追憶の先の君
‐1‐
暁は、壁にかかった時計の長針を目で追った。亜美のか細い腕の人差し指は、依然として斜め上の暁の顔を差している。長針が真上を示したとき、暁は冷ややかに呟いた。
「金儲け……ね……」
「そ。楽しそうでしょー」
亜美の顔は少女マンガのキャラクターのように輝かしかった。暁の顔はというと完全にピッコロ大魔王である。
「バイトの勧誘か? 悪いが亜美、俺はあのふわふわした感じが苦手なんだよ。バイトイコール雑用みたいなところあるだろ?」
「違う、そんな正当な方法じゃないよ」
「なるほど。十月の文化祭のバザーをやるから手伝えって訳か? 言っておくが俺は肉体労働には向いてないんだ。売るものも無いしな」
「違う違う。だからそんな正当な話じゃないって。そもそもアレはボランティア。私たちが稼いでも全部カンボジアに行っちゃうもん」
「亜美、薬は駄目だぞ。人間を駄目にするんだ、絶対やるなよ」
「馬鹿なの?」
「………………。亜美、詐欺は……」
「お馬鹿さん?」
「…………はい」
くだらないやりとりをしている内に暁は完全に、亜美の「謎の金儲け」を断る手立てを失った。しかし、バイトでもバザーの類でもないとなると、なにやら怪しい雰囲気がある。
面倒なことになりそうだ……。
暁がそんなことを思っている間に、亜美は携帯電話をどこからか取り出していた。画面に見入ってなにやら操作をしている。
「ちょっと待っててね」
「話が見えない……」
「あった!!」
どうやら亜美は携帯電話でウェブサイトを探していたようである。
「これを見て」
暁は亜美から携帯電話を受け取ると、画面に目を落とした。
「何だ、これは……」
そこには、予想もしなかった内容が表示されていた。
○第5回 NEW GENERATION NET 文学賞
●応募要項のお知らせ●
対象:未発表の自作小説。ジャンルは問わない。
テーマ:「人間」
原稿規定:文字数‐6000~8000字。
応募資格:15歳以上30歳以下のアマチュアに限る。
応募受付開始:2009年8月20日
応募締切:2009年9月20日
賞と賞金:
・NEW GENERATION NET賞1名 賞金50万円
・選考委員特別賞1名 賞金50万円
・ノミネート作品中、特に優秀な作品3作品に優秀賞 賞金10万円
選考方法:
・NEW GENERATION NET賞は、応募された作品のなかから、10作品(予定)を選考委員会が選出してノミネートします。ノミネート作品をこの特集上で公開し、一般のお客様からの投票によりNEW GENERATION NET賞を決定します。
・選考委員特別賞は選考委員の鬼頭火山さん一名により決定します。
*選考委員は斉藤征二さんに変更となりました
発表:2009年9月30日正午
主催:NEW GENERATION NET
*入賞した5作品は小説雑誌「サイン」に掲載されます。
暁は呆れた表情で顔を上げた。変な汗がそこらじゅうから出ている。
これを見せられたって事はまさか…………。
亜美は顔をぐっと近づけて暁に言う。
「どう?」
「まさか、応募しようって訳じゃないよな?」
「すごーい。何で分かったの?」
亜美はわざとらしく言った。
「棒読みだぞ」
「賞金は山分けよ。二十五万円、何に使う!?」
「待て。ニュージェネレーションネットって言えば、最近若者に流行ってる検索サイトの管理会社だろ? かなりの人数が応募するはずだ。下手すりゃ、学校単位で応募するようなとこもあるかもしれない。俺や亜美が通用するのか?」
「応募総数は例年通りなら大体二千弱。そこまで多いわけじゃないよ、ネット限定だからね。それにあたしと暁がそれぞれ出すんじゃないの」
「は? どうゆうこと?」
「二人で一つ。暁がストーリー、あたしが文章。これなら弱点は補える」
亜美は自信を持っていた。今までにないくらいに。
「なあ…………また、ろくなことにならないぞ。去年は散々だったじゃないか。お前は戦うことすら許されなかった……」
