婚約破棄してくれと言われましても、今更です
「ローラ、きみには申し訳ないと思うが、婚約を破棄してほしい」
沈痛な面持ちで、この家の主の息子であるグレイソンがわたしに頭を下げた。
「婚約破棄、今さら?」
大きな港を持ち、交易の要として国への影響力も大きなルードベル領の領主の一人息子として育ったグレイソンはいずれ領主になるべく教育されてきた。人当たりはいいが、上に立つ者としての矜持を持つ彼は簡単に謝罪などしない。人に頭を下げるなど、そうとうな覚悟があってのことだろう。
何より、幼い頃から家族同然に育ってきた彼の言葉を無碍にすることも出来ず、積みあがった書類にサインしていた手を止める。
わたしはローラ・シューデッツ。造船業で財を成したシューデッツ伯爵家の娘だ。
造船業の第一人者とされる我が家と、海に面した貿易の街を領地に持つルードベル伯爵家は親交が深い。
そのような縁もあり、わたしと三歳年上のグレイソンの婚約の話は幼い頃から出ていた。
わたしもグレイソンも何の疑いもなくそのことを受け入れ、良好な関係を築いていった。
彼が王都の学園に通うことなり家を離れることになった年、入れ違いでわたしはルードベル伯爵家に花嫁修業のため住み込むこととなった。
跡取であるグレイソン不在の中、わたしは屋敷に馴染み、人手が足りない時に書類整理を手伝ったことがきっかけで、今ではグレイソンの父である領主様について仕事をこなすようになっている。
椅子に座りおっとりとお茶を飲み会話を楽しむ生活よりも、数字に囲まれ、領地の人の話を聞いたり、役人と交渉したりするほうが性に合っていた。
学園に通っていたグレイソンの成績はというと、あまり芳しくなかった。
落第するというほどではなかったが、お世辞にも優秀とは言い難く、全体で見ても中の下といったところだろうか。
しかし、当のグレイソンは友人が出来、新しい趣味や流行り物を知ったりと、充実した日々を送っていることが、わたしに届いた手紙から読み取ることが出来た。
三年間の学園生活を終え、卒業したグレイソンが領地に戻って来て、二年が経つ。
乗馬や狩りを楽しみ、時々紳士クラブに顔を出し、日々自由に暮らすグレイソンと違い、わたしは毎日忙しく仕事をこなしている。
結婚式の日取りは来月に決まり、その準備もあって寝る間も惜しむほど多忙な日々だ。
そんな中、婚約破棄しろとは、穏やかでない。
執務室にある応接セットへグレイソンを促し、同じ部屋で書類に向き合っていたハリーに顔を向ける。彼は無言で頷くと、お茶の準備を頼みに部屋を出て行く。
ハリーはわたしが多くを語らずとも察して細やかな気配りができる、優秀な人だ。
温かな紅茶を前に、わたしはグレイソンと向かい合って座った。わたしが座るソファーの後ろには、ハリーが後ろを護るかのように立っている。
「わたしに婚約を破棄してほしい、というのは冗談ではなくて、本気なの?」
尋ねるわたしから目を逸らす事もなく、グレイソンは頷く。
「結婚式は来月なの。準備も進んでいるし、何より、この婚約は我がシューデッツ伯爵家とルードベル伯爵家を繋ぐ大事なご縁だわ」
わたし達の結婚ありきで、すでにいくつかの事業提携の話が進んでいる。今さら後戻りは出来ないだろう。
「だけど、僕はきみ以外に結婚したい人が出来てしまったんだ」
沈痛な面持ちで告げるグレイソンの言葉に、わたしはきょとんとしてしまう。
わたし以外に結婚したい人?
