病棟の白目
‐1‐
七月十三日(月)
決戦の日の前日となったが、未だに暗号が解けた者は出なかった。
それに伴い、嵐も止むことを知らなかった。
午前九時にしては暗すぎると、暁は窓の外を見やった。
土曜日の夜、確かに暁は解読へ一歩前進した感覚をつかんだ。だがそれ以上の前進は、日曜日丸々一日を浪費しても得られなかった。延々と止むことのない嵐が暁をあざ笑うかのように暴威を奮っている。それに加えてこの夏特有の脱力を催す暑さが、暁の体力と気力を奪っていった。
だが進展がない最大の理由はやはり焦りだろう。
人の死の理由やらが関わってくれば、それなりの責任感は伴ってくる。そして鬼頭の死……。死を間近にしているような気がして、暁は訳もわからず焦った。暗号に入り込めば込むほど、冥界からの鬼頭の呼び声に答えるような自分を感じてしまい、どうにも手が付けられないでいた。
とにもかくにも、もう時間がなかった。
暁はドッとした疲れを感じた。ゲームに負ける予感さえしてきた暁は、とりあえず竜司にメールをした。暗号のほうはどうだ? という気休めにもならないメール。しないほうがまだマシなメールであった。しかし、人間焦ると、パニクるものだ。暁は暗号のことは忘れてベッドに横になった。別に眠いからではない。なんとなくだった。
「あー! あちぃ」
声に出して感情を表現してみたが、焦りは増すばかりだった。
………………よし、落ち着け、俺……。
暁は冷静さを取り戻すべく、洗面所に行き顔を洗ってきた。
「………………」
案外それは効果的で、意外なほどに暁は冷静さを取り戻した。顔が涼しく、頭が冴えてくる予感がした。
暁は椅子に座った。
……いける。
まずはこれまでの考察をまとめてみた。
unbeliever
oak 1
Saar
ablation
gauche 3
Janus
Bahama 5
Saccharin 8
グループ分けは完了したのだ。後は関連性を調べさえすればいい。
暁は、今までの推理が外れていることを恐れた。もし最初の骨組みでミスをしていれば、その時点で解読者は袋小路に迷い込んだネズミと化す。それだけはあってはならない。もう時間もない。故に暁は今までの推理があっていると信じて解き進めるしかない。
「数字と単語の関連性だ」
声に出して、考えを整理する。………………ダメだ思い浮かばない。
暁は考えを一転させることにした。ふとあることを思い出す。この暗号の三つ目の問いを自分は間違えた、と……。
その原因は考えすぎにあった。シンプルさが自分には欠けている。ならば――――。
暁は単語を並べ替えた。
oak
Saar
unbeliever
Janus
gauche
ablation
Bahama
Saccharin
まず1、3、5、8という数の大小関係に着目し、グループ別に上から小さい順に並べる。さらにグループ内でも小さい順に並べる。
上から縦読みすると、
osu jga b s
となり、暁の見たことのない英単語が完成した。つまり、ボツ。
暁は自分のやった試みが単純すぎたことに気付いた。
「……――――!!」
暁は重要なことに気が付いた。この暗号の答えは、必ず場所を示さなくてはならないということだ。だが、だからといってどうにもならない。根本的に、この暗号を解くことができないからだ。
外の雨が勢いを増した。
そして、雷が落ち、暁の頭上の電気は消え、扇風機まで止まった。
「…………マ……ジ??」
暁はハハハと、薄ら笑いを浮かべた。
午後の三時を回ったところでようやく電力は復帰し、暁は暗号の解読を再開させた。
『ブルルル、ブルルル』
ポケットに入れた携帯が振動した。竜司からメールが届いた。
よう お前はどうなんだよ
俺は微妙だ
なんとも言えない
暁はすぐに返した。
ダメだ 全く 解ける気がしない てか微妙ってなんだよ
暁はベッドに横たわった。
……まさか、解けねえのかな? 俺…………。
暁は目をつむった。
「………………わかんない」
亜美はテーブルに顔を突っ伏した。希望が見えなかった。
相変わらず外の嵐は激しい。
亜美は鬼頭が首を吊るシーンを想像した。彼は一体どんな気持ちで自分の首に縄をかけたのか……。
突如として、亜美の携帯が鳴った。
静枝からのコールだ。
「もしもし、シズ?」
「うん、アミリン……どうしよう、うち………………」
亜美にはわかった。静枝の声が、まだ解読に成功していないことを如実に物語っている。