暁は思い出していた。去年の事件。忘れていたあの事件。
「今度は……あたしたちが勝つ。リベンジしなきゃ気が済まないじゃん」
「あのなぁ、勝算はあんのかよ」
そもそも、ここでは「勝つ」という概念そのものが比喩的であるのだが。
「暁は犯人とかすぐに当てるでしょ。それって作る側に立てば予想の裏をつけるってことでしょ? それにあたしは暁も知ってる通り、国語だけは大得意だし、小説で賞貰ったこともある。プロなしのコンクールなら、狙えなくは無い」
亜美は真剣な表情で言った。
外の世界では太陽が沈み始めている。
「…………もう小説はやらないって決めたろ」
「分かってるよ……暁。でも、暁はあんな終わり方で良いの? 本当にそれで……良いの?」
亜美は強い瞳で暁を見ている。吸い込まれそうな程に澄んでいる瞳。
暁は亜美のその瞳で見つめられて、頼みを断ったことは無かった。
ああ……。俺、あの瞳に弱いんだよな…………。
「……亜美」
「……何?」
「来月の雑誌に、お前の名前を載せるぞ」
暁はそらしていた目線を亜美に向けた。
「…………やったぁ!! ふふ、そうこなくっちゃね」
亜美は満面の笑みを浮かべた。窓から差し込む夕陽に、似合う笑顔だった。
やっぱり俺は弱いなぁ、こいつに。
「いつまでにプロットを渡せばいい?」
「そうだなぁ……あたしは内容さえしっかりしてれば九月入ってからでも全然平気かな」
「ふうん……じゃあ遅くとも九月の初めまでには渡すよ。といっても亜美、どちらかに一任するよりか、ちょくちょく話し合った方が良いよな?」
「そうね。普通は話と文を分けたらアウトだからね、漫画じゃあるまいし。でもあたし、ストーリーは基本作れないから、暁とうまく協力しなきゃ」
亜美は窓の外を見ながら言った。窓の向こうではひぐらしが大声で鳴いていた。
「ああ、そうだな」
暁は自分に課せられた役割に底知れないスリルを感じていた。だらけた生活を正す良い機会だ。どうせやるなら、ノミネートくらいは狙ってやる。
「まあ、時間はあるからゆっくりやっていいよ。それより今は……」
「ん? 今は……何だ?」
「いよいよ明後日だね、八月九日」
「何かあるのか?」
「な・つ・ま・つ・り」
「ああ、そういや明後日だったか、祭り」
夏祭りの存在は記憶していたが、日にちに関してはすっかり忘れていた。
「暁君には今回、あたしが同伴してあげます」
「は?」
「祭りの楽しさを忘れてしまった可哀想な君には、あたしみたいな祭女が付いてかないと浮きまくっちゃうからね!!」
亜美は祭女らしい。
「……なんか俺、お前に振り回されてないか?」
「暁はチェスの駒で言うならならポーンだからねー」
「捨て駒かよ! じゃあお前は何なんだよ。クイーンとか? いや、キングか?」
「プレイヤーよ。あたし、チェスはすごく強いんだから」
「………………」
次元が違った。
「あたしと行くの嫌?」
あ然としていた暁に亜美が聞いた。
「……いや、俺には一緒に夏祭りに行く相手なんて、お前くらいしかいないよ。亜美が誘わなきゃ俺は家でゲームしてるとこだ」
「竜司君は?」
「アイツは祭には絶対行かない。俺と違って誘われても動かないタイプなんだ」
「ふーん。あの人もなかなかの変わり者よね」
亜美は、真顔で言った。どうやら自分も変わり者だということに気付いていないようだ。
「それじゃ、そろそろあたし帰るね。遊び過ぎて疲れちゃったし」
「ああ。祭に関しては後でメールしてくれ。待ち合わせ時間とか色々」
「了解!」
亜美は一回伸びをして、部屋から去っていった。
室内に再び静寂が戻ってきた。暁はその場に横たわった。頭は冴えていたが、体は疲れていた。久しぶりに会った亜美にエナジードレインされた感じだ。
暁は無理矢理に瞼を閉じた。ひぐらしの声が聴こえなくなるまで。
‐2‐
俺は放課後の教室で腕時計の時間合わせをしていた。教室にはまだまだたくさんの人が残っていたが、今日は竜司は居ないようだ。
「暇だな……」
