないことが解るよ。なるほど君たちが簡単に始末されなかった理由が判然としたよ。神屋聖孝、君の内には幾人もの賢人が眠っている。君一人で、王里神会幹部を何人分兼ねていたか底が知れんな。知能と技術的な能力は高木に劣っても、情報処理と思考力は高木よりも、そして刑事の俺よりも上だろうな」
冴木は峻烈な視線を一瞬神屋に向けた。しかし、それでも神屋は泰然としていて、全く動じなかった。暁や高木が冴木の意味深な視線に気づく前には、冴木は朗らかな瞳に戻っていた。
「冴木さんは見ただけで人の資質が判るのですか?」
神屋は微笑して返した。神屋には冴木の言葉が世辞だとは感じなかったのだ。
「見ただけではないさ。高木からどういう人間かは聞いている。そして、実際に相見えて予想以上に異彩のある人物だと確信したよ」
冴木は真実を述べていた。彼は対面したその瞬間、神屋の本質を見抜いた。高木から聞いていた神屋の人間性、実力を超える「異常」を察知していたのだ。神屋のKに対する私怨は高木から知らされていたが、実際に会った神屋からは単なる私怨とは違う空気を感じていた。
……神屋聖孝、この男は凍てついている。誰かが止めなければ鬼になる。
冴木は自身の経験則から神屋の精神的危機を察知していた。
「質問してもいいですか? 冴木さん」
神屋は言いながらベッドに座った。それを見て高木は冴木に椅子を出した。冴木が座るのを見て暁と高木も椅子に落ち着いた。
「何だ?」
「王里神会による六月の連続殺人や鮎川哲郎文科相暗殺事件、ホテルRenaissance襲撃事件は警察及びマスコミでどのような状況が認識されていますか?」
「皆、捜査中だ。中には俺が指揮したものがある。だが、捜査中とは体裁を繕う方便だ。上から特殊な指令が出ている。真相には迫れない。その指令に王里神会が関わっていることに間違いはないだろう。警察は今、関東を中心に停止状態に陥っている。だが上の命令が出ればすぐにでも全国的な停止が起きる。ここで言う停止とは王里神会の傘下で犯罪を容認するシステムだ。……とはいえ、Kの目的が達成されれば、王里神会すらどうなるか判らんがな」
「では我々の作戦で警察の停止を解いた後に最速で動き出せる人員はどの程度ですか?」
「俺を信頼してくれた者たちと、家族や友人の為にも保身せざるを得なかった者達はすぐにでも動き出すだろう。数は現段階では断言できない。作戦が中途で終わっても関係なく出動することを約束してくれたのは埼玉県警と神奈川県警だが、これも全員とは言えない。警察を味方にするには作戦の成功が必須だろう」
冴木は神屋の質問に丁寧に答えた。神屋は「なるほど」と小さく呟いて数秒の間情報を整理した。
暁や高木も冴木の言葉を聞いて自分たちなりに作戦を脳内で再生する。致命的な誤りはないか――と。
「想像以上にマスコミの力が必要そうですね。現状では警察の動きは完全に王里神会に監視され封じられている。現在に至るまでにどうにかして打開策を立てられればよかったのですが、残念ながら王里神会幹部の藤原が政界に影響力を持っていたことで、多くの手は最初から阻まれていました。こちらが攻撃に転じる最大のチャンスは明日のみ。少々不安はあっても、やはり彼の協力を仰ぐことになりそうですね」
神屋は険しい表情だった。神屋が「彼」と呼ぶ男は、テロ予定日前日まで作戦に参加させるかどうかの決定を保留していたキーパーソンである。慎重な神屋としては積極的に関わり合いたい人物ではなかった。
決断しきれない様子の神屋を見て高木は言う。
「冴木さん、赤城克弥氏は協力を仰ぐことになった場合に備えて近くに呼んであるんですよね」
「ああ、ただし午前十時までだ。その時刻を過ぎれば、彼はこちらに付くとは限らない。それが赤城の提示した条件だ」
冴木に次ぐキーパーソン――赤城克弥は冴木が前もって用意した場所に待機していた。協力を要請することが正式に決まった場合にのみ直接面会するということになっている。
高木は冴木の返答に頷き、言葉を続けた。
「警察が王里神会の命令に従っている現状は誰が見ても『悪』だ。だが国民はそれを批判しない。その理由は国民が、王里神会の目論見と各界への黒い影響力を知っていないからだ。その状態はすぐにでも解消する必要がある。神屋……ここは決断するしかない」
高木は強い意志で神屋の背中を押した。
「解りました高木さん、ここは赤城氏にこちら側に付いてもらいましょう。警戒はしておかねばなりませんが」
神屋はそう言うと、冴木に赤城への連絡を促した。冴木は黒い携帯電話をポケットから取り出し、あらかじめ用意していたメールを赤城へと送信した。
