罪の芽
今回短めです。
この時点で受験終わってたら嬉しい。
東京某所、ここは都内でありながら、若者のアラモードを逸脱した大人の洒落た街並みが静かに展開される。そんな、一風変わった場所に、一人の女が歩いていた。
女は、眠たそうな目を擦りながら、先日の雨から生成された水たまりを歩幅を広げてかわした。
「そういえば、マリは今、元気かしらね……。あの結婚はネタよね……」
女は声にならないような小さな独り言を呟いた。
マリは女の友人のひとりである。先日念願の結婚を達成したばかりであった。旧姓が「久保田」であるマリは、親密な友人からは「くぼ溜まり」と呼ばれていた。つまり、「くぼんで水が溜まった場所」という意味のニックネームをふざけて付けられた訳である。そんなマリは結婚を果たしたら、名字が変わることを口実に、この地味に不快なニックネームを変えてやろうと企んでいた。
だが、マリは結婚してもなお、「水が溜まった場所」という意味のニックネームからは逃げられなかったのだ。それどころか、以前にも増してニックネームの意味合いが強まってしまった。神の悪戯か、皮肉なことにマリの結婚相手の名字は「水田」であったのだ。
つまり、この女は、水たまりを見かけて「水田マリ」という友人を思い出し、冷ややかに嘲るようなユニークな性分なのである。
女は、窓のないシンプルな外装の喫茶店の前で立ち止まり、小さく溜息をついた。今日はこの店で、ある男との待ち合わせがあるのだ。嬉しい待ち合わせではなかった。
入口には一メートル強の高さの看板が置かれていた。縁には赤、黄、青、緑の小型電球が輝く。看板にはこの喫茶店の名前と思われる文字が筆記体で表記され、その上にカタカナで読みが書かれていた。
「喫茶・パンドラ」
外観は常連客以外を受け付けないような雰囲気だった。外からは中の様子を全く伺えず、女はやむなく心の準備も出来ないままに、喫茶店「パンドラ」の扉を開いた。
ドアに付属した小さな鐘が短く鳴ると同時に、店内の朗らかで心地良いバックグラウンド・ミュージックが耳に入ってくる。見渡すと、想像以上に店内が広いことが分かる。木製のテーブルとチェアがゆとりをもって並べられ、壁で隠された奥には、まだいくつか席があるようだった。天井は高く、大部分がガラスで、今日のような晴れた日には直接日光が差し込む造りになっている。壁はコンクリートであるが、日光に照らされることで、温かみすら感じる不思議な雰囲気であった。
女は、出迎えた若いウエイターに「待ち合わせなんだけど……」と話すと、店内の奥を背伸びして覗き込んだ。
「篠原優子様でしょうか?」
ウエイターは、待ち合わせ相手を勝手に探し始めた女――篠原優子に声を掛けた。
「……そうです。あの人、もう来てる?」
「御来店しています。毎回、角の席を好んで選んでいらっしゃるので、奥に進んでいただければ、見つかるかと思います」
「……いつもって?」
「あの方は常連のお客様ですから」
そう言って微笑むと、ウエイターはカウンターの裏へ消えていった。 優子は店の奥へ進んでいった。入口からは死角になっていた場所がだんだんと姿を見せていく。全貌が見えると、そこは細長いスペースだった。テーブルは壁沿いに等間隔で三つ並べられ、皆同じく二人用の席だった。ここだけは他とは別の照明が設置されていて、天井もガラスではなくコンクリートである。
優子の待ち合わせ相手である男は一番奥の席で読書をしていた。左手には文庫本、右手にはティーカップが持たれている。
優子が近づくと、男は本を閉じテーブルに静かに置いた。
「来たか、優子」
男は久しぶりに優子と会ったのにも関わらず、自然な口調で言った。優子にはそれが気に食わなかった。
「久しぶりね……。あんたと会うのは『あのとき』以来かしら」
「『あのとき』とはいつのことかな」
「白々しい口を叩かないで。アタシがそういうの嫌いだって知ってるでしょ」
優子は木製の椅子に腰掛けながら言った。
