全力で
‐1‐
亜美が部屋を出てから十数分。暁は、ただただ、呆然としていた。
…………亜美。
心の中で何を言おうが、現状は変わらない。分かり切っていたが、亜美の名を呼ばずにはいられない。やり場のないこの感情を、どこに、誰にぶつければいいのか、暁はさ迷った。
「……あぁ、亜美のやつ、怒っちまったかな」
――――しかし。
……別に、俺がどんな女と仲良くしていたって、俺の自由じゃないか。実際問題、如月とは仲が良いというわけではないんだし。ましてや付き合っているわけでもない。あのペンダントは、ただの……。
「………………」
……つか、まだ、亜美と気まずい関係になったわけではないし。それに、俺は如月なんかよりも、亜美、お前の方が――――
「――――って、何考えてんだ。自惚れんな、暁」
……てゆうかだよ。仮にあれで亜美が嫉妬していたとしよう。もしそうなら、亜美は俺のことが……――――
「……って、ばか。そんなわけねえだろ、暁」
暁は床に寝転びながらニヤニヤしていた。
――――ひょっとしたら、亜美は俺のことが好きなのではないか――――
今までに、何度も考えたことがあった。
一緒に夏祭りも行った。
鬼頭の暗号のときだって、真っ先に頼りにしてきた。
……そうさ。亜美は俺のことが好きなんだ。
しかし、ここである疑問が脳内に浮上する。
「果たして、この俺のどこに惹かれたか」
暁は、自分に男としての魅力などひとかけらもないと、何年も前から認識していた。
特別頭が良いわけではない。背も高くない。運動能力もどちらかと言えば低い。無論、顔はイケてない。が、悪くもない。そう、顔は普通だ。「男は所詮顔」と恋愛を諦めたのは、確か中ニの頃だった。取り立てて良い顔とは言えない自分は、モテることはないだろうと悟ったのである。事実、中学、高校とモテることはなく、今に至る。が、実はモテているんじゃないかと最近になり思い始めたのも事実だ。その辺のしがない男共に比べれば、断然、女子と話してる。そうさ、僕はモテモテだ。
カチャン
突如、ドアが開いた。
「ちょっといいか」
「高木さん」
「そんな驚くなよ」
高木は、将棋盤を抱えて入室してきた。暁のすぐ前に座り込み、盤の上に駒を並べ始めた。
「え? 将棋、やるんすか?」
「おうよ。できるよな」
「あ、はい」
暁も並べるのを手伝った。
「あの、いきなり何で……」
「言っとくが、俺は神屋より強いぜ」
「…………」
暁には何が何だかわからない。
「そっちからだ。打っていいぞ」
「えっとぉ……」
「難しいこと考えんな。とにかく本気で来な」
「あぁ……わかりました」
初手、7四歩。
「やっぱ、それがオーソドックスだよな」
高木も続けて打つ。やけに楽しそうである。パチパチパチパチ……
急戦の気配はなく、互いに陣形を組んでいった。
「振飛車大好きマンか、お前」
「はい?」
「ククク」
パチパチパチパチ……
「む、その飛車の動きは……まさか」
「……高木さんは、居飛車大好き哺乳類ですか」
「まさか、石田流本組か」
飛車を7四に、そして桂馬を上げる。これで角が動けば、攻めの理想型と呼ばれる石田流本組が完成する。
「!」
……端の歩を上げてきたな。石田流でやるつもりか。
相手の攻めを読みつつ、高木は王将を深く囲ってゆく。
「左美濃……銀冠に持ってくつもりかなぁ」
「正解」
二人とも、とうとう、王将の囲いのランクは上がりきった。ここからは、上質で大胆な、攻め合いだ。
ずっと眠っていた高木の右銀が、ようやく持ち上がった。
……来たな。切り込み隊長、銀!!
「暁よぉ、残念だが、俺は石田流崩しを知ってんだ……」
「…………」
「行くぜ!」
バチィ!!
角頭の歩がつかれる。
暁はその歩を無表情に取った。
「ほう、受けて立つぜって感じか?」
強烈な攻め合いが始まった。
バチバチッバチバチバチバチッバチッ!!
「角を見捨てて、飛車をさばきにやってきたか」
「くッッ」
「やるな」
――――バチィ!!
「くっ……まじかよ。なかなかやるな、暁……!」
「……攻めるッ」
「ダイヤモンド美濃バーサス、飛車……」
暁の表情は、いつになく真剣そのものだ。
打つ手にも力が漲っている。
「飛車の恐怖を教えてやる」
バチィ!! バチッバチッッ!! バチバチ!!
「ウオオオ」
高木の強引な攻めに負けじと、暁も徐々に追いつめていく。
その目には怒りにも似た感情が見て取れる。
「――――!?」
しまった!?
