GAME
‐1‐
公園の時計は正しい時間を刻んでいなかった。暁が目を覚ましたのは公園の時計の針が九時四十二分を丁度差したそのときだった。暁は正しい時刻を確認するためポケットの携帯を取り出そうと手を動かした。
「…………」
ふとした矢先、暁の手は動きを止めた。このとき、暁の脳内を渦巻いていたのはある種の既視感……、一般にデジャビュと呼ばれるものだった。
……何だ。どこかで……
そして暁は真相を悟った。
携帯に表示された時刻が二十一時三十分を過ぎた辺りで、ようやく亜美が公園を訪れた。
約束の時間を三十分オーバーだ。だが暁は反論しなかった。
「ゴッメ~ンっ! 遅れちゃった。ハァ、ハァ……」
亜美は走って来たのか、息が上がっている。膝に手をついて呼吸を正そうとしている。
……そんな急がなくてもいいのに。
「はぁー、……ごめんね。もう大丈夫だから……」
「あ……いや、無理しなくていいよ。俺も今来た所だし……」
亜美は人一倍責任感の強い女だった。故に、自分で設定した時刻に自分で遅れるなどもっての他、相手が待っていたとなれば尚更だ。
これまでの付き合いである程度、亜美の性格を知っていた暁は、細やかな嘘で少しでも亜美の罪悪感を取り払ったつもりだった。だが今回の嘘は、耳を澄ませばよく聞く常套句。
こんな冗談で良ければ笑ってくれといった想いの込められた発言。これまでの関係から導き出せる最善の返答だった。
「……はぁ、ハハ。いいよ、別に。気にかけなくても……どうせ寝てたんでしょ? ほら、寝癖」
亜美に逆立った髪の毛を引っ掴まれながら、
「……なんだ、すべてお見通しか」
と暁はぼやいた。
たまに吹く涼しい夜風は、公園の外灯に照らされし木々をざわつかせ、二人の頬を優しく撫でる。ここ、『夜光公園』には外灯が一つしかないが、その名の通り夜も明るい公園だった。オレンジ色に照らされた木々、砂場、地面、ブランコ、その全てが一様に美しく幻想的に感じるのは、暁が普段そういったモノを避けて生きていることを、如実に彼の胸に語らせる。だが、誰が見てもそれは美しい。
二人は公園の隅にある四メートル程の小高い緑の山の頂上にいた。腰を下ろし、前を見据えていた。暁は唐突に放った。
「なぁ……、感じないか。こうしていると、なんだか、言葉には出来ない何かを……」
その声は真面目だった。
隣にいた亜美は暁の顔を覗き込む。声は続けた。
「こういった感覚が人間特有のものなのか……、はたまた他の生命、いや、生命だけに限らない存在全てが感じ取れるんだろうか。例えば、人間が明らかに他の生物と違うこと、それは大脳新皮質だ。わかるか? そこは理性を司っているらしい……、あんまり詳しくは知らないが。でもなぁ、本能で感じるようなものじゃあないだろ、これは」
真面目な顔をしたまま、暁は左に振り向いた。そこには、薄ら笑いを浮かべた亜美の横顔が在った。
「……面白いね。やっぱそうゆうこと考えてたんだ。……あのときも、……そーゆーこと考えてたんでしょ」
「あのとき?」
「ほら、あたしが初めて話しかけたとき」
「……ああ、あれか。まぁ、……うん」
そこで会話は途切れた。
一台の車がブーンと音を立て公園の前を通りすぎ、また一台通りすぎた。
亜美が口を開いた。
「じゃあ、そろそろ本題に入るよ」
「ああ……、でもちょっと待ってくれ」
「なに」
暁にはどうしても確認したいことがあった。だが、直接的にそれを尋ねるのは気が引けるというか、暁のような性格の持ち主には出来ない。いや、逆に彼のような性格の持ち主だからこそ問いだせることかもしれないが……。
「あの……さ、……お前……」
「…………」
「……お前さ」
