極限状態
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氷鳥は、薄暗い部屋からほとんど出ない。
何か外に用事があっても部下を使う。どうしても外に出なければいけないときは、特製のサングラスを付けた。すると目の病気かというとそうでもない。ただ、常に自分が暗闇の世界にいるかの如く錯覚したいだけだ。
明るい所は嫌いだった。
簡略すれば、彼は極度の根暗である。性格が暗くなった原因というのが恐らくはあるはずだが、あまりに長い間暗闇に身を置いたせいか、それは忘れてしまった。彼は自身の在り様について特に思考しない。どうでもよいのだ。
そうしていつしか、彼はいわゆる天才となった。
己というモノにほとんど一切構わなくなった彼は、外部にのみ目を向けるという偉業を成した。生活する上での必要最低限のことは適当にやり、そう、学習し続けた。高校にさえまともに通わなかったものの、世界最高水準の大学に合格し、首席で卒業。超一流企業に就職した。彼の人生は傍目からすれば、完璧そのものだった。だが彼の精神状態を知っての羨望ではない。
誰も氷鳥の中身は知らなかった。
両親でさえも、彼の腹の中に何が溜まっているのかは見抜くことができず、そのまま他界した。氷鳥が二十五のときだ。二人とも癌で亡くなった。一般的には早い死といえる。葬式には多くの人が来た。それは普通の人数ではない。二人はそれなりの権威を持った人物であった。属にいう高層階流だ。金持ち権力ありの社長の父、美しく高学歴で皇族でもあった母、こんな二人のもと生まれ落ちた氷鳥は、到底普通には育たなかった。二人とも人間ではない。その辺にいる普遍的な大人とは違っていた。完璧主義、というのだろうか。氷鳥の精神は二人によってあたかも作られてしまったのだ。だから自我を持っていない感覚に似ている。勉強しろ、体裁をわきまえろ、両親のしつけはしつけではなく、命令に等しい。簡潔にいえば、氷鳥の精神は一度壊れたのだ。それが原因なのかもしれない。七歳の頃から異様に光を嫌うようになった。それに比例し、脳は活発に作用したようだが、人としての心は持ち合わせられなかった。勉強はあまりしなかったが、ちょっとやるだけでほぼ全てを理解できた。一を知って十を知るとはこのことである。
外国の企業で働くようになってから四年が過ぎた頃か。
ようやく、三十を手前にして自分という存在に気を向けた。きっかけは大したものじゃない。鏡だ。仕事の合間、休憩がてらトイレに赴き、顔を洗い、拭き、鏡を見た。そのとき、恐らく氷鳥は初めて自分の顔を見たのだろう。大層驚いた。何故なら、目の前にいるのが誰だか判らなかったからだ。
そして王里神会に出会った。
普段から、宗教などには目も向けず耳も傾けぬ男であるが、仕事の関係で一度だけ、宗教に関わることがあった。ついでくらいの意味合いであったが、王里神会の教祖の演説を聞く機会があったのだ。感情が少し欠如している氷鳥であるが、その演説は実に興味深かった。体の中を何かが無許可に通り抜けたような、そんな感覚である。それから数日、Kという名の教祖の言葉、存在は氷鳥の中からなかなか抜け出さなかった。こんな経験は初めてだった。氷鳥は仕事を辞めた。
一年ほど仕事らしい仕事は何もしないで過ごしてみた。
この一年はつまり自分を見つめる期間である。これまで自分を意識したことがなかったから、彼にとっては非常に重要な一年であった。日記を書いてみたり、自画像を描いてみたり、カウンセリングを受けたりもした。色々と試すのは案外に面白かった。徐々にであるが、彼は自分が何者かを自分なりに掴み始めていた。しかし。
完全には判らなかった。
これは普通のことである。自分が何者であるかを全く理解している人間はそうそういない。吹聴する者はいても、実際は不可能だ。氷鳥は納得できなかった。彼の知り合いは皆、「人生とは自分が何者であるかを探す旅だ」云々で、やはり明確な答えは示せていなかった。氷鳥は唯一、悩んだものだ。自分という存在に。だからこそ答えが欲しくてたまらなくなった。ほとんどの人間は曖昧な認識しか示さない己という概念。いかにもな言葉で誤魔化す者が多過ぎる。結局のところ、一年自分を見つめたが、氷鳥にはそれが何なのかは遂に判らなかったわけである。
