チェックメイト
恒例になりつつあるチェス用語解説もこれでラストかも・・・
「チェックメイト」
詰み。どうあがいても逃げられない状況の事。相手をこれにする事がチェスの目的。(記すまでもないけど・・・w)
-1-
青空、雲、風。俺を取り囲む全てが、艶やかに色づいていた。
自分の肉体が本当に存在しているのか分からず、ただ辺りを見渡す。
そこには小さな扉がある。茶色く塗装されたような扉。自然に包まれたこの場所には不似合いな人工物。
不思議なことに、扉は宙に浮いている。当然そこには壁などなく、扉だけがぽつんと浮いているのだ。
意識を研ぎ澄ませていくと、僅かに肉体を認識出来るようになった。手、足、体、頭……次第に自分が具現化していく。
背後を感じ取れるようになったからか、不意に自分を追う深い闇に感づいた。
振り向くと、白かった雲が黒く淀み、渦を巻くようにして肥大していた。そしてその中央に一層淀んだ暗黒が現れる。
それは次第に腕のような形に変容し、ゆっくりと俺の方を目指して進んでくる。
言い知れない恐怖を感じ、俺は扉を見つめた。
――誰かが、呼んでいる。
闇の腕に呑み込まれる寸前のところで、俺は扉を開いた。
扉の先には、淡い黒の空間が広がっていた。そこにあったのは三つの月。
覚えてる。この月は確か……。
「時の月、空間の月、心の月」
月明かりは、どれも少しずつ違っていた。
《……あきら》
「……!!」
誰だ?
今、誰かが俺を呼んだような……。
《あきら―暁》
また――。
俺は果てなく広がる空間を見回した。
すると、遠くで月明かりに照らされる小さな人影を見つけた。
「お前は……」
八月十三日。
暁は朝の柔らかな光を浴びて、穏やかに目を覚ました。
……俺を呼んでいたのはお前か、鳴海。
あの幾度目かの神秘的な夢を見て、久しく感じていなかった安らぎを感じ布団の上でしばらく微睡んでいると、ふと思い出したように亜美の顔が脳裏によぎった。
「俺を呼んでいたのは鳴海だ……だけど、あるいは……」
あの夢を見るのは久しぶりだった。正確には、以前、首を吊った鬼頭火山の姿が現れた似たような夢を見たが、それを除けば約二ヶ月振りである。
あの夢をどんな時に見るかなど、暁は今まで一度も考えたことがなかったが、思い返せば似たような状況下であの夢を見ていると感じていた。
苦しみからの解放。
あの夢にはそういう意味がある。暁は漠然とイメージしていた。
鳴海が死んでから、暁はあの夢を頻繁に見るようになった。暁が思い悩んでいた時期だ。そして、前回に見た時は、苦悩からの「脱出」を図り、病院に向かいトラウマに負けた後だった。
その後は、しばらく見ていない。
このことに関して、暁は理由を掴んでいた。紛れもなく亜美の存在だろう。篠原亜美という人間が暁の心の中で大きくなってきたからこそ、暁はあの夢――鳴海――に頼らずとも精神を保つことが出来た。
そして、それは同時にもう一つの事実を示していた。今、現在、自分自身の精神が不安定な状態であるということだ。
「……くそ……俺は何を悩んでいるんだ」
暁はもやもやとして実態の掴めない何かに苛立っていた。
「俺は、亜美と鳴海を重ねているのか」
暁の言葉は窓の向こうに虚しく消えていった。
-2-
一階の洗面台では、神屋が冷水で眠気を払い、乾いたタオルを濡れた顔に当てていた。
昨日の宮澤との対談で疲弊していたのか、神屋は普段よりも遅く起床した。まだ微かに疲れは残るが、最後の関門を打破するための重要なヒントを得た以上、寝過ごすわけにはいかなかった。
宮澤は最後に言った。鬼頭火山による指針「フロム・ヘヴン」に鍵は隠されているのではないか、と。
神屋は宮澤と密会したことに関して、暁や亜美には黙秘することに決めていた。今はまだ何も話す必要はない。暁や亜美が宮澤の話した情報を知るのはまだ後でも構わないのだから。
今、考えるべきことは一つ。十七のキーワードを見つけ、鬼頭火山にとっての最後の砦を打ち破ることである。
……もう少し。もう少しで戦いは終わる。長く続いた苦悩から、ようやく解放される。