「うん、なに?」
「…………」
「なんなのさ!?」
「あ~いや、暇だなぁーと……、思ってさ……うん、何でもない」
「はぁ?」
ハハハ、と濁し、暁は本題を施した。亜美は不満そうな表情を見せたが、本題に入ると 同時に活気の溢れた顔つきになった。
‐2‐
鬼頭火山の熱烈なファンであり、彼の作品全てを購入熟読した篠原亜美は、偶然に偶然を重ね、その賭けに勝った。
初めはただの遊び気分でやっていたその賭けの首謀者、佐藤静枝は、亜美の同級生。学校は違うが、中学生のとき同じ塾に通っていたこともあり、尚且つ、当時クラスに知り合いのいない同士だった二人は席も隣だったため、必然的によく話し合う仲になった。後に二人は唯一無二の親友同士となり、中学を卒業以来、先週の土曜日まで会うことはなかった。
「久しぶりだね、シズ」
「……もうウチらも高二か。一年とちょっとぶりだよな。ッて、全然変わってねえじゃん! お前~」
「アハハハ、シズだって変わってないよぉー、全然!」
女にしては男勝りな威勢と言葉遣い。そして男共を魅了するハイカラルックス。変わってないとは言われたものの、髪は金色に染められ、耳にはピアス。どうみても外見的には変わっていたが、亜美が変わってないと言ったのは静枝そのもののことだったんだろう。
「ふん、確かにウチは変わってねぇよ? ウチ自身はな……、んで、この天才的な頭脳もね。キャハッ」
そう、亜美が静枝に惹かれた何よりもの理由、それは静枝の天才的な頭脳にあった。
端から見れば頭の悪そうなギャルにしか見えないが(もっとも、その辺のギャルなど足元にも及ばぬ程の美形であるが)その実態は全国共通模試トップ10入り、県内では二位を誇る曲者だ。勿論、県内最高峰の高校にトップ入学、以来校内のテストでは一位の座を譲ったことは一度もない。
そんな静枝を亜美は尊敬していたし、羨望していた。
マックで一時間程おしゃべりし、その後デパートで買い物を終えたあと、二人は亜美の家へ落ち着いた。実は、静枝が亜美の家へ来るのはこれが初めてである。亜美の部屋でゲームをしたり、パソコンをいじったりしながら談笑していた二人だったが、小一時間も経てば飽きが回ってきた。口数は少なくなり、静枝はとうとう気になっていたことを口にした。
「アミさぁー、彼氏デキた?」
「え? ……できないけど」
「ふーん」
ルックス的には男ウケする顔の亜美だったが、告白されたことはまだ1回しかなく、告白したことも1回しかない。どちらの場合も、失恋という形で幕を閉じたのだが……
「そぉなんだ、はん。好きな人もいねぇワケ? いるべ」
「えー、どうなんだろう。好きってゆうか、うん……」
好きな人、その言葉が耳に入ってきたとき、亜美の脳裏には確かにある異性の顔が浮かんできたがそれが真に「好き」という感情なのか、疑わしいところだった。
「わかんない」
と言って、静枝にも、自分自身にも誤魔化しを与えることにした。
「はーん……あー疲れた」
静枝はだらしなく床に仰向けに倒れた。膝を立てていたので短いスカートは翻り、ピンク色のファンシーなパンツが亜美には丸見えだった。
「パンツ、見えてるよ」
「う~、ん、ん……んん?」
「……ん?」
「あ!」
静枝の目は、頭上の棚に置かれた本に釘付けとなった。
その本のタイトルは、
「鍵穴!」
である。
「ああ、それ、なに? 知ってるの? シズ」
物語の発端は、常に偶然が付き物だ。今回の場合も例外ではない。
「知ってるも何も、これは……」
聞いている者の興味をそそるそのくだり……
亜美は『鍵穴』を高評価しているだけあって、俄然聞き入る。
そして、放たれた一言は、
「あんたこれ知ってたの」