一手足りなかったか!?
「やったぁ……絶体絶命だな。暁」
…………やばい。負ける。
ぱちん。
「はい、俺の勝ち~。ははは。残念だったなぁ」
「う……う……負けました」
「アハハハハ、でも、結構強かったぞ、お前」
暁は、部屋の隅に移動してうずくまった。
「高木さん……僕を虐めないで下さい」
「…………」
「……うぅ」
しばらくすると、暁の携帯が振動した。
「…………ん?」
ディスプレイに表示されたメールの送り主を見て、暁は目を丸くした。
王里神会本部ビル、第三会議室。広々とした空間に、二人の男が立ちすくむ。
「説明してもらうぞ。セシル」
その声は至って平坦だ。
「返答次第では、ただではおかん……」
セシルは、ただ黙って藤原の後ろ姿を見ていた。
「初めてのことだ。お前の予言がはずれたのは……いや、あれは予言とは言わないか」
「…………」
藤原は振り返った。
「セシルよ。結果として主は死んだ」
「………………」
「お前のせいなのか?」
「……………………」
「全てが出来すぎている気がしなくもない……」
「!」
藤原の言葉に、セシルは若干、動揺した。
「お前のあの……神の導きとやらはまさか……」
「藤原様」
藤原は口をつぐんだ。
ゆっくりと、セシルが話し出す。
「嘘はついていません。確かにあの時、神の声が聞こえたのです。主を呼ぶ声を聞いた……」
「…………だが、結果として主は殺害された。何者かに」
「そこまで先は見えなかったのです。ただ、神は主をあの場所へ導けとおっしゃった……」
「では、得体の知れない何者かに殺されるのが、主の運命だったとでも言うのか」
「返す言葉がありません。深く悲しんでいるのは、私とて同じです」
「……セシル。話が過ぎている……お前が殺したようなものだ。お前が予知能力を持つと知る者は少ないが、いずれ復讐の矛先が向けられるとすれば、お前じゃないか?」
セシルは黙り込んだ。
「このことは……私からは誰にも言わないでおいてやる」
「……!!」
藤原の発言にセシルは、しめたとばかりの表情を作った。藤原には見えぬよう、手で口元を覆って。
……藤原様。あなたを殺さなくて済むようだ……。
「ただ、かくまってもやれん。私はあくまでも何も知らなかったで通す」
「……」
「お前の神の声とやらに導かれ、辿った先で主は死んだ……主に『行かなくてはならない』などと言ったことがバレれば、お前は死んだも同然。かくまったら私も殺られる。今、組織は混乱している。突然、トップが死んだのだから、当然だが」
「……」
「王里神会も、ある程度は動いているみたいだ。裏世界の長老と呼ばれる主が謎の死を遂げたんだからな……、興味本位で調査しているという感じか。殺し屋界も、慌ただしい。主がやられたのもあるが、一緒にいたロンも死んだからだろう……奴は最強レベルの殺し屋だった。セシルよ、確かあの部屋には、神屋と外崎がいたな」
「ええ、後に篠原がやってくる予定でありましたね。ホテル『Renaissance』……」
「うむ、まさか、たかが十七、八の高校生二人に、あのロンが負けるとは到底思えない。一体、誰がやったのか」
「……わかりません」
セシルは唇を軽く触った。
藤原は、鋭い視線をセシルに送った。
……もし、セシルが嘘をついていたら……。
「それだけが謎だ。ロンと主の死を伝えてくれた死体処理のスペシャリストの話によれば、事件現場は荒れた様子もなく、一方的な最後だったのではと考えられるという。お前のあのただ事でない様子に、主は血眼で『Renaissance』に向かった。警戒心を解いていたのだろう。急きょ用意した護衛のロンですら葬る力を持つ者……、殺ったのは、相当のやり手だろう」
「これから、いかがいたしますか」
藤原は口元に手を添え、考えるそぶりをした。
「実は、先程、V事件の最高責任者から、情報を提供した女子高生に再度接触しろと言われた。聞いた話によれば、彼女は外崎や篠原と知り合いだとか……、私はすぐに女子高生の親戚である王里神会の信者に連絡し、女子高生に外崎らの居場所を探させるよう命令した。事はスムースに進み、女子高生は事情も判らぬままに外崎にメールしてくれたらしい。これで外崎が居場所をまんまと明かしてくれれば、女子高生からその居場所を聞き出し、神屋もろとも拉致する手筈だ」
「……なるほど、V事件も、ようやく幕を閉じそうですね。それにしても、これから組織はどう動くのでしょうか」
「三代目を決めなければならないのは必然だ。場合によっては、一時、王里神会から手を引くことになるやもしれん」
