妙手
‐1‐
ジーグの音量は次第に小さくなった。
部屋の中にいる誰もが固唾を呑んで見守る中、パソコンの画面内容は一転した。
画面は、一瞬だけ白くなり、次にその全貌を露わにした。
……文字だ。
パッと画面に映し出されたのは、幾行からもなる文字列だ。
興奮した暁は、画面に何が書かれているのか、うまく読めなかった。すぐに視点が定まろうとしなかったからだ。
やっと文頭に目が落ち着いた。
09.7.20.Mon
此処に重要な件について記す。
心して読むべし。
既に機密データは看破した。
機密データの内容は、簡略すると、核兵器の弾頭内のコンピュータの目標番号の変更を可能とする手順についての説明であった。
私はそれを理解し、いつでも目標を変更することが可能な立場に現在いる。
機密データには、他にも、<革命>についての詳しい場所、日時が記されている。<革命>とはテロ行為のことだ。
今年、八月二十一日金曜日、東京「NEW GENERATION PARK」にて、前述の核兵器は投下される。
以下に、私とのインターフェースを提示する。
クリック
――ここで終わっている。
馬鹿としか言えぬ程の沈黙が、一体どれほどの間流れたのか、時計が刻む正確な値を体内で理解した者はこの部屋に一人もいない。
時間感覚とは不思議なものだ。
しばらくして神屋が重々しく、実に重々しく語り始めた。他三人は、静かに聞いた。
「……つまり、だ。僕たちは、クリックを押せばいい。恐らくは、電話番号なり、メールアドレスなりを入手できる。そして、これを書いた人と詳しく話し……」
神屋も言いながら気付いていた。自分は何かズレた発言をしている。否、大切な部分から意図的に目を背けて口を動かしている。判っていたが、思考がどうのより、口が動いてしまったのだから仕方ない。
亜美は――普通の抑揚で言った。
「核?」
核。
……核?
暁は、頭がジンジンし始めたのを、微妙な快感としてその身に受けた。
もう一度、最初から黙読してみる。
二度目は素早く読んだ。
やはり、そう、これは――
「……」
暁の脳は思考を遮断してしまった。一時的に。
高木は、「え?」と小さく漏らす亜美を一瞥しつつ、顎に手を添え、その腕の肘をもう片方で支えた。直立したまま、黙ってパソコンから少し離れいく。献立を考える若者のような顔だった。
神屋は、再び声を発した。
「……そうか。これは……」
違う。
そうではない。
「……いや……」
珍しい。
神屋聖孝が口ごもる場面などそうそう滅多にお目にかかれない。
扉が――暁は扉の方を見た。
扉が開いた。
「……核兵器。Kハ本気ノヨウデスネ」
唯一。
その部屋で冷静だったのは、入ってきたばかりのトニーであった。
表情が引き締まっている。いつもの薄ら笑いは、そこにはない。
声に引き戻されるようにして、暁は、現実に帰ってきた。
「核って」
なんだよ。という声があまりに小さかった。
神屋はじっと動かない。パソコン画面を見つめたまま。
亜美は言った。
少し落ち着いている。呑み込めてきたらしい。
「つまり、王里神会のテロっていうのは、核兵器を使ったものなの……? でも神崎さんは、それを防げるの……?」
つまり。
「テロを未然に防げるの?」
まるで自問のような口調だった。
高木が背を向けたまま、独り言のように語りだした。
「そこに書いてあることが真実なら、アンチマターは勝利したことになるかもしれない。テロは失敗するということだからな。しかしそれにしても、核兵器、ときたか。これは、おれたちが関わっていいレヴェルの事件では、いよいよなくなってきたかもしれん」
高木は振り向いた。神屋がおぼろげな視線を高木に投げかける。
暁は、壁に手をついて、体を支えていた。
「この文章の書き手はどうやら、テロをどうにかできるらしいな。機密データを看破した……つまりは、フロム・ヘヴンにあった強固なプロテクトを、解除したということか」
高木が言い終えぬうちに、それは鼓膜を刺激した――
「放射性強化型核爆弾、中性子爆弾と呼ばれる核兵器」
神屋はさらさらと言ってのけた。
「恐ろしい兵器だ」
そして押し黙った。この男はいきなり何を言い出すのか。
亜美には神屋の言ったことの意味が判らない。
暁はもう一度、画面に見入ると、携帯を取り出した。