であった。
亜美の肩から力が抜けた。
「……なんなのさぁー。あたしはねー、こう見えて鬼頭火山の大ファンなの。あの人の作品全部読んだんだから。その辺のファンにはファンと語らせないわよ」
言い終えて、亜美はニヤリと笑った。その目は強い自信に満ち、鬼頭火山についてなら何でも聞きなさいといった雰囲気を醸し出していた。
そんな亜美を見て、静枝は上半身だけを起こし、こう言った。
「ぢゃあ、ア・タ・シとしょーぶ、してくれないかしら?」
その目は、亜美よりも強い自信で満ち満ちていた……
数刻の時が経った。
時刻は夜の十時を回っている。
「……負けました」
その部屋で行われていた勝負。その勝者は……
「あたしの勝ちね」
篠原亜美だ。
「……いや、シズ、なかなか強かったよ。まさか、シズがあんなに鬼頭火山について詳しいだなんて……」
亜美は驚いていた。
そのゲーム内容はこうだ。
単純極まりなく、鬼頭火山の作品について問題を出し合い、より多くの正解を答えられた方の勝ち。互いに二十個の問いを出題する。
亜美の部屋には『鍵穴』を含めた鬼頭火山の作品全十六作があったので、解答の真偽について困ることはなかった。
ちなみに、二人はこの勝負においてあるモノを賭けた。
亜美は「世界の十本指に入る鬼頭火山のファン(自称)」を、対する静枝は「ウチと鬼頭火山に関するある重大な秘密」を賭けた。
亜美は負ければ鬼頭火山について胸を張って語ることを許されず、静枝は負ければある重大な秘密について亜美に打ち明けなくてはならない。
勝負は互いに一歩も譲らず、最終局面へと突入した。
静枝はベッドに飛び乗り、真剣な表情で床に正座し前だけを見つめる亜美を立った状態で見下ろし、右手を腰にあて、左手で亜美を指差す。
「はぁぁ。これで最期ねぇえ~。ふふふ。ふふ。行くわよ、はぁッ……鬼頭火山のデビュー作『鬼頭火山』!! あの作品の最後の一文を読み上げなさい」
「……!!」
一瞬、亜美は動揺した。が、亜美にもプライドがある。
「……その時、神は我々を見ていたかどうかなど問題ではなく、善悪の創造を図った精神こそ、真に罰せられるべきではないのか……いや、常々、人など自分がいちばん可愛いので、だからあのとき、あのとき市川はあの部屋の鍵を閉めてしまったんだろう……でしょ? シズ……」
言い終えて、亜美はベッドに立った静枝を見上げた。
静枝は静かにベッドから降りた。そして、ヘナッと座り込んだかと思うと、
「……あーあ。全問正解か……ちぇ。あんたやるわね。もういいや。ウチの負け」
と言った。
「え? でも、次あたしの質問に正解したら、サドンデスに持ち越しッてなるんじゃ……」
「いいよ。もう、メンドッちーから。はぁ~あ……賭けはあんたの勝ちだョ。アミちゃん……負けました」
「あは……凄いあたし、あのシズに勝っちゃったよ。あたしの勝ちね……いや、シズ、なかなか強かったよ。まさか、シズがあんなに鬼頭火山について詳しいだなんて……あ、あ。いいの? やった! あたしの勝ち!! ……ッてことは、ひ、秘密を、教えてもらうよッ。わーい……」
静枝は静かに言い放った。
亜美にとっては、重大である秘密を……
「わたくし、佐藤静枝は、『鍵穴』の作者である鬼頭火山の……実の姪でぇーす!」
そう言い放った静枝の笑顔は、同じ女の亜美も見とれる程可愛く、いやそれ以上に放たれた言葉に驚愕し、半ば昇天しかけた。
‐3‐
「アミ? おーい……。篠原さーん……」
「………………はい?」
亜美は五秒程経ってから自分が静枝に呼ばれているのに気が付いた。
「『はい?』じゃあねえよ。普通そんな驚く?」
「驚くよ~。全然知らなかったもん」