胸がチクリと痛んだ気がしたが、彼がわたしと結婚したいと思っていたことに驚きと喜びも感じてしまう。
けれど、彼が結婚を望む相手が現れたことは、素直に嬉しい。
「良かったわね」
「は?」
幼馴染の彼は領主の息子として社交の場に出ることも多かったが、恋の噂を聞いたことがなかった。幼少の頃からわたしとの婚約の話を進められ、恋愛の一つも知らないままなのではないかと心配していたのだ。
「良くなんかないよ。けれど、僕の子供を身籠ったと言われてしまったんだ」
わたしから目を逸らして、グレイソンはとんでもないことを告白する。
「月に一度のハリー達との商会関係の集まりで酒を飲んで、酔っぱらって気がついたら、連れ込み宿で隣に裸の女性がいた。先日、彼女に、その、過ちを謝罪に行ったら、あの時に子が出来たと言われたんだ」
ショック過ぎて、わたしは言葉が出ない。
「僕は責任を取って彼女と結婚することにした。だから、ローラ。きみとの婚約を破棄させてほしい」
子供が出来た責任を取って結婚するとか、わたしとの婚約を破棄するとか、何から問いただせばいいのか。
わたしは温くなった紅茶を一口、飲んだ。
「グレイソン、突然子供が出来たと言われてあなたも混乱していると思うの」
そうだと言わんばかりにグレイソンは顔を歪める。
「わたしとしては、あなたがその方を幸せにしようと決めているのであれば結婚に反対はしないけれど、産まれてくる子供が自分の子供ではなくても、愛せる自信はあるの?」
グレイソンがわたしの言葉に首を捻る。
少しの沈黙の後、もう一度、彼は首を捻った。
「なんの謎かけのつもりだ?」
今度はわたしが首を捻る番だ。
突然子供が出来たと言われて、自分の身体のことを忘れるなんてあんまりだ。
いや、まさか、あの大事なことを、彼は知らないのかしら。
わたしの心臓が早鐘を打つ。
まさか、まさか。
「グレイソン、あなた、自分に子種がないことは知っているわよね?」
「……へ?」
ああ、やっぱり。
「どおりで会話が噛み合わないわけだわ」
わたしは思わず天を仰ぎ、目を両手で塞ぐ。
学園を卒業し、領主の跡取りに決定する前には医療機関で検査を受ける。
今後領主としての仕事を引き継いでいく前に健康状態が良好か、大きな病気を患っていないかという心配ももちろんあるが、一番は子供を儲けられるかどうかの検査だ。
この国は血を重んじる。
貴族家の跡取りは、必ずその一族の血縁でなければならない。
それも、なるべく直系の濃い血縁であることが望ましいとされている。
検査の結果、グレイソンには子種がないことがわかった。
恐らく幼い頃にかかった流行り病で高熱が何日も続いたことが原因と思われるが、今となってはわからない。
ルードベル伯爵家に子供は彼一人。すでに領主代行を行えるほどこの家に馴染んだわたしを手放す選択も難しかった。
そのため、わたしとグレイソンの婚約は具体的な話が出ていたにも関わらず、結ばれることはなかった。
グレイソンは跡取りを外され、彼の代わりに現ルードベル伯爵の弟であるシトラール子爵の次男、ハリーが養子縁組を結び、ルードベル伯爵を継ぐこととなったのだ。
来月の結婚は、わたしとハリーの結婚式だ。
今さら、わたし達の婚約を解消することなど無理なのだ。
しかし、まさか、グレイソンがわたしとハリーの婚約を知らなかったなんて。
招待客やその席順、帰りに持たせるお土産など細々とした手配まで嬉々として手伝ってくれていると思ったら、自分の結婚式だと思っていたのなら納得だ。
わたしのウェディングドレスまで、王都で予約は三年待ちという噂がある進気鋭のデザイナーに依頼してくれていた。
共に準備してきた自分との結婚式を来月に控えていると思い、沈痛な面持ちで、婚約解消を願い出てきたというわけだったのか。
わたしは倒れそうになる身体を行儀悪くソファーの背もたれに預ける。
自分には子種がないと、だから領主の跡継ぎにはなれないと、彼が知らなかったなんて。
検査の結果を受けて、本人を除いた家族会議が何度も開かれた。すでに領主代行のような仕事をしていたわたしもその場には同席していた。
話し合いを重ね、グレイソンの従兄弟であるハリーを婿養子に迎えること、わたしとハリーが婚約することが決まった。
その後は当然、領主様がグレイソン本人に告げていると思っていた。
学園を卒業して帰って来た彼は、領主教育を受けることもなく、ローラがいてくれれば安心だから、と笑って社交に精を出していた。
領主にはならないものの、王都で培った人脈は確かに活きていた。
彼の交流関係は幅広く、グレイソンの名を出すとたいていは笑顔になり、取引が円滑にスムーズに進むことも多い。
人と人とを繋ぐことも得意で、彼の発案で思いもよらない事業提携に結び付いたこともある。
