暴虐の嵐
‐1‐
七月十日(金)の午後――。
無事、二度寝を終えた暁は椅子に腰掛け、机の上に置かれた暗号に目を落としていた。
Saar
ablation
gauche
unbeliever
oak
Bahama
Janus
Saccharin
◎不信仰者のオークはザール川にて言った。『二分の一とその半分、それの半分、これまたそれの半分……てな具合に、極限までそれらの数を足していくと答えは何になる?』
◎風化した未熟なヤヌスは言った。『騙されるなよ。リンゴが二個ある。そこへ猫がやってきてリンゴを一つくわえていった。さていくつ?』
◎バハマは言った。『日本の福徳の神とユダヤの神が一緒に旅をした。道中、三人殺された……』
◎ある化学者が言った。『ある物質をいじくった。すると炭素56水素40窒素8酸素24硫黄8という組合せになっちまった。元に比べてどれだけのパワーがあるのか……』
篠原亜美へ
よくぞここまでたどり着いたね。約束の日にちまで、もう残りわずかではないのか?
これが最後の暗号だよ。
待ってるよ。では
鬼頭より
暁はなるべく冷静に考えようとした。まず明らかに、最後の鬼頭から亜美へ向けられたコメントは暗号に関係ないと見ていいだろう。
次に目を向けるべきは全体の構成である。八つの英単語に、四つの問いのようなもの。一見しただけでは何がなんだかわからない。情報と情報の関連性……。
「……ぉ……おぉ」
下から三つ目の英単語に暁は注目した。『Bahama』。問のひとつに、『バハマは言った……』という書き出しのものがある。どうやらこれとこれは関係ありとみて良さそうだ。
この事実からでもわかることはたくさんあった。『~は言った』の部分に相当する名詞が、上の八つの英単語で構成されているということである。
……よし。方向性は導けた。
暁は確かな手応えを早くもつかんだことを実感した。
――不意に、暁の携帯が机の上で振動した。なんとなく予想はついた。おそらくは亜美か竜司のどちらかであろうと。
しかし、メールの送り主はその二人のどちらでもなかった。
受信ボックスの一番上には見覚えのある名前があった。
「……晋也?」
なぁ暁
お前に渡したいものがあるんだ(;∇;)/~~
総合病院に今いるんだわ
きてくれねぇかな
何故、晋也が総合病院に?
「…………まさか」
晋也が新型インフルエンザの感染者だとしたら、行きたくなかった。
しかし、普段メールなどしてこないことを考えると、渡したいものとはそれ程重要なものなのだろうか?
暁の脳に浮かんでくる疑問は絶えなかった。第一、何故自分にメールしてきたのかがわからない。仲の良い奴なら他にいくらでもいるはずだ。
……ッて、考え過ぎか。
暁は一息入れるため、冷蔵庫の中からペプシを取り出し、威勢良くその栓を開けた。その瞬間、プシュッという音と共に大量の二酸化炭素が空気中に散布した。
中の液体をコップになみなみと注ぎ込んだら、それを一気に飲み干す。
……ま、気が向いたらな。晋也君。
鼻で笑いながら、暁はペプシを冷蔵庫に戻した。
暁が黒い液体を勢い良く飲み込んだちょうどその頃、亜美は暗号の解読に着手していた。
クーラーがよく効いていて、脳を働かせる環境としては悪くない。
あまり広くない部屋の中央に置かれた足の低い円上のテーブルの上には、鬼頭の最後の暗号が記された紙と氷の入ったオレンジジュースが置かれていた。
「……………」
亜美はまず単純に考えようと思い、八つの英単語の日本語訳を調べ始めた。
Saar ザール川
ablation 風化・浸食
gauche 未熟な
unbeliever 不信仰者
oak オーク
Bahama バハマ
Janus ヤヌス
Saccharin サッカリン
ここに至り、亜美も暁と同様に『~は言った』に相当する部分が8つの英単語から構成される名詞になると気付いた。
だが、それがわかったところでまだ解読にはほど遠いということにも気付いていた。念のため縦読みをしてみたが意味を成さないとわかり、亜美は解読の歩を進めることにした。
まずはこれに目をつけた。
◎不信仰者のオークはザール川にて言った。『二分の一とその半分、それの半分、これまたそれの半分……てな具合に、極限までそれらの数を足していくと答えは何になる?』
「それってつまりこういうことでしょ?」
亜美は英単語の日本語訳を書いたルーズリーフの下半分に数式を書いていった。
0.5+0.25+0.125+0.0625+……=?