「はいはい、ゴメンゴメン。ほら、ウチッて秘密主義者でしょ?」
静枝は可愛らしく笑ってみせたが、亜美は誤魔化されなかった。
「初めて聞いた」
亜美がむくれていると、静枝は亜美の手を取って言った。
「はは…バレた? おじさんには誰にも言うなって言われてたからさ。……それより、アミに頼みがある」
「頼み?」
あの静枝が頼み? 亜美は静枝との思い出を簡単に思い返してみたが、静枝が亜美に真剣に頼みごとをすることなど今までになかった。
「実はね……先月、おじさんが小説家辞めるって言い出してさ」
「ええ!? おじさんって、鬼頭火山が!?」
亜美は静枝が言っていることが信じられなかった。鬼頭火山は現在49歳。小説家としてはまだまだやっていけるはずである。
「ウン。何でだろーね……。ウチにはまだまだ書きたいって顔してるようにみえたんだけど。訳聞いても、『そんなのかんけーねー』っつって」
「小島……よしお?」
亜美は真剣にたずねてしまった。
「………………はぁぁ。アミさ……鬼頭火山が若干時代遅れのギャグかましてたらどう思うよ?」
静枝は呆れ顔でそう尋ねた。
「ファンとして、受け入れるべきかな」
亜美がまたもや真剣に答えてしまったので、静枝は自分がふざけてアレンジした鬼頭火山の発言を訂正することなく、この話をスルーすることにした。
「で、頼みっていうのはね……」
亜美は静枝にも解決できない何かに無性に興味があった。次の言葉までの数秒間、亜美の部屋の中は緊張感に満たされていた。そして静枝はついに口を開いた。
「アミにおじさんを説得してほしい」
「ええ!? あ、あたしが?」
無茶振りもいいところだった。家庭内で解決できないことをどうして自分が解決できるだろう。
「無理だよぉ~。あたしはファンだけど家族じゃないんだよ? いきなり知らない人に小説家続けてくださいなんて言われても納得いく訳ないしー……」
一瞬鬼頭火山に会えるかも、とも思ったが説得という条件が付く以上簡単に引き受けるわけにはいかなった。しかし、見たところ静枝は勝算があるような顔をしていた。
「ウチはね、アミ。どれだけ鬼頭火山という小説家とその作品を知っていても、親戚である以上あたりまえになっちゃう。それに誰にも言ってなかったけど、ウチは生まれつき瞬間記憶能力の持ち主だから一回小説読めば頭ん中はガイドブックみたいなもんだからさ。しかーし、亜美は本物の鬼頭火山ファン、しかもマニア級のね。おじさんが元気ないときはいつもウチがおじさんの作品の知識を聞かせて励ました。でもおじさんはウチが気ぃ使って励ましてたのに気付いてるから……。おじさん、本物のファンに会えばきっと小説書く気になる。だから、お願い!!」
「シズ……」
静枝がここまで押してくるとは思わなかった。瞬間記憶能力にも驚いたが、静枝がここまで真面目な話を出してくることに驚いた。いつもならこんなことはまず無い。
実際の亜美の気持ちとしては静枝の力になれるなら協力したいという方向へ変わってきていた。依然として自信は無いが……「決断の時だ」そんな気がした。亜美は腹を決めた。
「分かりました。負けたよ、シズ。やってみることにする。鬼頭火山とも話してみたいし……ね。でも、シズ。駄目かもしれないよ。あんまり期待しないでね?」
「分かってる。これが最後の手だから。人事を尽くしてなんとやら……だよ。じゃあ後で話は通しておくからな、アミ君。おじさんウチのこと大好きだから、絶対最後にはOKだすから安心してくれてダイジョブだから。日程と住所は後でメールするね~」
「あ、うん……」
……待て。今何かおかしな事を言ったような………………!!!!