――――……藤原とセシル、この二人は、言わば搦手であった。
近年、勢力を増し続ける宗教団体、即ち、王里神会の存在を知った板垣は、搦手として二人を送り込んだ。いずれ、己の率いる組織に王里神会を吸収してやろうと企んでいたのは言うまでもない。
「……これから、どうなるのか」
藤原は、光り輝く太陽を、目を細めて見つめた。
‐2‐
夕刻が近付いていた。
――――沈みゆく太陽が奏でる永遠の輝きに、人々は目を奪われる。
何という美しさか。
淡い夕焼けが、空に浮かぶ雲に究極の美を与えている。
どんな感情も、その焼け空を見れば、あるひとつの感情に統一されてしまう。
その感情を言葉で表現することは、不可能だ。
「アイーイーイアー」
車のラジオからは、アフリカの部族の歌声が響いた。
感傷的な気持ちにさせられるのは、こんな綺麗な夕日を見ながら聴いているからではないか。
赤き太陽の光に顔を照らされ、夕焼けを見つめながら、佐藤静枝はそう思った。
今日は学校で模試が行われたので、今はその帰りだ。
「難しかった?」
「全然、阿部コーポレーションも大したことないね」
静枝は鼻で笑った。
……日本有数大手企業、阿部コーポレーション。会社が独自に作り上げる模擬試験、通称「阿部模試」はその難易度の高さたるや富士山の如し、と言われるほど。受けるのは、聖蘭第一女子高等学校など超一流高校ばかりだ。
あ、そうだ、と静枝は目を開いた。
「今度さ、『NEW GENERATION PARK』行ってくることになった」
「へぇ、あそこ? 誰と」
「凛と」
『NEW GENERATION PARK』……
大手企業、阿部コーポレーションが、検索管理会社、NEW GENERATION NETの進出を祝って、両者が結託して完成させた巨大テーマパークである。
NEW GENERATION NETの誕生に阿部コーポレーションが関与していたことが、両者を密接化させる発端になった。
テーマパークとは言えど、内容は落ち着いたもので、大人たちに人気がある。最近になって完成したので、周囲の注目の的はまだ続いている。
静枝はそこへ行くのを楽しみにしていた。ショッピングが目的だ。
「たまにはいいんじゃない。息抜きも」
静枝の母は、優しく承諾した。
家に着くと、静枝は自分の部屋に行き着替えを済ませた。
「……さて、自己採するか」
鞄から解答と問題冊子を取り出し、机の上に広げた。
英語 200
数学ⅡB・ⅢC型 200
現・古・漢型 200
物理 100
化学 100
地理 99
「あちゃあ~。あと一点で全教科満点だったんに……」
静枝は落ち込んだ。
「久しぶりに全国一位かと思ったんだけどなぁ」
これほどの高得点を取っても、静枝は自分が一位ではないと肩を落とした。
誰が一位なのか、想像はつく。成績開示表には名前を載せない男だが、その男は、常に満点を取るのだ。
……神宮正信。
有名な予備校に通う高校の友人が、彼はいつも全国一位であることを教えてくれた。
「神宮めぇ、どうなってんだよ、あいつの頭……」
静枝は、一時間ほど地理の復習をすると、ベッドに横になった。
天井を眺めていると、何の脈絡もなく、親友のことを思い出した。
……今、どうしてるんだろう、亜美。
眠りにつく直前、学校での神屋との会話を思い出した。
――――……神屋は、しばらく呆然としていた。女子生徒から発せられた言葉が心の奥底に、妙に引っかかる。
聖蘭第一女子高等学校。二年五組には、神屋ともうひとり、佐藤静枝の二人しかいない。
『…………佐藤? 静枝……』
静枝は、勝ち誇った表情で、盤上に置かれた駒を眺めた。
佐藤静枝が操る駒が、神屋の王将を詰む数手前で、動きを止めていた。負けを悟った神屋が投了したのである。
神屋は記憶を探り出した。
『さて、話してもらいますよっ』
『あ、あぁ……』
神屋は思い出した。
目の前の女が何者であるか。
『こんなところで会うとは……』
『え?』
『いや、何でもない』
神屋は静枝の目を見つめた。
……この娘が電話さえかけなければ、暁も篠原亜美も巻き込まれなかったかもしれない。
神屋は、フロム・ヘブンの内容を思い出しながら、そんなことを思った。
――しかし、と考えを改めた。外崎暁と篠原亜美の名前が王里神会に入った経緯については、神屋は知らされていなかった。知らされているのは極一部だった。
『わかった。勝負は僕の負けだ。よって、少しばかり話すとしよう、我が宗教団体について』
『嘘はだめだからね。裏の部分よ』
『ああ』
静枝は、興味津々といった様子だ。
