やるべきこと
今回と次回は一人称で固定しています。
‐1‐
雨はまだ止まない。この街のことじゃない。俺の心のなかの話だ。
俺は、明後日集まってくれ、そんな内容のメールを送った。あの夜に、薄れていく思考を振り絞るようにして、震える手で、仲間たち三人に。静枝に。亜美に。竜司に。
七月十五日水曜日、昨日から俺はベッドにずっと座っていた。何も食べず、一睡もせず。
携帯電話がメールを三通受信していた。亜美、竜司、静枝からだった。明日、七月十六日の午前十時に夜光公園に集まるように、と用件だけ書いたメールに対して、理由を求める返信だ。
無視した。悪意を持ってではない。体が動かなかったのだ。今日はまず俺自身が立ち直らなきゃいけなかった。そのために作った一日だ。
あれから、涙は一滴も流していない。あのときも、俺のときもそうだった。俺に関わると命を失うんじゃないかって、訳の分からない妄想をしていた。馬鹿らしい……。
昨日は、ただ苦しかった。そう感じながら、忘れてしまいたい記憶を思い返す。
夜光公園を出たのは真実を知ってから二十分くらい経ってからだった。冷静になっていた。恐ろしいくらいに。家に帰ろうとして、荷物が病院にあるって気が付いた。
病院に入った。びしょ濡れだし、常識的に考えてこの時間に病院には入れない、普通だったら。ただ、普通でなかった。
病室には晋也がいた。ごく当たり前ではあるが……。いろんなことを聞かれた。なんて答えたか全部忘れてしまったけれど、ただ部屋を出るとき「今日はありがとな」って言われた。胸の辺りが苦しかった。それから荷物を持ってアパートに戻った。普通に服を着替えて、そして、あのメールを送信した。
今日は、七月十五日は晴れた。太陽が眩しいくらいに輝く。俺は八時間振りに、立ち上がった。 窓を開ける為だった。暑くは感じなかったが、空気が澱んでいた。変わる気がしたということもある。自分が、この絶望感が。
昨日から、やるべきことは明確だった。佐藤静枝に、彼女に全てを伝える。だけど、それだけでは無責任だ。俺が最初に立ち直って、導かなくてはいけない。一日で、たった一日で。俺がそれを諦める前に。
しかし、何も変わらなかった。決意だけでは何も。
時はただひたすら進みつづけた。時計の時針が一周回っても、気分は最悪だった。既に日は落ちて、辺りは闇に包まれていた。
携帯が鳴った。誰だろう……。あの三人の内の誰かかな。
……違った。…………公衆電話??
「…………」
俺は、迷った挙句、通話ボタンを押した。
「もしもし……」
「暁か? 俺だ。晋也だけど」
「晋也? ……ああ、病院だもんな。見つかったのか携帯使ってるとこ」
「いや、ただ充電切れただけだ。なあ暁、昨日の……」
「まだ手紙は渡せてないぞ」
「はあ? そうじゃねえよ。暁、何か話せとか、説明しろとかは言わねーけどさ、昨日のお前はおかしかった。誰が見ても……だ」
「ほっといてくれ。聞かない方がいい。今のお前にとってはな」
「だからよ、別に言う必要はねえって。ただな、よく聴けや、暁」
「……何だ?」
妙に改まった声であった。昨日も感じたが、以前の晋也とは何か違う。
「俺は死ぬかもしんねーけど、一つ決めてることがある。たとえ死にそうでも、死んだ眼はしねぇってな」
「…………」
「気持ちだけは強くいてーんだよ。ただ楽観的とは違う。最悪な展開を見ないように逃げてるんじゃない」
「何が言いたいんだ?」
「……暁。……あんまり言いたくはねーけどな。お前が下を向いたままとぼけるつもりならハッキリ言ってやるよ。同じ眼をしてるんだよ…………鳴海の時と」
鳴海……。その名を聞いたとたんに世界が歪んだ。全ての事象が反転した。直後、再び反転し、高速でそれを数十回繰り返した。
「晋也……。お前……」
次の一言が怖かった。だが、優しかった。晋也はハッキリ言ってやらなかった。善くも悪くも、この後の一言が絶望から俺を救うのだ。
「いいか、お前がもしあのときと同じ状況にいるなら、よく考えろ。お前のやるべきことをな」
…………数秒間の沈黙があった。心に深く響いた。
「…………わかった。わかったよ」
「……よし。…………じゃあまあ、落ち着いたらまたお見舞いに来てくれよな。あっ! フルーツ詰め合わせを忘れるなよっ!」