「ま、待った!! シ、シズ、住所って……、シズは一緒に来ないの!? あたし独り??」
「当たり前ッしょ。ウチがいても気ぃ使ってるっていう状況を顕著に表しちゃうだけでしょ? というわけで、ファイトッ!! あみりん!」
静枝がガッツポーズをしている間、亜美は数十秒前の自分の決断が思っていた以上に大きなものだったと気付いた。ファイト、アミちゃん……自分を奮い立たせ、亜美は深呼吸をした。
当たって砕けよ、と天の声が聞こえたような気がした。
‐4‐
「なるほど」
暁は亜美の話を聞いてまず、そう口にした。
これまでの亜美の話をまとめると、佐藤静枝という亜美の親友に頼まれて、彼女は小説家鬼頭火山の引退を止めさせる説得にいくことになったということになる。だがその後、何らかの理由によって説得するはずの鬼頭火山と真剣勝負する流れになるわけだ。
「……で、推理するにお前は今日の朝か昼に佐藤静枝から連絡を受け、放課後鬼頭火山宅に向かった……」
「うん。それで今日は遊びに行けなくなっちゃったのよ。朝、シズからメールがあって、今日なら予定が空いてるって」
亜美は続けて、その後起きたことを話そうとした。
「それでね、ここまでが鬼頭火山と戦うことになる話の前の予備知識でー…」
「待った……少し休憩させてくれ」
暁はすかさず止めた。話の全容はしっかりと掴んだが、おそらくここから先が最も大事なところだろう。落ち着いてから聞きたかった。
「喉渇いたろ? 何か飲み物買ってくるよ。何がいい?」
実際、亜美は走ってここに来た上に、ほとんど喋りっぱなしだったので苦しそうだった。こんな時間になってまで俺に協力を求めるとなると、よっぽど勝負の勝利条件が難しいのだろう……っとここまで至って自分の力を過信し過ぎていることに気付き、恥ずかしくなった。
「うーん……。じゃあ、コーラ。……あっ、カロリーゼロのだよ。」
「カロリーゼロって、別にお前太ってないだろ」
「あんたの眼は節穴ですか。現状維持は進歩なり…。ほら、メモって!」
つまり、どうやら少し太ったらしい。もう少し余裕はあるが放っておくと太ると言いたいのだろう。
「何がメモって、だよ。他は?」
「特に無い」
「じゃあその辺の自販機でいいか……。じゃ、行ってくる」
「うん。ありがと」
暁は夜光公園の裏の自販機に向かった。
現状維持は進歩……もしそうなら、俺は一応進んでいるのだろうか?
午後十時になると車の通りは先程よりも減っているように思われた。亜美は暁が先程渡したゼロカロリーのコーラを半分ほど飲み干して、話し始めた。
「あのさ、暁。あたしなんかが鬼頭火山の運命を変えるようなことしていいのかな?」
亜美は迷っていた。大の大人が辞めると言っているのだからちゃんとした理由があったのだろうか。しかし、亜美は一度鬼頭火山との勝負を決意しているのだ。暁は亜美の決意を信じたかった。
「知ってるか? ビッグバンにより宇宙が無数に誕生するとして、その中で生命が存在する宇宙が生まれる確率は十の二百二十九乗分の一なんだ。さらにその生命がオレたちみたいな人になる。これは偶然か? オレは必然なんじゃないかって思ってる。神とか、造物主とか、そういうんじゃなくて、オレたちは生まれるべくして生まれてきたって思いたい。だから、なんていうか……あたしなんか、とか言うな。お前がやると決めたならそれも必然なんだ。一人の小説家の運命を変えることが意味ある自分を証明するひとつの方法なのかもしれない。そして、お前の運命すら変えるものなのかもしれない」
一歩間違えれば矛盾をはらみそうな理論だったが亜美を導くには十分だった。亜美は俺の言いたいことは察してくれただろう。
「そっか。うん……じゃあ、やってみようかな。シズの為にも、自分の為にも、暁の為にも」
「は? 俺も?」
「そうだよ。だって、あたしの行動が暁の運命を変えるかもしれないでしょ?」