神屋は洗面台の鏡に映る自分をじっと見つめた。
「まるで鬼のようじゃないか」
自分の瞳を凝視しながら、神屋は苦笑した。水銀の鏡面を一枚挟んだ別の世界に住む自分は、生気を失っているように思えた。ずっと、正義のための戦いを演じてきた。事実、それは正義であろう。しかし、自分の為でもある。いつか、暁に言った「利用しているだけだ」という言葉。暁はそれに対して「利用するためには自分たちを守る必要があるだろう」と応えた。彼は自分の意志で戦っている。
「人の道を生きろ……か」
自らの止まらない野望に、微かに身震いした。自分でできないことを他人に託すのは人類くらいだろうか。他人に指針を与え、満足し、自らは過ちと解りきっている行為に没頭する。
神屋を動かしているのは深い復讐心に他ならなかった――。
気付くと、鏡には高木の姿が映り込んでいた。神屋は急いで笑みを作る。
「……高木さん、おはようございます」
「もう起きてたのか。しかし……随分疲れた様子だな?」
「ええ。さすがに堪えてきましたね、いつ消されてもおかしくないと思うと……」
「まあな。昨日は誰に会ってた?」
「……誰かに会っていたと思った理由はなんですか?」
高木は神屋と入れ替わるように洗面台に入り、歯磨き粉を歯ブラシに一センチ程乗せて、口にくわえた。
「いやさ、昨日は随分険しい表情で外に出たからさ。パソコンの前にいたのはお前だけだろ。多分メールかなんかが届いて、誰かに呼び出されたんじゃないかと思ってよ」
「宮澤睦。『キリストの哲学』の著者に会ってきました」
「……そっか。お前、宮澤睦を警戒してたんだろう。俺も暁から宮澤睦に会ったときの話を聞いたんだ。高山竜司という協力者がこの趣味の悪いゲームの登場人物に選ばれなかったのは、宮澤睦が暁にしか会っていなかったからと解釈すれば辻褄が合う」
「……!! 高木さん、そこまで考えていたんですか?」
神屋は心から驚いた。
前々から高木の能力には感嘆していたが、自分の行動が完全に読まれていたことは驚異的な事実だった。自分ならここまで読めるか、と考えざるを得ない。
「偶然だ。それで、あの人は安全な人なのか? 何を聞いた?」
「今は話せません。今直面している問題の解決に支障をきたすかもしれませんので。後ほど、必ず話します。神崎さんと合流出来れば、そろそろ敵を迎え撃つ作戦も考える必要が出てきます。そこで重要になるであろう情報を得ました。宮澤さんは今のところ信用する方向で考えようかと……」
「わかった。その点はお前に任せよう。暁や亜美ちゃんには、宮澤睦と会っていたことは伏せよう。今話すと発想力を殺ぐかもしれんしな」
「そうしていただけると助かります」
高木は歯磨きを終え軽く毛先を弄ってから、部屋を出た。
「そうだ神屋、お前スペインに興味ないか?」
高木は立ち止まり、顔だけを神屋の方へ向けて訊ねた。
「スペイン……ですか?」
「ああ。この事件が終息したら、向こうに住んでみないか? 俺の友人がスペインにチェスバーを開いたらしくてな。チェスの強い使用人が欲しいらしい」
「……面白そうですが、僕は王里神会幹部ですよ。この一件の解決は、僕の逮捕と同義です」
「そうか? お前の行為はもう王里神会にバレてるだろ。王里神会から脱会したも同然だ」
「でも、僕は未然に防げたかもしれない事件を見て見ぬふりをして逃げました。これは犯罪になるんじゃないでしょうか」
「警察に言ったところで連中の利害を考えれば、動くとは思えないな。警察は王里神会と共犯みたいなもんだ。お前が何も言えなかったのは自分の身を守るため、致し方ない事情だろう。それに、俺が何とかする」
「しかし……」
「まっ、考えとけよ。……どうせ罪人なら、なんて思って妙なことを考えたりするなよ」
神屋の言葉を遮り、そう言い残すと、高木は前を向きなおし、姿を消した。
神屋は高木の言葉を反芻した。
……あの人はどこまで見透かしてああ言ったのだろうか。
神屋はしばらくの間その場に立ち尽くしていた。