何故、そこまで知りたがるのか。大した理由はないだろうと神屋は踏んだ。万人に共通するただの好奇心というものが、静枝に作用していたのは事実だ。
神屋は頭をかいた。
『どこから話そうか……、うーん、裏の部分か』
『考えてなかったの?』
『まさか負けるとは思わなかったからね』
『じゃあ、質問。構成人数は?』
『はは、そんなのわからないよ』
『じゃあ、週刊誌とかで騒がれてるくらいなのに、教祖の話とかがあんまり出ないのは何故?』
『……さぁ』
……それは、教祖について誰も詳しく知らないからだろう。
『名前も知らないの?』
『K』
『…………けい?』
『アルファベットのK、Kと呼ばれている。こんなことは、インターネットでも検索すればすぐ出てくるよ』
その後も、静枝は質問質問を続けた。
神屋はこんなことを考え出した。
……フロム・ヘブンによれば神崎さんは誰にも自分の居場所は教えてないそうだが、ここはかまをかけてみるか。
『佐藤さん』
『何? さん付けはやめて』
『もしかしたらさ、もしかしたら、君は鬼頭火山の姪だったりする?』
『……え?』
静枝は、鳩が豆鉄砲でもくらったかのような顔をした。
神屋の額に一筋の汗が流れた。
『どう……して……?』
神屋は顔をしかめた。
静枝が鬼頭火山のことをどこまで知っているのかわからない神屋にとって、詮索は容易ではない。
『……いや、鬼頭さんさ。小説、書いてるでしょ』
『……』
『彼が書いた作品の中に地底湖というのがあるよね。あれを書いたとき、鬼頭さんは犯人を二重人格にしたくて、精神科の病院に訪れて、実際に二重人格者について自ら調べたんだよ。知らない?』
『……え、そうだったの? 全然知らなかった』
『僕の母親が看護婦をしていてさぁ、そのとき鬼頭さんと話したそうなんだよ。これ、僕の唯一の自慢話』
そう言って、神屋はわざとらしい笑顔を作った。
『あぁ、それでうちの名前が出て、お母さんからあんたに伝わったわけね』
『そういうこ…………っ!!!!!!』
神屋は、ようやく気付いた。
自分がとんでもないミスをしていることに。
…………しまった。
神屋は忘れていた。世間では、鬼頭火山は死んだことになっている。ニュースでも取り上げられたくらいだ。知らない国民は、かなりの世間知らずだ。鬼頭の居場所を聞き出そうとしていた神屋は、自分の言動に恥ずかしさを覚えた。
『どうしたの?』
『いや、何でもないよ。いや、それにしても、いきなりすまなかった。あまりに無遠慮に足を踏み入れてしまい、悪かったよ』
『……あ、うん。別にいいよ』
『気の毒だよ。僕も鬼頭さんの作品はよく読んでいた……つい……』
『いいって、もう』
神屋は内心ほっとした。
静枝は、机の上の将棋盤をかたし始めた。
『ねぇ、そんなことよりさ、まだ教えちゃいけないようなこと、何にも教えてもらった気がしないんだけど』
ここで神屋は、一計を案じた。
……ちょうどいい。深く詮索される可能性は高いが、致し方ない。
神屋は、フロム・ヘブンを読んだことで、静枝と亜美が友人関係であることを知っていた。
亜美のもとを訪れたい神屋は、静枝に聞き出そうと思ったのだ。
『そうだったね。じゃあ、極秘情報を教えるよ』
『やった』
『実は、今、王里神会は人捜しをしてるんだ。二人の高校生。外崎暁と、篠原亜美っていう』
神屋は、さも二人のことなど知らなげに名を出した。
静枝は、目をまん丸く開け、動かなくなっている。
『まぁ、そんな二人知らないだろうけど……』
『……』
『で、二人を拉致して、あることについて聞き出そうとしているわけなんだが、だが、しかし、僕はそんな教祖の考え方に反対だ!』
『……?』
静枝はもう、何が何だかわからないといった様子だ。
『ここだけの話、僕は王里神会をもう見限っている。何の罪もない一般人をさらおうだなんて、僕にはできない。そして、仲間がそれをするのも許せない。だから、僕は王里神会に立ち向かうことにした。簡単に言うと、誰よりも早く二人を見つけ、安全な場所に避難させようと考えている。だから、何日も前から僕は二人を見つけようとこの辺りをまわってるんだ。ああ、早く二人の住所が知りたいよ………………や、悪いね、こんな私情を聞かせちゃって……』
そこまで言うと、神屋はわざとらしく咳払いをしてみせた。「風邪かな」などとうそぶいて。
静枝は、額に汗を浮かべ、唖然としている。
『あ、あ、待って、ちょっと!』
『!』
『詳しく聞かせて、その話』
……チェックメイト。
神屋は、僅かに微笑みを見せた。
‐3‐
