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undecided  作者: らきむぼん(raki) &竜司
王里神会篇 破
36/73

罪の芽

今回短めです。

この時点で受験終わってたら嬉しい。


 東京某所、ここは都内でありながら、若者のアラモードを逸脱した大人の洒落た街並みが静かに展開される。そんな、一風変わった場所に、一人の女が歩いていた。

 女は、眠たそうな目を擦りながら、先日の雨から生成された水たまりを歩幅を広げてかわした。

「そういえば、マリは今、元気かしらね……。あの結婚はネタよね……」

 女は声にならないような小さな独り言を呟いた。

 マリは女の友人のひとりである。先日念願の結婚を達成したばかりであった。旧姓が「久保田」であるマリは、親密な友人からは「くぼ溜まり」と呼ばれていた。つまり、「くぼんで水が溜まった場所」という意味のニックネームをふざけて付けられた訳である。そんなマリは結婚を果たしたら、名字が変わることを口実に、この地味に不快なニックネームを変えてやろうと企んでいた。

 だが、マリは結婚してもなお、「水が溜まった場所」という意味のニックネームからは逃げられなかったのだ。それどころか、以前にも増してニックネームの意味合いが強まってしまった。神の悪戯か、皮肉なことにマリの結婚相手の名字は「水田」であったのだ。

 つまり、この女は、水たまりを見かけて「水田マリ」という友人を思い出し、冷ややかに嘲るようなユニークな性分なのである。

 女は、窓のないシンプルな外装の喫茶店の前で立ち止まり、小さく溜息をついた。今日はこの店で、ある男との待ち合わせがあるのだ。嬉しい待ち合わせではなかった。

 入口には一メートル強の高さの看板が置かれていた。縁には赤、黄、青、緑の小型電球が輝く。看板にはこの喫茶店の名前と思われる文字が筆記体で表記され、その上にカタカナで読みが書かれていた。


「喫茶・パンドラ」


 外観は常連客以外を受け付けないような雰囲気だった。外からは中の様子を全く伺えず、女はやむなく心の準備も出来ないままに、喫茶店「パンドラ」の扉を開いた。

 ドアに付属した小さな鐘が短く鳴ると同時に、店内の朗らかで心地良いバックグラウンド・ミュージックが耳に入ってくる。見渡すと、想像以上に店内が広いことが分かる。木製のテーブルとチェアがゆとりをもって並べられ、壁で隠された奥には、まだいくつか席があるようだった。天井は高く、大部分がガラスで、今日のような晴れた日には直接日光が差し込む造りになっている。壁はコンクリートであるが、日光に照らされることで、温かみすら感じる不思議な雰囲気であった。

 女は、出迎えた若いウエイターに「待ち合わせなんだけど……」と話すと、店内の奥を背伸びして覗き込んだ。

「篠原優子様でしょうか?」

 ウエイターは、待ち合わせ相手を勝手に探し始めた女――篠原優子に声を掛けた。

「……そうです。あの人、もう来てる?」

「御来店しています。毎回、角の席を好んで選んでいらっしゃるので、奥に進んでいただければ、見つかるかと思います」

「……いつもって?」

「あの方は常連のお客様ですから」

 そう言って微笑むと、ウエイターはカウンターの裏へ消えていった。 優子は店の奥へ進んでいった。入口からは死角になっていた場所がだんだんと姿を見せていく。全貌が見えると、そこは細長いスペースだった。テーブルは壁沿いに等間隔で三つ並べられ、皆同じく二人用の席だった。ここだけは他とは別の照明が設置されていて、天井もガラスではなくコンクリートである。