-3-
朝食が片付けられ、時刻は八時三十分を少し過ぎた頃だった。暁、神屋、亜美、高木はいつもの広いリビングの中央に集結した。トニーは姿を表さないが、高木によれば二階か三階に居るらしい。暁はそれを聞いて、見張りだろうと思った。拠点を高木家に移してから少々の時間が経過した。そろそろ敵が踏み込んでくる可能性も警戒しだす頃合いだろう。
暁は亜美とは依然として目も合わなければ会話もなかった。外から見る分には、何かを気にしている風でもなければ、意図的に暁を避けているようには見えない。しかし、どうしても暁から自発的に話しかけるような、そんな勇気がなかった。もし、素っ気なく振舞われたら、と妄念に取り憑かれ、一歩が踏み出せない。
暁は十七のキーワードに集中することに決めた。亜美について考えていると、視点が定まらず、落ち着かなくなるからだ。
しかし、十七のキーワードに集中しようとすると、どうしても昨日の神屋の外出が思い出される。神屋はどこに出かけていたのか。
「なあ神屋、昨日はどこに?」
「定期連絡。まだ僕が王里神会に従っていると思っている人間もいてね。僕の裏切に感づいていないということは幹部以下の人間ってことだけど」
「それって、危険じゃないか? そいつらからお前の居場所がばれるんじゃ……?」
「いや、抜かりはない。僕なりに上手く処理しておいたから。それより、気づいたことがある」
神屋は暁の詮索を早々に裁ち切り、本題に入った。神屋としては、早急に議題に上げたい事案があった。無論それは、宮澤からの助言、「フロム・ヘヴン」の調査だ。
亜美は少し驚いた様子で神屋の言葉に返答する。
「気づいたって? 十七のキーワード?」
「うん。もともと僕だけが知っていて、君たちに教えた情報もまた、僕がいなければ分からない何かに含まれるんじゃないかってことなんだけど、篠原さんはなにか思いつくかい?」
「あたしたちからしたら神屋君から聞いた情報は殆どが新規の情報だったけど……鬼頭火山が生きてるかもしれないだとか……王里神会がテロを起こすかも……とか」
亜美は口元に手を当て思索を巡らせた。しばらく考えていると、情報量は多いが、大まかに分類すれば先に上げた二点が主な情報であると結論が出る。
「篠原さんは思いつかないみたいだけれど、暁はどう思う?」
暁も亜美と同時に思い当たることを探していた。そして亜美よりも先に正解を導いていた。
「フロム・ヘヴン……か。鬼頭が生きてる可能性も、王里神会のテロもあれには含まれるが、なにより、あれは鬼頭が神屋に渡し、神屋が俺達に渡した情報。他の人間には見られていない前提で俺達は動いているし、だからこそ俺達だけが正解にたどり着ける……そうだな?」
「正解。つまり、十七のキーワードはおそらくフロム・ヘヴンの中に隠されている。それを、今から見つけ出す。高木さん、みんなにアレを配ってもらえますか」
神屋がそう言うと、高木はどこからか紙袋を持ってきて、中身を全員に渡した。亜美が高木にその正体を問う。
「高木さん、これって……?」
「フロム・ヘヴンを全文印刷した。襲撃されたときに消失したからな。そこから、みんなで、『誰も知らないが、俺達だけが知っている情報』を探し出す。それが十七のキーワードの発見に繋がるってわけだ」
「なーるほど……」
亜美は納得しながらも目を細めてフロム・ヘヴンの文面を見た。暁には亜美が思うところが解っていた。フロム・ヘヴンは一度見た。しかし、それらしい情報はあっただろうか。
それから十分程の間、四人はフロム・ヘヴンを再読した。何か、ヒントになるようなことがあるかどうか一ひとつ確かめるように。
「……神屋、質問がある」
沈黙を破り、暁は落ち着いた声で言った。
「何だい?」
「ここを見てくれ」
暁はフロム・ヘヴンの後半部のある部分を指さした。高木や亜美もそれを覗き込む。
そして数分か数十分して、私は鞄から一冊の本を取り出した。
『ハムレットに快楽を、ドンキホーテに恐怖を』
