月光と野獣
‐1‐
夜の道に足音が響いた。
ザッザッザッ……。
黒の上下に、黒い帽子。さらに、膝下まである黒のロングコートを羽織った神屋聖孝は、まるで中世の黒魔道士を連想させる。
それにしても静かな住宅街だった。
まだ夜の七時半であるにも関わらず、神屋は、まだ人っ子一人通らないこの住宅街を不思議に思っていた。
しばらく歩き続けると、大通りに出た。車通りが激しく、人通りも多い。
先程まで歩いていた住宅街が、まるで別世界に思える。神屋は振り返った。やはり、住宅街からは何の騒音も聞こえてこない。唯一、意識した音は、自分の足音と虫の音くらいであった。
向き直ると、目の前には男が立っていた。暗闇の中、ジッと神屋をうかがっていた。妙な威圧感がある。男は、神屋よりも背が高く、月光に照らされた盛り上がった腕の筋肉は、凶悪な暴を直感させる。真っ黒のズボンに真っ黒のタンクトップ。そして、銀色に輝く十字架の首飾りに、綺麗に整えられたオールバックヘアー、何より目立つのは、右目の縦に刻まれた不治の切り傷。強大な暴を匂わせるこの男を、神屋は知っていた。
「今晩は、上条誠也」
上条は軽く笑ったあと、神屋に付いてきて欲しい所があると伝えた。
「どこへ行くんだい?」
神屋は満月を見ながら、隣を歩く上条に尋ねた。上条は、逆に質問した。
「何故、気になる?」
神屋は答えず、上条の足音を立てない特徴的な歩き方を観察し、黙っていた。上条はさらに続けた。
「わかることだ……。わざわざ、聞くほどのことでもない。違うか?」
上条と神屋はおよそ二十分余り歩いて、目的地に到着した。上条は、夏なのに何故羽織っているのかと神屋を何度も疑った。神屋は、暑くないのだと聞かれる度に応えた。
上条と神屋は、聖蘭第一女子高等学校へと侵入した。
テニスコートからは、まだ部活をする女子生徒の蒼い声が響いた。
「ここにターゲットがいるのかい?」
神屋の質問に、上条は黙って頷いた。校舎に潜入し、教員に見つからないようにある場所を目指す。
夜の廊下は暗かった。
二年五組の前で、上条は立ち止まった。
「ここ?」
「ああ……」
上条は、ガラガラとドアを開いた。中には、女子生徒が一人いるだけだった。女子生徒は、入ってきた怪しげな二人組を一瞥すると、興味なさげに携帯画面に目を戻した。
「あの娘?」
「……違うな」
女子生徒は、自分のことを言われているとに気付いたが、敢えて顔を上げなかった。
「普通は、この時間には帰っちゃうんじゃないかな? 帰宅部なら……」
神屋は、壁に貼られた掲示物を横目に呟いた。
上条は、座って携帯をいじる女子生徒に話しかけた。
「平沼凛を知ってるか?」
女子生徒は携帯をいじるだけで、上条の言葉に反応する様子を見せなかった。
「おい」
上条は女子生徒に近付いた。すると、女子生徒は携帯から目を離し、上条を上目遣いで睨んだ。
「平沼凛って知らないか?」
上条は、もう一度聞いた。
数秒の間を置いて、女子生徒は「知ってるけど何」と言った。
上条が、平沼はどこにいるかと尋ねると、女子生徒は、今は職員室にいるがそのうち戻ってくるなどと応えた。
「ここで待つわけね……」
神屋は、溜め息をつき、机に腰を下ろした。
十分待っても平沼が現れないため、上条は、もう一度、女子生徒に聞いた。女子生徒は、待っていれば来ると言った。
さらに十分待ったが、平沼は現れなかった。神屋は、教室で偶然見つけた将棋盤を手に、
「一局どう?」
と上条を誘った。
パチパチパチ……。
静かに将棋は始まった。上条が駒を置いた次の瞬間、神屋も駒を置くわけだが、神屋が駒を置いた次の瞬間には、上条も駒を置いていた。あたかも、初めから打つ手は決まっていたかのように……。
百手も指すと、上条の手が止まった。上条もかなりのやり手だが、所詮、神屋には及ばないということだろうか。
女子生徒は、横目でその戦いを眺めては、携帯をいじった。
「……神屋、また腕を上げたな」
「そうかい? 将棋よりチェスが本場なんだけどね」
「しかし……、甘いな、お前も」
「え?」
上条は、神屋の予期しないマスに駒を置いた。神屋は、一瞬だけ止まった手をすぐに動かし、駒を置いた。
パチパチパチパチ……。
「びっくりしたよ。絶対にアソコは銀だと思ったよ」
「ああ、だからこそ、角を捨てて、金を得た」
「…………損しただけじゃないかい?」
「どうかな」