「シズ……大丈夫。きっと、解けるよ」
「気持ち悪い……」
「え」
「さっきからなんか、吐き気する…………もう切るね」
「し、シズ!?」
『ツーツーツーツーツー』
電話が切れた。
雷と雨は混じり、風が大地を揺らめす。
窓から覗ける外の景色はまるで大地が大声で泣いているかのよう……。
竜司は部屋の中から窓を通し、大地の激しい蹂躙の跡をただただ見ていた。
長い時間暗号と闘い、竜司はある結論を得た。
「俺には…………わからなかった…………」
竜司は、静枝が亜美に抱かれて涙を流す光景を思い出して、心の奥で謝った。
すまない、と――――。
「………………」
遥か遠くで雷が落ちるのが見えた。数秒後、地鳴りのような雷鳴が竜司のいる空間を包み込んだ…………。
午後の五時になると、嘘のように嵐は静まった。
暁は窓の外を見た。
雨も降ってない。風も吹いてない。雷もどこかへ行ったようだ。
「…………マジか」
暁は制服に着替え、スクールバックに暗号と数枚のルーズリーフを入れて、アパートのドアを開けた。
空気は湿っぽく、何故か心地のよいそよ風が吹いていた。
数日ぶりに外出した気分である。鳥のチュンチュンという鳴き声まで聞こえてきた。まるで爽やかな朝であるが、実際には午後の5時だ。
…………これが嵐の前の静けさじゃなきゃいいがな。
鍵を閉め、目的地に向かって歩き出した。
‐2‐
三十分もすれば、暁は目的の総合病院前に到着していた。
広い駐車場に、大きな施設。ここが、市内最大の総合病院である。
入り口まで歩いていく途中、赤いドレスに身を包んだ美しい女性とすれ違った。振り返って見たときには、女性はもういなかった。
入り口まで行くと、ドアが自動で左右にスライドした。自動ドアなのは、少しでも患者に負担を与えないためか。
入ってすぐ目に映ったのは、激しく嘔吐する五歳くらいの男の子だった。母親らしき人物がその子のすぐ側で背中をさすってあげていた。
受付にたどり着いた暁は、目の前の四十代くらいの受付役に声をかけた。
「あの。木原晋也という17歳の高校生男子が入院していませんか?」
「はい? 面会ですか?」
「あ、はい」
暁に晋也が入院している確信はなかったが、いなければ帰るだけだ。
「えーとね、一〇〇号室にいるよ。十五階ね」
「ありがとうございます」
エレベーターに向かう途中、あの男の子に目がいった。辛そうに涙を流しながら嘔吐する男の子は、広い待合い場の中央で周囲の注目を浴びていた。看護婦も数人男の子の周りに集まっていた。
エレベーターの近くにはエレベーターを待つ若い男が一人立っていた。携帯をいじくり、時々周りを見たりする。大体二十代後半といったところだろうか。
暁もエレベーターの近くで足を止めた。しばらく待っていると、ドアが開き中から数人が出てきた。エレベーターに乗り込む。
「えっくしょいっ」
一〇〇号室の奥でくしゃみをする音が響いた。この部屋は今、木原晋也が一人で貸し切り状態である。
晋也は窓の外をぼうっと眺めた。さっきまでの嵐が嘘みたいだ。
コツコツと部屋に足音が響く。晋也は顔を左に向け、部屋の入り口の辺りを見据えた。
見覚えのある男が近寄ってくる。
「暁ぁ!!」
「よう」
暁は窓際の回転椅子に座り、病室を見渡した。
「なんだ……結構明るくて、いいじゃないか」
「暁、来てくれたのかお前!!」
「ああ、ところでお前、なんで入院してんだ?」
見たところ、骨折などの外傷はない様子だ。ちょっと以前より痩せただろうか。
「ああ、俺……心臓病なんだよ」
「えぇ!?」
驚いた。初耳である。
「今週手術」
「ぅえぇえッッ!!??」
もっとビックリ。
「なんか胸が痛むなーって思ってたら、いきなり倒れて、目の前真っ暗よ。ハハ、気付いたら病院。まるで作り話みてーだろ」
「…………大変だな」
暁はスクールバックの中からフルーツ詰め合わせセットを取り出した。
「えっ? おま……」
「ここ来る途中、八百屋で買ってきた。見舞いっつったら安くしてくれたからな」
晋也は目を丸くして暁を見た。
「………………お前ッて、そんな気ぃ利く奴だったッけ?」
暁は鼻で笑った。
「ところでよぉ、渡したいもんって?」
晋也は急に満面に笑みを漏らし、暁に尋ねた。
「……あのさ、お前、亜美ちゃんと付き合ってんの?」
「………………はぁ?」
晋也は驚くべきことを口にした。
「俺さぁ、前から気になってたんだよね。亜美ちゃん」
暁は絶句した。
……まさか、嘘だろ?