この本は、実は私が覆面作家として書いた推理小説だ。最近では私と比較されることの多い作家であるが、それも当然、どちらも私なのだから。
この作品は、ハムレットの如く思索家で非行動的な探偵と、ドン・キホーテの如く独りよがりの正義と情熱に駆られ、無分別な行動をする探偵の二視点で同じ事件の解決を試みる内容である。
この主人公達は、紛れもなく私である。私を二つに分裂させた、分身達だ。
私は彼らに、思索故の快楽と、無分別故の恐怖を与えた。
神屋はこの部分をよく読み直した。一見普通の文に見えるが、ここに何か隠されているというのか。
すると、暁は微笑して「何悩んでるんだ、お前らしくない」と言う。神屋には何のことだか判らなかった。
「神屋、難しく考えないでくれ。一つ聞きたい。『ハムレットに快楽を、ドンキホーテに恐怖を』を執筆したのが鬼頭火山だっていうのは、世間には公表されていないんだよな? この事実を知っているのは、誰だ?」
「……そうか! 焦燥からか僕は短兵急な勘違いをしていた! そもそも十七のキーワードは直接的に発見されるものではないのか! つまり、『ハムレットに快楽を、ドンキホーテに恐怖を』を執筆したのが鬼頭火山だという一般には知られていない情報、せいぜい出版に携わった数人しか知りえないような機密性の高い情報から、さらに変換をするということか!」
「ああ、俺の読みではフロム・ヘヴンから直接十七のキーワードを見つけ出すのは不可能だと思う。十七個も共通した括りのワードが隠されていたら、流石に気がつくと思うんだ。高木さんが見付け出した『最後の扉は夜にしか見えない』ってやつみたく、注意しなければ発見出来ないようなものという可能性も捨てきれるものではないけれど、もっと判然した間違えようのないものなんじゃないだろうか? 鬼頭から神屋へ、そして神屋から俺達へ広まった情報で、かつ一般人は知ることができない情報って言ったら、『ハムレットに快楽を、ドンキホーテに恐怖を』を書いた覆面作家の正体が鬼頭火山ってことぐらいじゃないか? だから、それがまず土台なんだ。そこからその情報を元に十七のキーワードを導く」
暁は僅かに高揚感を感じながら、そう言い切った。しかし言い切ったものの、暁にはまだその答えを導く方法までは皆目見当が付いていなかった。
「よし、とりあえず行き詰まらない限りはその線で考えてみよう。『ハムレットに快楽を、ドンキホーテに恐怖を』の作者が鬼頭火山であることから十七のキーワードに繋げるに値する裏付けを探すんだ」
神屋は、部屋にいる全員の顔を順番に見ながら意見をまとめた。
しかし高木は頭を傾げながら唸り声を上げた。
「うーん、暁や神屋が言うことも解るんだが、そんな都合のいい答があるのか? 全く思いつかないけど……。 また文字数とかか?」
高木は頭の中で小説のタイトルを思い浮かべた。
「漢字で二十文字、音で二十四音か……いずれも不適だよなぁ」
「僕としてはそういう視覚から直接辿りつけるような答えはあまり好きじゃないですけどね……」
神屋が思わずそう呟くと、亜美が後方で笑い声を上げた。
「ははっ、好きとか嫌いとかじゃないじゃん。突破口が見えてくるとなんだか楽しそうね、神屋君」
「まあね。もともと僕はこういう思考パズルみたいなことが好きなんだ。ところで、篠原さんはなにか思いついた?」
「ん~、なんか思いつきかけてる気がするんだけど……」
「ほんと?」
「うん……十七だよね……うーん……」
亜美は何かを思いつきそうになりながらも、依然として糸口を掴んではいない。神屋や高木も
それは同じであり答は簡単には出ない。そんな中、暁は一つ疑問を感じていた。
「なぁみんな、そもそも、鬼頭火山は『ハムレットに快楽を、ドンキホーテに恐怖を』という書名を出してるわけだし、実物の本を買ってきたほうが良くないか? これまでの傾向だと、作品中に答がある場合も考えられる気がするが……」
暁はまだ『ハムレットに快楽を、ドンキホーテに恐怖を』を読んだことはなく、二宮光に勧められた時に読んでおけばよかったと感じていた。未読が原因で失敗してしまったなんてことがあったら遣り切れないだろう。
