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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

可愛いって言ってくれたのは、君だけだった

作者: トリスタ

俺は、ずっと気になってた。


久遠玲央くおんれお。芸術学部三年。顔立ちは整いすぎていて男なのに、美人って言葉がぴったりな人。

いつ見ても髪はさらりとしていて、指先は細くて白くて、仕草一つとっても洗練されてる。

自分とは住む世界が違う――そう思っていた。


けど、ある日。

学内のカフェで偶然隣の席になって、俺は、気づいたら言葉をかけていた。


◇◇


「あの、久遠さんに話があって……」


その言葉を口にするだけで、喉の奥がぎゅうっと締めつけられた。

何度も頭の中でシミュレーションして、練習して、でも本番になると足が震えるなんて、どんなプレゼンより難しい。

俺は水の入ったコップを握りしめていた。手汗で、冷たいガラスがぬるくなっていく。


久遠は、俺の方をちらりと見る。

何も言わずに待ってくれてる。それだけなのに、全身が熱くなる。

これじゃまるで――。


「……ずっと、気になってて」


言った瞬間、自分の言葉に自分でドキリとした。

ちがう、そういう意味じゃない。俺はただ、お前みたいになりたいって、それだけで――


「……あ、告白?」


不意に遮られた声に、思考が真っ白になる。


「ごめん、俺、そういうの無理なんだよね」


ふっと笑うその顔は、罪がない。

けれど俺には、ナイフのように鋭く突き刺さった。


心臓が、ひゅうっと音を立てて沈んでいく。

いや違う、違うって言わなきゃ。伝えなきゃ、俺の言葉はまだ、何も始まっていない。


「……違う。違うんだ。俺、告白とかじゃなくて……」


声がうわずる。

情けない。こんな情けない声、俺の声じゃないみたいだ。


「……お前みたいになりたいだけなんだ」


ようやく、喉の奥から絞り出したその言葉は、小さなため息みたいに消えそうだった。


「ちょっと……場所、変えようか」


そう言ったのは久遠の方だった。

断られたばかりなのに、俺の腕を軽く引いて、裏手の人通りの少ない中庭へ歩き出す。

どうして?と聞く前に、背中を追っていた。


キャンパスの喧騒が遠ざかっていく。

建物の陰に入っただけで、嘘みたいに空気が落ち着いて、久遠の表情も少しだけ和らいでいた。


「で、なんで俺みたいになりたいわけ?」


ストレートだった。

逃げ道を与えない、それでいて柔らかさを保った声色。

でも、その目はしっかり俺を見ていた。


息をのむ。

言葉が出ない。

どうしても、あの言葉だけは喉の奥でつかえてしまう。


「……あー、やっぱりさ」

久遠が軽くため息をついた。


「俺のこと好きで、近づきたいだけ?そういうの、ほんとやめてほしいんだよね。勘違いして変なことされんの、だるいから」


言葉が、刺さる。

痛かった。だけど、それ以上に悔しかった。


違う――。

違うんだよ。


俺は、そんなつもりで……っ


「……女装が、趣味なんだっ」


ようやく、吐き出した。

自分でも驚くくらい大きな声だった。


久遠が少し目を見開く。


「……え?」


「何度かやったことがある。でも……似合わなかった。鏡に映った自分を見て、がっかりした」

言いながら、心臓がバクバクしていた。

呼吸がうまくできない。けど止まれなかった。


「可愛くなりたいと思っても、無理だって思い知らされるだけで。毎回、メイク落としながら、自分が気持ち悪くてたまんなくて」


手が震えていた。

けど、ここでやめたら、また何も変われないと思った。


「それでも……どうしてもやめられなかった。ある日、お前を見かけて、こんなふうになれたらって……」