傍で話を聞いていた暁は再度作戦を確認したかった。どうしても不安は募る。
「えーと、赤城って人が作戦に加わるってことはメディアを積極的に動かすってことだよな。警察が踏み切れないのは王里神会傘下の権力者がいる上に、王里神会自体の崩壊が望めないからで、俺たちはその状況を壊す。基本的にはマスコミにも王里神会の力が及んでいるからアンチ王里神会の批判は世に流れない。だがそうであるはずのマスコミに王里神会の暗部を指摘させることで、警察を無理にでも動かす。神屋、そういうことだよな?」
「上手くいけば……ね。今回の作戦はマスコミと警察という二つの強大な力が封じられている現状で、いかにマスコミを動かすかが鍵になる。マスコミが一度でも王里神会に矛先を向ければ、警察はそこで初めて選択肢を呈示されることになる。王里神会側の立場を貫くか、正義に従うか。だが実際は、警察は一枚岩ではない。前者の選択を足並み揃えて守っている現在の状況が異常なんだ。冴木さんの尽力もあって警察内部で後者の選択が正しいと強く思っている人間が増えているはずだ。そこで最後の一押しをする。マスコミが王里神会の批判をすることで今まで許されなかった後者の選択肢を選び、行動に移せる大義名分が出来る。たとえ上層部がそれを許したくないとしても、素人とはいえ数が圧倒的である国民が後者の選択を望めば警察は動かざるを得ない。それに加え、今までは小さな週刊誌が小さな悪事を記事にしていた程度で、実質的に勝算がなかった警察もマスコミが大きく批判すれば勝算を得る。王里神会に歯向かうことへの恐怖よりも王里神会を摘発しなかった場合における未来の恐怖の方が増した時、警察は本来の役目を思い出す」
「しかし……日本中が大騒ぎになるだろうな……」
暁はKの革命とは別の意味で革命的な出来事になるだろうと思った。日本だけでなく世界でも注目される事件になる。
「僕らが何もしなくても大騒ぎさ。何かしらの事件が起きることは決定的だからね。ところで、冴木さん、赤城氏はどれくらいでここに来ますか?」
神屋は自身がKに向けて銃口を向けているイメージを思い浮かべ、一瞬悲しげな表情をしたが、軽く頭を振って本心を隠すように冴木に問うた。
「数分後には来るだろう。正直な所、俺は赤城をかなり近くに呼んである。通りを挟んだこのホテルの向かいの店だ。八時五分頃にはこちらに到着するだろう」
応える冴木はいつの間にか手帳に目を落としていた。警察手帳ではない。市販の革製のカバーの付いたダークブラウンの手帳だった。神屋には何を確認しているのかは判らなかった。
冴木は赤城の作戦介入を半ば確信していた。当然、警察の内情とマスコミとの関係、国民の性質、どれも冴木には解りきっていることであった。そうなれば赤城の必要性は高まる。
だが、冴木が危惧している点もまた赤城の不透明さだった。実際に会うのは久しいが、警察を前にしても臆さない泰然とした性格は変わっていないであろうと見当がつく。
数秒間の沈黙が訪れた。
「八時か……」
間が持てなくなり、暁が不安の声を上げた。高木が腕時計を見ながら暁の不安に同調する。
時計の針は八時丁度を示していた。
「亜美ちゃんと宮澤は十中八九合流できたと思うが、鬼頭の接触はまだなのか」
高木は妙な胸騒ぎを感じていた。暁の不安とは異質の予感めいたものだった。
その様を見る神屋は極めて冷静だった。
「まだ心配するには早いですよ、高木さん。八時以降の接触はまだ想定内です。もう少し経っても連絡がなければ、さすがに妙ではありますが……」
「まあ……な」
高木は締め切られている黒い遮光カーテンの方に意味なく視線を逸らした。
それからは数分間、神屋と冴木の情報交換が行われた。暁と高木は会話に入らなかった。
すると、冴木の言ったとおり、八時五分になった頃に、ドアが特徴的なリズムでノックされた。
「来たか」
冴木が低い声で呟いた。全員がドアに向かって緊張の目を向けた。冴木は扉に近づきドアノブに手を掛ける。
「入れ」
ゆっくりとドアを押し、力強くそう言い放った冴木に対面した形でほんの一瞬ピタリと動きを止めた赤城は次の瞬間には静かに入室した。
暁と神屋は赤城を視界にとらえた時、全く同じ既知の人物のイメージを想起した。宮澤睦――外見と雰囲気が宮澤によく似ていたのだ。暁はその鷹のような瞳を見て寒気を感じた。
僅かな沈黙の後、赤城は不気味に口角を上げた。
「俺に信頼とネタを用意しろ、そうすれば協力を考えよう」
赤城克弥は細身で長身なその肉体の内から、独特な凄みを纏った声を響かせた。