「俺は読んだことあるぜ。なんなら、亜美ちゃんが使ってる部屋の本棚に有ったと思うが、取ってこようか。あの本の作者名何だっけ?」
「えっ? 高木さん、あの本棚の本の並びってアトランダムじゃないんですか?」
「ああ、あれは実は俺にだけは意味が判るような並びになってるんだ。ベースはランダムだが、作者名が判れば一応大まかな位置は検索できる。『ハムレットに快楽を、ドンキホーテに恐怖を』の作者名は確かプラスなんとか……じゃなかったけ?」
「PlusYAですよ、確か……。読み方は合ってるか判んないですけど」
「PlusYA……? ……あ!!」
高木の脳内に一筋の光が差し込んだ。暁と神屋は顔を見合わせる。
神屋は矢継ぎ早に尋ねた。
「どうかしました? 何か気がついたんですか?」
「いや、あまり関係ないんだがよ、一つ面白い事に気がついた。PlusYAって名前は、鬼頭火山を意味するんだ」
高木は興奮した様子で叫んだ。そして手に持っていたフロム・ヘヴンのプリントの余白に滝のような勢いで何か文字を書いていく。
「これを見てくれ」
高木が書いたものを、三人は揃って覗き込んだ。
鬼頭火山
↓
KITOUKAZAN
↓
↓アナグラム変換
↓
KANZAKITOU
↓
↓PlusYA(YAを足す)
↓
KANZAKITOUYA
↓
神崎冬也
「あ!」
亜美が感嘆の声を上げた。
「凄いっ! それでPlusYAって名前になったのかぁ!」
「ここまで考えてるってこたあ、他にも重要な役割があってもおかしくないんじゃないか?」
高木は神屋の方を向いて微笑んだ。
「……まあ、鬼頭火山なら意味がなくてもこのくらいのことはするかもしれないですけれど、最悪の場合、この暗号から答を引っ張り出せるように保険をかけた可能性は少なからずあるかもしれませんね。YAというのが、17という数字に結びつけば話は早かったのだけれど……」
神屋は答に繋がる情報を模索しながら、応えた。しかし冷静に考えればそれでも問題が残ることは確かではある。仮にYAが17という数字に結びついても、そこから更に十七のキーワードに変換する術が必要なのだから。
高木の発見を見てからしばらく何かを考えていた暁は不意に二ヶ月ほど前の記憶を呼び戻していた。
「……YAって言うと、示す数字は25と1だな。これも直接関係あることじゃないが、『鍵穴』の解説に付いていた鬼頭火山の経歴の紹介を見たことがあるんだが、鬼頭火山がデビューしたのって二十六歳の時じゃなかったか?」
暁の言葉にパンと掌を合わせ高木は「そうか」と呟き、感心した様子を見せた。
「暁、俺もその経歴の紹介は読んだが、確かにデビューは二十六歳だった。俺の推測だが、鬼頭火山というペンネームを付けた時、偶然中途なアナグラムが成立してしまったんじゃないか? つまり意味のないYAという文字が生じてしまった。だからデビュー時期を調整して余ったYAという文字に意味を持たせた……って、今回の件にはやっぱ関係なさそうだな……はは」
高木は自分が十七のキーワードに関係しないであろうことを熱く語ってしまっていることに気付き僅かに苦笑した。
一瞬、沈黙が訪れ、空調の音が妙に目立って響いた。暁は軽く欠伸をして意味なく亜美の顔を見た。そこで久し振りに亜美と目があってしまった。
「……」
暁には耐え難い気まずさがあり、直ぐに目を逸らした。亜美は何も気にしていないのかもしれないが、暁は酷く息苦しかった。自己顕示欲から自身の不幸を引き起こしてしまった気がして言いがたい後悔が押し寄せる。
そこで突然、亜美が短く声を上げた。
「あっ」
神屋と高木は若干驚いた様子で亜美に視線を移した。一方、暁は何故か思わず出口の扉の方を見てしまった。
「どうかした?」
神屋は興味深げな表情で問うた。
「気付いたの! 十七のキーワード!」
「……!!!!」
「本当か!?」
暁はここでようやく、遅れながらも亜美の方を向いた。
……謎を解いたって言うのか……?