久遠の姿が、希望に見えた。


「少しでも近づきたいって……そう思ったんだ。だから……頼みたかった」


風が吹いた。

春の終わりかけの、ほんの少し冷たい風だった。


久遠は何も言わなかった。

ただ、黙って俺を見ていた。


風が吹いた。

春の終わりかけの、ほんの少し冷たい風だった。


久遠は何も言わなかった。

ただ、黙って俺を見ていた。

責めるでも、笑うでもなく。ただ、真正面から。


それが、逆に息苦しかった。


「……ふうん」


ようやく、口を開いた。


「意外。てか、悪いこと言ったな。まさかそんな理由だとは思ってなかったから」


その声は、さっきまでと違って、ほんの少しだけ優しかった。


「いいよ。俺も別に、すごい特別なことしてるわけじゃないし。だけど……あんた、まだやりようがありそうだしさ。アドバイスしてあげる」


ぽん、と軽く背中を押されたような気がした。


「……ほんとに?」


「うん。ただし――」


少しだけ笑って、首をかしげる。


「名前知らない人に、そういうこと教えるのって、地味にハードル高くない?」


「あ……」


そこでようやく気づいた。

自己紹介もしてなかった。どこまでも、俺は不器用だ。


「……俺、三鷹 詩音みたかしおん。文学部の二年。あと……柔道やってる。見ての通り、ガタイはでかい」


「詩音?めっちゃ可愛い名前してんじゃん」

くすっと笑う久遠。


やっぱり笑われたか、と一瞬だけ顔が熱くなる。


でも――嫌じゃなかった。

不思議と、それが嬉しかった。



◇◇



「まず、あんた……クレンジングって何使ってるの?」


翌週、学内のカフェの隅っこ。

前より少しだけ落ち着いて、俺と久遠は向かい合って座っていた。


「……市販の洗顔フォーム。ドラッグストアで売ってるやつ」


「……それ、クレンジングじゃなくて洗顔ね」


即答だった。しかも、完全に呆れ顔。


「落とすのはメイクだけじゃないんだよ。皮脂とか、日焼け止めとか、日常の汚れもちゃんとオフしないと、どれだけスキンケアしても無意味。まずはクレンジングオイルかミルク、ちゃんと肌質に合ったやつ買って」


久遠の口調はいつも通り、淡々としてる。

だけど、教えてくれてるのがわかる。適当じゃない、ちゃんと俺のために言葉を選んでくれてる。


その日から、俺は変わり始めた。


風呂上がりのスキンケア。

化粧水を手で押し込むように丁寧に馴染ませて、乳液で蓋をする。

クレンジングも、指先でやさしく。ゴシゴシ擦っていた頃とはまるで違う。


最初の数日は、変化なんてなかった。

だけど、一週間もすると、なんとなく顔がつっぱらなくなってきた。

二週間が過ぎた頃には、鏡に映る自分の肌が――少しだけ、柔らかくなったように見えた。


「……わかる? ちょっとツヤ出てきたじゃん」


久遠が、ある日の昼休みにそう言った。

俺は照れ臭くて、何も言えなかった。

けど、心の中では小さくガッツポーズをしてた。


努力すれば、変われる。

そう思わせてくれた、久遠との最初の出来事だった。



◇◇



「……はい、これ。おすすめの美容液。ドラストでも買えるやつ」


講義終わり、学部棟の裏手にあるベンチ。

いつの間にか俺たちの定位置になっていた場所で、久遠は慣れた手つきでスマホの画面を俺に見せてきた。


「……これ、使ってんの?」


「うん。俺も最初は肌弱かったけど、これでかなりマシになったから」


その横顔は、相変わらず綺麗だった。

長い睫毛に、整った輪郭。話すときに少しだけ動く口元。

真顔なのに、どこか優しげで。


……心臓が跳ねる。


けど、そんな自分にすぐ気づいて、慌てて押さえ込んだ。

ダメだ。違う。これは――


俺は俯いて、息をゆっくり吐いた。


“俺、そういうの無理”


