嵐の前の静けさ
日付が大きく進んでいるので、ご注意ください。
暗号解読が8月13日、今回が8月20日、王里神会によるテロが行われる可能性がある日が8月21日になります。
今後の展開は時系列の入れ替えがありますので、日付に注目して読んでいただければ解りやすいと思います。
八月二十日木曜日、午前七時
王里神会テロまで 残り一日
東京都千代田区永田町一丁目、カフェ「魯山人」
「コーヒーをお持ちしました」
黒いエプロンを着用したウェイターは平均的な男性よりも少し低い声で言う。高木は「ありがとう」と軽く返答しながらコーヒーを受け取り、テーブルの奥から一つずつカップを並べた。外崎暁、篠原亜美、神屋聖孝、高木海、各人の席の前に置かれた四つのコーヒーカップは、白くたなびく湯気を立ち昇らせながら、香ばしい香りで周囲を満たしていく。
その様子を見て、神屋は視線をすっと店内の天井に送った。涼やかな風を送る空調が自分たちの席の斜め上に設置されているのを店内に入ってから初めて了解した。
彼らは店の奥に席を取った。早朝から店を開けていて、人のあまり来ないカフェは少なく、探すのに少しばかり苦労は伴ったが、高木はこのカフェ「魯山人」を探し当て、四人は現在店内で朝食を摂っている。亜美は高木に対して「別にカフェである必要はないのでは?」と幾度か質問を投げかけていたが、高木はカフェを選んだ。
席次は奥に暁と亜美、手前に神屋と高木が座り、それぞれが向かい合う形になった。そこに何らかの意味があったわけではないが、彼らの内面的な緊張は、既に普通の人間が人生で味わうレヴェルのそれを遥かに凌駕していた。それが、席次に少なからず顕れていたことは確かである。
コーヒーが運ばれた後、続いて朝食のメニューが次々に運ばれてきた。暁はトマトジュースにスクランブルエッグベーコン添え、トーストをオーダーした。亜美は暁のオーダーのトーストをクロワッサンに変えたもの、神屋は亜美と同じメニューをオーダーし、高木はグレープフルーツのジュースにボイルした卵とソーセージ、トーストを頼んだ。
カフェ「魯山人」では、オーダーの形式はある程度セットとして決まっており、四人はアメリカンブレックファストというセットの中から料理を注文した。亜美はコーヒーとジュースを別に頼む仕組みに、どっちかでいいよね、などと文句をつけながら角砂糖を一つ親指と人差指で抓み、エスプレッソに放り込んだ。
それを見て、同じように暁も角砂糖を一つエスプレッソに入れ、口を開いた。
「神屋、本当に来るのかな、あの鬼頭火山は……」
「さあ、来て欲しいところだけれど。鬼頭火山かアンチマターどちらか、あるいは両方か、来なければ篠原さんが困ることになる、僕らも」
「宮澤睦は信用出来ないってことか?」
「僕は、チェスで嘘を吐けない。彼も僕と同じだと信じたい。だが、自分が一体『誰なのか』を完全に解っていれば、心を嘘に従わせることもできる。鬼頭火山もアンチマターも宮澤さんも、挙って敵ならば、篠原さんは危険ということになる」
神屋は時折コーヒーを飲みながら、冷静に応えた。
亜美は一瞬不安そうな表情をしたが、直ぐに笑顔を見せて言った。
「暁、心配しないで。暁たち程には危険じゃないよ」
「……俺は、お前を逃がすという選択は選べない。ごめん、本当ならそうすべきなのかもしれない、土下座してでも、お前を安全にするべきかもしれない。だけど俺は、今の作戦が最善だと思う。俺は強欲だ、全員が無事でいられる可能性が高いならば、散々世話になったお前でさえも危険な目に合わせてしまう」
「……大丈夫。あたしは、誰かを犠牲にしてまで助けてもらいたくなんかないよ。暁がそんなことをしたらあたしは、顔を上げて生きていけないでしょ。特別扱いしなくていい、十分過ぎるくらいに安全な役を、あたしは与えられてる」
「……ああ、やるしかない。全部終わらせよう」
暁はテーブルの下で、震える手を押さえつけていた。どうしても恐怖心が頭を離れない。死ぬことが本当に怖く、嫌だった。それは同時に、絶対に死なないという覚悟でもある。
その様を隣の神屋は横目に見ていた。自分の中の復讐心が揺らぐことはない。暁も亜美も自分の野望の為に利用してきた。しかし、神屋にとって彼らは、単なる駒ではなくなっていた。Kは駒を操り最後の一手まで策略を巡らしてきた。だが、神屋にはそれと同じことが出来なかった。彼は、神にはなれなかった。だが、復讐はやめられない、たとえ、唯一の肉親を悲しませることになっても。
