静夜
更新遅れて申し訳ありません。
次回はいつもの2週間後、あるいは遅れて3週間後の更新になるかと思います。
その後の更新については現在検討中です。
どちらにせよ、鬼頭火山編から長きに渡って書かれることとなった伏線が回収され始めています。
今回は物語がひとつの終息へ向かいつつあるという雰囲気を味わっていただければ幸いです。
少しずつ疑問や謎が解消され、いずれ起こる大きな動きへの静かな変動を書いたつもりです。
-1-
八月十三日木曜日、正午
鬼頭との次の会議までの間、四人は時間を余すこととなった。この緊迫した展開の中、時間の猶予が出来るというのは些か不自然で、妙な話ではあるが、今後の「作戦」においての全ては鬼頭火山のもつ情報と考えに依存する。鬼頭が何も話さないならば、暁達は動きようがないのだ。
四人は「最後」の休息を取ることにした。今後、いつ休息が摂れるか分からない。勿論彼らは外部に身を晒す訳にはいかない。よって、高木宅での自由休息というわけであるが、今日は各々別の部屋に身を置いた。早めの昼食を終え、それぞれが自室に戻って行った。
神屋聖孝は、暁に割り振られた部屋の近くに置かれた部屋で休息を摂っていた。部屋には窓、テーブル、ソファが一つずつある八畳程の部屋だ。壁紙は白く新しかった。
神屋は、携帯電話を取り出した。宮澤睦に協力の要請をする必要があるからだ。事後報告ではあるが、宮澤の協力は獲得できるはずだ。これは神屋の無意識下での判断だった。
神屋は自分の復讐心に気づき悩んでいた。復讐をやめることなど出来るはずがない。両親を殺され、殺された理由を探れば探るほど、自分の信じた教団と両親の死が繋がっていく。王里神会はその変化の為に正義を排したのだ。神屋の両親は優秀な数学者であり、同時に幸福を信じる人間だった。王里神会のその行く先に、幸福の光を見たのだ。しかし、それは偽りだった。
唯一の肉親である妹を両親と特別親しかった友人の住むアメリカに送り、復讐の準備を重ねた。妹を巻き込まずに全て終える。その時兄が犯罪者になったと妹が知ったら、きっと悲しむだろう。しかし、不条理の先の罰を下すものはいない。
「神は幸福など与えやしない。ならば自らの手で幸福を勝ち取ればいい」
Kはそう言った。確かに、神は人に禍福を与えない。しかし不条理に納得がいく人間がいるだろうか。神屋はいつの日か誓った。神が罰を下さないならば、自分が罰を下す、と。
妹には不幸を与えることになってしまう。それだけが神屋の後悔だった。犯罪者の妹という重い悲しみを背負わせてしまう。だが、関節の外れた世に正しさを示すには、犠牲は必要だ。だからせめて、暁や亜美が妹を守ってくれるように、妹を月代学園に転入させたいと思った。日本の高校ならどこでもいいと考えていたが、暁と再開し、亜美と会って、彼らの側で楽しく高校生活を送って欲しいと思うようになった。妹は常々日本に戻ってきたいと言っていた。全てが終わる今、妹は自由にやりたいことをすればいい。それが兄が出来る最後の仕事であると神屋は考えた。
神屋は思い出される妹の面影に携帯を操作する手を止めた。
アドレス帳が開かれた携帯のディスプレイには「神屋茉祐」という名前が表示されていた。
「兄として、最後の電話だ」
神屋は悲しげに呟き、発信ボタンを押した。長い発信音が続き、神屋の電話はアメリカに繋がった。
『もしもーし』
あどけなく、明るい声が、神屋の悲しみを助長した。
「茉祐、僕だ」
『え、うん、知ってる。どうしたの急に。しばらく電話なかったけど、忙しいの?』
「まあな……。ごめんな、なかなか電話できなくて」
『そうだね。時差もあるし……でも、私は元気にやってるから、心配しなくていいよ』
神屋茉祐は、少し眠そうな声で言った。
神屋は時差で電話できなかったわけではなかった。単に、妹を隠したかったのだ。両親を奪われ、妹も危険に晒してしまったら、そう考えると無闇に電話など出来なかった。
「今、そっちは何時だ?」
『夜の十一時くらい。日本はお昼くらいでしょ?』
「そうだな。丁度昼を過ぎたくらいだ」
『こないだね、こっちの友達とお別れ会したんだ。日本に行くって言ったら羨ましがられた。私も早くそっちに帰りたいな。日本の高校に通ってみたい』