まさしく、問題文をそのまま数式に表した形がこれである。……これを極限まで足すとは一体、何を意味するのか?
一般的な高校生ならちょっと考えればわかることであった。
「いつまで足してもー……1になることはない。でも、極限までそれを足せば1に限りなく近づく……? だから答えは1だ」
なんとなくの答えは出せたものの、数学にそこまでの自信はなかった亜美は強力な助っ人に確認をとるこにとした。
「もしもし、シズ~」
亜美が電話を掛けた相手は、あの天才女子高生佐藤静枝である。
「ぉーう、アミリン♪」
静枝の明るい声を聞いて、亜美は胸をなで下ろした。
「あのさ、どこまで解けた?」
静枝にはメールで暗号を伝えてあった。
「ううーん、7割ッてトコかな? そっちはど?」
亜美は7割と聞いて驚いた。さすがは佐藤静枝……。
「えーとね、こちらはビミョーッす。あの最初の半分の半分を足すとかゆうのはなんなの?」
「んーあれね。ま、1でいいっしょ。他に思いつかないしね」
「やっぱ1かー……。うん! わかった。じゃあまた連絡するね」
亜美は敢えて他の問の答えを聞かなかった。まずは自分の力で解いてみるのが亜美のポリシーである。
「ぅーッす。んじゃまた」
電話が切れた。
一方、竜司は四つ目の問に取りかかっていた。既に他三つの問いは、怪しい部分もあるが一応答えを出すことには成功していた。四つ目の問はこうだ。
◎ある化学者が言った。『ある物質をいじくった。すると炭素56水素40窒素8酸素24硫黄8という組合せになっちまった。元に比べてどれだけのパワーがあるのか……』
まず、問題文を読んだだけではまるで雲をつかむようだと竜司は眉をひそめた。
故に竜司は『~は言った』の部分に注目した。『ある化学者』とは上の八つの英単語のうちのどれを指すのか。ここまで来た竜司には消去法で答えをひとつに限定することができる。
『Saccharin』が正解である。英和で調べるとサッカリンと出て、サッカリンを広辞苑で調べると人工甘味料のひとつと出る。人工という語句が化学との関連性を竜司の中で裏付けしたのだ。
竜司はSaccharinの分子式の組合せを問題文に則した形でノートに記してみた。
炭素7水素5窒素1酸素3硫黄1
「んー………………!」
すぐに竜司は気付いた。Saccharinの分子式と問題文の分子式を構成する原子の種類と配列が全く同じことに。違うのは……。
「………………決まりだな。チェックメイトだ」
ただふたつの分子式に共通しないのは構成する原子の数。
ここで問題文をもう一度見てみる。すると最後のほうにこうある。『……元に比べてどれだけのパワーがあるのか……』――つまり、と竜司は閃く。数学の天才とは伊達ではない。
「比べるということは要するに比をとるということ。つまり倍数なんだ」
ふたつの分子式をよく見ればわかる。問題文の分子式を構成する原子の数がSaccharinの分子式を構成する原子の数をそれぞれ八倍しているのである。
つまり答えは、
「8」
である。
午後の二時を過ぎた辺りで、暁は休憩を入れることにした。1時間以上ぶっ通しで脳を使っていたものだから、だいぶ疲れが溜まっていた。
暁は椅子を離れベッドに寝ころんだ。