「謝りたいのは僕の方だ。君たちは普通の高校生だった。僕らと関わらない手もあったかもしれない。仮に敵に捕まっても、君たちは神崎さんによって情報を何もインプットされていなかった。あの段階の、まだ決定的に間違っていなかった王里神会ならば、捕縛されても思いのほか早く解放されたかもしれない。……僕が巻き込んだんだ」
「神屋、下らないことで謝るな。俺たちは最初から狙われてた。早く解放されたかなんて判らないじゃないか。俺はお前と久しぶりに会えて良かった。楽しいなんて言ってられるような状態じゃなかったけど、それでも、どこか楽しかった」
「ありがとう……君は最後まで無事でいてくれ、絶対に」
「……違う。全員、無事にだ。そうでなきゃ、俺たちは勝ったことにならない」
「……ああ、そうだね」
神屋の心境は、複雑だった。彼の目的は、必ずしも生きて成されるとは限らない。「神」の如き者を、如何にして普通の人間が殺められるか。簡単に事が済むなどとは、初めから期待していなかった。
「おいおい、みんなしんみりするなよ。まるで、特攻でもしかけるみたいじゃないか。俺たちは、完勝するんだ。みんなまた再会できるし、後悔するようなことなんてない。全てが無駄じゃなかったって思える。チェスや将棋を思い出せ。どの手も無駄じゃない、勝つための布石だ」
高木は、そう言って笑った。その言葉は意外にも、場の雰囲気を好転させたのかもしれない。暁や亜美の表情は幾分明るくなった。
「この事件が解決したら神屋君は、逮捕されるの?」
亜美は神屋に尋ねた。王里神会の幹部だった神屋は一体どのような扱いを受けることになるのか。本当に再会できるのだろうか。
「さあ……世の流れに身を任せようと思う。裁きを望むものがいるならば、僕はそれに応じる」
「そっか……お父さんが、まだ現役ならなぁ……」
「篠原さんのお父さんは弁護士だったよね?」
神屋はクロワッサンを囓りながら言った。
暁はそれを聞いて少し驚きながら、会話に入った。
「そうなのか? 知らなかった」
「まあね、しばらく会ってないけれど、今は弁護士は辞めたんだって。でも、神屋君、よく知ってたね。もしかしてあたしのストーカー?」
亜美はニヤニヤしながら神屋視線を送る。神屋は苦笑いを浮かべ、コーヒーを喉に流し込んだ。
「ちょっと否定できないな。暁や篠原さんについてはストーカーより詳しく調べちゃっているし。ただ、随分予想と違っていた。篠原さんはもっと馬鹿っぽい感じかと思っていたし、暁は世捨て人みたいなのを想像していたけど、人間っていうのは、やはり会ってみないと解らないね」
「馬鹿っぽいってヒドイ! ちょっと頭いいからって!」
「僕なんか大したことないよ、佐藤静枝には到底及ばないし、暁の同級生の洋平ってやつにも知識では及ばない。それに妹にも……」
「妹? 神屋君妹いるの!?」
亜美は口に手を当てて驚愕の表情を浮かべた。それを見て暁は「驚きすぎだろ」と呟いた。
「お前の妹って一個下だろ? 十六歳か、確か。そういえば、お前がこんな状態で、妹は今どうしてるんだ?」
「海外に留学中だよ。そろそろ日本に戻りたいって言ってた。僕がどうなるか判らないし、日本の高校に転校させようと思ってる。月代学園にでも……ね」
「マジか……お前の妹が後輩か。楽しみなような怖いような……」
「僕と違ってあんまり一般常識を重んじるタイプじゃないからね。もし、転校することになったら、君たちには挨拶しに行くように言っておくよ」
神屋は澄ました顔で言う。紙ナプキンで口を拭いている神屋を横目に、暁は金髪になった自身の髪をいじった。
……人の髪を金髪に染め上げるのは一般常識なのかよ。
「妹さん、名前は?」
亜美は目を煌めかせていた。美男子である神屋の妹が後輩になるかもしれないと聞いて、亜美は静枝の中学生時代の姿を思い起こしていた。
「神屋茉祐。ジャスミンの一種に茉莉花っていうのがあってその『まつ』に当たる字と示偏に右って書いて『祐』。『祐』は助けるという意味だ。名は体を表すって言うけれど、本当で、夏に咲く茉莉花の白い花のようなやつだよ」
「その比喩、よく解んないけど……?」
「じゃあ、癖のある香りのするようなやつって言っとこうかな。父は自分の名前である『真司』から『真』の字を使おうとしたみたいだけれど、ちょうど中国のジャスミン茶が頭を過ぎって、『ま』を茉莉花の『茉』に置き換えたらしい」
「へぇー、会うの楽しみだなぁ」