目が覚めたのは、十九時を少し回った頃だった。
気持ちの良い目覚めではなかった。暑苦しくて目が覚めたのだ。
ベッドから上半身だけ起こし、窓の外を眺めた。既に外は真っ暗で、夜空には星が輝いていた。
数え切れない程の星たちを、静枝は夢中で眺めた。
小さい頃、何度かこんなことを思った。
……あの星たちのどれかひとつにでもいい。今、うちと見つめ合っている何かはいるのかな。
何かとは、即ち、地球外生命体のことであった。
「………………」
――――あるひとつの星に狙いを定め、遥か向こう、そこにいるかもしれない何かに、静枝は呼びかけた。
「お願い。うちとおしゃべりして」
少しの間を置いて、静枝は小さく笑った。自分のしていることが、急におかしく思えたからだ。
それでも、しばらくは星を見続けた。そうしていると、何の脈絡もなく、今日のことを思い出したりしていた。
記憶は、さらに過去にさかのぼる。
……亜美、暁。
神屋と教室で話したことを思い出し、続いて二人のことを思い出した。
今、二人はどうしているのか。それが気がかりになった。
静枝は携帯を手に取り、どうするか迷うような仕草を見せた。
そして、決心したように、ある人物にコールした。
小休止という話だったが、既に五時間は部屋にいる。
誰からの呼びかけもないので、亜美は若干の不安を覚えた。
……もしかしたら、アタシ以外でもう暗号解いちゃってるかも。
そんなわけないか、とつぶやき、亜美は再度、ベッドに横たわった。
暁の部屋からこの部屋に戻り、それから数時間に渡り、本を読み続けていた。
読み終えたのは、つい先程、午後七時を回った頃だ。
「…………」
暁とのやり取りで、何とも言い難い感情を彷彿させてしまったのが理由なのか、半ば向こう見ずの長時間読書を敢行してしまった故は。
未だ脳内では、先程読んだ本の内容が渦巻いている。
長編小説を読み終えることで幾分落ち着いた心になっていた。
「!」
――――突如、携帯の呼び出し音が鳴った。誰かから電話がかかってきたようだ。
発信者の名が、ディスプレイに表示されていた。
「ん?」
佐藤静枝、とそこにはある。
「もし、もし」
「亜美」
「シズ!」
「……あのさ、いきなりかけてごめん。ちょっと、心配だからかけただけなんだけどね」
「あ、あぁ、あぁ、そっか……そっか。神屋君から聞いたんだっけ」
「……? かみや? だれ?」
「ん? あぁ~、もしかして名前は知らないんかぁ」
「うん」
「ほら、学校で話したとか……」
「……あ! あの人か!」
「そうそう、わかった? なんかさ、まぁ、髪はちょっと長めで、背が180くらいあってぇ……」
「あのイケメンくんでしょ?」
「そう!」
「あの人、かみやっていうんだ」
「そう言えば、訊きたかったんだけど……どのくらい聞いたの?」
「……うん、そう、それで心配だったんだけど……なんか、暁と亜美が、拉致されるとか」
「そっか……」
尋ねつつも、亜美には返ってくる答えの、大体の予想がついていた。
まず第一に、神屋が、神崎冬也は生きているかもしれない、とは言うはずがない。
したがって、知っていたとしても、何故かはわからないが拉致されようとしていることくらいだろう。
「かみやって人は、その理由を教えてくれなかったんだけど……何か深いわけでもあるの? もし、うちにできることがあるなら言って」
「……シズ」
「……うち、余計だった?」
「ううん、そんなことないよ。アタシも……ホントは凄く怖い。ちょっとほっとしたよ」
この言葉は嘘ではなかった。
親友の温かい言葉に、亜美の心は確かに救われたのだ。
「警察に言ったら? もう言ったの?」
「……警察は……信用できないみたいだけど」
「……え? それって……」
「詳しくはわかんないけど、警察に言うと、いずれは拉致のリスクが高まるらしいんさ」
「……つまり、拉致グループは、警察関係者を抱き込んでるか、もしくは、それそのもの……?」
「抱き込んでるみたい」
「ふぅん……なんか、凄いことになってんね……はは」
「別に、悪いことしたわけじゃないんだよ。アタシはね」
「そっかぁ、あ、ねぇ、あのさぁ、かみやって人……は、信用できるん? 亜美とか暁を助けたいとか言ってたけど」
「え? できるよ、何で?」
「……だってさ、冷静に考えれば、あの人が敵である可能性は多いにあるじゃん。王里神会だっけ? それのスパイかも。亜美たちを巧みに信用させて、最後に裏切るかもよ」
「そんな、ことは……ない、と……思うけど」
「本当に大丈夫? 信頼できるっていう証拠はあるの? あの人、『僕』とか『~かい?』とか、喋り方もなんか変だし」