「あたしも、『鍵穴』の解説で鬼頭火山の経歴の紹介は読んだんだけど、そこに確かに二十六歳でデビューって書いてあった。それを思い出した時、同時にもっと重要なことが書いてあったのを思い出したの。そこにはこう書いてあった。鬼頭火山は二十六歳でデビューし、これまでに十六作の作品を執筆したってね」
「しかし亜美ちゃん、十六だと一つ足りな……あっ! なるほど!」
「そうです。十六だと一つ足りない。そこで『ハムレットに快楽を、ドンキホーテに恐怖を』が最後の一つとして加わる。これで、全部で十七! キーワードに入るのは、鬼頭火山の全作品名!」
亜美が高らかにそう言い放ったとき、その場の全員は勝利を確信した。
神屋は僅かに声を震わせて一人ひとりに訊ねた。最初に亜美に。
「篠原さん、自信は?」
「ある!」
次に高木に。
「高木さん、異論は」
「もちろん、ない」
そして、最後に暁に。
「暁、君は?」
「……ああ、異議なしだ!」
この時ばかりは不安定だった精神に仮初の軸が生じた。暁は高揚感に身を震わせた。
「……よし、篠原さん、鬼頭火山の作品名を」
「うん、でもこれ、順番は?」
「おそらく、順番は関係ない。番号が振ってあるならともかく、何もヒントが無い所に順番通りに入力しろというのは酷だ。僕らが見落としていない限りは、順番の指定は恐らくないだろう。どちらにしても試す余裕はもうない。やるなら、発表順かな。篠原さん、発表された順番は分かるかい?」
「任せて! まずデビュー作、『鬼頭火山』!」
神屋はキーボードを軽快に叩いていく。
「二作目、『楽園』」
「三作目、『人形』」
亜美は神屋のすぐ後ろからパソコンのディスプレイを覗き込み、神屋の入力を確認しながら続ける。
「四作目、『蝶』」
「五作目、『千国』」
「六作目、『知恵の実』」
神屋のタイプは緊張と興奮からか、ミスタイプが目立った。しかし、徐々に空いたスペースは埋まっていく。
「七作目、『鬼斬祭』」
「八作目、『永遠の女』」
「九作目、『月明』」
「十作目、『地底湖』」
高木はゴクリと喉を鳴らし、画面を凝視した。
「十一作目、『氷の街』」
「十二作目、『prelude』」
「十三作目、『滅びの惨禍』」
暁は亜美が言った十三作目『滅びの惨禍』のタイトルを聞き、数日前のことを思い出した。二宮光と図書室掃除をした後に彼女から初めて王里神会の名を聞いたとき、暁はこの作品の事を思い出していた。とある宗教団体がテロを起こし、小説内の仮想国家が崩壊するという物語だった。鬼頭火山が書いた唯一のサスペンス小説だ。その小説で最初に犯罪が行われるのは二〇〇九年だった。まさか、本当に王里神会の企みを暗示していたのか――。
「十四作目、『扉』」
「十五作目、『糸』」
亜美はここで一度大きく息を吸い、そして鬼頭火山としては最後の作品の名を口にした。
「十六作目、推理小説の金字塔、鬼頭火山の最高傑作『鍵穴』」
神屋が慎重にタイプする。
「そして、十七作目……『ハムレットに快楽を、ドンキホーテに恐怖を』!」
皆の視線が集まる中、神屋は最後の二十文字を打ち込んだ。
「……送信……するよ」
「……」
「ああ」
高木は思わず口を閉ざし、暁は短く応えた。
――――カチッ。
ついに送信ボタンが押された。これで失敗すれば策は一切潰える。振り出しに戻るか、先に進むか。あるいは、生か死か。最後の審判が下される。
「いよいよだね」
亜美が固唾を呑んで読み込まれる画面を見つめる。
そして、ついに画面が切り替わった――。
スピーカーから流れだしたのは、パッヘルベルの『カノン』に続く曲『ジーグ』。フーガ風な処理で始められるニ長調。軽快な舞曲が祝福の旋律を響かせた。
その瞬間、神屋は口角を上げ至極冷静な様子で言った。
「チェックメイト」
今回、暗号が指し示す解答が明らかになりました。
少しでも読者様の想像を超えられていたら嬉しいですね!
次回以降数話は竜司担当です。
王里神会編も終熄に向かいつつありますね。