ぼーっと天井を見ていると、ポケットの中で携帯が振動しついることに気が付いた。
「ん?」
電話を掛けてきたのは竜司であった。
「もしもし」
「俺だ。暗号はどうだ」
「ああ……なんとか」
「そうか。それより暁、信じられるか?」
「……あ?」
「寝ぼけてんなぁー。ホラ、インフルエンザ。学校閉鎖ッてよ」
「ああ。まぁ……確かに信じ難い。この辺で猛威を奮うとは……」
「あり得ねーよな」
「てかよ。お前、全部解けたのか? あの四つの問い」
「いや、バハマはまだだ」
……あの三つ目のやつか。
「実はよぉ竜司。俺もそれは解けてない」
「お前もか……。その前に答え合わせしよう。他の三つはできたんだろ?」
「あぁ…………じゃあ早く言えよう」
「最初が1、次が3、最後が8」
「………………マジ? 2番目のやつが違うんだけど」
「え? いくつだよ」
「……1じゃねぇの?」
◎風化した未熟なヤヌスは言った。『騙されるなよ。リンゴが二個ある。そこへ猫がやってきてリンゴを一つくわえていった。さていくつ?』
「おい、騙されてるぜ、まんまと。ハハハハ!」
竜司は笑っていた。
「ちょっと待て。騙されてるの、お前じゃねぇの?」
「くわえていったんだぞ。漢字に直してみろ」
竜司は得意げに言い放った。
「いやいやいや、落ち着け。…………そんなの俺だって知ってる。この問いを聞けばみんながお前と同じ答えをだす。だろ? だから騙されてんのはお前だ……」
言われてみれば確かに、と竜司は少し不安になった。
……シンプルになり過ぎたか? 俺……。
――――いや、しかし。
「待てよ。暁……。そもそも、お前も気付いたと思うが、これを解くには『騙される』の定義が必要だよな」
「いや、まぁそうだけど。一応俺は広辞苑で『騙す』を調べた」
「…………で?」
「大した参考にもならなかった」
「…………そうか」
暁は頭をボリボリと掻いた。
「仕方がないからさ、亜美とか佐藤静枝にも聞くしかない」
「うん……特に、佐藤のほうは有力だ。あいつは以前似たような暗号を解いたことがあるらしいし」
「じゃあまた連絡するわ」
「じゃあな」
電話が切れた。
‐2‐
午後三時を回った辺りで、暁は再び暗号に取り掛かり出した。
気温の高さにうなだれつつも、扇風機の風でなんとか暑さをしのいだ。
……なんでこのアパートにはクーラーがねぇんだよ。
◎バハマは言った。『日本の福徳の神とユダヤの神が一緒に旅をした。道中、三人殺された……』
「なんだよ。これ。福徳の神? わかんね」
この三つ目の問は竜司ですらまだ手付かず……。そもそもこれは問か? 旅ッて?
「…………これも……聞くしか」
なんとなく、佐藤静枝に頼り切っている自分に情けなさを感じた。
…………あ。
と思い出したのは、晋也のことであった。不良高校生、木原晋也。
彼は今、総合病院にいるらしいが一体どうしてだろう。まさか本当に新型インフルエンザに感染したのだろうか……。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
言いくるめれば、やはり暗号だってどうでもいい。俺には執着心が欠けてしまっている。最初から大した価値の無いものだと思って行動するようになったのは、いつからだろうか?