「あぁ、顔の割には確かに……」
「スパイって考えた方が納得いくことの方が多いんじゃないの? 知らないけど」
「まぁ、多分、大丈夫だと思う」
「あ、つーかさ、大事なこと訊くの忘れてた。もうかみやって人に会ったん?」
「うん、もう何日も一緒にいるけど」
「…………ええ!?」
「え?」
「一緒にいるって……それは……まさか……」
「……うん。一緒にいるよ。同じ家に」
「なっ……その人の家!?」
「いや、いや、あはは。神屋君の知り合いの人の家。最初はホテルだったけど」
「ホテル!?」
「暁も一緒にね」
「さ、三人!?」
「まぁ、襲撃されたから、今は違うとこにいるんだけど」
「しゅうげ、しゅ……」
電話口の向こうでは、開いた口がふさがらない静枝がいた。
――――リビング。
ジューッと焼く音が、静かに耳に溶け込んでくる。
ハッと我に返ったかのようだ。
暁は、時折、こんな感覚に襲われる。
自分をどこからともなく呼んでいるのは、過去だ。
あるひとつの記憶が、まるでフラッシュバックの如く、脳裏に呼び覚まされる。
…………あぁ、死んじまったのか、鳴海。
「ようーし、ご飯できたぞー、亜美ちゃん呼んで」
「ん、わかった」
たまたまドアの近くにいた神屋が、亜美を呼びに部屋を出て行った。
亜美と神屋が部屋に戻ると、全員で夕食を食べた。高木は大勢でとる食事が嬉しいのか、どこか表情は豊かだ。今までは、この広い家で、たった一人の食事にありついていたのかと思うと、少し気の毒に思えてくる。
食事中、暁は亜美と目を合わせなかった。いや、合わなかったと言った方が適切か。斜め前に座る亜美に、勇気を出して何度か視線を送ったが、亜美は暁の方を見る気配がない。
暁がトニーとの茶番を繰り広げるも、無反応だった。時々、「おいしい」と言って高木に笑顔を見せていた。
端から見たら、いつもと変わらない風景だっただろう。しかし、一人の男は、この異変に気付いていた。
食事が終わると、暁はすぐにトイレに向かった。
尿意を覚えたからではない。ただ、あの部屋が、亜美がいるあの部屋が息苦しかっただけだ。
洗面台の前に立ち、鏡を見つめた。いや、睨んでいた。
「…………」
何故、自分が金髪になっているのか、大して似合ってもいないのに、無性に腹が立った。
そして、目を伏せた。
……まるであのときみたいだ。
あのときとは、ちょうど暁が田舎から帰ってきた頃のことだ。
亜美と数日間関わらない生活を送ることによって発生した、一種の飢餓感。そして、孤独感。
亜美は誰かと付き合ってしまってはいないか。そう思えてならなかったのだ。
――――しかし。
考えてみれば不思議なことだった。亜美レベルの女ならば、もう誰かと付き合っていても、なんらおかしくない。容姿もいいし、性格もいい。要するに完璧な女だ。暁は首をかしげた。どうして亜美は、俺みたいなしがない男と一緒にいるのだろう。とゆうか何故、周りの男共はもっと亜美にアタックしないのだろう。
……俺にいいとこなんかねぇのに。
「暁」
足音もなく、突然に自分を呼ぶ声がした。振り返ってみると、そこには神屋がいた。ゆっくりと洗面所に進入してくる。
二人で並んで鏡を見つめ合う形となった。いやでも身長差を思い知らされる。
神屋が振ってきたのは、亜美のことについてだった。どうやら神屋は、亜美と暁の間に流れる良くないムードを感じ取ったらしい。
「何があった」
「……いや、別に」
「篠原さんのこと、好きなんだろう」
「!?」
あまりにも意外な神屋の発言。心の内を簡単に見透かされた気がした。しかし、相手は神屋だ。ずっと前からわかっていたのかもしれない。
「壁にぶつかっている顔だ。恋の壁に」
そう言って神屋は笑顔を見せた。
「いいじゃないか。君は生きている」
「……ん?」
「葛藤するくらいに、生を楽しめてるのさ。世の中には、死んだ目をした奴らが腐るほどいる。生を放棄した者たち。プライドも糞もない。そいつらに比べたら、死ぬほどマシだよ」
「……言いたいことは、なんとなくわかる」
「暁、全力で生きろ」
「……!」
「人生を歩むんだ。人外の道を歩いていたって、最後は後悔しかない。人生を歩め。全力で生きることでしか、人生の幸せは見いだせない」
神屋は洗面所をあとにした。
残された暁は一人、神屋の言葉を反芻していた。
‐4‐
十七のキーワードについて、意見は二つに別れた。
ひとつは、一文字ずつ入れるパターン。
もうひとつは、単語単位で入れるパターン。
最後の扉は夜にしか見えない