自身と対峙した明くる年の一月、氷鳥は王里神会に入会した。
このとき仕事はしていなかったが、経済的に困ることはなかった。両親の遺産、死亡保険の金、働いて貯めた金、腐るほどあった。氷鳥の経歴を知った上層部は、すぐに彼を最高幹部団に配属した。予想通り、氷鳥は大いに仕事をこなし、組織拡大に貢献した。しかして、問題は彼が自分を理解したかどうかである。彼は要するに、Kならば自分というものが何なのかを理解するヒントを与えてくれるのではないかと思ったのだ。そうでなければ宗教に入りなどしなかった。
彼はKと話し、自分が何者かを悟った。
Kは明快な答えを示してくれた。まさしく神の啓示のような、心に響く言葉を彼に授けた。一時間ほどの対話であったが、たったそれだけでこれまで悩んでいた答えが出たのである。氷鳥は、素直にKを尊敬した。氷鳥はKと話す前までは、Kは実は頭のネジが緩んだ狂者ではなかろうかと疑ってもいた。確かに演説を聞いた時点では多少の感銘を受けたが、それだけで素晴らしい人間であると断ずるのは愚かだ。Kという者がどれほどの存在かを理解する意味も含め、王里神会に入ったのだ。
氷鳥が判断するにKは偉大な人物であった。
いや、尊敬やら畏怖やらより、恐怖が働いた。氷鳥は今まで人間に、人間的な恐怖の感情を示したことがない。何故ならば氷鳥にとって他人は皆、下級な存在であったからだ。自分が他の人間より知力能力的に優れているのは勿論理解していた。故に自身を凌駕したと思う人間、Kとの出会いは恐怖以外の何物でもなかった。短時間の対話で氷鳥はKが恐ろしき存在であるとの認識を得たが、しかしKはそれすらも鎮めた。氷鳥は自分より上の人間には淘汰されてしまう可能性があることを意識する人間であったから、Kを怖がったが、それは杞憂であった。Kはカリスマ的だ。全てを包み込む包括力すら有している。弱者を導く、救う天才である。氷鳥はKをそう理解するに至った。もはやKは、氷鳥にとって敬うべき存在である。自分が何者かも教え、さらに自分を超える資質の持ち主でもあるにもかかわらず自分を包括してくれた――感謝すべきだ。氷鳥はそう思った。
そういった意味では、狂信的であるといえよう。
あからさまに狂信者であることを他に示そうとする者とはまるで違う。心からKを信じていて、それを他の人間にまで示そうとは思わない。氷鳥は王里神会でも、ほぼ一番にKを讃える精神を有しているが、表情やら行動ではそれを安易に露出しないため、本人も周りもそれには気付いていない。むしろ氷鳥はK以外の他人はそう認めていないから、他人がどうこうなどどうでもいいのである。
その優秀で最も信者としてパーフェクトであった氷鳥が殺されたのは、八月十九日水曜日、夜のことであった。
「ここ最近、連絡が取れていない会員のリストを見せてくれ」
王里神会本部ビル、五十一階。内ひとつが氷鳥の部屋である。別段広くない、普通の部屋だが、電気が消えている。家電製品も一部を除き電源を断たれているため、光はほぼ皆無だ。
氷鳥は電話の相手が出るなり要件を伝えてすぐに切った。これは機嫌が悪いことを意味している。すぐに電話の男はリストを持ってきた。あらかじめリストの作成は頼まれていたので、持っていくのを待っていたのだ。氷鳥はテーブルに置かれた電気スタンドをほんのちょっと光らせてプリントに目を通した。
一般幹部 神屋聖孝 八月十日の定期連絡なし。以後連絡が取れない。
執行部第一部隊員 Tony・Sanchez 八月九日の定期連絡なし。以後連絡が取れない。
一般幹部 Cecil・Alford八月十四日の定期連絡なし。以後連絡が取れない。
最高幹部団 闇沢征一 八月十二日の定期連絡なし。以後連絡が取れない。
幹部や執行部の者で連絡が途絶えている者は以上。
――氷鳥は思考する。
ここ最近、妙に騒がしい。殺し屋界の大御所、板垣権三郎の死。鬼頭火山によるⅤ事件。連絡が途絶える会員たち……
何か嫌な予感がするのは恐らく勘違いではない。
「……」
予感は悪い意味で的中した。