学力は高くないかもしれないが、穏やかな性格、様々なことに興味を持つ好奇心旺盛さ、広い交友関係は、人の上に立つ人間として成功する一助となるだろう。
そうして築いてきた彼自身は、きっと、自身が領主になるという覚悟からだったのではないだろうか。
「グレイソン、お前には子種がない。子孫を残すことが出来ないお前は領主にはなれない。来月の結婚式は、この家の領主になる俺とローラの結婚式だ」
わたしの隣に腰を下ろしたハリーが、残酷にもグレイソンに事実を告げる。
「僕に子種がない? では、彼女の子供は? 僕は領主になれないって、そんな……」
グレイソンは、ハリーに言われた言葉を繰り返す。
困惑するのも当然だろう。
「ルードベルのことは俺に任せて、お前は酒場の女中と所帯をもって平凡な似合いの人生を歩むといい」
ハリーは冷たくグレイソンに告げると、立ち上がる。
「仕事の邪魔だ。俺達はお前と違って忙しいんだから、さっさと部屋から出て行ってくれ」
そう言って、困惑しているグレイソンを部屋から追い出してしまう。
残されたわたしに、ハリーは笑顔を向ける。
「もうすぐ結婚式だというのに、突然馬鹿なことを言い出して笑ってしまうな。ローラは何も気にせず仕事に集中してくれればいい。雑事は俺に任せて大丈夫だ」
わたしを執務机に誘導して、彼は用事があるからと部屋を出て行く。
賢く有能なハリーのことだ。何か考えがあるのだろう。
わたしは目の前の書類を片づけることに専念することにした。
◇◇◇◇◇
結婚式まであと三日に迫った午後。
わたしはグレイソンと二人、サロンでお茶の時間を楽しんでいた。
大きな掃き出し窓からは柔らかな日差しが差し込む。美しく整えられた領主館の庭には春の花が咲き誇っていて、書類仕事に疲れた目を癒してくれる。
わたしの向かいに座るグレイソンは、いつも通り、穏やかな眼差しだ。自分に子種がないこと、領主にはなれないことを告げられ困惑していたグレイソンであったが、父である領主様、当事者であるわたしともよく話し合い、今では前向きになっていた。
「今日もお茶菓子はなしね」
わたしの前には温かな紅茶と真っ赤に熟れた苺が三粒。
果物はもちろん美味しいし好きだけれど、バターとお砂糖と小麦粉の悪魔的な美味しさには敵わない。
ため息をつくわたしに、グレイソンはクスクスと笑う。
「ウェディングドレスを綺麗に着たいからと、食事制限を自分から申し出たのではなかった?」
「だって、一生に一度なんですもの。人生で一番綺麗な自分でいたいじゃない」
「きみは変わらずいつもベストな状態だと思うけど?」
からかうように言うグレイソンは、身体を動かすことが好きだからか、どんなに食べても太ることはない。わたしはダイエットのために大好きなお菓子をもう一月近くも口にしていないというのに。
グレイソンを睨みつけながら苺を一粒、口に含む。
甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、美味しい。
「ローラ、お前との婚約は破棄する!!」
ノックもなしにドアを開けて入って来たハリーは、突然、わたしに向かって婚約破棄を突き付けた。
目をまん丸くして驚くわたしとグレイソンに向かって、彼は語り出す。
「俺は本当に愛する人が出来てしまった。彼女は美しく、ルードベル伯爵領にも利をもたらしてくれるだろう素晴らしい女性だ。ローラとは結婚できないが、俺が領主になってもこれまで通り領主補佐としてここで働くことは許してやろう」
わたしは持っていたティーカップをそっと戻し、深呼吸をする。
まさか、約一か月で、二度も婚約破棄を告げられるとは。
「ええと、婚約破棄と言われましても、わたしとあなたの婚約はもう解消されていますよ?」
「お前がどんなに泣いてすがっても俺の気持ちは変わらな……え?」
◇◇◇◇◇
グレイソンに婚約破棄を願われたあの日、ハリーの言葉にわたしは疑問を覚えた。
グレイソンの一夜の過ちの相手を酒場の女中と断定したその根拠はどこからきているのだろう。
わたしとの婚約が決まって以来、隙を見せることのなかった彼だったが、結婚を目前に自身の勝ちを確信し、緩んでしまったようだ。
グレイソンの婚約破棄騒動の後、改めて父である領主様に自分に子種がないこと、そのため次代領主候補から外れたことを聞かされ落ち込んで部屋に閉じこもっているグレイソンの私室の扉を叩く。
トントントン
応答がないのでもう一度叩いてみる。
トントントン
やはり返事はないが、室内からは僅かだが物音が聞こえる。グレイソンが部屋にいることを確信したわたしは、大きく息を吸い込み、強く扉を叩く。
ドンドンドン ドン! ドン!!