「いや~、もし男いんなら諦めるけどよ。いないなら…………クク」
晋也の表情は危険な笑みで満たされていた。
暁はある種の危機感のようなものを感じたが、頭を振って自分を落ち着かせた。
「……いやまさか。お前、いつからだ……」
「結構前」
「………………俺は付き合ってない」
暁ははっきりとそう答えた。
いやでもよ――と晋也は切り出した。
「お前ら、二人で屋上抜け出したり、一緒になってなんかやったり、端から見りゃ付き合ってるようにしか見えねえけど」
「……いや、でも、違う」
晋也は暁に疑いの目を向けた。本当は付き合ってるんだろ、とでも言いたげな顔だ。
「……狙うなら勝手にやってろよ。俺は別に協力しねぇからな」
暁は窓の外に顔を向けてそう言った。
「待て!! お前にコレを亜美ちゃんに渡してもらいたい」
そう言って晋也がすぐ横の引き出しから取り出したものは――
「……は? 手紙?」
晋也らしくない、と暁には感じた。
手のひらに収まるくらいの大きさのそれは、可愛くもハートのシールで封がされていた。
「お前……正気か??」
今時ラブレターとは、恥ずかしくないのだろうか。
「俺は見た目はチャラチャラしててよ、なんか中身もチャラチャラしてそうに思われがちだが、違うんだぜ」
「…………?」
暁には晋也の言いたいことが分からなかった。
「雨、降ってきたな」
晋也に言われ振り返ると、ポツポツとちょうど降り出した頃である。
「あ……傘忘れた」
先ほどまでのは、どうやら嵐の前の静けさだったようだ。
「じゃあ泊まってけや……なかなか悪くねぇぞ、病院も」
「はぁ?」
「ひひ……俺の担当、まだ若くってさ。訊いたら二十二だとよ。羨ましいだろ」
「何がだよ」
「看護婦だよ、看護婦。おしり触っても、怒らないんだぜ……ひひひ」
「…………最低だな」
暁は立ち上がった。
「お、おいおい待ってくれよおッ!! もう帰る気かぁ!?」
「ああ、帰る。じゃあな」
「ああ、待ってくれ!! 話を聞けよ」
「ああ?」
「…………かわいそうだと思わねーのかてめえは」
「あ?」
「俺……言ったろさっき。今週手術ッて……。………………医者なんて言ったと思う?」
「………………」
「五分五分だってよ。生きるか死ぬか」
「なっ」
「へっ……ビックリだろ。なぁもう少し、話をさせてくれよ」
暁は静かに回転椅子に近付いた。そして静かに座った。
「その話まじか?」
「ああ、金曜日に手術」
暁は少し動揺した。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれないというのか?
雨が本降りになってきた。どちらにせよ、暁が帰ることはできなくなった。
「死ぬ前にお前に渡せてよかったわ」
何故晋也が自分を呼んだのかを暁は理解した。
「まだ決まったわけじゃねぇだろ」
「まぁな……」
その後、長い沈黙が流れた。一体どれほどの間黙っていたかわからない。ただ、雨の音が異様に心地よく、それは強烈な睡魔を暁にもたらした……――――。
記憶がはっきりするまで、大した時間はかからなかった。暁は肩を揺すられ、薄く目を開けた。
「おーい、もう起きろよ」
「………………」
声は右から左に流れるように、まだ状況がつかめていない。
…………ここはどこだ?