上条は、王の前に金を置いた。神屋は、その金の守りを破壊するため、飛車と角のコンビネーション攻撃を企んだ。
「どうやって回避する? この大砲。受けたら、致命傷だ」
上条は、手を止めて考えていた。
「確かにな、だが……」
またも上条は、神屋の予期せぬ所に駒を置いた。神屋は、さらに大砲の威力を増すため、飛車の前に香車を置いた。次で詰む手である。
「やっぱり、アソコで角を犠牲にしたのは大きかった……。僕の勝ちだ」
「…………」
上条は、無表情で投了した。
「……何故、あんな悪手を? わかっていたはず、アソコは銀を打つべきだと」
上条は、神屋の顔を覗き込んだ。そして、こう言った。
「神屋、最強の力とは何だ」
神屋は、黙って上条の言葉を待った。
上条は、薄ら笑いを浮かべながら語り始めた。
「如何に……、頭がよく、数学ができようとも、将棋ができようとも、そう、たとえチェスができようともだ……、かなわないんだよ。あるひとつの力には」
神屋は、上条が言わんとしていることを知っていた。
「暴力には」
そう言うと、上条は笑い出した。神屋も笑った。「確かにそうだ」と言って笑った。
「俺に暴力で勝れる人間などいないだろう、ククク」
「……フ、そうは、ね」
「ククク、ククク……」
女子生徒が立ち上がり、二人に近づいてきた。
「凛に何の用?」
怪しげな目で、二人を見据える。
上条は、思い出したように言う。
「あの女、いつになったら来るんだ?」
「質問に答えて」
神屋が女子生徒を見上げる。
「ちょっと、彼女に話があるんだ。別に危ない連中じゃあないよ」
神屋は笑顔で言ったが、女子生徒の不信感は拭えない。
……暴力がどうとか言うから、怪しまれてしまった。上条、君のせいだぞ。
神屋は、視線だけで上条に訴えた。
上条は立ち上がり、女子生徒を諭すような論調で話し始めた。
「大丈夫。俺と平沼は知り合いだから……何も怪しむことはないよ」
「知り合い? 信じらんない」
「人を見た目で判断するのは、良くないな」
「…………大体、あんたら、どうせ無断侵入でしょ? 普通なら警察呼ぶよ。ここ、女子校だし……、怪しすぎ」
「よく喋るな。この俺に対して、文句とは……、笑えるぜ」
「わっけわかんない」
女子生徒は教室を出て行こうとした。
「ちょっと待って!」
神屋が呼び止める。
「何?」
「取引しよう」
「はあ?」
神屋は立ち上がり、徐々に女子生徒に近付きながら、
「僕たちのことを放っておいてくれないなら、考えがある」
「……何なの?? 考え?」
「僕たちはただ、平沼さんと話したいだけなんだ。できれば邪魔されたくない。もし、君が勝ったら、大人しく帰るよ」
「……勝負って?」
神屋は振り向いて、それを指差し言った。
「ちょうどあそこに将棋盤が出しっぱなしだ。どうだい? 将棋でも……、ルール知ってる?」
上条はそれを聞いて笑った。お前に勝てる奴などいるわけないだろう、ましてや、そんな小娘など……、という呆れた意味合いも含まれていた。
「ダメかな……、ルールがわからないなら、別の方法で……」
「本当に、負けたら?」
「ん? ああ、帰るよ。将棋できるの?」
女子生徒の口元が、僅かに緩んだ。
「まぁ……そっちには強そうな人もいるみたいだし、こっちは約束破られてもどうにもできないんだけどね……、どうせ負けても帰らないでしょ?」
「いや、僕は帰るよ。上条はどうだかわからないけど……」
神屋は上条を一瞥した。
「やっぱね。あのさ……取引内容を変えたいんだけど」
女子生徒は、何かを企んでそうな笑顔で言った。
「何か企んでそうな顔だね……。言ってみてよ」
一呼吸置いて、女子生徒は言い放った。
「もしアンタが勝ったら、言う通りにほっといてあげる。けど負けたら、正体を暴露してもらう」
神屋は、相変わらずの無表情で、女子生徒の意表を突いた。
「……正体? 何のことだい?」
「ハハ、誰だって感じ取れるってば。アンタらが普通じゃないことくらい」
「……何を言ってるんだい? …………正体なんて、隠すまでもない」
「え……」
「僕たちは、王里神会だよ」
「……なっ」
女子生徒は、驚愕の表情を浮かべた。
‐2‐
神屋の言葉を聞き、女子生徒は驚愕した。思わず一歩下がった。
「王里……神会」
「もしかして、その反応、知ってるのかな」
「王里神会!?」
「……うん」
「…………知ってる」
「もしかして、入信希望者?」