「まあ、そういうことになるけどさ……」
一瞬、亜美は俺の過去を知ってるんじゃないかという錯覚を覚えた。
「それじゃ、そろそろ後半戦といきますか」
と、亜美が話題を本題に戻したので、暁も決意を持って話を聞くことにした。ここまで聞いたならもう後には引けない。
「ああ。話してくれ」
月明かりの中、亜美の声は静かに語りだした。
‐5‐
亜美は学校から出てから一旦アパートに戻ると、私服に着替え十分足らずで自宅を後にした。鬼頭火山と会う約束をしている時間は午後四時過ぎ頃だった。六時限目の化学が終了した後、亜美は暁に全てを話そうか迷っていたが、結局話さずに出て来てしまった。独りでは心細いが複数人で押しかけるわけにはいかない。覚悟を決めるしかなかった。
鬼頭火山の邸宅は亜美や暁の住む地区から電車で二十分ほどの所にある。本名は神崎冬也で、もちろん表札にも神崎と書いてあるはずだ。
家を出て、三十分程時間が過ぎ、亜美は静枝から知らされていた住所まで来た。そこにある家は周辺の家の三倍近くある豪邸で、いかにもといった感じだった。壁は大部分がグレーで外から見える窓は十個。全体を見渡すと、左右対称で築十五、六年の家に見えた。
いざチャイムを押すとなるとやはり緊張した。押すか押さないか悩んでいると、不意に後ろから声がした。
「君が静枝の親友の篠原君だね?」
「!!!!」
亜美が振り返ると、そこには鬼頭火山が立っていた。雑誌で数回見た程度ではあったが、ファンとして間違えるはずは無い。
「悪いね。裏庭にいたもので気付かなかったよ」
「い、いえ……私こそ、突然会いたいなどと、わがまま言って……」
「気にすることは無い。静枝から紹介は受けているよ。私の世界一のファンだって?」
シズのやつ、ハードル上げたな……!!
「はは……。自称ですが……。それより、一般人と会ってもいいんですか?」
「静枝が世話になってるというなら、普通のファンとは違う。とはいえ、今回は特別だがな」
コワいイメージが多少あったのだが基本的には気さくなおじさんのようだ。大物のオーラは出ているが……。
「さあ、あがりなさい。私に話があって来たのだろう?」
「あっ、ハイ。おじゃまします」
来る前に考えたシナリオとは既にかなり外れていた。もはや、その場で対応するしかない。
亜美はついに鬼頭火山の自宅に足を踏み入れたのだった。
鬼頭に案内された部屋は予想していたよりもずっと小さく、亜美はそこが小説を出版する際の出版社側との打ち合わせなどで使う部屋だと推測した。部屋にはテーブルと椅子があるだけである。室内は快適な温度に設定されていたので、鬼頭はあらかじめ亜美をこの部屋に招き入れることを決めていたようだ。
「静枝とはいつ出会ったのかね?」
「中学の頃です。凄いですよね。静枝ちゃん、とっても優秀で」
鬼頭が静枝を溺愛していると聞いていたので、そんな話題を振ると
「ハハハハ。まあ、私の娘ではないが、小さな頃からあの子に勉強を教えていたからなぁ」
と、まんざらでもなさそうだ。
その後五、六分互いのことを話し、ついに話は本題に入った。
「ところで、君の話したいこととはなんだね?」
このとき亜美は鬼頭が自分の言おうとしていることを察しているという確信を得た。彼の瞳はまさにそれを語っているのである。
「もうお気づきだと思いますが、私は静枝からあなたが小説家を辞めると言っていることを聞いています。私も静枝と同じ意見、つまり神崎さんには鬼頭火山として小説家を続けてほしいと思っています」
「なるほど、やはり静枝の頼みだったか。だが、いくら君が私のファンであり、静枝の親友だとしてもそれだけは従うわけにはいかんのだよ」
「……なんで、辞めちゃうんですか?」
「君には関係のないことだよ」
鬼頭はやはり本気のようであった。しかし、同時に静枝が言っていたように小説家をまだ続けたいという様子も見受けられた。