「部屋の中にいることはわかっているのよ、グレイソン!! 開けないとどうなるか、覚悟はできていて!?」
もう一度強く扉を叩こうと振り上げた拳が宙を打つ。
ひどい顔色をしたグレイソンが開けた扉の中に、わたしはさっと入り扉を閉める。
「いるんだったらさっさと開けなさいよ」
「ご、ごめん」
「謝罪はいいから、あなたが一夜を共にしたという女性のことを教えてちょうだい」
「え……」
グレイソンは驚き、少しの沈黙の後、覚悟を決めたような諦めたような顔をした。
「わかった。着替えながら話すから、後ろ向いてて」
そう言って、衣擦れの音とともにメアリという女性のことを話し始めた。
出会いは、半年程前。月に一度の商会関係者の若者世代での集まりで飲みに出かけた先の酒場だったという。その店でウェイトレスをしていた彼女は初対面のグレイソンに好みだ、カッコいいと囁いてきたが、客へのリップサービスだろうと取り合うことはなかった。
それからも同じメンバーで飲みに行く時はその店を利用することが多く、メアリとは顔見知りになっていった。
次第によく行くカフェや家の用事での出先など、偶然出会う回数が増えて、メアリの態度はどんどん親密さを増していく。
そして、いつもの飲み会に参加した日、目が覚めると連れ込み宿の一室、隣には裸のメアリがいたという。
そこからどうやって屋敷に帰ってきたか、覚えていないほどうろたえていた。それから数日悩んで、軽はずみな行為をしたことを彼女に謝らなくては、とやっと思い立ち、会いに行くことにした。
「そしたら、お腹に僕の子供がいる、って言われたんだ」
「行為をしてから一週間程度で子供が出来たかわかると思ってるの?」
子供しか騙されないような嘘に引っ掛かったグレイソンに呆れてため息が出る。
「冷静さを欠いていたんだよ。さ、準備が出来たから出掛けよう」
部屋着から外出着に着替えたグレイソンがわたしを部屋の外へと誘導する。
「あら、どうしてわたしがメアリさんのところへ行くとわかったの?」
「きみの行動力は昔から凄いからね」
遠い目をしているグレイソンが思い出しているのは、わたしが彼を虐めたガキ大将を優等生と言われるまで更生させた時のことか、それとも古い慣習にこだわる一部の領民が新しい流通ルート導入に納得するまで根気強く十日十晩説き伏せたときのことか。
いずれにしても、時間や手間のかかる無茶なことをしていたのは十代前半まで。ここ数年は知略と人脈をフルに活かして最短で最大の方法を探っている。
グレイソンに案内されて、メアリという女性の働く酒場に着くと、まだ日が暮れたばかりだというのに店の中は随分と賑わっていた。
店の奥で騒いでいる若い男達の中には、なんとハリーも交じっている。
グレイソンとわたしは目配せし合うと、彼らと仕切りを隔てた隣の席へこそりと座った。
「ルードベルの坊ちゃんがメアリと結婚してくれたら、ハリーの領主の座も安泰だな」
「あいつは頭はたいしてよくないくせに人望だけはあるからな。とっとと家から追い出してやりたかったんだ」
「だからって、自分の女をあてがうヤツがいるかよ」
「しかも、メアリの腹ん中にいるのは、お前の子供だろ」
悪いヤツだと、男達は下品に笑い声を上げる。
「流石に俺の子をグレイソンの子供だと偽るとは俺だって思わなかったよ」
場の中心にいるハリーの横にはエプロン姿の女性がいた。
恐らく彼女が噂のメアリさんだろう。
「あたし一途だからぁ、もちろんハリーの子供よぉ。でもハリーったら、領主様になったら妾にしてくれるって言ってたのにぃ、グレイソンを惚れさせてあの家から引きずり出さないと別れるとか言われて大変だったんだからぁ」
「こいつ、いつまでたってもお子様グレイソン落とせなくってさ、しょうがないから酒に薬入れてグレイソン潰して、裸でベッドに放り込んでやっちまったと思わせたんだよ」
「裸のあたし見て真っ赤になっちゃって、あんた達みたいなクズとは大違いだったわよぉ」