晋也はそういって受話器を置いたようだ。どうやらフルーツの詰め合わせを気に入ったらしい……。
あいつ……。勘違いしているようだった。俺が大切な誰かを失ったと、そう思ったんだろう。「やるべきことを考えろ」……か。晋也は勘違いしていたが、その言葉は当事者である静枝でなくても、俺にも当てはまるような言葉だった。
俺を変えたのは、意外にも晋也だった。俺はもっと感謝しなきゃいけないのかもしれない。そういえば、あの事件の後、最初に声を掛けてきたのはあの晋也だった。
俺は目を覚ました。俺が駄目なときに晋也がしてくれたことを、今度は俺が佐藤静枝にしてやればいい。簡単なことでは決してないけれど、それが俺の“やるべきこと”だ。
‐2‐
七月十六日木曜日、時計の秒針に起こされた。というよりかは、起きた瞬間、最初に耳に入って来たのがその音だったという方が正しい。
相変わらずの晴れ。今日ばかりはミスマッチだろう、そう文句を言いたくなった。誰だかわからない誰かに。
約束は十時だ、今が朝六時。これが彼女とデートの約束、だったら気が楽なんだが、言うまでもなく彼女はいないわけで、いや論ずるべきはそこではなく、今日やるべきことが一連の事件の真実を当事者でない者が当事者に話すというヘビーな仕事である故に気が楽でないということでだろう。
それにしても……「彼女」か。晋也の手紙を今日亜美に渡すわけであるが、今日の話を聞いた後にラブレターを渡されるのはどうなんだろうか。俺はたとえ興味があっても、あのハートのシールを丁寧に剥がし、中身を拝見するようなことは出来ない。心臓病のことは書いてあるのだろうか。俺に口止めをしなかった辺りから考えると、別に本人は気にしてないのかもしれない。
亜美はどうだろうか。静枝を支えるのは多分亜美の役目だ。人間はたった一人で立つことは出来ない。もし出来たなら、それはただの夢、すぐに覚める夢だ。なんせ、「人」の「夢」は「儚い」のだから。大切な人を失った親友と心臓病で死ぬかもわからない中で告白してきた男。亜美の負担は計り知れない。
どう思っているのだろうか。亜美は晋也のことを。……素直に応援できない自分がいた。それはつまり、俺は亜美のことが――とか、そういうことなのか?
……わかんね。大切と好きは違うような。でも好きなら大切だよな。竜司も大切な友達だが、好きとは違……って、まず次元が違うわ!!
自分でツッコミ。しかも全て心の中でだ、最悪だ。
と、ここまで自分を最大限に明るくさせてみたわけだが、俺の中ではまだ雨は上がらない。昨日が雷雨なら、今日は雨。自分を呪うような最低最悪なイメージが去っただけであって、悲しみと苦しみなんかは常に渦巻いている。
ただ、静かだった。昨日とはそこが違う。静かな悲しみ。それは対等に向かうべき相手。俺はそれが出来なかったのかもしれない。晋也は頑張ってくれたけれど。静枝もまた、それが出来ないかもしれない。でも、それは彼女の問題だ。だから願った。ただ、願ったんだ、俺は。
誰だかわからない…………誰かに。
‐3‐
午前十時、暁は夜光公園に到着した。いつかの屋根付きベンチに亜美と静枝が座っていた。竜司は二人に向かい合うように平行に並ぶもう一つのベンチに座っている。 三人共、既に到着していた。暁はゆっくりとベンチに歩み寄った。
「久しぶりだな。急に呼び出して悪かった」
暁は穏やかに言った。
「ねえ暁、いったいどうしたの? 十四日も連絡取れなかったし、昨日だって……」
亜美が心配そうに言った。暁はただすまないと思うしかなかった。
「皆に連絡しなかったのはすまなかった。ただ、それどころではなかったんだ」
「何があった? 俺たちを呼んだってことは、やはりあのことか?」
竜司は暁の方を向かずに尋ねた。
「あの日、俺は暗号を解いた。ある男の助言によってな」
「なっ!?」
暁以外の三人は驚きを隠せなかった。まさか、暗号が解けていたとは誰も予想していなかったのだ。
「うそ!? ど、どういうこと!?」
静枝は立ち上がって、驚嘆の表情を見せながら言った。
「時間も迫っていた。それに、気も逸っていた。だから……結果、俺一人が真実を知った。知って……しまった」
「知ってしまった? それって……どういう意味?」