ピーッという高音が部屋に短く響いた。この音は危険を知らせるセンサーが作動したときに鳴り響くようになっている。これが鳴るということは、無断でここ五十一階にエレベーターが止まったことを意味する。エレベーターは全部で五つある。作動したのは……
氷鳥はボウッと光が宿ったパソコン画面に見入った。ここに着いたエレベーターは第二エレベーターひとつのみのようだ。一応、氷鳥は警戒した。以前にも間違ってこの階に無断で止まってしまったことが数回あった。手違いをしたエレベーターガールは厳重処分を受けるのが決まりだ。何故この階に無断で止まってはいけないかといえば、そこに氷鳥がいるからである。本質的には最高幹部団所属の者がいるなら、その階はまずその者の貸切で、許可が下りない限りは進入を許されない。
仮に許可なくその階に降りたなら、普通はすぐに執行部が注意をしにくる。最高幹部の護衛を含め、そういう対応を取らされる執行部の駒は多くいる。氷鳥の場合は、護衛として十人の手練れを同じフロアに在住させている。他の最高幹部に比べれば少ない方だ。これは彼らによってまちまちである。護衛は義務付けられているわけではないので、中にはたった一人でフロアを独占する変わり者も存在する。
氷鳥は至極冷静にソファに腰かけることにした。いつもと変わらないポーズ。焦ることはないと彼は思っているのだが、彼はこのあと自分が死ぬことになると果たして想像できただろうか。
異変には徐々に気付いていった。そう何度もこういった事態は起きないが、あればすぐに執行部から連絡がくる。ただの間違いだった、心配は無用だと。しかし、遅い。もう連絡がきてもいい。氷鳥は立ち上がった。何かしらの異常が発生している可能性は否めない。パソコンの画面に変化があった。暗闇の中光っている、その中に浮かぶ文字が緊急事態を伝えていた。
レベル6
レベルは0から6まで七段階ある。最高レベルの危険性らしい。氷鳥はマニュアル通り行動した。まずは拳銃を確保すること。部屋の鍵を閉めること。大丈夫だ。問題ない。パソコンには詳しい情報が表示された。
侵入者一名が執行部数名と交戦中。収集がつくまで部屋で待機すること。
情報をパソコンに送っているのはこのフロアにいる執行部の誰かである。何もなければふざけて顔文字などを付けたりしてくるが、今回の事態の深刻さがどれほどのものかが文面からひしひしと伝わってくる。既に執行部本部にも連絡が届いているだろう。しかし、一体誰が侵入したというのか。氷鳥は、こんな事態はそもそも想定していない。こんなことはまず起きないと、考慮する価値もないと踏んでいたから正直面喰っている。それどころではない。このフロアには十人しかいないのか、十人もいるのか、どっちとして捉えるべきなのか。敵襲してきた者の強さにもよる。いや、こちらは手練れが十人もいるのだ。負けるわけがない、相手は一人だ。
奥で争うような音が聞こえる。
第一、何が目的なのか。氷鳥にはそれが判らない。最高幹部の居場所自体はほぼ極秘である。自分を殺しにきたとは思えない。では何か? 単なる馬鹿か? いや、自分を殺しにきたのだろう。どうせそうだ。しかし何故? 判らない。誰が何の目的で……
「!」
マズイこのフロアは全滅した模様。おれはここで様子を見る。すぐ応援が駆けつける。奴の目的は不明。
確か司令室には一人しか残らないはず。氷鳥はそう記憶している。つまり。残りの九人はやられたのか。ありえない。たった一人に。武装した九人がたった一人に!?
久しぶりに――冷や汗が流れた。
氷鳥はドアに近付こうとしてやめた。隠れるべきだ。そして部屋に侵入してきようものなら隙を見て銃撃するしかない。しかし一体何者だ。
焦る。常に冷静沈着な氷鳥が。
どうする? 落ち着け。大丈夫だ。大きく深呼吸した――そうだ。いつだって、乗り越えてきた。私にできないことはない。最善の選択肢を掴み取るだけ。氷鳥は充分に理解している。自身が天才であることを。
だが大きな音がして、いとも簡単にドアは開いた。壊されてしまった。
光が部屋に侵入してくる――
逆光で見えないが、誰かが立っているのは判る。そう背の高くない人物だ。
氷鳥は愕然とした。やはり……狙いは私だったか。
影は傾き、その表情を露わにした。男か。いや、外国人?