最初に言われた、あの言葉。

頭の中で何度も、繰り返し再生される。


久遠は、俺のことなんて、そういう目で見てない。

それはちゃんと知ってる。分かってる。

だからこの気持ちは、恋なんかじゃない。

……ただの憧れだ。


綺麗で、優しくて、まっすぐで。

自分にはないものをたくさん持ってて――

だから、惹かれるのは当たり前だ。尊敬だ。ただのリスペクト。


俺は、久遠みたいになりたいだけ。


「……三鷹?」


「っ、あ、ごめん……」


焦って顔を上げると、久遠は少しだけ眉を寄せて、俺をのぞき込んでいた。


「顔、赤いよ? 体調悪い?」


「……いや、平気。ただ、ちょっと日焼けかな」


ぎこちなく笑って、ごまかした。


久遠はそれ以上、何も聞いてこなかった。

ただ「そっか」とだけ言って、またスマホをいじり始めた。


俺の鼓動だけが、まだ少し速かった。



◇◇



「目、閉じて」


久遠の静かな声に、俺はそっとまぶたを下ろした。

途端に、視界が闇に包まれる。


すぐに、指先が頬に触れた。

柔らかくて、ひんやりしてて、けど少しだけ温かい。


……近い。


久遠の顔が、こんなに近くにある。

呼吸がかすかに頬に触れる。

まつ毛同士が触れ合いそうな距離――そんなこと思ってる自分に気づいて、焦る。


(やば……何考えてんだ、俺)


ドキドキする胸を、内側から必死に押さえ込んだ。


「奥二重だけど、まつ毛はしっかりあるな。マスカラいらないかも」


久遠の指が、俺のまぶたにそっと筆を滑らせる。

くすぐったい。でも、嫌じゃない。

むしろ、このままずっと触れていてほしい――なんて、馬鹿か俺は。


(これは……違う。別に、変な意味じゃない。憧れてるだけ。久遠みたいになりたいだけ)