この時、亜美が以前高木宅の新聞記事のスクラップで見た、殺害された数学者の名前「神屋真司」の名を思い出すことはなかった。また、この時に暁が神屋夫妻が数学者であるということを口にしなかったのも悪い偶然であったかもしれない。
暁は数学者である神屋夫妻が神屋聖孝の両親であるということは知っていた。しかし、夫妻が殺害されていたことを知らない。亜美は夫妻が殺害されていたことを記憶の片隅で覚えている。しかし、夫妻が神屋聖孝の両親であるということは知らなかった。
「篠原さんなら、きっと善い先輩になる。暁は……良い友だちになれる」
「なんで俺は先輩じゃないんだよ?」
「君は先輩って柄じゃないだろう? それに、茉祐のほうが君より学力は上だし、きっと馬鹿にされる」
「嫌な妹だな! お前に似て!」
「もし、僕に何かあったら、妹は頼んだ。……高木さんにも、一つお願いしていいですか?」
何もない天井の一点をぼんやり眺めていた高木は、急に話しかけられて、目を丸くした。
「何をだ?」
「僕が妹に何も出来ない様な状態になってしまったら、高木さんが妹を月代に入れてあげてください。高木さん、あの高校の卒業生でしょう?」
「自分でやれよ。ただ、……もしも、万が一そんなことになったら、俺が何とかしてやる」
「ありがとうございます」
神屋は一息吐いて、トマトジュースを一口含んだ。
「高木さん、月代の卒業生だったんですか?」
暁は意外そうな顔で尋ねた。
「ああ、俺は七年前、まだ幸福の追求のための団体でしかなかった王里神会に十五で入会した。そして月代学園高校に入学し、王里神会の人たちから色んな知識を貰い、王里神会の発展に努めた。そして、十九の時彼らの元を離れた。まぁ……だからあんまり高校生活を楽しんでたわけじゃないけどな」
高木が王里神会を離れたのは、二〇〇六年十一月、神屋夫妻が殺され、それが王里神会による犯行ではないかと密かに疑念を持ったからであった。それ以前から徐々に王里神会の犯罪性は増しつつあったが、調べれば調べるほど王里神会の最高権力が事件の裏に見え隠れする。神屋夫妻は、高木にとって様々な知識を教えてくれた恩師のような存在だった。
そして、その息子、神屋聖孝の離反。高木はこの一件において、神屋聖孝を守る役目を夫妻から受けたように感じていた。戦うべきなのは王里神会だけではない。神屋聖孝は己にも勝たなければならない。高木はその為に神屋と共にここまで来た。
「高木さんがいた頃って中等部あったんすか?」
「いや、俺が卒業した頃じゃないかな、そういう動きが始まったのは。第二図書室ってのを俺は見てみたいね」
「あそこは凄いですよ。マジで広いですからね。蔵書量も半端じゃないし。俺、図書委員だからかなり苦労してます。でも、月代名物の本の虫を見られますよ」
「本の虫?」
「結局、保留のままここまで来ちゃいましたけど、俺にメールを寄越した二宮ってやつですよ、あいつ読書と図書室通いに人生かけてるばかで、休日は市の図書館に入り浸ってますからね」
「……そりゃあすげえな。俺も暇さえあれば図書館行ったり本読んだりしてたけどな……。そういやあ、俺が『キリストの哲学』を取りに行った時、月代の女子生徒に会ったぞ。本を十冊も抱えてた」
それを聞いて暁は亜美と顔を見合わせた。自然と笑みが零れてくる。
「そいつが二宮光ですよ。月代にそんなやつがいたらすぐに噂になりますから。しかし十冊って……」
「あの娘、読む本なくなんないのかなぁ」
亜美は呆れ顔で笑った。
「俺たち……何にも知らなかったんだな。でも、少なくともこうやって少しずつ解り始めた」
暁は、トーストの最後の一口を口に放り込んだ。店内に人が少しずつ増えてくる様子をじっと眺めながら、彼は微笑んだ。
「どういうこと?」
「いやな、俺たち、短い間とはいえ、一緒に生活して、協力してきたけどさ、こうやってゆっくり話し合えば、知らないことなんて山ほど出てくる。みんな、何処で誰と、どんな場所で繋がってるか解らない。……でも少しでもお互いのことを解ろうとしてる。Kは大量の駒を持ってるかもしれない。でも、その駒同士は互いを信頼してるのか? もしかしたら、自分が駒だってことにすら気づいてないかもしれない。本当は、隣り合わせたポーンが親友かもしれない、前後に並んだナイトとビショップが先輩後輩だったりするかもしれない。それで、思いの外、気が合ったりして、強固な絆が生まれるかもしれない。ただ利用するだけじゃ、ホントの意味では強くないんじゃないかな」