結構最近な気がする。あまり入り込めば良いことはないと、全てに手を抜き始めたのはいいが、だからといって幸せを手に入れたわけではなかった……。
じゃあ、あいつらも価値のないモノだろうか。
いずれなくなる関係なのか……。
「………………」
いや、そんなわけはない。
暁は亜美の言葉を思い出していた。
あの夜の言葉を暁は一字一句覚えていた。
――もしこの勝負が終わってもあたしたちは変わらないよ
変わらない……――。
果たして、俺はそれを信じていいのだろうか。
――だから、これからも、一緒にいれば、大丈夫だよ。きっと、悲しいこととか、なくなるから
「…………――あぁ」
俺はもう、信じるしかない。……いや、違う。
この感情は、もっと別のものだ。ああ、こんな感情、久しぶりだな……。
「信………………じ……たい」
暁は目つきを変えた。
七月十一日(土)
「こんちーっ」
可愛らしい挨拶と共に亜美の住む部屋のドアを開けたのは、制服姿に身を包んだ佐藤静枝だった。
それを笑顔で迎え入れた亜美は、一言。
「遅いよ~シズ! もうみんな来て待ってたんだよ」
「あぁ~ゴメン! ちょっと学校行ってて」
集合時間の午後一時をまるまる一時間オーバーした静枝は、急いで靴を脱ぎ玄関に上がった。
玄関先からドタドタと騒音が響くのを無視して、暁と竜司は暗号に見入っていた。
しばらくすると髪がゴールドに装飾されたスカートの短い女がリビングに侵入してきた。
「あっ……」
暁が声を上げてその人物を見上げる。続いて竜司も顔を上げた。
先に声を発したのは静枝のほうだった。
「こんにちは、亜美から話は聞いてるよ。高山と外崎だっけ?」
「あ……あぁ」
暁は静枝に見入ってしまった。先日見たときと全く変わらない、この美しさ。将来テレビにでも出るんじゃねぇか? この女。
静枝のすぐ後ろから亜美がひょこっと姿を現した。
「座っていいよ、シズ」
「お言葉に甘えま~す」
と言って静枝は床にあった座布団の上に腰を下ろした。
「さて……それじゃあさっそく、成果を見してよ」
丸い円形のテーブルを挟んで真ん前に座る暁に、静枝が言った。早くしなさいよ、と言わんばかりの圧力を感じつつ、暁は一枚のルーズリーフを差し出した。
そこには竜司、暁、亜美の3人がそれぞれ出した問の答えが記されてあった。
竜司 1 3 ? 8
暁 1 1 ? 8
亜美 1 3 ? 8
「まだ四つの問いの答えを出したくらいで、暗号の解読には至っていない」
暁が説明した。
「にゃるほどね。バハマのやつはみんなわからないッてコト?」
と言った静枝の隣に氷の入ったグラスにオレンジジュースのペットボトルを持った亜美が座り込んだ。
「まだわからない」
暁が答えた。
亜美がグラスにオレンジジュースをなみなみと注いだ。鮮やかなフルーツ色だ。
さんきゅ、と小さく答え静枝はオレンジジュースに口をつけた。そんな様子を見て、竜司が口を開いた。
「それで、君は解けたの?」
「いーえ、まだです。進行具合としてはキミらとおんなじよ」
静枝に期待していた分、竜司も暁も少しだけ落胆した。
「二つ目の問はどうなの?」
と亜美が。
「……まぁ二つ目は『3』で間違いないわね」
暁も竜司も少し驚いた。
三人の間でも、この問いについて絶対の自信があるわけではなかったが、静枝には確信があるかのように聞こえた。
「根拠は?」
ただ一人推理をハズした暁が恥ずかしそうに問う。
「うちが四歳の頃、おじさんが全く同じ問いを出してきた。その答えが3だから」
とてもシンプルな理由であり、暁も竜司も拍子抜けした。
――だけどさ、と竜司が反論した。
「それだと君がいないと解けなかったッてわけじゃ……」
「ま、つまり場合分けさせようッて魂胆があったわけでしょ。結局答えはひとつしかないんだし、最後になって初めてどちらが正しかったを明らかにさせる――――つまり、時間稼ぎ」
「……な、なるほど」
やっぱりか、と竜司と暁は顔を見合わせた。
「じゃあ問題は三つ目」
亜美が暗号を眺めながら呟く。
◎バハマは言った。『日本の福徳の神とユダヤの神が一緒に旅をした。道中、三人殺された……』
「静枝……さん、さ。これ、どうなの?」
と暁が。
静枝は暁を上目遣いで数秒睨んだ後、
「……結論から言うケド、うちにもよくわかんない。でもこれまでの流れから、答えが数字になるのは確かね。……てか、静枝さんはヤメテ」
「え? わかんないの? シズが??」
亜美はちょっとビックリした様子で静枝の顔を覗き込んだ。
「だって、ウチだって知らないことは知らないもんっ! なによ、日本の福徳の神って」
「待て!」
「ん?」
突然声を上げたのは、暗号に見入っていた竜司であった。何か重大なことに気付いた様子だ。
「旅の道中に三人殺されたんだろ? てことはこいつらは少なくとも三人以上の複数で旅をしていたんじゃねぇ?」
……確かに。
暁は納得し、だから何なのかと思考を押し進める。
……福徳。ユダヤ………………ユダヤ?