「あっ、居た!! 暁、今日約束してたでしょ!!」
教室の前には腕を組んで俺を睨みつける篠原亜美の姿があった。
「あー……ヤベ。すっかり忘れてたな」
「出会ってからまだ一週間!! 少しくらい気を使いなさいよ!」
「友達なんだから気を使わないでいいって、3日前に聞いた気がするんだけど」
「……へそ曲がり!!」
約束をすっぽかして、時計いじりに勤しんでいた俺は、篠原に無理やり教室から連れ出された。
「暁って小説好き?」
廊下を歩きながら、篠原は唐突に尋ねる
「まあな」
「ジャンルは?」
「推理もの」
「ホント!? じゃあ、鬼頭火山って小説家知ってる?」
「代表作の『楽園』と『知恵の実』は読んだ」
「やるね~、その二つをチョイスするとは」
篠原は、小説が好きなのだろう。声が弾んでいる。
それにしても、放課後に会う約束をしていたが、何をするかは聞いていなかった。
「なあ篠原、オレはどこに連行されるんだ?」
「まだ言ってなかったっけ?? さあて、どこだろうねー」
「…………」
元気だなぁ、コイツ。俺とは…………違う。
「着いたよ」
目の前にはかなり広い部屋があり、十人程の人数が集まっていた。
確か、ここは……。
「ここって文芸部の教室じゃ…………」
「ようこそ、我が文芸部へ!!」
午後九時、浅い眠りから目覚めた暁は忠実に再現された夢の残像にしばらくの間、脳内を支配された様であった。
数刻前まで亜美と話していた影響か、亜美の夢を見ていた。
それは懐かしい夢であった。懐かしいというのは、昔に見た夢を再度見たというわけではなく、懐かしい情報が反映された夢であった、ということである。
暁は、まだ完全に覚醒していない意識の中で、静かに追憶した。
月代学園文芸部に暁が何故か入部することになったのは、高校一年生の六月だった。
思い返せば、四六時中ぼんやりと空を眺めていた暁が、最初に亜美に翻弄されたのはあのときだったのかもしれない。なにしろ、無理やり部長に挨拶をさせられ、入部届けを書かされ、動揺している間にいつの間にか文芸部員になっていたのだから。
ちなみに、その日暁が亜美に連れ出された後、教室でも小さな騒ぎが起きていた。他クラスでありながら既に有名で、人気者であった亜美と、地味で孤独な暁がどんな関係なのかという疑問が教室中で話題になり、Eメールという、無機質なネットワークを通じてその日の内に学年中に広まったのだ(もちろん、尾ひれをつけて)。
暁自身、後ほどクラスメートに聞いて初めて知ったことであるが、その日まで彼のあだ名は「空気君」であったらしい。だが、亜美の登場により暁はひと月程の間、ワイドショーな男になっていた為、晴れて「空気君」は同じくらい地味であった竜司に継承されることになる。もっとも、竜司もまた後に、定期テストで学年一位を獲ったことで「空気君」の名を払うことに成功するのだが。
暁が妙な時期に入部した一方、亜美は暁と違い、月代学園に入学した後すぐに文芸部に入部した。中学生の頃から亜美は幾度となく賞を取っていた。作文では五回以上、小説はコンクールに三回参加し、その内の二回が入賞している。
亜美の学力は総合的に考えれば暁より劣るが、国語、中でも現代文では学園内でも比較的高い能力を持っている。そして、さらに範囲を小論文などの作文形式のものに絞れば、あの佐藤静枝に並ぶ天才かもしれない。
しかし、昨年の秋、実力者である亜美と彼女曰わく読み手の裏を取る才能がある暁が、本来活躍できる舞台であるはずの文芸部を辞めることとなる事件が発生する。
『文芸部集団自爆テロ』と面白がって呼んでいたのは亜美自身だったはずである。わざと奇抜な名前を付けた事で、当時は学園内でも大事件として浸透していった。それが結果として伝統ある文芸部を弱小同好会レベルにまで陥れたのである。
事件は年に一度開催される関東最大の文芸コンクールの入賞作品発表日に、暁と亜美が退部したことに始まる。