今日が八月十三日。テロの実行は、二十一日。一週間も経てば、それは起こる予定だったらしい。
「聖孝」
暁は、低い声で、押し黙った神屋の名を呼んだ。
「なんだい」
「事件は収束したと捉えていいのか」
神屋は、すぐには答えなかった。
――クーラーが利いている。このリビングは涼しかった。
トニーは扉に寄り掛かり、うつむき――そして。
嗤った。
-2-
暑さがピークを迎えた昼下がり。
都会をひた歩く人、人人人、人の群れ。
世の中には、意外と暇人が多いみたいだ。こんなに暑い中、外出するなんて、熱中症になりたいだけの馬鹿だけだ。
左虎は群れの中心でそう真摯に思った。恐らく――それほどに暑苦しく、実際は、理知的に考えるならば、ここにいる人間たちは暇でないと判る。忙しいのだ。だが中には馬鹿もいるだろう。
飲食店に一人で入った。
繁盛しているようだ。客でにぎわっている。左虎はそういう印象を持った。
それにしても八月中旬の昼間は暑いものだ。当たり前だが店内には冷房が利いていて、ようやく一息つける。
冷やし中華という気の利いたメニューが目に留まる。左虎はそれの他にコーラを注文すると、振動する携帯電話をポケットから取り出した。電話か。
「はい」
かけてきたのは氷鳥だった。王里神会最高幹部団。
「この前、鬼頭の居場所が判るかもしれないと言っていたが」
周りの客の雑音によって、氷鳥の声は聞き取り難かった。左虎は聞き返した。
「昨日の夜、電話で、鬼頭の居場所が判るかもと言っただろう」
ああ、と左虎は思い至った。
「あれはな、早とちりだった。おれに個人的な恨みがあるヒットマンに偶然会ってね。そいつが変な紙を持ってたんだよ」
左虎は、視線を斜めに昨夜のことを思い出しながら話した。
「その紙には、血で文字が書かれていた。ちょうど、そのとき、おれがいた参道の名前だったわけよ。そこでインスピレーションが浮かんだ」
左虎はここで一旦、言葉を切った。氷鳥の反応をうかがう。
「なるほど」
彼はそれだけ言った。早く話せという心の声が聞こえたような気がした左虎は、フッと笑ってから、続けた。
「いやね、最近はなんだ、おれは疎いもんでさあ、世間様の中には、いるらしいじゃないの。占いだかなんだか、高名なオカルトティックな人が。で、そういった類なんじゃないかと思ったんだ。自分の血を使って、恨みのある人物が今どこにいるのかを当てる的な」
「ふむ」
いざ言葉にしてみるとどれほど馬鹿馬鹿しいかがよく判る。そんな超自然的な能力を有する人間など、いるはずがない。
「勿論、信じちゃいないさ。だが、可能性がゼロだと断ずるには些かの躊躇がある」
「左虎君。君は、そういった物事を信じるタイプではなかったと、私は思うのだが」
意外にも、氷鳥はこの話題にノッてきた。
左虎は、王里神会の最高幹部という堅苦しい人間の気が引けて若干気分が良い。
「いやいや、まあ、信じないのは確かだ。ああいうのは、必ずトリックがあるからな」
「言ってみたまえ」
「言うも何も、言葉通りだよ。種がある」
種――左虎は強調した。
「では、占いはどうしている」
「占いは、別に当たらなくともいいのだよ。当たることもあるらしいがね」
「当たらなくともいい……つまり、こういうことか? 占いとは、仮説であり、信じるも信じないも自由」
「詳しくはないがね。あいつらは、何か、資料を持っているだろう。それ見てああだこうだと言っているだけだ。テレビでやる天気予報と変わらん」
氷鳥が何故この手の話につっかかるか、未だ左虎には理解できなかった。だが、別にその点について深読みする必要もなかろう。左虎はあくびをした。
「ほう。では、予言者はどうか」
「予言?」
「未来を当てる者だ。彼らはどういった種を使うのか」
「さあな」
そういったことには、あまり詳しくない。予言といっても、やり方は色々あるのだろうくらいにしか、左虎は考えなかった。
しばらく話していると、例の話題に戻っていた。
「ところで、その黄色い下地に龍の絵が描かれた紙の正体とは何だったんだ」