茉祐は日本の高校への転入を楽しみにしていた。
全てが終われば、彼女の願望もきっと果たされるだろう。
「手続きに時間がかかるから、すぐに転入できるわけじゃないぞ?」
『解ってるよ。転入するまでは、旅行とかするんだ。最近何かあったりした? 面白そうなこと!』
「テーマパークができたよ。かなり大きい、アミューズメント施設が。ただ、もしかしたら入れなくなるかもな」
『へぇー、そうなんだ。なんで?』
「さあな、そういう噂があるってだけだよ。……なあ、茉祐、そっちでの生活が楽しいなら、そっちにいてもいいぞ。お金はいくらでもあるし」
『うーん……こっちはこっちで楽しいけど、やっぱり家族と一緒に居たいじゃん。それとも兄ちゃんがこっちにく来る?』
「僕は英語は喋れないよ。それに、一緒に過ごせるかも分からない」
『なんで?』
茉祐はその返答に驚いた様子で、低い声で尋ねた。
「いや、自分探しの旅にでも出ようかなって。スペイン辺りにでも」
神屋は何も考えずに問に応えた。高木がスペインに行かないかと持ちかけてきた事を思い出したのだ。勿論、そんなことはできない。神屋としては、行くのはあの世か刑務所がどちらかのはずであると思っている。
『何それ!? 面白い! 本気でやる人いるんだ! 兄ちゃんギャグセン高い!』
神屋の適当な返事が妙にツボにハマったのか茉祐は電話の向こうで大笑いしていた。
『日本は平和だね。こっちじゃ自分探しの旅なんか怖くてできないよ』
茉祐は明るく言った。しかしどこか寂しげな声色でもあった。両親を殺した誰かが今でもどこかにいる。茉祐にとって、アメリカはそういう場所だった。
「ああ。……日本は平和な国だ、これからも」
神屋は未来の日本に思いを馳せた。果たして、日本は平和にこの困難を乗り越えられるのか。
『何それ、何を悟っちゃってんのさ? 今日はなんか変だね。何かあったん?』
茉祐はテンションが上がると早口になる。昔からの癖だった。いつもと違う兄の態度が妙に気になっているようだった。
「いや、ただ茉祐と話したくなっただけ」
『うわ。キモいよ兄ちゃん! 妹を口説いてるの!? 恋しちゃってるの!?』
「僕はお前に恋しちゃう程物好きじゃないよ。君はその軽薄さを直したほうがいいな」
神屋は冷静にツッコミを入れた。茉祐は話す度に神屋の過保護をからかうのだ。
『兄ちゃんはその可笑しな喋り方を直したほうがいいよ! あと、あの黒装束は止した方がいいね。職質されるよ?』
「あれは僕のアイデンティティだ。ほっといてくれよ」
『ははっ。そうだね。……変わらないことが大事な時もあるよね』
その声は、優しかった。茉祐は神屋の苦悩を理解しているわけではない。しかし、神屋の突然の電話の意味を、直感的に察知しているのかもしれなかった。
「変わらないことが……か」
『今日は綺麗な夜だよ。静かで、星が綺麗な夜。昔から人は星を見上げて、自分の行先を確かめてきた。星はその姿を変えないから、人は自分の居場所を知ることが出来る。兄ちゃんが変わったら、私は居場所を見失っちゃうよ』
「…………」
神屋は窓の向こうの空を見上げた。太陽は燦燦とそのエネルギーを地上に注いでいる。遥か遠くの星にまで届くその光はいつでも変わらない。
『ねえ、私が転入する高校ってどんなところかな?』
「……さあ、それは分からない。でも、善い高校を見つけたんだ」
『善い高校?』
「覚えてるか? 子供の頃に僕とよく遊んでいた、暁ってやつ」
『あー覚えてるかも』
「彼と再会したんだ。今はその暁とよく会ってる。その彼女の……いや、確かまだ女友達か。篠原って女の子も一緒だ。その二人は、きっと茉祐と仲良くしてくれる。だから、彼らと同じ高校に通うといい。大きな高校で、そこそこの進学率もある。多分楽しく、有意義に過ごせるよ」
『はは、なんか、兄ちゃんがその高校に行きたがってるみたいに聞こえるな。なんなら、私と一緒に転入しちゃえばいいのに。名案じゃない? 凄い楽しそう!』
「僕は自分探しの旅に出るって言ったろう?」
『うーん、それはそれでネタになりそうで捨て難いね!』
茉祐は楽しげだった。