言い聞かせるように、心の中で繰り返す。

それでも、久遠の声が耳元で響くたびに、鼓動は早まった。


「眉はちゃんと整えてるし、あとは肌色に合ったリップ塗るくらいかな。口、軽く開けて」


言われるままに従うと、指が唇に触れた。

ふわっと、何かが乗る感触。

それが色なのか、ぬくもりなのか分からないほど、頭の中がぼうっとしていた。


「……できたよ」


鏡を差し出されて、俺はそっと目を開ける。

そこに映った自分を見て、言葉が出なかった。


「……俺……?」


思わず呟いた声に、久遠がふっと笑う。


「もともとの素材がいいんだよ。自分で気づいてないだけで、可愛い要素、ちゃんとある。目とか口とか。活かせば全然化ける」


その一言が、心の奥をじんわり温めた。


鏡の中の自分は、確かに俺だった。

けど、どこか知らない顔。

ふっくらした唇が艶やかに色づいてて、目元もほんのり柔らかい。

顔立ちは変わらないのに、印象がまるで違っていた。


「……すご……」


指でそっと唇に触れる。

こんな自分を見たことがなかった。


「ほんとに……ありがと……」


胸の奥から、自然と言葉が溢れた。

気づけば、涙がにじんでいた。


「嬉しい……すっごく……」


ぐしゃぐしゃになりそうな顔のまま、それでも笑った。

ただ、嬉しくて。感謝が溢れて、止められなくて。


久遠が、ぴたりと動きを止めたのが分かった。


「……」


息を呑むような、ほんの一瞬の静けさ。

けど俺は、そんな久遠に気づかないまま、ただ鏡の中の“新しい自分”を見つめ続けていた。



◇◇



昼休み、学食で友達と食事をしながら話していると、突然、一人の友達が俺の顔をじっと見てきた。


「お前、最近肌なんか綺麗になったんじゃね?」


俺は少し驚いて顔を上げた。


「え、マジで?」

「うん、なんかツヤがあるっていうか」


友達は口々にそんな風に言って、一人が俺の頬に手を伸ばす。

その手が軽く頬を触れた瞬間、思わず目を見開いた。


「おお、なんかスベスベじゃね!」


普段そんな話をしない友達にさえ分かるほど肌が変化したんだと、嬉しいような元々の自分のダメさに情けないような

なんだか気恥ずかしくて、俺は少し顔を赤くしながら言う。


「……ちゃんと顔洗うようにしたからかな」


正直、あまりこういう話には慣れてない。

でも、久遠のおかげでここまで綺麗になれたのは事実だった。


「お前、彼女でもできた?」


「で、出来てない出来てない。ちょっと気をつけただけだよ」


そう言って笑うと、友達は「ふーん」と軽く頷いて、また食事に戻った。


その時、学食の入り口から久遠が現れた。

俺の目を捉え、少し考えるような顔をして、近付いてくる。


「三鷹、今ちょっといい?」

「話があるんだ。ちょっとこっち来て」


(なんだろう)そう重いながら友達に一声かけて、先に行ってしまった久遠の後を着いていく。


そのまま人気のない空間に移動して、しばらくの沈黙のあと、久遠が口を開いた。


「さっき、褒められてたじゃん」


見られてたのか。俺は少し気恥ずかしくなりながらも静かに頷く。

これも全部久遠のおかげで変われたのだから。

久遠はそんな俺を見つめたまま、さっき友達が触れてきた場所に手を伸ばした。

そっと触れる優しい感触に頬が熱くなるのを感じる。


「良かったじゃん。なんかツヤツヤしてるって」


「う、うん。久遠のおかげだよ」


「ありがとう」と、久遠の手に緊張しながらぎこちなく微笑み答えた。

そんな俺を久遠は目を細めて静かに見つめる。

気難しい顔をしてても綺麗で、長いまつ毛が頬に影を落とすのをぼーっと見つめてしまう。

どのくらい時間が経ったのか、すっと久遠の指先が俺の頬から離れた。

なんだか名残惜しく感じて、離れた指先を目で追ってしまう。


久遠が俺を見つめるその目が、少しだけ優しさを含んでいるように感じる。

でも、それは俺の勘違いだと思いたくて、そう思い込もうとする自分がいる。


久遠は俺の様子に少し微笑んだあと、「じゃそれだけだから」と立ち去ってしまった。

何だったんだろう、さっきの。

さっきの久遠の目や指を思い出しては、心がドキドキする。


“俺、そういうの無理”


膨らんだ感情がざっと冷めていく。

これはただの憧れの感情だ。

久遠は俺に興味がないし、ただ優しさで付き合ってくれてるだけ。

だから、早くこんな気持ちは忘れなきゃいけないんだ。



[newpage]



午後はずっと集中できなかった。


ノートを取る手は止まりがちで、ぼんやりと講義を受けるフリをしながら、頭の中ではさっきの久遠の指先の感触ばかりがぐるぐると巡っていた。


──柔らかくて、優しくて。


まるで壊れ物に触れるみたいな、あの触れ方。


あれはただ触っただけだって、わかってる。

久遠は優しいから、俺みたいなやつにも親身になってくれてるだけ。


でも、じゃあなんであんな目をしてたんだろう。

なんで、あの時だけ、俺をあんな風に見つめたんだろう。


(気のせいだよな)


自分に言い聞かせるみたいに頭を振って、無理やりノートに視線を戻す。

でも、何を書いてるのかもう全然わからなかった。


講義が終わると、周囲ががやがやと立ち上がる音がする。

俺も荷物を鞄に押し込んで、廊下に出た。


久遠の姿は見当たらなかった。


(そりゃ、ずっと俺に構ってくれるほど暇じゃないよな)


自然とそんなことを考えてしまって、また胸の奥が少しだけ痛んだ。

こんな風に思ってしまうこと自体が、間違いなんだろうか。


久遠は、俺にとって“目指す存在”であるべきで、

変わりたいっていう気持ちの“象徴”であるべきで。


──“好き”とか、そんな気持ちを抱いていい相手じゃない。


(でも……)


いつの間にか、俺の中で“綺麗になりたい”って願いの理由が、

久遠に見てほしい、って気持ちに変わり始めているのを、俺は確かに自覚していた。


それでも、俺はその気持ちに名前をつけることができなかった。


“好き”なんて言葉を使ったら、それこそ久遠が一番嫌がることをしてしまう。


(これは“憧れ”だ。違う。絶対に)


