新たな螺旋
未来の自分が大学生になっていることを祈る!
2010.12.30
-1-
階段を降りると、来たときは閉まっていた二枚の扉が開かれていた。扉の裏側は鏡になっている。
開いた扉の奥には、一際広い部屋があった。中央には長方形のテーブルが置かれ、左右に三つずつの椅子が置かれている。右手の三つの椅子の前にはそれぞれワンセットずつ朝食が用意されており、奥の二席には神屋と高木が順に座っていた。一方、左手の三つの席では、中央を空けて二つの席に朝食が用意されていた。
全員が部屋に集結すると、トニーは右手、高木の隣に座り、亜美は左手、神屋の向かいの席に座った。暁は最後の一つ、トニーの向かい、亜美の一つ空けた隣に座った。
暁は席に着くと、改めて部屋を見渡した。部屋は直方体で、月代学園の教室四つ分くらいの広さはありそうである。中央のテーブルが目立つが、それ以外にもこの部屋には様々な物が遍在している。「地デジ対応」と印刷されたステッカーがまだ貼られている比較的新しいモデルの薄型テレビ(これは部屋の角に設置されている)、テレビに平行に配置されている三人用ソファ、一二〇センチ程の高さのラウンドテーブル、それを囲むように置かれた背もたれと脚の長いデザインの椅子三脚、そしてラウンドテーブルの上にはチェス盤(よく見ると暁には見覚えのあるチェス盤だった。おそらく暁の部屋に暗号を回収しに訪れた際に神屋がギミック付きのチェス盤も回収したのだろう)。ちなみに駒はバラバラに並んでいる。ついさっきまで神屋と高木が対局していたようだ。暁の座る席からは戦況はよく分からなかったが、盤上では未だ決着は着いていないらしい。神屋に瞬殺されずに、勝負を中断しているということは、高木も相当チェスが強いのだろうか。もっとも、高木が対戦相手とは限らないが……。
さらに、部屋の内装は灰褐色の絨毯、ベージュの壁紙、壁には印象派が好みなのか、モネ、ドガ、ルノアール、セザンヌの絵画のレプリカ(まさか本物ではないだろう)が一枚ずつ飾ってある。
そこまで観察を終えた段階で、神屋が口を開いた。
「昨日はよく眠れたかい?」
「うーん……それより、この朝食はどなたが作ったん?」
亜美は食べ物に興味が向いているようだった。ダイエットを止めたらしいことが伺える。朝食はフランスパンを切ったもの、海藻のサラダ、ポタージュスープ、コーヒーゼリー。
「作ったのは俺。昔は海上レストランのコックだった。オールブルーを目指して海賊になったんだ」
高木は真面目な顔で言った。
「あなたはサンジですか、高木さん。というか、もうそこまで読んだんですか、『ワンピース』。貸したばっかりでしょ」
神屋がツッコミを入れる。神屋が『ワンピース』のコミックスを集めていることが判明した。
……王里神会幹部は『ワンピース』を読むのか。
「神屋、『ワンピース』は凄いな。一話で泣いたぞ。トニーから電話があるまで暇でさ。お前たちがホテルから脱出してる時も読んでたんだ」
「今更ですか、高木さんは流行を逃しすぎですよ。だからモテないんですよ」
「高木さーん、神屋くーん、食べてイイ? お腹ぺこぺこ」
「暁サン、『ワンピース』ッテ何デスカ? 洋服デスカ?」
部屋が不似合いな賑やかさで湧く。暁はついにイライラを抑えきれなかった。
「だぁぁぁぁぁぁぁ!!!! てめぇら! 少しは落ち着け!! 神屋! こんな緊急事態に『ワンピース』貸してんじゃねえ! 高木さん! 俺たちが生死の岐路に立たされている時にあなたはサンジの人生の岐路を読んでたんすか!! とんだ惨事だよ! 亜美! 我慢しろ! トニー! 『ワンピース』は日本の人気マンガです! 知らねーのかよ!」
「………………」
「………………」
「………………」
「…………暁うるさい。頭ギンギン。お腹ぺこぺこ」
亜美は完全に寝ぼけているようだった。お得意のはずの日本語がトニーより拙い。
「……疲れたぜ、頭がおかしくなりそうだ……」
暁は現状を夢と錯覚し掛けた先ほどの自分が、完全に覚醒してしまったことに後悔した。あのまま自分も夢現な状態で、目の前の暢気者たちのように馬鹿話をしていた方が気楽だった。
そもそも何故に彼らはここまで、のほほんと構えていられるのか。日本という国で殺し合いが勃発したというのに、随分と落ち着いている。
……そうか! 俺が人とのコミュニケーションを苦手としているのは、極度のビビりだからか! ……ということは、竜司もビビりか?
