伯林のトリックスター
‐1‐
暁は雨の中を走った。解読に至った興奮、そしてこれから何が自分に待ち受けるのか……。
打ちつける雨は痛いほどに強い。
「ハァッハァッハァッ……ハァッ」
聞こえるのは、雨の音だけ。ただ、耳の中をザァーという音が支配していた。
鬼頭火山最後の暗号は、病棟の一室にて解き明かされた。この世界でその全貌をすべて理解したのは、暁一人である。
答えは『LUMINOUS』で、意味は『夜光性の』である。そこから導ける答えはただひとつ……。
夜光公園だ。
「ハァッハァッハァッ……ハハハハ!!」
暁は雨に打たれつ走りつ、笑った。
……本当に俺がこんな大役任されていいのか? おかしくなっちまいそうだぜ。
亜美にも竜司にも、静枝にも知らせてやりたかった。暗号は解けた。もう安心しろ――と。
「……ハァ……ハァ……」
だんだんと、ペースが落ちてきた。走りっぱなしはさすがにもたない。暁は走るのをやめ歩き出した。
冷静に考えれば、手紙が置いてあるということはない。竜司の予想は間違っていたわけである。何故なら鬼頭は期限を設定したからだ。期限を過ぎれば、手紙はひとりでにどこかへゆくだろうか?
暁は立ち止まった。もうびしょ濡れであり、体の濡れていない部分はなかった。
夜光公園で待つのは、果たして冥界からの扉をこじ開けた鬼頭か――――それとも。
「…………ハァ、ハァ」
……何故だ?
「何故死んだんだ……?」
暁はまた走り出した。前から傘を差した男歩いてきた。
「なんでだ!? 鬼頭ッ」
傘を差した男はギョッとして前から走ってくる暁を見た。傘も差さず何かをわめきながら走る制服姿の暁は、端から見ればただの危険人物である。
しかし、そんなの関係ねぇ。そう呟き、暁は走るスピードを更に上げた。
「うおうおおう」
――もうすぐだ。あとちょっと。静枝ちゃん、待ってな。不条理なオジサンの死の理由は、俺が突き止める。安心しろ。俺にあんたを不条理から救い出すことはできないが、一抹の原因なら伝えることができる。
俺にもわかるんだ。なぁ佐藤さん。俺も、大切なもんを何年か前に失ったよ。そいつは親友だったよ。よく遊んだよ。でもな、死んじまいやがったんだ。あのヤロー……。
おお、見ろよ。静枝ちゃん。見えてきたぜ。見えてきたよ……夜光公園だ。
「ハァッハァッハァァア」
光輝く電灯が、今日は寂しく、雨が光を掻き消していた。
暁は夜光公園の真ん中に何かを見た。黒い影だ。
雨は一層勢いを増した。
思考することは何もない。あとは行くだけだ。
……あんたの負けだ。鬼頭火山。いや、神崎冬也。
「ハァッハァ……ハァ……」
暁は黒い影と相対した。
暁を待っていたかのように、雨が弱まりだした。どこかで鬼頭が自分を見ているような気さえする、この不思議な感覚……。
公園の電灯の逆光で顔はよく見えないが、年をとった男であるのはわかった。背は高い。一八〇近くある。
徐々に、徐々に、オレンジの光が彼の顔の輪郭を浮かび上がらせていった。
暁は唾を飲み込み、更に男との距離を詰めた。その距離は、約三メートル。
暁はまじまじとその顔を覗いた。そして気付く。
「…………!!」
暁の眼前にそびえるこの男、名は……。
「宮澤睦だ……お前はなんて名だ」
その声は高圧的で、暁は一瞬気圧された。
……宮澤睦。『鍵穴』の解説者だ。
何故こいつが?
「…………あ。外崎暁です」
心臓の音がバクバク鳴りだした。
「ふん……。暗号の答を言え」
「え? あ……る……LUMINOUS」
宮澤は暁を値踏みするように見つめたあと、もの惜しげに口を開いた。
「正解だ。よくあの暗号を解いたな……。じゃあ早速教えよう」
――――き、きた!!