強く心の中で唱えて、思考を押し込めるように歩き出した。


その日の帰り道。

ふと、校舎のガラスに映った自分の顔を見て足を止める。


肌は確かに、前よりもずっと整っていた。

赤みやボツボツもなくなって、すべすべしていて、鏡の前で泣いたあの日の自分じゃない。


でも──


(久遠は、俺のことどう思ってるんだろう)


答えの出ない問いがまた胸に重くのしかかって、俺は目を伏せた。


それでも、あの人にもっと見てもらいたいって、思ってしまうんだ。


気づかれないように、ただの“変わりたい”って願いの顔をして、

俺のこの気持ちを、少しずつ積み重ねていけたら。


いつか、全部を告げられる日が来るんだろうか。


それとも──


そう思いながら、俺はガラスに映る自分の顔をそっと撫でて、静かに歩き出した。



◇◇



久遠の部屋で、俺は静かに服を脱いで、そっと差し出されたワンピースに袖を通す。

ピタリと身体に沿う感触に、心臓が跳ねた。


「サイズ、大丈夫そう?」


「うん……思ったよりも着られる」


俺の返事に久遠は小さく笑う。その柔らかな声に安心して、そっと鏡の前に立った。


白地に小さな花柄が散ったワンピース。肩幅は、ふわふわした素材のおかげでなんとなく誤魔化せてる気がした。

腕はやっぱり男のそれだけど、メイクと髪型で少しだけ中性的に見える自分が映っていた。


「……わ、俺……」


「意外と似合うでしょ。てか、お前ってまつ毛もしっかりしてて口もいい形だし、パーツは元々可愛いんだよ」


久遠がそう言いながら後ろから鏡越しに見つめてくる。

その視線がくすぐったくて、俺は俯いた。


「……ありがとう。久遠のおかげで、初めて“女装してる自分”を、可愛いって……ちょっとだけ思えた」


久遠の表情が少しだけやわらいだ気がして、それが嬉しくて、ぽつりと口にしてしまった。


「……この姿で、外に出てみたいな」


その瞬間、空気が変わった気がした。


「——ダメだよ。そんな格好で、外に出るなよ」


久遠の声は、優しいのに、どこか突き放すような響きだった。


「……やっぱり、俺なんか……無理だよな。似合わないし……気持ち悪いし」


目の奥が熱くなる。

自分で勇気を出して口にした言葉なのに、否定された瞬間に、心がひどくみじめになった。


「やっぱり……お前の可愛いって、俺の勘違いだったんだよな」


俯いたままそう呟いた瞬間——


「違う」


突然、背中から腕が回され、ぎゅっと抱きしめられた。


「お前が女装してる姿、可愛すぎて……他の誰かに見せたくないんだよ」


耳元に落ちるその声は震えていた。


「俺だけが見ていたい。……俺、たぶん、お前のこと……好きになってた」


頭が真っ白になった。


久遠の鼓動が、背中越しに伝わってくる。

この人は、あの時「そういうの無理」って言ってた。

だからずっと、自分の気持ちなんて勘違いだって思い込んでたのに——


「……うそ、だろ」


心臓の鼓動が、もう隠せないくらいに跳ねていた。


背中から伝わる久遠の温もり。

その言葉の意味が、ゆっくりと、でも確実に心にしみこんでいく。


俺のこと、好き。

さっきまで自分を否定されるんだと思っていた心が、急にあたたかくなる。

だけど、信じられなくて、怖くて、声がうまく出せなかった。


久遠の腕が、少しだけ強くなる。

逃がさないように、でも優しく包むように。


「……俺も、好き。……久遠のこと」


その言葉を吐き出した瞬間、溜め込んでいた感情があふれ出すように、涙がぽろりと零れ落ちた。


「怖かった。ずっと、勘違いだって思い込もうとしてた。久遠が“無理”って言ってたから……でも、それでも、やっぱり、ずっと好きだった……」


涙を手の甲で拭おうとしたその手を、久遠がそっと取って、俺の前に回り込む。

涙の跡に優しく指先を添えながら、静かに、静かに目を見つめてくる。


「詩音……」


自分の名前を呼ばれた瞬間、胸がきゅうっと締めつけられる。


そして——

久遠の顔が、ゆっくりと近づいてきた。