神屋は妙に満足した気分になった。仮にこれが最期の会話でも、いいように思えた。
「茉祐、日本に戻ったら楽しくやれよ」
『兄ちゃんもね』
「……ああ。それじゃあ、そろそろ切るよ」
『うん』
神屋は電話を切った後もしばらく青空を眺めていた。今日はやけに涼しい。爽やかな風が緩やかに流れ神屋の少し長くなった髪を撫ぜる。
「どこで、間違ったんだろうな」
自分でも気付かないうちにぼやいていた。
そっと携帯電話を握り直す。
神屋は通話ボタンを押した。画面には「宮澤睦」の文字が大きく表示されていた。
-2-
八月十三日木曜日、午後六時三十分
日の入りが近づき、辺りは夕陽の赤色で染められた。夕陽の副産物である影は一層その色を濃くしていた。高木の自宅には、三階がある。一回から続く半螺旋状の階段を上る間、吹き抜けのような造りのこの家では下階が一望できる。そして最上階である三階には、大きなバルコニーがあった。
高木海はバルコニーに暁がいるのを見た。夕焼けを見ながら佇むシルエットは妙に温かみを欠いていた。結局、高木は暁に話しかけることなく、三階にある一室に入った。
その部屋は、他の部屋と比べると幾分防音性があった。しかし、特殊な工夫をしているわけではないので、あくまでも他と比較しての結果である。
ただ、重要な話をしようという時は、何故かこの部屋に来てしまう。
その部屋には窓はない。ほとんど使う機会もないので、家具も置かれていなかった。ベージュの壁紙と間接照明があるだけである。
高木もまた、神屋と同じように、連絡すべき人が居た。これは神屋にも他の誰にも教えてはいないことである。高木は携帯電話を取り出して、「その人」に電話をかけた。
『高木か?』
呼び出し音が鳴り切る前に彼は電話に出た。
「はい。冴木さん、状況に大きな動きがありました」
高木は低く抑えた声で応えた。
『ついに、動き出したか……』
電話の向こうで話す男――冴木は威厳のある声と話し方をする。高木は彼の風貌を知っているが、見た目も随分と堅そうな人で、その眼光は鋭かった。高木の記憶では彼は今年四十八歳になるはずである。
「鬼頭火山との接触に成功しました。電話での交信だったので、鬼頭火山の居場所は判りませんでしたが、明日以降、王里神会との決戦に向けた会議を行う予定です」
『鬼頭火山は生きていたのか? それとも……』
「ボイスチェンジャーを使っていましたが、おそらく歳は神崎冬也に近い、本人の可能性も十分にあるかと」
高木は今朝の通話で聞いた鬼頭火山の声を脳内に呼び起こした。
『テロの場所に関しては何か情報は?』
「八月二十一日金曜日、東京、NEW GENERATION PARKにて、中性子爆弾と思われる核兵器が投下される予定だが、その目標地点の変更が自由にできる状況だ、と鬼頭火山は言っています。しかし、今日の通話では状況が変わったとも言っていました」
『NEW GENERATION PARKだと……? しかも中性子爆弾……? そんなことが実行されたらとんでもない数の被害者が出るぞ……そもそも、たかが新興宗教団体が如何にして核兵器などを所持することが出来る?』
冴木は声のトーンを落として言った。おそらく周りを気にしているのだろう。この会話は彼の立場上誰にも聞かれてはならない。
「その辺りも定かではありません……ただ」
『ただ?』
「鬼頭火山は我々に実行班と待機班に分かれるように命じました。つまり、鬼頭火山は我々をテロが起こる現場に向かわせようとしている可能性があります」
『……なるほど。どちらにせよ、場所が判れば俺も協力する。場所が判らなければ我々も黙ってみていることしかできん』
冴木は悔しそうだった。高木には彼がどれだけのリスクと苦労を抱えているか解っていた。冴木の協力を決して無駄にはできない。
「冴木さん、鬼頭火山はKを殺すつもりかもしれません。我々を……利用して」
『……殺すだけの恨みもあるだろう。だが、Kは生きたまま裁きを受けるべきだ。Kが話さなければ分からない犯罪もあるだろう。しかし君の仲間で、Kに個人的な恨みを持つものがいなければ鬼頭が何を企もうと、殺すことにはなるまい』
