脱出 ~始まりのあかつきへ~
‐1‐
――六月二十三日、火曜日。
ベッドに寝ッ転がッて、考えていたんだ。
何の為に、生きてるのかッて……
結構深刻に悩んでたんだ。
でも、今日の夕暮れは特別だ。
いつものとは違うよ。嫌なことがあって、悲観的になって、生きる意味が分からないって嘆いてた時とは違うみたいなんだ。
ずっとずっと、重要なことを考えている。
学校から帰って来て、チキンカレーを食って、ベッドに横になって考えている。薄暗い光の射し込む窓を見つめて。
……ああ、やっぱりだ。こんな静けさにこそ、永遠の幸福が、夢が、温もりが……
――待て。
これでいいのか? これでは、いつかの夕暮れの繰り返しじゃあないのか?
「……そうなのか?」
風が吹いた。カーテンが網戸に吸い寄せられるのを目の端で捉えた。
……チッ。
どうやら、いつかの繰り返しだったようだ。俺は。俺は、取り残されてしまったんだ。
日常に、置いてきぼりにされちまったんだ。
「脱出しねぇと!!」
始まった。俺の脱出劇。
‐2‐
少年、外崎暁は家を飛び出していつもの通学路を走っていた。学校までは徒歩で三十分程だ。しかし今は学校に向かっているわけではない。「脱出」を決めた以上家に居ることはただもどかしいだけだったのだ。
目指しているのは学校の先にある、今は使われていない寂れた病院だ。俺が「俺」を失った場所……そして、それよりもっと大切なモノを失った場所……俺が変わるとしたら、あの場所で以外には有り得ない。
暁は市内の私立高校に通う十六歳だ。中肉中背、特に目立つようなこともなく無難に生きてきた普通の高校生だった。両親は田舎で暮らしていて、暁はそこより少し都会のこの街で一人暮らしをしていた。バイトをしていたこともあったが今はしていない。というのも、人間嫌いの暁にとってはあの場所にいることは苦痛でしかなかったのだ。両親からの仕送りで十分に生活は出来ていた。
通学路の近くには、三軒のコンビニと喫茶店、ファミレス、本屋、デパートがあり、基本的には生活に困ることはない。
気が付くと、完全に日は落ち、辺りは暗くなっていた。夏が近づいてきたこの時期だが、風は涼しく、Tシャツ一枚だと寒く感じることもある。
暁は学校の校門の前を通り過ぎると商店街の坂道を駆け上がり人気のない裏道に入った。辺りは余計に暗くなり、風はさらに冷たくなった。十分以上も走ったので相当に息は上がっていた。
暁は病院の門の前に立っていた。何度も来たことはある。だけど、ここ数年は来ていなかった。確か最後に来たのは三年前だ。あの時は門をくぐることは出来なかった。
胃が痛みだした。……こうなると俺はもう駄目なんだ。暁はそれから一時間ほど格闘したが結局門をくぐれなかった。トラウマに打ち勝つことは出来なかった。
午後九時を過ぎた頃、暁はコンビニで買ったお茶を学校の近くの公園で飲み干した。喉が渇いて死にそうだった。
情けない自分が心底嫌だった。生きる意味なんてない。でも死ぬ勇気なんてない。こうゆう奴なんだ、俺は。馬鹿だな、最初から分かっていたのに、今日はいつもと違うとか思ったりしてさ。
病院は来年取り壊す予定だった。今日はもしかしたら最後のチャンスだったのかもしれない。それとも、もう来るなってことかな……。
ベンチに寝そべって目を閉じた。…………………………最悪だ。
‐3‐
絶望に浸り、闇に溶け込もうとしていた暁を誰かの声が引き戻した。
「暁? 何してんの?」
起き上がると目の前には篠原亜美がいた。視覚で確認するのに数秒かかったが、そもそも女子で俺に話し掛けてくるやつは亜美しかいない。
「何って……昼寝」
そう応えると亜美は不満そうに反論した。
「こんな遅くに公園で昼寝してるやつがどこにいんのよ?」
「いや、ここに」
亜美は呆れた顔をして、反撃の理論を組み立てているようだった。
篠原亜美は暁と同じ学校に通う十六歳、二年C組のクラスメートだ。痩せ型で背は暁より五センチほど小さい。どちらかといえば男子ウケしそうな顔立ちだ。暁の数少ない友人の一人である。
俺が人間哲学を脳内で構築……もとい、窓の外を眺めてぼーっとしてるのに興味を持ったらしく「近寄り難い奴」で名がとおっている俺に躊躇なく話し掛けてきたのがきっかけで友人になったやつだ。
「お前こそ何してんだ? こんな時間に」
「学校に忘れ物取りに行った帰り」
どうやら、反撃の理論は諦めたらしい。
亜美は唐突に尋ねた。
「『鍵穴』読んだ?」
『鍵穴』とは、先週亜美から借りた推理小説だ。
「ああ、半分位までは読んだと思う。あれって新島警部が犯人だろ」
「ええっ! なんで判ったの? ってゴメンまだ半分だっけ……」
「別にいいよ。どうせそうだと思ってたし」
「あんたって、なんで犯人当てられんの? なんかむかつく!」
亜美はかなり悔しそうだった。というのも、今回が初めてではないからである。元推理小説同好会の俺達は(亜美に無理矢理誘われ半ば強引に入会したのだが)、今でも度々推理小説を貸し借りしていて、いつも俺が犯人を当てているので、最近では俺が犯人を当てられるかの勝負になり変わっている。
「ははは。俺の唯一の特技だからな。お前は観察力がないんだよ」
「いいよ、いつか負かしてやるから。そうだ! 明日の放課後遊びに行こうよ。晋也とか誘って」
「明日……ねぇ」
そうか。また今日は終わるんだな。変わらない日のひとつとして消えていく。
「考えとく」
「何それー。うーん……まあいいや。じゃあ、明日また」
「ああ、じゃあな」
亜美は振り返ることもなく公園を去った。
暁は亜美の去る姿を見て妙なことに気付いた。あいつ、忘れ物取りに行った帰りとか言って、何も持ってないじゃんか。
亜美が来たせいで絶望に浸り損なった気がした。俺は取りあえず明日も生きることにした。「脱出」はまた後だ。まだ……まだ、時間はある。
翌朝、暁はいつもの幻想的な夢とともに始まりの日を迎えるのだった。
いきなり、日にちが解り難くて申し訳ありません!