「いや、違うけど。……あの、もしかして、悪いことしてるっていう、あの??」
「……ああ、確かに、週刊誌とかだと悪く言われてたりするかな、割と」
「へー、本物なんだ」
さっきまで怪しんでいた表情の女子生徒だったが、徐々に好奇心が湧いたかのような活気さえ感じさせる顔つきになっていった。
「で? その王里神会の二人組が、凛に何の用? もしかしてただの宗教勧誘とか?」
女子生徒は面白そうに聞いたが、「その通りだよ」という神屋の平坦すぎる答えに興をそがれてしまった。
「ふーん、ま、いいや」
「ん?」
「嘘は言ってなさそうだし、ほっといてあげる」
「そうか」
「でも……」
「ん?」
「怪しいっちゃ怪しいんだよね、やっぱ」
「…………」
「そーね~、これも何かの縁かな。勝負しよっ。将棋」
「え」
「いいでしょ」
女子生徒は、将棋盤の置かれた机の前に座った。あとから神屋も席に着いた。
「学校の教室まで宗教勧誘に来ちゃった人と将棋しちゃうとか、ネタにできるよ」
そう言って、女子生徒は笑った。
「ハハ……僕はネタの為に一局打つのか」
自嘲気味に笑った神屋を見て、小さく笑った上条を神屋は見逃さなかった。
「ネタの為? 実質的にはそんなんじゃないよ」
女子生徒は、駒を並べながら言う。
「あんたが負けたら、王里神会が何を企んでいるのか……、本当のトコロ、教えてよね」
「…………いいよ」
駒が並べ終わった。
「約束だからね。負けたら、洗いざらい吐いてよ」
女子生徒は、念を押すように言った。
「王里神会が何をしているか……それは勿論、入信した者にしか教えられない。そもそも、宗教勧誘の時点で、その活動内容の全容は明かしてはならないと決まっているし、裏があるかのようなほのめかしも禁止されている。ただ、僕は嘘が嫌いだ。見知らぬ、しかも今日会ったばかりの人間、つまり君にでさえ嘘はつきたくない。たがら、僕はこれだけは約束しよう。もし僕が負けたら、話してあげるよ、裏の部分を」
話し終えると、神屋は女子生徒を見つめた。
女子生徒は、視線を盤上に逸らし、
「なかなかいい男みたいね、立派立派」
と笑った。
「へっ! 教祖がこの会話を聞いてたら、お前の首は飛んでるぜ」
上条がニヤニヤしながら皮肉を言った。
「そうだろうな。だけど、僕は君を信頼している。君も僕を信頼している。そうだろ? それに、万が一にも、僕は負けないよ」
「はは、参った参った」
上条は、お手上げのポーズをとって、教室から出て行った。トイレにでも行きたくなったのだろうか。
「それにしても、大した自信だね」
女子生徒は、パチンと駒を鳴らした。
「まぁね。自信ならあるさ」
神屋も、駒を動かす。
戦いは始まった。
「どのくらいの自信?」
「そうだね、僕に勝てるのは日本に数人いるかいないかってとこかな。……それよりさ、王里神会について知りたいなら、入信しちゃえばいいのに。まぁ、単なる興味本位だろうから、押し付けはしないけどね」
「アハハ」
パチパチパチパチ……。
「打つの速いね」
「よく言われるよ。君もかなり速い方だと思うけどね、僕は」
戦いの展開は早かった。まだ神屋の陣形に守りが作れていない隙に、女子生徒は一気に攻めにかかった。
……強引だな。しかし、その割には謙虚な誠実さも読み取れる。
将棋を打ちながら、神屋は女子生徒の性格を分析していた。チェスを打つときも同様だった。一挙一動に対しての反応で、その人間の本質を見抜くというその洞察行為は、もはや彼にとっては癖そのものであった。勿論、自身の腕にに相当の自信があると、彼は自負しているからこそできる芸当なのだが。
「なかなか打つ。どこで将棋を覚えたんだい?」
「あのさ、ずっと気になってたんだけど、その胡散臭い喋り方は何なの? キャラ作り?」
「…………」
「アハハ、でも、似合ってるかも。その方が。だって、宗教勧誘員だもんね、怪しいもんね」
「…………ん、へえ、右四間か。というか、君、かなり強いね」
「どうも、でもお互い様」
「そうみたいだね」
パチン。
「あっ」
「甘いよ。十二手前の銀成りが悪手だった。残念だが……」
「なんちゃってね」
「ん?」
女子生徒は、意表を突いてやらんとばかりの、強引すぎる捨て身の角成りに打って出た。
「その手も悪手じゃないかな」
神屋は、冷静にそれを受けた。だが、天才的な神屋であるからこそ、それに気付いてしまった。
………………しまっ……!!