コンクールに出場する権利を持つのは文芸部員五十二名中で、夏休みに仕上げた作品が部内投票で上位十作品に選ばれた部員だけであった。事前の投票で暁は二十六位、亜美は三位に選ばれ、見事亜美はコンクール出場の権利を手にした。
……はずだった。
しかし、亜美がコンクールに作品を出品さえされていなかったことが分かったのはコンクール入賞者の結果発表の日の放課後であった。
文芸部顧問の高村が文芸部員を全員集め、結果を発表した。
『今回は三年生のみの参加でしたが、残念ながら全員が落選してしまいました』
高村は確かに「三年生のみ」と言った。一年生の亜美が出場しているはずなのに……。そもそも、十作品の内半分は二年生が占めていたはずである。
この不可解な事件の原因はすぐに判明した。それは三年生による出場作品のすり替えであった。高校最後のコンクールで校内投票落ちしてしまった三年生の生徒が、焦燥感と悔しさが故にグルになって不正を行ったのだ。
本来、顧問の高村と部長が居る限りそんな不正はまかり通るものではない。しかし、高村は学園の教師不足の為に、吹奏楽部、演劇部、文芸部の兼任顧問をしていたのでコンクール出場作品の決定に関しては部長に一任していたのだ。そして、肝心な部長は事件の実行犯の一人であった。
この不正が発覚したことで、文学部は被害者側の二年生と亜美を擁護するグループと、不正を働いた三年生を擁護するグループとに分裂し、対立を始めた。そして亜美は、高村が騒ぎを処理仕切れなくなりかけたところで、やむなくカードを切った。
『不正をしたのに謝らない、解り合おうとしない。あたしがここにいる意味はありません』
そう言い放ち、亜美はその場で退部届を書き始めた。亜美が退部するならば、暁が残る理由も無く、暁もまた退部届をその場で書いた。
もちろん、亜美には高村の説得が入った(暁はすんなり退部できたのだが)。 しかし、亜美は全く意志を変えずに文芸部を退部してしまった。
その才能を認められて、期待されてきた篠原亜美の退部は、文芸部員にとって予想だにしなかった展開であった。
そして翌日、亜美の行動に触発された被害者擁護グループは亜美の退部に習い、次々に退部していった。その数は四十人にもなった。
この騒ぎは学園中に広まり、亜美はクラスメートや友人からの説明の要望に対して、例の『文芸部集団自爆テロ』の名前を出した。そして急速に学園中に文芸部の悪名が轟く羽目となった。
亜美がどこまで計算していたかは不明であるが、「自爆テロ」と言っていた以上、部員の自主退部という犠牲を払うことと三年生の引退により部員の不足が起こることまで予測していたのかもしれない。おかげで月代学園では文芸部というメジャーな部が異例の同好会への格下げを余儀なくされることとなった。
と、ここまでは亜美による復讐劇の様であるが、実際にはそこまで双方が傷ついたわけではなかった。
亜美は退部後、しばらくして「推理小説同好会」を作り上げ、そこに暁を含む自主退部した生徒を呼び込んだ。そこでは、規模は小さいが文芸部と同じ様な活動が行われた。
昨年度中には自主退部した生徒の半分程が集まり、活動は本格化してきた。そして活動が安定した時点で、亜美は推理小説同好会を脱会した。文芸部から大量の退部者を出した原因を作り、騒ぎを大きくしたから、ということで自主的に脱会したらしい。当然、暁も同様の理由で脱会した。
そして今年度の夏休み、推理小説同好会は部に昇格したはずだ。同時に文芸部を退部しなかった対立グループとの和解も済み、文芸部を吸収する形で、名称を再び「文芸部」にすることとなっている。こうして、亜美によって「文芸部」は新しい形で復活することになった。
最近でも時々、亜美は推理小説同好会に顔を出すことがあった。その度に戻って来て欲しいと、元文芸部員に頼まれていたが、亜美はその要請を全て断ってきた。その姿は後輩達に憧憬の的とされることが多い。
この一連の事件が、暁が亜美を深く理解するきっかけであり、この時から暁もまた彼女を憧憬しているのかもしれない。