「ユダヤの神……」
暁の脳内で何かが渦巻いた。思い出せそうで思い出すに至らない。身体は見えてるのに、重要な顔が見えてないかのような感覚……。
「ゆ……?」
暁の取っ掛かりが見事に外れた。思い出した。
………………――――唯一神、ヤハウェ。
「ぉ……っ唯一神、ヤハウェだ」
「は?」
竜司が眉間にシワを寄せた。何を言っている……こいつは?
「ユダヤの神とは即ち、ヤハウェ。唯一神だ! ……つまり複数なのは」
「日本の神のほう」
亜美が暁の代わりに結論を明確にした。
「……なるほどな。そうか…………そうか」
竜司は激しく思考していた。日本にいる複数の神とはなんだ?
静枝もまた竜司と同じことを考えた。福徳であり、複数の神……。
福徳とは幸福と利益のことである。
「………………」
クーラーの効いたあまり広いとは言えない部屋で、高校生4人は押し黙ってしまった。この中の誰も、日本の神について詳しい者はいなかった。
生憎、パソコンが壊れて使えないというから残念だ。
仕方がない……と暁は携帯を取り出した。
「ezwebで調べる。すぐ出るよな」
「PCサイトのほうがよくない?」
と亜美。
「まぁ落ち着け……お。なんだ……最初からパケットなんか気にしないでやりゃあよかったわ」
暁は口元をニヤリとさせて言った。
「答えは……――七福神だ!」
「おお!」
…………ということは。
「正解は『5』かな」
真っ先に答えたのは静枝。計算方法は単純明快。
ユダヤの神が一人、七福神は七人、一緒に旅をすれば八人。そこで三人殺されたら残りは五人。全ての問の答えが今、導き出された。
「ようし! 全ての問が片付いたな。あとは……」
暁は三人の顔を順々に見ていった。
「この答えを、どこにどう繋げるかだ」
…………順調だ。
暁は感じていた。一歩一歩、着実に鬼頭の暗号は解読に向かわされている……。
しかし、同時にこうも感じていた。
……順調すぎやしないか?
……どこかで大きなミスをしているんじゃないのか?
「………………」
だが、笑顔で話す亜美と静枝を見て、そんな不安は暁の中から余韻だけを残して消え去った…………。
‐3‐
メールアドレスと電話番号を交換したあと、暁、竜司、静枝の三人は亜美のアパートを後にした。それというのも、あと少しすると日本列島のちょうどこの辺りを、巨大な台風が直撃するというのだ。まさか亜美の家に泊まるわけにはいかない。
自宅アパートに着いた暁は窓の外で雲行きが怪しくなる空を見つめ不安に駆られていた。
竜司は自宅のリビングでソファーに腰掛けながらあることを思い出していた。
「あのヤロ……」
竜司は携帯を取り出した。
電車に揺られ自宅に向かう静枝は窓の外で次第に闇に染まる空を見つめて浮かない表情を浮かべた。
……おじさん。
まるでこの空模様は自分の今の心情にそっくりだと、静枝は鼻で笑った。
亜美は暗号の解読に繋がることを信じて、過去の鬼頭の作品に目を通していた。
「死ぬなんて……絶対何か、重大な秘密が……ある」
そう呟いて、とうとう窓に打ちつけ始めた雨の音に耳を傾けた。
『ブルルル、ブルルル』
暁の携帯が振動した。
電話を入れてきたのは、竜司のようだ。
「はい」
「俺だ……おい! お前まさか忘れたわけじゃねぇだろうな」
「?」
「ホラ、暗号解くの手伝ったらアレをくれるって」
「…………あ。忘れてた」
暁はベッドから起き上がり、机の引き出しを開けた。
「よし……いいか、だったらこの嵐がどっか行ったらお前が家に持って来い」
「はぁ? 今度学校行くときでいいだろ?」
「おまっ! 学校に持ってくるつもりかぁ?」
「なんだよ」
……あ。あった。