暁はまたもや唾を飲み込んだ。それと同時に、宮澤の口がゆっくりと開いた。
‐2‐
「俺は鬼頭とは師弟の関係だ。あいつに物書きを教えたのは俺だ。……あいつの書く小説は日に日に精度を増し、弟子の中でも一番できたのがあいつだった。飲み込みも早く、独創的でもあった」
小雨が降る中、暁は黙って話を聞いていた。
「あいつがわけのわからんことを言い始めたのは、俺が鍵穴の解説を書き終えた直後だった」
……わけのわからんこと?
暁の興味はがぜんそそられた。
「あいつは知っての通り推理ものが得意だ。頭もキレた……。電話がかかってきて、こう言った。『もう我慢できない』ってな」
暁は聞き入る。
宮澤は一呼吸置いて話を再開した。
「あいつが好奇心旺盛なのは、あいつがぺーぺーのときから見てた俺はわかっていた。あいつ、思いついたアイデアは実際に試してみないと気が済まないタチなんだよ……」
「………………」
「あいつの作品には、いつも死人が出てくる。いつも…………素晴らしい殺し方が紹介される」
「…………!?」
…………まさか……。
「近頃この辺で複数の殺人事件が起こったろ。あれはすべて、奴の仕業だ」
暁は絶句した。
……そんな、ばかな。
「やっちまったのさ。あいつは人を殺したんだ」
暁は自分がこの話を聞いてよかったと思った。静枝が聞いたら、彼女は更にショックを受ける……。
「本当ですか……」
「ああ、だからアイツは、小説を止める決心をしたんだ。これ以上、殺しのアイデアを思い浮かべないようにってな」
「……マジ…………かよ」
暁はやりきれない思いでいっぱいになった。このことはいずれ静枝に伝えねばならない宿命に自分があることを、今更ながら後悔した。
「鬼頭は……殺人鬼だったの…………か」
「まぁ信じらんねーよな。無理はない。だが事実だ。実際あいつは、お前らとの真剣勝負を約束したあと、限界がきて一人やっちまった。その殺しの快感が新鮮だったのか、奴は自分で組み立てた殺人理論で何人も殺りやがった……。そして先日、最後の電話があった」
暁は絶望の表情で宮澤の話を聞き入っていた。
……神崎、あんたは……。
「鬼頭は、人を殺したこと、そしてガキと真剣勝負を約束したことを俺に打ち明け、あることを頼んだ」
暁は小雨の降る空を見上げ、目をつむった。
…………あんたは。
「七月十四日に、ここ夜光公園に来て欲しいと。そして暗号の答えを知る者に、全てを打ち明けてやって欲しいと……」
宮澤はそこまで言うと、長いロングコートの内側からタバコの箱を取り出して、中から一本抜き取った。
「俺の話はここまでだ。何か聞きたいことはあるか?」
暁はつむっていた目を開け、宮澤と目を合わせた。
そして、言う。
「神崎さんは……何か言い残してなかったのですか?」
宮澤は考え込むようなフリをして空を見上げた。雨足が強まってきた。
……潮時だな、鬼頭。
宮澤は雨を降らす夜の空に追悼の念を飛ばし、暁に背を向けた。
「じゃあな、こぞう。警察には言うなよ」
宮澤はそう言い残し、夜の闇へと消えていった。
暁は宮澤が消えたあとも、一人夜光公園の真ん中にたたずみ、不覚ながらも涙を流した。
それは同情の涙ではない。悲しみの涙ではない。怒りの涙ではない。
この世の不条理への捧げであった。
暁は神の存在など信じてはいない。そして神への信仰もない。だが降りしきる雨の中、暁は地に膝をつき天に向けて思いを飛ばした。
「…………願わくば……彼女が………………悲しみを乗り越え……一人で……強く……生きていけますように……神…………さま、お願いします…………神様」
雨の音だけが、妙に頭に響く夜の物語であった……――――。
読んでくださった方、ありがとうございます!
物語も終盤です。
・宮澤睦
第二の暗号が隠されていた書籍『キリストの哲学』の著者。
現在68歳のベテラン哲学者でありながら評論家でもあり、キリスト教の専門家でもある。5年前、そのキリスト教への精通の高度さから、あるネットユーザーが『キリストJapan』と有名掲示板にて打ち込んだのがきっかけで、一躍、時の人となる。
推理小説の金字塔と称された鬼頭火山の最高傑作『鍵穴』の解説をつとめた人物であり、鬼頭火山の師でもある。