暁は、随分と残念な自己分析だ、と心のなかで自嘲した。
ここで、ようやく神屋が話し始めた。
「……さて、今日からはここ、高木さん宅で活動するのだけれど、とりあえずいくつか注意しなきゃいけないことがある。一つは、外出はしないこと。ここがバレたらもう行くあてがない。二つ目、あまり時間がない。理由は二つ、王里神会のテロが近いかもしれないのと、鬼頭火山もしくは彼の意志を継ぐ者が見つかってしまうかもしれない。簡単には見つからない場所に居るとは思うけど……」
神屋は、先ほどまで馬鹿を言っていたとは思えないほどに冷静な口調で、淡々と説明した。
「了解。とにかく、早めに鬼頭の居場所を突き止めりゃ、いいのな」
暁は少し強がって言った。実際は不安だらけである。
「神屋くん、質問。あたしらって昨日襲撃されかけたけど、その件はどうなったの」
亜美は眠そうな目をして言った。やっと、脳が働きだしたようだ。
「されかけた……というか、あの後襲撃された。でもトニーさんが返り討ちにした。……ていうか、トニーさん、爆弾とか聞いてないんだが。ニュースで大騒ぎですよ。今年最大の事件とか言ってましたよ」
「スミマセン。シカシ、警察ガ働イテクレレバ、シバラクハ同ジヨウナ事件ハ起コセマセン」
「うーん……。それもそうだな。他にも利点はあるしね。……幸い、直前に出て行った僕らだけど、特に今は疑われてないみたいだし。それに、王里神会がテロ起こしたら、今年最大どころじゃないな」
神屋はそう言うと、グラスの水を口にした。
すると、高木が次に話し始めた。
「食事が冷めんぞ。亜美ちゃんも食べたがってるし、後は食いながら話そうぜ」
亜美が「やった」と小さくガッツポーズをしたのを、暁は目の端に捉えた。
「一つ聞きたいんだが、具体的に俺達がやらなきゃいけないことって何だ?」
暁はフランスパンを手に取りながら神屋に言った。
「僕らの最優先課題は鬼頭火山の居場所を、回収した暗号の中から見つけることだね。仮説だが、それには僕が加わらないと解らないような細工が施されている可能性が高い。だから、僕と暁と篠原さんでこの作業にあたりたいと思う」
「……だよな。じゃあ、飯食べ終わったら早速開始するか」
「そうだね」
今後の方針が決定すると、五人は再び和やかなムードに包まれた。
しばしの間、雑談をした後、高木が不意に話題を振った。
「俺からは、特に重要な話はないが、俺も神屋ぐらいの歳の頃、いや、もっと早くのうちから王里神会の幹部だった男だ。基本、戦闘以外はオールマイティーだ。何かあったら何でも相談してくれ。それから、この家は自由に使っていいからな」
そう言って、高木は白い歯を見せて爽やかに笑ってみせた。
すると亜美が口の中のパンを飲み込んで話し出す。
「この部屋って、他の部屋とちょっと違いますよね。壁の絵とか、高木さんの趣味?」
「いや、あれは元カノの趣味の影響で飾られてるだけ。俺は芸術に好みはないんだ」
「別れちゃったんですか?」
「酔っ払って、十代の頃に宗教団体の幹部やってたって口走って、逃げられたのさ。なあ神屋、お前も気を付けな」
急に話を振られたが、神屋は顔色ひとつ変えずに応える。
「僕の場合、教団幹部云々よりも、前科者になっちゃうでしょ」
「ハハ、神屋サン、ソンナコトヲ言ッタラ、ワタシハ殺人者デスヨ、ハハハ」
「…………」
トニーの突然のブラックジョークに、ただ一人、神屋だけが「ははは」とわざとらしい笑い声を上げ、室内は静まり返った。
……トニーには、『ワンピース』を教える前に、『KY』という言葉を教える必要があるな。
暁は冷ややかな雰囲気の中、フランスパンをかじった。
-2-
青い空、灰色の街。空が晴れるほどにそのコントラストは際立った。
暁は、朝食を終え、自分にあてがわれた部屋に戻っていた。暗号の再解読は先ほど食事をした部屋で行うことになった。
現在はいわば休憩時間。同時に、荷物の整理時間も兼ねていた。休憩は十五分と決められた。暁はその時間を今後貴重になるかもしれないと感じ、外の空気との触れ合いに割くことにしたのだ。