「見つかったらヤバいだろッ」
「大丈夫だ。ビビり過ぎだお前。俺を信じろ」
「…………わかった。信じよう。またあとでな。じゃあ」
「おう」
夕刻が過ぎた頃には、雨は本降りとなり窓やらに打ちつける音はうるさいを通り越し、心地いい。
そんな音に耳を傾けながら、椅子に腰掛けテレビを見ていた暁は、一瞬暗号のことを忘れかけていた。それというのも、報道されたニュースの内容があまりに衝撃的であったからだ。
そのニュースの内容は、望まない妊娠をしてしまった中央高校の二年の女子生徒が、自宅のトイレで赤ちゃんを出産し、用意した包丁で赤ちゃんの身体をバラバラにトイレに流したというものだった。
暁は逮捕された女子生徒の身になって想像してみた。なんとおぞましいことか。暁は喉の渇きを覚え、水道に向かった。
水を一杯飲み、時計に目をやった。午後の六時半であった。
今晩は何を食べようかと冷蔵庫を覗いていると、前々から気になっていた事件についてニュースが流れた。
一旦夕食のことを頭の隅に置いて、テレビ画面に目を向けた。
「……市で起こった複数の殺人事件について、警視庁は、犯人が同一犯ではないかとの見解を明らかにしました」
よく見るアナウンサーが、警視庁前でそう中継した。
ちょうど亜美や暁が鬼頭からの最初の暗号に取り掛かり始めた頃、暁の住むすぐ近くで殺人事件が発生した。そのときは暁もある程度は警戒したが、暗号に身を打ち込むことでその警戒心は徐々に薄れていったのだ……。しかしまたすぐに次の事件が発生した。今度は暁の住む所からはだいぶ離れた所であるが、これまた殺人である。両事件は未解決。暁の周囲では、これが同一犯によるものだという噂は立っていたが、とうとう警察も世間と同意見を出したわけだ。その後も事件は多発し、暁が知るだけで計七件の殺人が起こり、その全てが未解決である。……一体、どんな奴なんだろう。
暁は再び冷蔵庫を開けた。
夕食を済ませた暁は、あまりに強い暴風雨に窓が割れる心配もしつつ、暗号に目を落とした。
Saar
ablation
gauche
unbeliever
oak
Bahama
Janus
Saccharin
この八つの英単語が、四つの問いの『~は言った』の部分に相当する名詞を構成するのは、既知の事実。
では、と暁は考えた。
あの四つの問いを解かせたいだけならば、この八つの英単語は不必要である。故に、あの四つ問いの答えと、この八つの英単語には何らかの関係がなくてはならない。
暁は亜美からもらった英単語の和訳のコピーを取り出した。
Saar ザール川
ablation 風化・浸食
gauche 未熟な
unbeliever 不信仰者
oak オーク
Bahama バハマ
Janus ヤヌス
Saccharin サッカリン
これと暗号の問いを見比べてみる。
◎不信仰者のオークはザール川にて言った。『二分の一とその半分、それの半分、これまたそれの半分……てな具合に、極限までそれらの数を足していくと答えは何になる?』
この問いに対応する英単語は即ち、unbeliever、oak、Saarである。
よって、この三つの英単語がこの問の答えである1と対応しているのだ。 まずはこの考え方で、暁は他も同様にして次のような表を作った。
unbeliever
oak 1
Saar
ablation
gauche 3
Janus
Bahama 5
Saccharin 8
何度も確認し、これであっていることを確かめた。
ここで、ふと暁は暗号とは全く関係ないことを思い出した。晋也のことである。あれ以来、メールも電話もないことから、やはり大した用ではなかったのではないかと暁は思っていた。しかし……。