「あれはな、インチキ婆の糞商売だよ。いわゆる恋愛系統のオマジナイだ。下町に行って聞いて回ったら、それなら、あの婆さんが売ってるよと教えてくれた。ちなみに、若者は誰も知らんかったがな。紙について知ってたのは、どいつもこいつも年寄ばかりだ。とりあえず言われた店に行ってみると、なんとまあ、怪しそうな小店でね。客なんて来んのかいと思わず聞きそうになっちまうほどの、薄汚れた内装で。しかし、結構に客足はよくて、暮らしは成り立っているらしい。副業なんかもやってねえらしいな。で、一番目立つ場所にその紙は置かれていた。店が店だ。若いのは来ないだろうな。あのヒットマンは四十半ば。調べたところ、店の付近に住んでいたらしいな。だから、あの紙を持ってても不思議じゃあない。合点はいくわけだ」
「うむ。で、その紙に参道名が記されていたのは?」
「思い人。何、折り入って話すほどのことではないがね」
「思い人?」
「紙に、自分の血で思い出の場所を記す。大概は好きな女との出逢った場所だとか、プロポーズしたところだったりする。稀に、一度は訪れてみたい場所として書く奴もいるらしいがね。店の婆さんや、紙を買ったことのある年寄に聞いた話だ。まあ、あのヒットマンにとってあの参道がどんな意味での大切な場所であったかは判らんが、皮肉だね、おれに殺されてしまうのだから」
話の内容は結局のところ、強いて言えば、どうでもいいものだった。氷鳥は興味関心を無くしたのか、幾分、落ち着いた雰囲気の声を出した。
「そうか。それで……実際に効果はあるのか?」
聞いておいて、そうか、の三文字で終わらせるのは幾らなんでもと自重したのか、なけなしの質問は吐いた空気のようでもあった。
「評判を聞いたら、まあ、そこそこ効果はあるらしいぜ。別れた妻と再婚したなんていうおっさんもいたしな」
どういった種かは判らない。
しかし――この世には、ないのだ。
「左虎君」
「ん?」
「それは――」
思うかね? 不思議だと。
「ああ、あんたが何を言わんとしているか、当ててやるよ。この世に、不思議なことなどないのだと、そう言いたいのだろう」
左虎は少なくとも、この世に不思議なことは起こりうると思っている。
だが全ての物事には、種が、理由が存在する――べきなのだ。
「そう。だが教えてやろう」
不思議なことなど。
「ないのだよ」
「――与太話はいいさ」
そう言って、左虎は電話を切った。
数年来の付き合いがある氷鳥の性格は、だいだい判っていた。ああいう話は、始まってしまうと、止まらなくなる男なのだ。
冷やし中華が運ばれてきた。
コーラも同時に用意された。
喉が渇いていた左虎は、勢いよく飲んだ。
それにしても……
今日を含めて、あと八日か。ぼんやりと仕事のことを思い浮かべた。
鬼頭火山殺害までのタイムリミットは、残りわずかだ。
そもそもの話、居場所をくらましている人間を殺せというのは、難儀である。
左虎は基本的に「殺し」を行うだけで、居場所を掘り当てる義務を有していない。鬼頭の居場所を突き止めるのは王里神会の仕事である。しかし実際には、鬼頭探しも左虎に頼っている部分が大きい。今回のⅤ事件、これは王里神会が身内から出た不祥事だ。本来は自分で尻拭いすべき事柄である。左虎はそう思っている。
予想に反して――しかしながら、鬼頭は手強かったようだ。
左虎に仕事の話が入ったのも、つまりは、音を上げた。さすがの王里神会様もお手上げということだ。
鬼頭火山――神崎冬也。
闇の殺し屋である左虎の耳にも、その名は通っていた。
……否。
そういうレヴェルではない。
左虎と鬼頭には、ある因縁の関係があるのだ。それを知っていて氷鳥が左虎を選んだとすれば、氷鳥とは、なんとも計算高い男である。
しかし、それはないだろう。
今回、鬼頭と左虎を引き寄せたのは、全くの偶然なのだ。なぜなら、いくら氷鳥とはいえ、あの秘め事を知っているはずがないからだ。
鬼頭火山に、いや、神崎冬也に隠された、最大の秘密。
――嬉しいな。鬼頭火山を殺せるのが僕で……
左虎は、思う。
何事にも種があるなら、そうだ、鬼頭と自分を再び引き合わせたのは――いや、種など、ないのかもしれぬ。それはだが、判らない。
不思議? 違う。
因縁が、二人を、負のエネルギーが、何らかの力を以ってしてまるで磁力のように、巡り合せたのだろうか。
左虎は深く考えるのをやめた。
真夏の太陽光が、窓から差し込んではいるが、冷やし中華の冷ややかさに一瞬、夏を忘れることができた。
うずく心が――箸を、僅かに震わせた。
段々と物語が収斂していますね、王里神会編の終わりも近いでしょう。
作者も楽しみにしていますw