窓を開くと、閑静な住宅街が遠くまで広がっていた。住宅と住宅の間を涼しい風が吹き抜ける。暁は、もしかしたらこの住宅街は高級住宅街なのではないか、と感じた。「高級」と言っても、中の上といった印象ではあった。この家が他の家よりも少し大きく感じたのは確かであるが、窓から見える他の家も高級そうな家が多い。思い返せば、神屋が「少し広い」などと表現していたが、神屋の家も一般的な住居の広さから比較すれば、相当広いだろう。想像するに難くない。
そんなことを意味なく考えていると、住宅街の中、遠く向こうからリズミカルな音がすることに暁は気付いた。
音の正体を掴もうと、建ち並ぶ住宅の細部に目を凝らすと、意識が次第に音源に近付くようなイメージを体感した。それはまるで、数多の暗号文の隠し持つ内包を特定するかのようだった。
ふと気付くと謎のリズムは消えていた。それから数秒間窓から見られる景観を見つめていると、ついに暁は音源を特定した。
それは高架線だった。遠くの建物の合間に南北に続く高架線が見える。その上を走る電車の音が、広く行き渡り、暁の耳に入るまでの間に無数の反射を繰り返した。その結果、雑音は和らぎ、リズミカルな、聞き苦しさのない音に変わったのだろう。
「鬼頭……これで最後だ。俺達は駒じゃない……。人なんだ……」
暁は存在すら不安定な鬼頭火山へ向けて、囁いた。
真実は歪められる。暁たちが最初に辿り着いた真実は、本物ではなかった。
……今回はどうか。
暁は窓を閉め、部屋を出た――――。
亜美は、本棚の前で丁寧に並べられた書籍の背表紙を一つずつ目で追っていた。
「趣味合うかも……」
亜美は、僅かに笑みを浮かべながら呟いた。本棚の小説の多くは、亜美の好みに合いそうなものだった。鬼頭火山の作品も、全てこの部屋の本棚で見つけた。高木も、鬼頭作品は全て読破したようだ。
それ以外にも、亜美には興味深い発見があった。
この部屋の本棚には、小説やその他文芸書、論文、格言集……、と多岐にわたる種の本が納められているが、その並べ順には規則性がない。正確に述べるならば、亜美には規則性があるのかさえ分からないのだ。隣り合わせの本の種類があまりに違う。小説の隣に英語の論文、その隣にニーチェの哲学書、さらに隣に将棋の戦略本、そしてまた小説……と、バラバラに本が並べられているのだ。カテゴライズを好まない人間でも、さすがにこの様な並べ方はしないだろう。そして、ますます不思議さを助長しているのが、本の「納められ方」である。
「わざと……だよね……多分」
亜美は腰に手を当てた恰好で、本棚を見渡した。
この本棚には、中から一冊の本を抜き出すのさえ(むしろ一冊だけ抜き出すのが)困難なほど、ぴったりと、隙間なく、本が納められている。どの段も全て、例外なく。一冊でも増えたら、その本は居場所がなくなってしまうのだ。
それはカテゴライズされておらず、むしろ意図的に種類をバラしてあるかのような並べ方の理由になりうるのだろうか。
しかしながら、もし本と棚の幅を合わせるために本の並べ方を変えているならば、何故そのようなことをしようと思ったのか、疑問が残る。
「からくり本棚だったりして……。あとで高木さんに聞いてみよっ」
亜美は中学の頃に読んだ小説を思い出して、そんな独り言を言った。
その小説は鬼頭火山の作品『地底湖』である。この作品では、殺人事件の舞台となる邸宅の、読書部屋の本棚が地下へと続く隠し扉だった。
とはいえ、ここは至って通常な住宅街。微塵もミステリアスな雰囲気はなかった。凝った造りの金庫……というオチがいいところだろう。高木ならそんなことをしてもおかしくはなさそうだ。
亜美は、本棚の謎が解けそうもないので、そろそろ部屋を出ようと考えた。しかし、体の向きを変えると、視界の端に黒い革のファイルを見つけた。背表紙には「二〇〇六年 十一月 ~ 二〇〇八年 十一月」と刺繍されている。
特にインスピレーションを感じたわけではないが、亜美の心の中で、ファイルの中身に対する興味は徐々に膨れ上がっていった。
ファイルは上から三つ目の段の一番右に存在した。見た目は大きめなサイズの本によく似ている。そのため、亜美は今になってそれがファイルであると気が付いた。
亜美は指先に力を入れて、本棚からファイルを取り出した。
ファイルは少々重量があり、女子が片手で持つのは辛そうだった。
亜美はファイルを落とさないよう注意しながら、ゆっくりとそれを開いた。
……スクラップ……?