瞼が自然と閉じる。

心臓の音が、耳の中でうるさいくらい響いていた。


唇が触れ合う、直前の一瞬。

お互いの吐息が混じる距離で、時間が止まる。


そして、そっと——柔らかなものが重なった。


最初のキスは、ほんの軽く、触れるだけのようなものだった。

けれど、何かが身体の奥まで響いてくるようで、目の奥がまた熱くなる。


久遠が唇を少し離し、俺の表情を確認するように目を覗き込んできた。

俺はもう、返す言葉もなく、ただ彼の目を見つめ返すしかできなかった。


すると、久遠はもう一度、ゆっくりと唇を重ねてきた。

今度は、もっと深く、やさしく。


形を確かめるように、丁寧に。

唇が少し動いて、俺の下唇を優しく吸われた。

思わず肩が震えると、久遠の手が背中を撫でて、落ち着かせるように包んでくる。


舌は触れない。

ただ、唇だけで気持ちを伝え合うような、優しくて繊細なキス。


長い、長い時間が過ぎたようで——

けれど、それはきっとほんの一瞬だったのだろう。


ゆっくりと離れたあと、久遠が俺の頬に額を寄せて、小さく囁いた。


「詩音、可愛いよ。……ほんとに」


また涙がこぼれた。

でも今度は、嬉しくてあたたかくて、溢れてくる涙だった。


「……久遠」


名前を呼ぶと、彼の顔がもう一度近づいてくる。


でも、今度は俺から——そう思って、震える指先で久遠の服の裾を掴んだ。


「……詩音、名前呼んでくれないじゃん。俺のことも名前で呼んで」


近付いた顔を少し止めて、少し拗ねたような顔で久遠がいう。

初めて見る顔に胸がキュッとなる。


「玲央……」


その響きを確かめるように、口の中でゆっくり転がす。

彼の名前を呼ぶだけで、胸がいっぱいになる。


「玲央……もっとキス、したい……」


そう口にした自分に驚きながらも、もう後戻りはできなかった。

久遠——玲央は目を細め、まるで獲物を逃がさないような優しい視線で俺を見つめる。


「……いいよ。詩音」


名前を呼ばれたその瞬間、心の奥がふわりと溶けた。


唇がまた重なる。

けれど今度は、さっきとは違う。

玲央の舌が、そっと俺の唇を撫でる。

びくりと身体が震えた瞬間、玲央が小さく「力抜いて」と囁いた。


そっと開いた唇の隙間に、玲央の舌が滑り込む。


熱くて、柔らかくて、甘く絡むような感覚。

舌と舌が触れ合って、まるで心まで繋がるような錯覚に落ちる。


深く、優しく、でも確実に貪るように。


呼吸ができない。

いや、しているのに、それ以上に全身がとろけていく。

腰が抜けそうで、玲央に支えられてなかったらもう立っていられなかった。


「……ん、ふっ……く、ぅ、ぅぅ……」


必死で堪えようとしたけど、途切れ途切れの息と声が漏れてしまう。

唇が離れると、そこには唾液の糸がほんのり残っていた。


俺は目を開ける余裕もなく、荒い呼吸を繰り返しながら、玲央の胸にもたれるように倒れ込んだ。

心臓がバクバクと暴れていて、顔から火が出そうなくらい熱い。


「……し、んど……」


「……慣れてなさすぎ。可愛い」


玲央が喉を鳴らすように笑うのが聞こえる。

その声に、また心臓が跳ねた。


俺がようやく顔を上げると、玲央は俺の乱れた髪を優しく撫でながら、ニヤッと意地悪そうに笑った。


「……続きは、また今度な」


耳元で囁くように言って、額にキスを落とした。


その言葉の余韻が、甘く、熱く、体の奥にまで残って——

俺はまた、玲央の胸の中でぐったりと身体を預けた。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

読んでくださった皆さんの時間が、少しでも楽しいものになっていれば幸いです。

感想やご意見などいただけると、とても励みになります。

また、どこかの物語でお会いできたら嬉しいです。

ありがとうございました。


2025/05/02

トリスタ

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