 優子の待ち合わせ相手である男は一番奥の席で読書をしていた。左手には文庫本、右手にはティーカップが持たれている。

 優子が近づくと、男は本を閉じテーブルに静かに置いた。

「来たか、優子」

 男は久しぶりに優子と会ったのにも関わらず、自然な口調で言った。優子にはそれが気に食わなかった。

「久しぶりね……。あんたと会うのは『あのとき』以来かしら」

「『あのとき』とはいつのことかな」

「白々しい口を叩かないで。アタシがそういうの嫌いだって知ってるでしょ」

 優子は木製の椅子に腰掛けながら言った。

「知ってるさ。だから訊いたんだ。君なら『あのとき』などとは言わず、『離婚したとき』と言うと思ってね」

「揚げ足を取るのがお好きなのね、イイ趣味してる。友達いるのかしら」

「私は友など作らないよ。極力、人とは関わらないことにしている。いつ人を傷つけても悲しまないように、罪悪感を感じないように、ね。……いや、これは言い過ぎかな……」

「そうやって逃げるの?」

「逃げる……? 逃げられないさ。だからせめて、新たな苦しみを背負わないようにしている」

 男はそう言って紅茶を飲み干した。

 男と優子は三年前までは夫婦であった。今日、優子がこの喫茶店に来たのは、かつての夫から直接会って話すことがある、と呼ばれたからであった。

「苦労を背負わせてすまないな」

 男は悲しげに言った。

「別に……アタシは……」

 優子が話そうとすると、先ほどのウエイターがやってきた。

「何か注文なされますか?」

「……紅茶をもう一杯もらえるかな。さっきと同じものを」

「かしこまりました。篠原様はどうしますか?」

 どうやら優子はウエイターに名前を覚えられたようだった。

「アタシも同じのでいいわ」

「わかりました、すぐにお持ちしますね」

 ウエイターはお辞儀をすると、壁の向こうに消えた。

 優子と男は、紅茶が来るまでの間、一言も話さなかった。

「苦労って何?」

 沈黙を破り、優子が言った。

「……亜美のことだ。一人で育てるのは大変だろう。金も要るしな」

「……亜美のことをあんたは苦労だと思ってたの? アタシは違う。亜美は良い子。あの子は宝物」

「…………そうか」

 そう言うと、男はテーブルの上の本に目をやった。


『日本の腐敗』 宮澤睦


「優子、亜美はどうしてる? 好きだったろ、鬼頭火山って小説家。自殺したらしいじゃないか」

 男は思い出したようにそんなことを言った。

 優子は七月の中旬頃の亜美の様子を思い返した。

 ……亜美は何をしていたかしら。

「鬼頭火山が自殺した頃は忙しそうな感じだったわ。期末テストが近いとか言ってたけれど、外にも頻繁に出てたみたいよ。鬼頭火山が何とかって、お友達と話してた気もするけど……。今は文芸部かなんかの合宿に行ってるんじゃないかしら」

「……そうか。元気ならそれでいい。今日君を呼んだのは、実は亜美のことに関して、これとは別に話さなければならないことがあったからだ」

 男は唐突に本題に入った。

「何?」

 優子が尋ねると、男は黙り込んだ。悪夢を見た後のような青ざめた顔で自分の腕を凝視している。

「どうしたの? 大丈夫?」

 優子は心配そうに男の顔を覗き込んだ。

「亜美は私の子だ……」

「……何よ、いきなり」

「そして、君の子だ……」

「……そうよ」

「だが私には亜美を救う力はない。君が亜美を導くしかない」

「どういう意味?」

 優子は、深刻な表情の男に僅かに恐怖を感じた。男の言葉が、予言のように聴こえる。

「……私の娘であるという事実が、いつの日か亜美を苦しめるかもしれない」

「……どうして?」

「亜美は罪の芽を持っている。私が植え付けてしまった。あの子は私の過ちの残響を抱えている」

「何よそれ。ちゃんと説明して」

「説明しても君は何も出来ない。かえって苦悩を呼ぶだけだ。ただ、もしそんな日が来たら、君が亜美を支えてほしい。それを言いたかっただけだよ」

 男はそう言って、瞼を閉じた。

「怖いこと……言わないでよ……」

 優子は言い知れぬ恐れに身を震わせた。

「すまない。何も起こらないことを、切に願っている……」

「へ……変なこと言わないで!」

 ガシャンッ!!

 優子は堪えかねて椅子から立ち上がった。紅茶の入ったティーカップが床で砕け散る。

 優子は「さよなら」と一言吐き捨てて、席を去った。

 途中で、ティーカップの割れる音を聞いてやって来たウエイターとすれ違った。「お帰りですか?」というウエイターの声が背後で冷ややかに響く。

 ドアのベルの、乾いた音と共に、優子は喫茶「パンドラ」を後にした。



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