「Kへの私怨がある者が一人います。それから、強力な戦闘員も。鬼頭に全て操られてしまえば、最悪の結果を招くかもしれない。Kよりはマシとはいえ、鬼頭火山もまた神がかったカリスマと運命をたぐり寄せる強運を持っています。今の鬼頭が仮に神崎冬也ではないとしても、神崎の意志はいまだ我々を盤上に留めている。侮れないでしょう」
高木は鬼頭と神屋の会話を聞きながら、一つの推論を立てていた。鬼頭火山は最初から神屋と王里神会の関係を知っていたのではないか。そもそも、神屋を駒に選んだのも、神屋のKへの私怨があったからではないか。
『どこまでも読めない連中だな……。お前も、慎重に事を運べ。誰を信用すればいいか判らない時だからな』
「はい。しかし少なくとも俺は冴木さんを信用してますよ」
『……前から不思議だったが、何故俺に協力を仰いだ? 俺が裏切ればお前らは全滅するだろう。上層部は真っ黒だ。汚い手を使ってこの事件の捜査をさせない。それどころか口に出した時点でアウトだ。警視正の階級でこんなことをやっているのは俺くらいだろうな』
警視庁刑事部捜査一課長――警視正の冴木はそう言って歯ぎしりをした。
「俺が知るかぎり、あなたは正義を貫く人だ。しかし、同時に冷静で頭のいい人でもある。おそらく、今は上の命令に従い、表面上は圧力に屈したような素振りをし、水面下で探りを入れてるのではないかと思ったんですよ。警察で頼れるのはあなたぐらいだ」
『なるほどな。俺は、この腐った現状が気に食わない。警察は国民を守るためにある。それがどうして犯罪の手助けをしてるんだ。だけどな高木、俺の周りにも俺と同じ気持ちのやつはいっぱいいる。家族や恋人のことを考えれば、ここで人生を棒に振る訳にもいかないんだろう。それでも、覚悟を決めて俺の味方に付く者も増えてきた。いいか高木、Kは下の者を利用して上に立っている。各界のトップを配下に置いて事実上日本を支配してる。だが、下の者にも力はある。上の者の圧力に屈しない勇気ある人間が必ずいる筈だ。安心して戦え、俺が連中を恐れずに逮捕する』
冴木はそう力強く言った。
「ありがとうございます。あなたの協力には必ず報います。……では、また情報が入り次第連絡します」
高木は冴木に礼を言って、携帯を閉じた。
高木は密かに警察の冴木と連絡を取っていた。慎重な神屋にこの事を話せば間違い無く反対されると考え、高木はこの密約を自身の心の中に密かに隠している。政治家に通ずる藤原を抑えるのが当初の目的ではあったが、事態は変わりつつある。個人的な判断で警察をこの事件に介入させられる人物は、正義感と多くの信頼を持っている冴木の他にいない。
王里神会をめぐる歴史的大事件は、水面下で大きく動き出していた。
-3-
八月十三日木曜日、午後十一時
外崎暁は夜空を見ていた。妙に静かなこの夜は夏にしては些か涼しかった。心地良い風が金色に染められた暁の髪を微かに揺らした。
何を思うわけでもない。暁はただ何も考えないでいる時間を楽しみたかっただけだった。不安しか無いこの状況で、何も考えず生きる貴重な時を純粋に楽しみたかった。
黄昏時にここに来た時は今とはまた少し違った風景が見られた。暁は、空とは不思議なものだと感じた。その色を変え、姿も変え、それでもどれが良くてどれが悪いでもない。ただ美しいだけである。
三階のバルコニーの壁に両肘を置き、体重を預けて夜空を見上げる。暁はそっと目を閉じた。
不意に、背後でガラガラと窓の開く音がした。
「よお、暁」
暁が振り向くと、そこには高木の姿があった。
「高木さん、どうしたんすか、こんな遅くに」
暁は寝ぼけているかのようなこと言った。一瞬遅れて気づく、自分が言えたことじゃない、と。
「君こそ、飯が終わるなりこんな所に来て、何してるんだ?」
「いや、なんとなく空が見たくなって」
暁は黄昏た様子で応えた。高木は「そうか」と返し、暁の隣で同じように空を見上げた。
暁は気になっていたことを訊くことにした。神屋は変に納得していたが、高木の真意は謎のままだ。
「高木さん、高木さんは何で俺を実行班に加えたんですか?」
「神屋のため……だ。あいつは、まだ弱い」
「……どういうことですか?」