雨と風のうちつける窓の外を見て暁は不安になった。
……あいつ。大丈夫かな。
その瞬間、空がカッと光り、二秒後に爆音が響いた。暁は体をビクッとさせ、晋也のことを一旦頭から追い出すことにした。思えば、暁は晋也にいじめを受けていた時期さえあった。暁はある程度晋也のことを憎んでいる面もあるが、彼に救われたことも何度かあるため、憎みきれてはいなかったのだ。
晋也のことを頭から追い出したのは決して彼を見捨てたからではなく、嵐のせいでどうせ外には出られないためであった。……嵐が去ったら見舞ってやるか、などと考えながら暁は低くうなる雷鳴に耳を傾けていた。
ただひとつ暁が感じていたのは、晋也によくないことが起こったろうということだけだった。
午後の九時を既に回ったが、嵐は一向におさまる気配を見せない。それどころかその勢いは増すばかりだ。
暁の暗号解読は停滞していた。暗号を解くにあたり必ずぶち当たる壁、それが今である。
その暗号が複雑であればあるほで、壁は高く感じるものだ。だが解いてみれば何てことはなく、案外壁には穴なんかが空いていたりするものだ。
だが――これは暁の予感であるが、壁を今夜中に越えることは恐らく無理だ。
暁は額に浮かぶ汗に半ば怒りのような感情を覚え、もはや暗号解読どころではなかった。
…………あちぃ。
扇風機だけでは我慢ならなくなってきた暁は、いっそ裸で外に飛び出してやろうかと考えたが、そんなことをすればどこかの地デジキャラと同じ目に合うであろうことは分かりきっていたので、シャワーでも浴びて気分を転換させる試みにでた。
シャワーを浴びつつ、暁は考えた。自分は今日はもう寝て、他の人に任せようと。
暁は約一年半後の大学受験のことを心配しだした。本当にこんなことしてて、いいのか?
思えばもう長い間自主学習を怠っていると、暁はここに至りようやく焦りだした。暁は理系を選択したが、化学は大の苦手である。というか、とりたて自分に得意な科目があるとしたら数学ただひとつであると、暁はちゃんと自覚していた。
シャワー室から出て体を拭き、パンツを履いた。そしてそのままの格好で鏡の前に立った。
鏡の中にいる自分に問いかけた。
……お前は誰だ?
しかし、返答はない。
顔をまじまじと見つめてこんなことを思った。……もし、自分がもう一人いたら、そいつとどんな話をするだろうか…………。馬鹿げた妄想だな、と鼻で笑うと、鏡の中の自分は同じようにして笑ってみせた。そのとき、少し変な気分になった。まるで自分が自分であって、自分でない感覚……。
暁は服を着た。
暁がシャワーを浴びる頃、静枝は鬼頭との思い出を脳裏で馳せていた。
静枝は小さいとき、鬼頭に育てられていた。それというのも、静枝の両親は貧しい家庭の中共働き、子供を世話する余裕がなかった。静枝が小学六年生のとき、父親が過労死。母親は半年で再婚、新しい夫は企業の社長で再婚後はお金に困ることはなかった。
ちょうどその時期に静枝は母親と新しい父親のもとに返され、今も両親のもと暮らしている。
だが幼少時から小学校高学年までの間世話をされれば、静枝にとって実質的な意味での父親は鬼頭であったのだ。
それ故に、鬼頭の死は静枝に大きなショックを与えてしまった。しかも死因は自殺、静枝は怒りと悲しみを同時に覚えた。
……どうして、自殺なんか…………。
静枝は頬をパンパンと叩いた。
いつまでもメソメソしていては始まらない……。
静枝は自分にそう言い聞かせ、勉強机の上に置かれた暗号に目をやる。
……ウチが解かないで、誰が解くの?
静枝は椅子に座った。
……絶対、理由をつきとめるんだから!
長い夜の闘いが始まった。