「静枝にも関係ないことですか? 静枝も言っていましたが、私にはあなたが小説を書きたがっているように見えます」
鬼頭はしばらく黙り込んだままであった。そして、彼は亜美の目をじっと見て言った。
「君にはわからない何かが起きている、そう解釈してほしい。決して作品が作れないわけではないのだ。ただ、もう意味が無いのだよ。私にはもう小説を書く意味が……ない」
亜美は、今の鬼頭火山は自分の会いたかった彼ではないと気付いた。もう、遠慮する必要はなかった。
「今のあなたは偉大な作家ではないです」
突然の反撃に鬼頭はかなり驚いた様子だった。亜美は続けた。
「あなたは書きたい小説が書けるのに、それを意味がないなんて言っている。ファンがあなたのことを心配しているのに理由も話さずに勝手に、ひとりで全部終わりにしようとしている。何を恐れているんですか? 世界一のファンを、あなたは捨てようとしてるんですよ!!」
「……悪いね。私は君一人のためにもう一度筆を取ろうとは思わない」
「神崎さん。鬼頭火山の世界一のファンは私じゃないです。あなたのことが本当に大好きな人は、世界一のファンは……佐藤静枝です」
亜美は鬼頭の目をしっかりと見て彼の返答を待った。
「………………」
一分程考え鬼頭は何かを決意したようだった。
「負けたよ。君がそこまで言うとはね……。ただし、条件がある」
「……条件……ですか?」
「私と真剣勝負をして、君が勝利したら、私は君たちに全てを話すとしよう。小説を続けるとまでは約束できんがね」
「本当ですか!? ありがとうございます!! そ、それで、真剣勝負というのは……」
鬼頭はテーブルに置かれた紅茶を一口飲んで続けた。
「単純だ。私が作った暗号を解き、その暗号が示す場所にたどり着けば君の勝ちだ。ただし、制限時間は二十日後の七月十四日までだ。その日に私は暗号が示す場所に来るだろう。君がそこに来なければ今後君と会うこともないだろう」
「鬼頭火山の作った暗号をたったの一人で解くんですか?」
「友人と協力しても構わない。だが静枝と協力するのはだめだ。静枝はその暗号に似たものを一度解いている。二十日後までは、静枝と話すことを禁ずる。私と君が勝負することになったことは私の方から静枝に話しておこう」
「……分かりました。やりましょう。暗号は全部でいくつですか?」
「複数個あるが、それぞれ示す場所は一つ、要するに第一の暗号の示す場所に第二の暗号があるといった感じだ。それ以上のヒントはやれん」
複数個、その言い方は実に抽象的で、勝負に負けないために数十個もの暗号を作るのではないかという不安を覚えたが、こればかりは鬼頭の推理小説家としてのプライドが健在であることを信じるしかなかった。
「はい。これで……十分です。絶対にこのゲームに勝ってみせます」
「健闘を祈っているよ、篠原君。それではまず、第一の暗号の隠し場所を君に教えよう」
そう言うと、鬼頭はテーブルの下に付いている棚から十センチ四方のメモ用紙とボールペンを取り出すと、メモになにやら文字を書いて、二つ折りにして亜美に手渡した。
亜美が中を見ようとすると、鬼頭はそれを止めた。
「待ちなさい。それを見るのはここを出た後にしてくれんかね。今いろいろと質問されてうっかり答えを言ってしまったら話しにならんのでね」
断る理由もないので亜美はそれを了承した。
「さて、これでもう話は終わりかな?」
「はい。いろいろありがとうございました!!」
その後は自然と亜美が帰宅する流れになった。
玄関を出ると鬼頭はふと重要なことを思い出したようだった。
「そうだ、篠原君。重要なことを言い忘れていたよ。暗号を解いても今日は行動しないでくれ。君に先回りして暗号を隠す必要があるだろう。明日は学校はあるかね?」
「ありますよ。明日は木曜なので」