サイゴノトビラハヨルニシカミエナイ
これを単語単位にすると、
サ……サクリファイス
イ……イエス
ゴ……ゴシック
ノ……ノエル
ト……トーラー
ビ……ビザンチン
ラ……ランス
ハ……ハイメ・ネボト
ヨ……ヨハネ
ル……ルター
ニ……ニカイア
シ……シャトーブリアン
カ……カトリック
ミ……ミレニアム
エ……エルサレム
ナ……ナザレ
イ……イスラエル
ビザンチンについては、直後に「帝国」と続くが、全てカタカナで統一していることを考慮し、敢えて「帝国」は入れないことで話はついた。
「さて、それじゃあ、早速、入力しようと思う……その前に」
椅子から立ち上がった神屋は、亜美に突然、言い放った。
「二宮光は怪しい」
――事の発端は、暁の携帯に送られてきたメールだった。そこにはこうある。
暁くん、今、どこにいますか?
それを見た亜美は、神屋の言葉の意味をすぐに理解した。
親戚に王里神会を持つ二宮光は、密告者の可能性が高い。しかし、いつどこで光に鬼頭火山との関係を見抜かれたのか、それがはっきりしなかった。
暁も亜美も首を傾げた。
確かに、まだこれだけでは、光が密告者だと断定するには早とちりである。
亜美は、暁の予想に反し、案外あっけからんとした様子で切り出した。
「授業中かな?」
暁は、なるべく平坦に接した。「そうかもな」などと返しながら。
暁も亜美も、あの頃はよく、授業中に暗号に取り組んでいた。そして暁の隣の席は光だ。何をしているのかはわからなかったかもしれないが、怪しく思われていたとしても無理はない。
―――光が密告者とすれば、合点がいくのは確かだ。V事件の重要人物として暁と亜美の名は上がったが、住所はわかっていなかった。月代学園の生徒だということだけしか明らかにされていない。何故なら、光は暁や亜美の住所は知らないから…………。
問題は、もし光が密告者だとして、どうやって鬼頭火山との関係を見抜いたのか。
恐らくは授業中。亜美と暁には、そうとしか推理できない。
光は、このメールで、ただの友達を装い、居場所を聞き出そうとしているのだろうか。
亜美は、過去を追憶しつつ光のことを咀嚼した。
……いや、ないでしょ。あの二宮さんが。
亜美の中で半ばおちゃらけたイメージしかない二宮光が、スパイさながらの密告者たりえたなど、信じようにも信じがたい。
話し合いの末、まだメールは返さないでおくことになった。
まずは目の前の問題を解決しなければならない。
神屋は、単語単位で十七のキーワードを打ち込んでいった。これでダメなら、一文字パターンである。全員が、息を呑んでパソコン画面を見つめた。
「個人的には、これが正解な気がするんだけどね……さて、送信っと」
送信ボタンがクリックされた。
その瞬間、垂れ流しになっていたパッヘルベルのカノンが、優美なる演奏を止めた。
――プルルルルル
「…………はい、もしもし」
東京郊外、とある参道。
一人の男に電話がかかった。
「私だ……仕事は順調か」
声を聞くと、誰だかわかった。
「非通知でかけてくるなよ」
男は、周りの清らかな景色に酔いながら、参道をひねくり歩いていた最中だった。
「……仕事は順調か」
「いや、行き詰まってる」
寺社の姿形が、異様に美しく見える。日々の億劫から完全に解き放されたかのような感覚だ。男は、ふと足音がした方を見た。ただの足音ではなかった。
「……ちょっと、またあとでかけるよ」
「どういう――――」
パタン
携帯を閉じた。
…………巡り合わせ、というのだろうか。まさかこんな場所で会うとは思わなかった、そんな顔を、二人共していない。これは必然だったのだろうか。
砂利を踏みしめ、十分な時間を置いて、やってきた男は言う。
「復讐だ」
「…………」
「左虎……お前を殺す」
相手は、左虎のよく知る同業者……殺し屋だった。
数年前、仕事で互いにやりあい、そのとき瀕死の傷を負わされたのを根にもっているようだ。左虎は平坦とした目で見据えるばかりだ。
「あのときは心底、イラついた。お前を殺したくて殺したくて仕方がなかった」
「はらわたは元に戻ったのか? それとも人工臓器でも入れてんのか」
この一言に痺れを切らしたのか、出してきたのは銃だ。
だが、左虎は動じない。
「お前は今日、ここで死ぬ」
「撃つ前に教えてくれ。どうして俺の居場所がわかった」
「びびってるのか。お前でも死は怖いか」
「そうか、なら撃て。試してみろ」
「いくらお前でも……銃には勝てない。命乞いはどうした」
「試してみろ……って」
「しゃらくせぇ」
――――パァンッ!!!