中身は新聞の切り抜きであった。つまり、ファイルはスクラップノートに近いものであったことになる。
一枚目のスクラップは、二〇〇六年十一月十八日の殺人事件の記事だった。
「……ん? あれ……?」
亜美はその記事に見覚えのある姓を見た。
日本人数学者、神屋夫妻殺される
十四日午後、アメリカ在住の数学者、神屋真司氏(49)とその妻、神屋聖美氏(47)が、何者かに殺害されているのが神屋氏の別荘で発見された。研究所の友人による証言では………………………………した犯人の目撃情報はなく、いまだ逃走中である。
また、神屋夫妻が取り組んでいたリーマン予想の証明に関する研究資料が同日紛失しており、現在そのことが事件と関連しているか調査中である。リーマン予想とは、クレイ数学研究所によるミレニアム懸賞問題の一つであり、解決者に対して百万ドルの懸賞金が支払われる約束がされている問題である。ベルンハルト・リーマンによって約一五〇年前に発表され………………………………ゼータ関数の零点の分布に関する予想であり………………………………と言われる数学上の最重要未解決問題とされている。夫妻の友人は、神屋夫妻はリーマン予想の証明に最も近い数学者であると話しており………………………………と嘆かれている。また、ドイツの物理学者ラインハルト氏は同大学の………………………………
亜美は、記事の半分程までを、難解な点を読み飛ばしつつも、黙読した。
……「神屋」夫妻……か……。生きていれば五十代前半。王里神会は各界の著名人も信者に取り込んでいる。だったら、「著名人の息子」ならどうか……?
亜美の脳内を数々の憶測が錯綜した。
「……アハハ。まさかね~。当て推量もいいとこよねー」
亜美はパタンと音を立て、ファイルを閉じた。
休憩時間の終了も迫っていたので、亜美は荷物を軽く整理し、部屋を出た。
盤上の戦争にかろうじて勝利した神屋は、先ほどまで死闘が繰り広げられていたチェス盤を片腕に自分に用意された部屋に入った。
今回の対局は、まさに竜虎相搏つ一戦だった。相手は高木。彼は、チェスの実力は一般的なレベルを遥かに凌駕している。さらに将棋では神屋を超える腕を持っている。神屋の知る人物のなかで最強の相手だった。
序盤、神屋は優位に立っていたが、中盤に差し掛かるに従って次第に追い詰められていった。その後はシーソーゲームが続き、互いの戦況が均衡したところで、暁たちが起きたため、一時休戦したのだった。
朝食を終えると、神屋と高木はチェスを再開した。七、八分の後、高木の過失により、神屋は高木の所持する最強の駒クイーンを取ることに成功した。クイーンの消えた高木の陣営は次第に矮小化した。神屋はその時点で、八手先に勝利のシーンを見た。それは高木も同じだった。そして、高木の投了をもって一進一退の白熱戦は幕を閉じたのだ。
しばらく本気を出していなかった神屋にとって、チェスの勘を取り戻す良い機会だった。
「いい感じだ」
神屋は部屋の中心で眼を閉じ、呟いた。
脳は適度に冴えていた。対局相手の心理を詮索せずに、純粋にチェスをしたのは久し振りだ。相手が高木でなければ、面白みに欠ける。
チェスや将棋において、最も基本的な思考は、相手の側に立って、戦法を読むことである。それは、結果から過程を導く手法で、単純に、大まかな相手の行動を読むことに似る。それは、無意識下で人間が行っている思考でもあるが、それを意識的に行うのが、チェスや将棋、チェッカー、リバーシなどである。
その思考を日常的に行えるセンスを持ち合わせた人間ならば、あるいは、それに加え神がかった強運を持つ者ならば、鬼頭火山やKのように、運命を先読みするかのようなシナリオを造り、人を操ることが出来る。
神屋は気付いていた。自分にもそれに準ずる力があると。
だから、このチェスゲームの駒に「選ばれた」のだと。
そして、その類い希なる力を駆使すれば、必ず鬼頭の残した暗号にも屈することはないはずである。
それだけに留まらず、上手くいけば、更なる高見に立てるかもしれない。駒がプレイヤーを支配し、小説の登場人物が作家を支配することも可能かもしれない。
神屋は、自分が立てた推測に誤りがないことを確信していた。
故に、鬼頭の居場所を突き止めるには、必ずや神屋の存在がキーになるはずであるのだ。
神屋、あるいは神屋の持ち込んだ情報があって初めて欠けたピースが揃う。
そこまで分かれば、後は神屋でも、暁でも、亜美でも答に辿り着く権利を得る。
……そうすれば、目的達成にまた一歩近づく。
ここに来て、神屋の心の内なる目的、野望が再燃していた。それは、神屋自身でさえ気付いていないことだった。ましてや、彼以外の誰かがそのことを正確に察するなど、不可能だった。この時、この瞬間までは――――。