暁は、これから言わなくてはならないことを思うと気が滅入るばかりだった。
「…………知らない方が良いかもしれない。……だけど、俺はそれを君に話すと決めたんだ」
「…………」
沈黙が続いた。暁は言い出せなかった。だけど言わなくてはいけなかった。
「話して」
静枝ははっきりとした口調で言った。
「…………」
「ウチには、知る権利がある。……覚悟はできたから」
「わかった」
暁は最初から話すつもりだった。だけど、結果として静枝の了承を得て話す形となった。
「十四日の夜のことだ――――」
静枝は泣いた。泣き続けた。夜光公園には四人の他に誰もいなかった。響いた。静枝の悲しみの声が。悲しみだった。怒りでも苦しみでもなく、深い悲しみ。
「何で? 何でそんなことしたの? おじさん……教えて……おじさん……」
暁はただ見ているしかなかった。静枝は悪いことは何もしてない。ただただ優しかった。優しさだけでいろんなことをした。大好きなおじさんのために。
「そんなことって……。何なんだよ……。俺たちが求めていたものって……」
竜司は手の平で両目を覆い隠している。
「シズ……」
亜美は涙を流しながらも、静枝を強く抱きしめた。
「君はよく頑張ったよ。その想いは伝わったと思う」
静枝には届かないかもしれない。だけど、暁はそう言った。
「…………なんにもできなかった。おじさんは苦しんでいたのに、そんなこと気が付きもせずに……」
暁は、揺るぎない決意を持っていた。このままじゃ終わらせない。こんな悲しい終わり方なんて……。
「鬼頭火山は、神崎さんは罪を犯したんだ。君はそれを一生背負わなくちゃいけない」
暁は真剣な眼差しで言った。
「……わかってる。おじさんは……人を……」
「ああ。皆が神崎さんを非難するだろう。彼は、人を何人も…」
「暁!!」
竜司が暁を止めた。聴いていられなかったのだろう。憎悪の表情さえ見せている。
「暁、テメエ!! そんなことしか言えねぇのかよ!! もっと言うことはないのかよ!!」
「……現実だ。変わらない事実」
暁は眉一つ動かさずに言った。
「テメエよ、だったら……!!」
竜司は戦闘体勢にはいっていた。
「待って……! いいんだ。言ってることは合ってる……。私のおじさんは……」
静枝は声を震わせ、想い出を思い返すように青空を見上げた。
「まだ……好きか?」
暁が呟いた。
「え……?」
静枝は亜美に抱かれながら、こちらを見た。
「『やるべきことを考えろ』、自分のやるべきことを……」
「ウチのやるべき……こと?」
「君だけは……君だけは……大好きでいてやってくれ。誰が非難しようとも、世界一残酷な言葉を浴びせられても……神崎さんのことを想っていてやってくれ。それが、君の……“やるべきこと”だ」
「………………」
「まだ……好きか? おじさんのこと」
もう一度尋ねた。静枝の出した答を、聴くために。
「……うん。だって、おじさんは……ウチの……ウチの大切な人だから!!」
静枝はそう叫んだ。泣き叫んだ。瞳に光を宿して。
「そっか。……強いんだな、君は」
暁の頬を枯れたと思っていた涙が伝った。
「大丈夫だよ、君なら立ち上がれる。もう厳しい話しは終わりなんだ。我慢しなくていい。気の済むまで……泣いていい」
暁は立ち上がると、仄かに笑みを浮かべて、静枝の肩にそっと手を置いた。
「う……うああああ」
静枝は堪えていた悲しみを解放して、それに身を任せた。
竜司は顔伏せていた。涙を隠していたのかもしれない。亜美も泣いていた。親友として……。
夜光公園に、再び悲しい泣き声が響いた。
届いただろうか、その声は……。届いただろうか、その思いは……。
空は青く、そして深かった。
今日は一人でいろいろと整理したいから、そう言って静枝は駅に入っていった。勿論、自宅に帰るためだろう。そう遠くはないと言っていたので心配はいらない。
亜美が送って行くと言ったのだが、もう大丈夫だから、と静枝は微かに笑った。大丈夫だというには少々無理があるだろう。そんな簡単に心の傷は癒えない。ただ、彼女は全てを捨てるようなことはしないだろう。少なくとも暁はそうであると思いたかった。それが暁の伝えたかったことでもあったから。
そうやって、一連の事件は結末を迎えた。
1章はあと次で最終話です!