「あいつは全部自分でやろうとしている。だから、判断を誤る。でも、神屋は本気なんだ」
「俺には、あいつが間違うようには見えないですけど……」
神屋はここに来るまでに決定的な間違いをしただろうか。暁には神屋聖孝という人間が完璧な人間であるように思えた。
「暁」
高木は、真剣な表情だった。いままでに見たことがない必死さが伝わる眼差しを暁に向ける。
「……はい」
「神屋は優秀な人間だ、だけどもしあいつの人間的、精神的な部分で誤った判断をした時は、君が神屋を止めるんだ。大事なモノを全て失ってまで得るべきものはない。神屋を表の世界に引き戻してくれ」
高木は悲痛な表情を見せた。暁には、神屋が何か大変な間違いをするという確信が高木にはあるのだと感じられた。
「なんで、俺なんですか?」
「君が神屋の友人だからだ。そして、鬼頭火山の意志の及ばないところにいる」
「……」
「暁や俺は鬼頭が選んだ人間じゃない。鬼頭は俺達がこの事件に関わることを予期していなかった。鬼頭が直接選んだのは、亜美ちゃんと神屋だ。だから、鬼頭が神屋を利用しようとしても、君や俺ならばそれを止められる。しかし、俺もいくつも誤った判断をしてここにいる身だ。君は違う。君は自分の使命感でここまで来た。そして何より、神屋の友達じゃないか。神屋聖孝がまだ表の世界で自由に生きていた頃の友人だ。君なら、あいつを元いた場所に戻せる」
「……俺は、神屋に何が出来るんですか」
「……暁、君の役目はいずれ解る。その時、それができるのは唯一人、暁だけだ」
高木はそう言った後、笑った。
「特別なことなんてしなくていい。正しいと思ったことに従うんだ」
高木は最後にそんな言葉を残してバルコニーから屋内に戻っていった。
暁には高木の言ったことがいまだによく解らなかった。しかし、神屋は友だ。それは変わらない。神屋に、友としてできることをしようと決意してここに来たのではないか。ならば、神屋を表の世界に引き戻すことも自分の使命ではないか。
暁は何か実態の掴めないものに固い決意をした。不思議とそれは、暁の精神を落ち着かせた。
夜が更ける。辺りの住宅の光も徐々に消え始め、辺りは仄かに暗さを帯びてきた。
星が綺麗だった。星を見ていると、帰省した時のことを思い出す。あの時の星空は格別だった。暁は頭の中で星と星とを線で結び星座を作り上げる。そして、そこに秘められた物語が次々と言葉を紡ぎ、脳内に流れ込んでいくのを感じた。
「まだいたんだ」
背後から亜美の声がした。暁は突然の呼びかけに肩をビクつかせながら振り返る。
「あ、ああ」
「何してんの?」
亜美は暁の動揺をさらりと流して、暁の隣に来た。風が亜美のセミショートを揺らした。
「気分転換っていうか、気持ちの整理っていうか……」
「ふーん」
亜美は興味がないのかあるのかよく判らない表情で空を見上げた。暁も同じように空を見上げる。
暁が何か話しかけようと思い巡らせていると、亜美が唐突に口を開いた。
「今日はありがとう」
亜美は空を見上げたままそう言った。
「……何が?」
「あたしの同伴してくれるって名乗り出てくれたじゃん」
「……ああ、でも、結局同伴できないぜ?」
「まあね。でも、なんか嬉しかったからいいや。高木さんも何か重い決意を抱えてるっぽかったしね」
亜美の「嬉しかった」という言葉は暁を酷く動揺させた。
……亜美は礼を言うために、ここに来たのだろうか。
「小説……創らない?」
「小説? 今?」
「うん」
あまりに突然な提案に暁は面食らっていた。確かに、この事件に関わっていなかったら、今頃文学賞の小説を製作してる頃だっただろう。
「でも亜美、NEW GENERATION NETの主催だろ、あの文学賞。今回の事件で中止になっちゃうんじゃねえか?」
「いいじゃん。賞金は出ないけど、文化祭で文芸部に使ってもらえばいいんだし」
「いや、でも、俺はまだプロット作ってないぜ?」
「星を見てたら、思い出したの。あたしが暁に鬼頭火山から渡された第一の暗号を見せた日、夜光公園で暁、言ったでしょ。生命が存在する宇宙の誕生する確率は、凄く低くて、さらにその生命が自分になるのはもっと低い。だからこそ、偶然ここにいるんじゃなくて、生まれるべくして生まれてきたって思いたい、って」