「残念。狙いは、こっちの飛車のカウンター。手遅れね」
女子生徒は、相手の歩を飛車成りと同時に頂いた。その飛車を銀で取ることはできるが、それをやってしまうと、角成りが王の首元をえぐり取りにやってくる。どっちつかずの状態。初めて神屋の手が止まった。
「どうしたの? さっきまでの勢いは」
女子生徒は顔をニヤつかせている。
「ちょっと見くびり過ぎたのが敗因じゃない? 悪手っぽい手を連続で打たれて、気がほんのちょっと緩んだってとこ? 強過ぎるってのも考えもんね」
「……うそだろ。僕が……、こんな……」
神屋は、これからどう足掻いても、目の前の女子生徒に勝てはしないことを知ったとき、「投了だよ」と小さく呟いた。
神屋は、目の前でニコニコしている女子生徒を改めて一見した。髪は金色に染められ、顔はかなり可愛らしく整っている。スカートはかなり短く、とても生活態度の良い学生だとは思えない。そんな小娘に、自分は負けた……。神屋は、自分が負けたことに対し、次元を超えた疑問さえ感じていた。まさか、こんなことはあるはずがないと、彼は困惑した。突きつけられた事実が信じようにも信じられない。
一体……、
「……何者だ? 君は……」
……将棋でこの僕を……、初めから、見透かしていただと。
落としていた目を、神屋はもう一度上げた。神屋は、余りに久しぶりに味わう得体の知れない感覚にただただ身を任せていた。
「……名前は?」
女子生徒は、笑顔で言い放った。
「うちは佐藤静枝、十七の女子高生でぇーす!!」
聖蘭第一女子高等学校の化学を教える教師は、皆、頭が堅い。職員室で平沼凛を三十分近く説教していた金谷も、その内の一人である。
ようやく終わった提出物を巡る論争に、平沼凛は過度のストレスを感じていた。
……あのハゲめ。
浮かない表情で廊下を歩く凛の目が、突如、一瞬だけ捉えたのは、背後で蠢く影であった。
……だれ!?
凛は振り返った。
廊下の奥の暗がりから、ゆっくりと足音を立てて、凛に近付く影があった。
背が高い。身体が大きい。
凛は、その輪郭に見覚えがあった。凛は自然と、それが誰だか感覚的に理解していた。
かつての面影が、ついに月明かりに照らされたその顔に見て取れた。
……誠也。
言葉が出てこない。思わず、顔をうつむけた。
上条は、無表情に凛を見つめていた。凛は、少しするとうつむけていた顔を力無く上げて、野獣と目を合わせた。思い出が脳裏を巡る。野獣の片方の目は、未だ開くことはない。
もう開かない、その右目……。
「凛か」
その声は、あまりにも平坦としていた。感情の一切が読み取ることの容易ではない声……、たが、そのような声を上条が発するからこそ、凛は余計に苦しくなった。
「……何で、ここに……?」
「少し話があるんだ」
凛は、上条に施され屋上へと同行した。
空は星がきらめき、月明かりが異様に明るかった。その淡い光に照らされた上条は、まるでくすぶっている野獣のようだ。まだ、一度は燃えた恋の炎を、自らの手で消せないでいるかのような……、しかし、その恋が実らないことを野獣は知っていた。
「久しぶりだな」
上条の声は至って平坦だった。上条は、自分の置かれた状況について簡単に説明しだした。凛は、区切りのいい所で「うん、うん」と頷いた。依然として、その表情は暗かった。
「宗教の勧誘にきたわけ?」
久しぶりの再開の理由がそれなら落胆だ、といった意味合いの含まれた聞き方だった。
「お前に会う理由が欲しかっただけだ」
上条は、暗い街を眺めてそう言った。上条の左目には、何が映っているのか、それは彼にしか知りようがない。
「……今さら何の用?」
凛の顔は暗かった。
「さっきも話したよな……、俺は、革命を起こすであろう集団に属している。もう引き返せない道を、歩いている」
「…………」
「革命は近い」
「あたしに何の関係があるの? そんな危なそうな宗教なんか、入らないからね……」
上条は振り向いた。
「俺は、正直に言って、まだ心の折り合いがついていない」
上条は、凛に向かって歩き始めた。
「今さら、寄りを戻せなどとは言わない」
凛のすぐ目の前で立ち止まった。
「ただ……、俺は……」
「…………」
「……俺……は……」
「もう……いいよ」
凛は、痛みに耐える表情を浮かべて、そう言った。
上条に背を向けて、歩いて行ってしまった。
一人、残された野獣は空を見上げた。そして、ふと視線を下に落とすと、月明かりに照らされた己の影を見て、憐れみを密かに想ったのだった。