発射された銃弾は、僅かな流線型を描き、それこそ人の目には見えないが、左虎の心臓目掛けて空を切った。
常人ならば、一瞬のうちに死を覚悟するか、流れ出る血を目に、走る痛みに浸りながら徐々に死を覚悟するだろう。そうでなければ、恐怖で我を見失うであろう。
だが、左虎は、笑っていた。
銃弾が、心臓に向かって一直線のその最中、笑っていたのだ。
殺し屋界にはこんな言葉がある。「一流の殺し屋とは、人の領域を超えた先にしか、その体躯を現さない」
…………
…………――――
銃弾の軌道が、まるで目に見えてるかのように、ゆっくりと、時間の遅くなった世界で、左虎の眼球は、回転する銃弾を見つめていた。
……――――ビシッッ!!
弾は左虎の背後にある岩にぶつかり、亀裂を作った。
銃を撃った男は、己の目を疑った。
早すぎてわからなかったが、何故か、左虎は身体を斜めに傾けている。
……まさか!?
「ビックリしたか。復讐成功って思ったか」
「……!」
「人間が銃弾を避けられるわけがねぇー、と、そう思ってたか」
まるで被弾していなかった。
信じがたいことに、銃弾を回避したらしい。
男は銃を撃ったままの姿勢で唖然とし、左虎を食い入るような目つきで見ていた。足が震えていることにも、気付かずに。
左虎は姿勢を元に戻し、男と向き合って言った。
「あのとき、お前を殺さなかったのは、お情けだ。俺は慈悲深い…………引導をな、渡したつもりだったんだよ」
「引導だと?」
「お前みたいなのはヒットマンに向いてねぇ。個人的な見解だが、ボディガードにでもなりゃあ良かったんだ、お前は。今より俄然、売れっ子になれたと思うぜ」
「おちょくってんのか」
「人にはそれ相応のステージってのがある。お前は大した実力もないのにこっちの世界に足を踏み入れた、いわば勘違い」
「……くッ」
「俺に復讐だぁ? 善意でああしてやったのに、全く……」
「死ね」
男は、一気に三度も引き金を引いた。鉛が宙を舞う――――――
「救えねぇ野郎だ」
「――――!!」
血飛沫をあげ、いつの間にか、宙に浮いていた。あまりに一瞬のこと過ぎて、何が何だか理解できなかった。
地面に倒れると、自分の両腕が切断されていることに気付いた。左虎は、靴で男の胸を踏みつけた。手には、先ほどまで男が握っていた銃が……。
「判断を誤ると、死ぬことになる」
「……ごふっ」
男は、何か喋ろうとして、気付いた。腹の辺りが切れてるのか、胃に血が流れ、うまく喋れない。喋ろうとすると、血を吐きそうになる。
「死ぬ前に答えろ。どうやって俺の居場所を知った」
「……ぐっ……」
「銃まで持ってきて、まさか偶然ですとは言わないよな……」
「……ぅ……ッ」
「言え」
左虎は、銃を向けた。
「答えろ」
「…………」
「答えろ!」
「…………ごふっ……ヴヴ」
男は、息絶えた。
左虎は、男の体をくまなく調べた。何か手がかりがあるかもしれない。
「これは」
いま、左虎がいる寺社の名前が書かれた紙が、内ポケットから出てきた。しかし、注目すべきは、紙と字。
特徴のある龍の絵が浮き出ている。そして、黄色い。
更に、どうやら文字は、血で書かれているようだ。
左虎は、地面に落ちている男の手を拾い上げ、指先を調べた。すると、予想通りの痕跡を発見した。
――プルルルルル
「……左虎君。一体何があった」
「いえね、ちょっと、仕事に光が見えたよ。もしかしたら、鬼頭火山の居場所、わかるかもしれない」
「ほう。それは凄い。期待している」
電話を切り、紙をポケットにしまうと、左虎は歩き出した。
謎も少しずつ埋まっていきますね。
まぁ、打ち合わせなしのアドリブラリー小説なので謎は作者にとっても謎なんですけどね。