暁は、鳴海の姿を脳裏に浮かべていた。あの事件に、真の終を与えるには、どうしたら良いか判らなかった。しかし、信頼できる仲間が一人もいなかった頃の孤独な自分が出来なかったことに、今なら少しだけ違った挑戦ができるかもしれない。暁は自分のことをよく理解していた。今のこの緊迫した状況が終わったら、意外と平凡な毎日が待っていて、また要らぬ心配や、怠惰な生活や、自己嫌悪に悩まされるに違いない。しかし、過去の自分と決定的に違うことが、そこに確かに在るはずだ。
「Kは……孤独なんだ。たぶん今も、これからも」
暁は、会ったこともないその人物に、悲しい言葉を贈った。
「行こうか」
神屋が、静かに、しかし強く、そう言った。
朝食を終えた四人は、カフェ「魯山人」を出た。
永田町駅前
駅前をスーツ姿のサラリーマンたちが忙しなく歩いいていた。時折目にする制服を着た高校生たちは、携帯を片手に歩く。喧騒はその密度を上げていた。
「送ってくれてありがと」
亜美は、他の三人に向けて礼を言った。そこに不安な表情はなかった。
神屋は微笑した後それに応える。
「宮澤さんと、そして鬼頭火山と合流したら、こう言ってほしい。『あなた方を信じている』と」
「うん、神屋君も、暁も、高木さんも、絶対無事でいて」
三人は深く頷いた。心の奥の不安など、誰にもある。だが、誰一人としてそれを言葉や表情には出さなかった。
「じゃあね、また後で」
亜美はそう言って、駅に向かって一歩踏み出した。行き先は、決まっている。そして、帰る場所も。
「…………」
その亜美の後ろ姿を見て、暁はその表情に僅かに不安を漏らした。それは心配という感情でもあり、それ以上でもあったかもしれない。
神屋は、左隣に立つ暁の右腕を肘で小突いて、囁いた。
「何か言うことはないのか、君は。意気地なし」
「……また、会うんだろ、絶対」
「だからこそ……だ」
「……ちっ」
暁は躊躇いがちに一歩踏み出した。小走りで亜美を追いかける。
「亜美っ!」
亜美は驚いた様子で振り返った。
「何?」
暁はすぐに追いつき、これ以上ない程の気まずそうな表情を亜美に向けて言った。
「全部終わったら、大事な話がある。だから、必ず無事でいろ」
「……」
亜美は鳩が豆鉄砲を食らったような様で亜美は暁の目を見た。暁の見開かれた目に、自分の顔が映り込む。亜美は無意識に自分が笑っていたことに気がついた。
「暁も無事で。……一番ノーマルな人間なんだから、死ぬ前に逃げてよね」
「……役目さえ終えたらな。その役目ってのも俺にはまだ判らないけどさ」
「あたしのどこでもドア貸してあげたいけど、今修理中なの。みんなで、自力で戻ってきて」
「必ず、戻る。普通の高校生になんなきゃな」
「うん、……じゃあ、また後でね」
「ああ」
暁の返事を聴き、亜美は踵を返した。途端に、不安が押し寄せてくる。暁を巻き込んだ事の発端は、亜美が夜光公園で暁に話しかけたことである。あの日のことを亜美は後悔していた。こんなことになるなんて誰も判らなかった。しかし、今は後悔だけじゃない。確かに後悔も少しはあるが、それよりももっと大きな何かが心の中にあった。会うはずのなかった人たちとの出会いも含めて、全部、自分の運命に感謝した。同じようでも、少しずつ前に進む螺旋のような運命に、ただ感謝をした。
「ああいうのを死亡フラグって言うよな、普通」
高木はゆっくり戻ってくる暁を見て、ニヤケながら言った。
「死亡フラグに負けるような奴に、運命は変えられないですよ」
神屋は囁くように静かに応えた。
「運命?」
「暁と篠原さんについては、本人たち以上に知っている。上辺だけの情報ならば。……あの二人は不幸な巡り合わせで出会ってる。本人たちが気づいていない奥底で、彼らの過去は既に繋がってる。そこで訪れる破滅の運命を変えられるか否かは、当人たち次第です」
「……俺は聞かないでいたほうが良さそうだな、その話。何にしろ、上手くいきゃあいいけどな」
「僕は信じてますよ」
神屋はどこか悲しげな表情を暁に向けた。
更新速度を変えるかもしれません。
2週に一度の更新がもう少し遅くなるかもしれませんが、王里神会編の終わりも近づいてきたこともあり、情報量が多いのが原因です。
この章が終わるまでは一時的に更新が滞るかもしれませんが、次の章からは戻るので、最終話までお付き合いいただければと思います。
今後もよろしくお願いいたします。