暁は二ヶ月ほど前に確かにそのようなことを言った。それは暁の脳内にも想起される。
『知ってるか? ビッグバンにより宇宙が無数に誕生するとして、その中で生命が存在する宇宙が生まれる確率は十の二百二十九乗分の一なんだ。さらにその生命がオレたちみたいな人になる。これは偶然か? オレは必然なんじゃないかって思ってる。神とか、造物主とか、そういうんじゃなくて、オレたちは生まれるべくして生まれてきたって思いたい。だから、なんていうか……あたしなんか、とか言うな。お前がやると決めたならそれも必然なんだ。一人の小説家の運命を変えることが意味ある自分を証明するひとつの方法なのかもしれない。そして、お前の運命すら変えるものなのかもしれない』
暁はその言葉を思い出し、同時にあの夢のことを思い出した。
肉体のない自分の意識が次第に肉体を持つようになり黒い腕から逃げるように扉を開く。その先には、時の月、空間の月、心の月が輝く。そして誰かが自分を呼ぶ。――その声は鳴海の声だ。
「今回のテーマは確か『人間』でしょ? 暁の言ってた話を小説にしたら、面白いんじゃない?」
亜美は笑顔で言った。
すると、暁の脳裏に数多の煌きが流れこむ。意識を通りぬけ、暁は自分でも気付かぬうちに、ある物語を語り始めた。
「一人の少年の意識が、始まりの世界で誕生する。その意識は自分を呼ぶ誰かの声に気づく。目の前には扉があって、少年は導かれるように扉を開ける。少年を呼ぶ者の正体は『運命』だった。時と、場所と、少年の意志は、やがて合わさり、ひとつの物語を紡ぐ。そうやって少年はこの世界に生まれ落ちる」
「うん」
亜美は暁の語りに深く頷く。
「やがて少年は青年になる。でもとても悲しい事があって、自分の手で運命を閉じてしまうんだ。それからその青年は毎日悩み続ける。でも、そんなある日、夢をみるんだ」
暁は星を見つめながら、ゆっくりと物語を語っていく。
「どんな夢?」
「あれは、どこかで見たことのあるような夢だった。気がつくと目の前には扉があって、誰かが扉の向こうで自分を呼んでいる。青年は扉を開けてその先に進む。するとそこには月が三つある。時の月と、空間の月と、心の月。そして、遠くで誰かが自分を呼んでいる。その人は言うんだ。『もう一度運命を開け。きっとまた、頑張れるから』って。それから青年は少しづつ変わっていく。運命はいつも同じような未来を繰り返す。でもそれは少しづつ違っていて螺旋を描くように少しずつどこかに進んでいる。青年はそうやって、もう一度自分の運命をやり直すんだ」
暁は童話のようなその物語を語りながら、静かに涙していた。涙は自然と頬を伝い、雫となって落ちる。
「素敵な話」
亜美は星を眺めて、微笑んだ。暁は、ぼやける視界の中央に亜美の捉えた。
「人間って、苦しいことから逃げてばかりじゃ、駄目なんだ。どれだけ悲しい事があっても、少しずつそれを受け入れて、生きていかなきゃいけない」
暁は人間の在り方をそう解釈していた。そして自分はまだそれを完全に実行できていない。しかし、それでも少しずつ前を向きたい。この事件に関わる上で、そう思えてきた。亜美が自分を誘わなければ、きっと静枝も神屋も高木も、自分とは出会わなかった。そして、晋也と和解することもなかった。
今までに関わってきた人の運命が、自分の運命に深く干渉している。そうやって、暁は目に見えない何かを得ようとしている。
「あたしも、そう思うよ。だから、他の人にも伝えられるよ、きっと。物語は、自分と相手になにか大事なモノを伝えられる、そういうものだから」
亜美は嬉しそうだった。彼女は「自分と相手に」と言った。それは、暁にとって深く心に浸透する言葉だった。相手だけでなく、自分にもそんな人間の在り方が伝わる。
そうやって、自分自身も成長する。そうやって、前に進む。暁には亜美がこれから創る物語がそんな希望に思えた。もしも文学賞がなくても、亜美はそんな物語を自分に読ませようとしていたのではないか。そうやって自分を救済しようとしていたのではないか。暁にはそんなように思えた。
静かな夜の一時は、爽やかで涼しい風とともに、ゆっくりと明日へ向かって流れていた。