「知ってるさ。だから訊いたんだ。君なら『あのとき』などとは言わず、『離婚したとき』と言うと思ってね」
「揚げ足を取るのがお好きなのね、イイ趣味してる。友達いるのかしら」
「私は友など作らないよ。極力、人とは関わらないことにしている。いつ人を傷つけても悲しまないように、罪悪感を感じないように、ね。……いや、これは言い過ぎかな……」
「そうやって逃げるの?」
「逃げる……? 逃げられないさ。だからせめて、新たな苦しみを背負わないようにしている」
男はそう言って紅茶を飲み干した。
男と優子は三年前までは夫婦であった。今日、優子がこの喫茶店に来たのは、かつての夫から直接会って話すことがある、と呼ばれたからであった。
「苦労を背負わせてすまないな」
男は悲しげに言った。
「別に……アタシは……」
優子が話そうとすると、先ほどのウエイターがやってきた。
「何か注文なされますか?」
「……紅茶をもう一杯もらえるかな。さっきと同じものを」
「かしこまりました。篠原様はどうしますか?」
どうやら優子はウエイターに名前を覚えられたようだった。
「アタシも同じのでいいわ」
「わかりました、すぐにお持ちしますね」
ウエイターはお辞儀をすると、壁の向こうに消えた。
優子と男は、紅茶が来るまでの間、一言も話さなかった。
「苦労って何?」
沈黙を破り、優子が言った。
「……亜美のことだ。一人で育てるのは大変だろう。金も要るしな」
「……亜美のことをあんたは苦労だと思ってたの? アタシは違う。亜美は良い子。あの子は宝物」
「…………そうか」
そう言うと、男はテーブルの上の本に目をやった。
『日本の腐敗』 宮澤睦
「優子、亜美はどうしてる? 好きだったろ、鬼頭火山って小説家。自殺したらしいじゃないか」
男は思い出したようにそんなことを言った。
優子は七月の中旬頃の亜美の様子を思い返した。
……亜美は何をしていたかしら。
「鬼頭火山が自殺した頃は忙しそうな感じだったわ。期末テストが近いとか言ってたけれど、外にも頻繁に出てたみたいよ。鬼頭火山が何とかって、お友達と話してた気もするけど……。今は文芸部かなんかの合宿に行ってるんじゃないかしら」
「……そうか。元気ならそれでいい。今日君を呼んだのは、実は亜美のことに関して、これとは別に話さなければならないことがあったからだ」
男は唐突に本題に入った。
「何?」
優子が尋ねると、男は黙り込んだ。悪夢を見た後のような青ざめた顔で自分の腕を凝視している。
「どうしたの? 大丈夫?」
優子は心配そうに男の顔を覗き込んだ。
「亜美は私の子だ……」
「……何よ、いきなり」
「そして、君の子だ……」
「……そうよ」
「だが私には亜美を救う力はない。君が亜美を導くしかない」
「どういう意味?」
優子は、深刻な表情の男に僅かに恐怖を感じた。男の言葉が、予言のように聴こえる。
「……私の娘であるという事実が、いつの日か亜美を苦しめるかもしれない」
「……どうして?」
「亜美は罪の芽を持っている。私が植え付けてしまった。あの子は私の過ちの残響を抱えている」
「何よそれ。ちゃんと説明して」
「説明しても君は何も出来ない。かえって苦悩を呼ぶだけだ。ただ、もしそんな日が来たら、君が亜美を支えてほしい。それを言いたかっただけだよ」
男はそう言って、瞼を閉じた。
「怖いこと……言わないでよ……」
優子は言い知れぬ恐れに身を震わせた。
「すまない。何も起こらないことを、切に願っている……」
「へ……変なこと言わないで!」
ガシャンッ!!
優子は堪えかねて椅子から立ち上がった。紅茶の入ったティーカップが床で砕け散る。
優子は「さよなら」と一言吐き捨てて、席を去った。
途中で、ティーカップの割れる音を聞いてやって来たウエイターとすれ違った。「お帰りですか?」というウエイターの声が背後で冷ややかに響く。
ドアのベルの、乾いた音と共に、優子は喫茶「パンドラ」を後にした。