そう自問したとき、自分が晋也に会うために総合病院に訪れたことを思い出した。
「…………!?」
よく見れば、自分はベッドの上にいるじゃないか。何故だろう?
「……おい!! お前バカか!? ハハハハ」
晋也が笑っている。
とりあえず状況を把握せねば。
「……なぁ」
と声をかけたとき、暁には大体の予想がついていた。恐らく自分はいつの間にか寝てしまい、晋也によってベッドに寝かされたのだろうと。
「俺何時間くらい寝てた?」
薄らぼんやりと暗号のことを思い出しながら、暁は時計に目をやった。もう九時を回っていた。ここに来たのが五時くらいだとみて……。
晋也は考え込むような様子をして――いつの間にやら、その手には暗号を記した紙が握られていて――言い放った。
「二十五時間くらいかな」
「………………??????」
「丸一日以上は寝てたな。よくそんな寝れるよ。お前最近寝てなかったのか!?」
晋也は薄ら笑いを浮かべてそう言ったのだ……。
…………一日、だと????
暁はベッドから起き上がり、相対するベッドに寝ころがる晋也に近付いた。動揺を隠せない。
「……今? 十四日の二十一時だってか…………?」
晋也はさも面白げに「うん」と答えた。よく見れば、フルーツ詰め合わせセットも消えている。コイツがすべて食ったのか。
暁は立ったまま窓の外を眺めた。雨がざあざあと降っている。携帯を取り出して、画面を覗く。晋也の言うことが嘘だと信じて……。
「…………クソ」
携帯にも、きちんと表示されていた。現在が七月十四日(火)の二十一時過ぎだと。
暁は回転椅子に腰掛け、半ば放心状態で自分の情けなさを嘆いた。
何故丸一日も眠りこけたのだろうか。本当に信じられない。
「お前の携帯ブーブーいってたぜ」
晋也が暗号を見つめながら言った。
……コイツ、勝手に俺のバックあさったな。
「はぁ」と言って暁は手のひらで顔を覆った。絶望が心を支配する。指と指の間から、壁に掛けられた時計をもう一度見る。午後九時二十四分。
……間に合うか?
暁は携帯を取り出した。見ると、着信が五件、Eメールの受信が八件である。
Eメールはすべて亜美と竜司と静枝からのもので、その内容はどれも暗号の進行具合を尋ねるようなものばかり。解読のヒントは得られない。
雨の音がやかましかった。
「なぁ暁」
「ああ!?」
寝起きということもあり、暁は不機嫌である。
「この単語と数字の関係は何だ?」
それがわからねえから苦労してんだよッ!!
「返せ。時間がねぇ」
暁は手を差し出した。すると、暗号に見入っていた晋也がこんなことを言った。
「お前が暗号好きなのは知ってるぜ。……なぁ、こんなのは試したか? この数字がそれぞれの英単語の『~番目』を示すとしたら……」
晋也の意外なアドバイスを耳にした途端、暁の頭の中で覚醒が起こった。
unbeliever
oak 1
Saar
ablation
gauche 3
Janus
Bahama 5
Saccharin 8
ここから、数字の示すアルファベットだけを抜き出すと……
u
o
s
l
u
n
m
i
となる。
「何故……気付かなかったんだ………………」
暁は口元に手をあて、目を大きく見開き八つのアルファベットを凝視した。
……これを意味のある羅列に並び替える。
「………………」
わからない。思いつかない。しかし解読まであと一歩だ。あと一歩……。
晋也がある英単語を口にした。
「LUMINOUS」
「……ッ!!!!」
暁は口を開いた。静かに、晋也は続ける。
「意味は『夜光性の』じゃなかったッけ?」
――――謎が解けた。
暁はなりふり構わず病室を抜け出した。走った。携帯も途中で落とした。バックも病室に置いてきた。しかし、手には握られていた。晋也の愛のラブレターが。
「ぉおぉォオぅおおう」
病院でダッシュだ。目的地に向かえ。その足で、その脳で……――――。
あと3話で1章が完結します!