「では、君が学校にいる間に暗号を設置するとしよう。つまり君が動いていいのは明日の夕方頃からだ。いいね?」
「分かりました。明日の放課後以降からということですね」
「そうなるな。まあ、せいぜい頑張ることだ」
鬼頭は門のところまで送ってくれた。亜美は、
「約束、絶対守ってもらいますからね」
と、最後に確認した。
「もちろん。ただし、君が勝ったなら、の話だ。頑張りたまえ」
どうやら、努力しだいではなんとか攻略できる勝負のようだ。少なくとも鬼頭の言葉からはそう感じられた。
「……君も変わっているな。私は翼をもがれた鷹だというのに……」
鬼頭の自らを嘲笑うような言葉に何か深い意味がありそうではあった。が、聞いても教えてくれそうになかったので、そんなことないですよ、と軽く受け流しておくことにした。
「それでは二十日後に、また。今日はありがとうございました」
「そうなればいいがね」
そんな会話を済ませ、亜美は鬼頭の家を後にした。
‐6‐
時刻は午後十時十五分、夜光公園は静まり返っていた。
「あきらぁ、疲れたんですけどー」
本当にこの女が果敢に鬼頭火山に立ち向かい、大冒険をしてきたのかと疑いたくなるほど気の抜けた声だった。しかし、ここまで話し続ければ疲れるのもおかしくはないだろう。
「ごくろーさん。それで亜美、暗号ってのは?」
「うん。ちょっと待ってね……」
亜美は財布を取り出すとその中から一枚の紙切れを引き抜いて暁に手渡した。
「初めが肝心である」
市場・内閣・最果て・大雨・ノア・図案・書斎・館長・ニアミス・行雲・ケア
『鉢』の中に、『位置』あり。『位置』とは『位置・灸・霊』であり、『禄・霊・灸』のパーツから成る。『荷・酸・霊』と『荷・酸・位置』番目のパーツは間に道標を持つ。
紙にはそう書かれていた。
「解る?」
亜美が横から覗き込んだ。
「いや、そんなすぐには……お前は?」
「うーん……後半のカッコは多分数字を意味してて、『道標』は次の暗号のことだと思う」
亜美の推測は暁の推測と完璧に一致していた。
「この暗号はおそらく、前半の単語の羅列を解かないと後半の文章が意味をなさないタイプだな。鬼頭火山の小説でも殺人予告であったやつだ」
しばらくの間二人は考え込んでいたがさすがに長居しすぎた為、時刻は午後10時45分を回っていた。
「亜美、もう遅いから続きは明日だ」
「そうだね……明日は二人で授業サボっちゃおうか」
亜美は人差し指を立てて提案してきた。
「授業中にこっそり出来るだろ」
見なくても亜美が不満そうにしているのがわかった
「何でそうなわけ? ノリ悪いな~」
「俺がツッコミいれなきゃ暴走するだろーが」
「あたしを何だと思ってんのよ、キミは。まあ、必要ならば無理矢理連れ出すし。……じゃ、そろそろ帰るね」
「送ろうか?」
亜美の性格からして断るのはわかってはいたが一応聞いてみることにした。午後11時はさすがに遅いと思ったからということもあるが。
「ありがと。でも、いいよ。家近いから」
「そうか。……じゃあ、気をつけて」
「また明日ね、協力ありがとう」
そう言うと亜美は公園から外へ出た。了承したつもりはないが、どうやら協力することになったらしい。亜美は振り返って手を振っていた。
この二日間で繰り返しの毎日が大きく変貌していた。もしかしたら、本当に亜美の行動が自分の運命を変えるかもしれない。暁は手を振り返しながらそう思い始めていた。
ふと、今日の朝見た幻想的な夢のタイトルが浮かんできた。「始まりの世界」それはまさしくあの夢の世界を表したタイトルだった。始まり……か。いったい何が始まるのか。どこへ行き着くのか。この思考が過去との戦いを余儀なくさせそうで、怖かった。
あの夢の中で、もし扉を開かなかったらどうなっていたんだろう。暁はしばし、月光に包まれながら幻想空間の中に入り浸っていた。