失意のメタファー
眼前にたたずむ男の名は鬼頭火山。本名は神崎冬也。小説家として二十六歳でデビューしてから十六作の作品を世に放ち、去年発売された『鍵穴』は推理小説の金字塔とも称された。今年の冬で四十九歳になる彼は、まるで鬼のような、厳格なオーラをまとっているようだった。しかし、同時に彼は奇妙な失意に包まれていた。
篠原亜美は鬼頭から渡された一枚のメモをしっかりとズボンのポケットに入れて、鬼頭に深くお辞儀をした。
「約束、絶対守ってもらいますからね」
「もちろん。ただし、君が勝ったなら、の話だ。頑張りたまえ」
鬼頭の顔は先に待っている結末を見通しているかのように自信に満ちていた。しかしすぐに先程と同じ失意の顔に戻っていた。彼の自信を裏付けているものは解らないが、亜美の脳内にはそれが絶望に近いものだという漠然としたイメージが揺らめいていた。
「君も変わっているな。私は翼をもがれた鷹だというのに……」
それが、鬼頭が別れ際に放った一言であった。
鬼頭と別れた後、亜美はすぐに携帯を取り出してメールを打ちはじめた。
暁はファミレスでコーヒーを飲みながら二時間前の亜美のメールを思い返していた。
Date:16:52
From:亜美
Sub:大ニュース!!
今日は遊び行けなくってゴメンm(_ _)m
実は、鬼頭火山と真剣勝負することになりました~
暁にも協力してもらうよ
詳しくは直接話すから21時に昨日の公園で!
では また後で(^_-)-☆
亜美のメールには、色々と不可解なポイントはある。ひとつは小説家鬼頭火山と亜美が互いに面識があるような表現が見受けられたこと。メディアに姿を見せない方ではあるが、仮にも有名小説家である。一般人と突然面識を持つとは考えにくい。それから、真剣勝負という言葉。どうすれば推理小説家と真剣勝負なんてことになるというんだろう。
亜美はいつも、他人と話すときは明るくしているが、独りのときは意外にクールな表情を見せる。その特徴はメールでも発揮されるので、彼女の真意や心境を一件のメールから判断するのは難しかった。
暁は先程読み終えた『鍵穴』を開くと作者の略歴を見た。出身県が同じということには気付いていたが、暁はそこから何かを推理しようとは思わなかった。亜美は先程から電話にもメールにも応えることはない。あくまで直接話すつもりらしい。その時に全てを聞き出せばいいことだ。
『鍵穴』を閉じると、暁はファミレスを出た。
約束の時間までは二時間ほどあった。することがなくなると、なぜか訪れてしまう場所が暁にはある。学校から十五分程歩いた所にある、御宝神社である。御宝神社は入口を案内する看板の脇から伸びる二〇〇段はある巨大な階段を上った所に建つ本堂が地元では有名である。縁結びの願掛けが昔から行われていたらしいが、今日では年に一度の夏祭りの日以外は二〇〇段もの階段を上ってまでここに来る人はそういない。
暁は階段を上り、御宝神社の本堂の前まで来ていた。しかし、暁がいつも訪れる場所はここではない。本堂の周りには林が広がり、そのまま山に続いている。本堂の西に林を少し開いた道がある。だがこれを知っている人は地元でも少ない。林の中の小道を進むとすぐに林を抜ける。そこには一メートル位の高さの柵で囲まれた小さなスペースがあった。柵の向こうはなだらかな崖になっていて、この街の全体を見渡すことが出来た。
時が経ち、人々から忘れられた場所。ここから眺める街は美しく、世界の広さと狭さとを同時に感じさせる。
思い出は数えきれない。俺までここを忘れるわけにはいかない。ここは始まり場所だ。そして終わりの場所はあの病院。そうだ、俺は3年前から既に終わってしまった世界に暮らしている。目を閉じると、声が頭に響く。幸せだった頃の俺の声。それから、隣にいた「あいつ」の声。
なんでこうなったのか、俺は未だにそう思うことがある。不条理の中で生きる人間はいつ悲しみに襲われたとしてもおかしくない。解っていた。解っていたんだ。だけどやっぱり納得なんて出来ない。何度も誰かを憎んだ。誰かを憎まなきゃやっていけなかった。
涙が頬をつたう。俺はこの時代、この場所に、俺として生まれた。「あいつ」も同じだ。意味を与えられ生まれた命が意味なくして散ることは許されない。だから俺も醜く生きるしかないんだ、これから、ずっと。
かなり時間が経って、強く爽やかな風が吹き抜けた。
そろそろここを出よう。
公園に着くと、暁はベンチに横たわった。公園の時計は合っているかは怪しいが、九時二十分前だった。亜美はいつも時間ピッタリにやって来る。今度こそやることがなくなった。眠ってしまおうか……。暁は静かに目を閉じた。
暁は気付き始めていた。円を描いていた毎日が螺旋のように少しずつ変化し始めていることに……。