見覚えが――そうか。この男は。知っている。我が宗教団体の信者。執行部の。欧米人。
トニー・サンチェス!
氷鳥は凍りついた。トニーと思しき男の手が真っ赤で、血、血。血まみれになっている手。
侵入者は言った。
「ドウモ。オ初ニオ目ニ掛カリマス。トニーデス」
気が狂ったのか。ただ一言、氷鳥は静かに呟いた。
「ノー。ワタシㇵ正常デス」
トニーは笑顔だ。手に血がべっとりと付いているからどうしたって不気味だ。
「ソレヨリ、ヨク判リマシタネ」
トニーは白いニット帽を被っていた。特徴的な顔だから無意味であったようだ。しかしロビーの方は気付かなかったのか。そもそも連絡が途絶えた信者など正確に把握しているのは上層部のみだ。下っ端を恨んでも仕方がない。
「ソノ顔、ワタシノコト知ッテイルミタイデスネ」
「執行部だろう。それ以外は知らない。それより、この状況は何の冗談かな」
氷鳥はあくまで平静を保った。別に無理をしてはいない。彼は本当に平静でいられたのだ。それなりの道を歩んできた証だろうか。妙に冷静な自分が若干不思議に思えた。まさか、心の奥底で死を覚悟してしまっているのだろうか。
「アナタハ残念デシタ。有能サヲ買ワレ、Ⅴ事件トイウ難題ノ解決ヲ任サレタノガアナタダッタカラ、コンナ冗談ミタイナ状況ニ、アナタハ立ッテイルノデス」
「早まるな。私に聞きたいこともあるんじゃないのか。それに、自分の命を捨ててまで私を殺すことに君は満足するのか」
「ワタシガ死ヌ?」
「あと数分もしないで執行部が大勢駆けつける。生きてここを出られると思わない方がいい。私の気分しだいだがね」
「投降シロト? フフ」
「何か策があるのか。まあいい。私を殺したければ、やってみるがいい。ところで死ぬ前に教えてもらいたい。君は何者なんだ」
トニーは薄ら笑いを崩さない。
「ワタシハ人間デス」
死とは意外にも壮絶なものだ。
氷鳥は死の瞬間、いや、正しくは首をはねられるその瞬間、止まった世界でただ思考した。自分の人生とは一体何だったのか。ここで死んで満足できる人生だったか。不思議とトニーの動きは遅かった――ように見えた。死ぬ間際、時間が遅くなるなのは本当だったらしいことを、このとき氷鳥は初めて知った。
結局、私はこの人生をここで終わらせていいのか。
何故今こんなことを。
生きる意味……そんなものは考えなくていい。私は自分の幸せのため、もう少し詳しく言うなら自分とは何かを理解したいという欲望から王里神会に入った。私は、私はこれで――満足したのか。
人生で、私は幸せを掴めたのか。
……いや、人生とは、案外終わっても、幕を下ろさぬものなのかもしれぬ。死んだ後の世界。ふ、下らない。止まった時間の中で氷鳥は口角を僅かに上げた。自分が何者かなんて、終わったときに初めて決まるのだ。
氷鳥は静かに目をつむった。首を斬られるのか。まず空気が抜けていく。同時に大量の血液が噴き出し、意識はだんだんと遠のいていく。そうか。そうなのか。Kの言葉が甦る。
――君は――
……?
私はあの日、なんと言われたのだ?
思い……出せない。
私は誰だったのだ。いや、そうか。私は判ったような気で……
所詮はKも人。人間だ。人に人は救えない。私は――
氷鳥の中で何かが吹っ切れた。
「!」
どうせ最後の最後なんだ。思い切りいこう。光など――怖くない。氷鳥は咆哮の表情で声にならない悲鳴を上げた。
この世に不思議なことなどない。ただ、それだけのこと。
切られながら、目にも止まらぬ速さで懐から拳銃を取りし発砲した。
乾いた音が鳴った。
氷鳥は人間の顔ではなくなっていた。
そして血が――血が、滴り落ち……
これは衝撃的でしたね・・・w
竜司がだいぶ話を動かしましたw
ちょっとマンネリ化してたので状況を打開しようということでしょう。
次回から僕の担当なので、僕も軸を揺さぶってみましょうかね。