色っぽく笑うメアリさんを見て、その時のことを思い出したのかグレイソンの顔が赤く染まった。腹が立ったのでメニューで頭を叩いてやる。
彼らの会話の流れでおおまかないきさつがわかった。
どうやら、ハリーはグレイソンの存在が気に入らなかったようだ。
自分が次期領主に決まったようなものだけれど、学園を卒業して帰ってきたグレイソンの人望の厚さに危機感を覚え、どうにかして彼を一族から追い出してしまおうと平民女性との結婚を企んだのか。
しかし、相手が自分の彼女で、しかも自身の子供を妊娠しているというではないか。
今回の企みがバレなければ、ハリーはグレイソンに自分の子供を育てさせることになっていた。
「しかし、まさか正面から婚約破棄しに来るとは思わなかったよ」
「婚約してると思い込んでいたから、結婚式で『新郎はお前じゃない』って恥をかかせてやろうと計画していたなんて、性格悪いよなー」
盛り上がる酒場の男達は計画の全容を白状してくれる。
ひとしきり聞いたところで、わたしとグレイソンは彼らに気付かれないように静かに店を出た。二人並んで、馬車を待たせているところまで歩く。
「そういえば、領主様にどんな風に検査結果の話を聞いたの?」
学園卒業後に受けた、子種がないと判明した検査。その結果を受けてグレイソンは領主候補から外れ、わたしとの婚約も結ばれることはなかったというのに。彼は先ほどまでその事実を知らなかった。
「聞いていなかった」
「聞いていない? どういうこと?」
「きみとハリーに僕に子種がないと聞かされた後、父さんに確認したんだ」
グレイソンの父である領主様に、ハリーが従兄弟である自分が告げると申し出たそうだ。親である領主様から子種がないと、跡継ぎ候補から外すと言われては、自分は必要ないと思ってしまうのではないかと心配し、それよりも親しく年の近い自分から話をして、自分のことを助けてほしいと、この領地にはグレイソンが必要だときちんと説明すると。
しかし、グレイソンはハリーからそんなことは一言も言われていない。
卒業祝いという名目で二人で飲みに行ったことはあるが、それだけだ。
だから、自分はいずれわたしと結婚して父の跡を継いで領主になると思っていたようだ。
グレイソンと婚約が結ばれなかったとはいえ、わたし達が親しい幼馴染であることに変わりはなかったし、わざわざ他の人と婚約をしていることを話題にすることも気まずくてしなかった。
それでも、グレイソンが領地に帰って来て二年もの間、彼がわたし達の婚約に気付かないとは異常だ。ハリーの念入りな根回しがあったに違いない。
どうしてハリーはグレイソンに真実を告げなかったのか。
いや、告げられなかったのか?
考え込むわたしの手に、ふいに温かなぬくもりを感じる。
隣を歩くグレイソンが、わたしを見つめていた。
「僕には子種がないから、領主には相応しくない。ローラはもう何年も父さんについて領政について学んで、その才能は誰もが認めている。きみこそがこの領地に相応しい」
歩みを止めて、グレイソンの言葉を聞く。
人の行き交う飲み屋街のはずなのに、耳に届くのはグレイソンの声だけ。
「僕はきみと結婚するとずっと思っていた。婚約すらしていなかったと、間抜けな僕は気付いていなくて。自惚れかもしれないけど、僕はきみを幸せに出来ると思っていた。でも、本当はハリーと婚約していて、来月には結婚してしまう。あんな男と、きみは……」
「結婚しないわ」
わたしの言葉に、グレイソンは言葉を詰まらせる。
「あんな屑野郎と、結婚なんてするわけないじゃない」
「で、でも、きみはルードベルには必要な人で、領地を継ぐには一族の血縁である必要がある。だからハリーとローラは結婚しないといけなくて」
グレイソンの言葉に、うんうんと頷く。
「自分で言うのも何だけど、すでに領主代行までこなせるわたしを手放すのは馬鹿のすることよ。何より、この結婚はルードベル伯爵家とシューデッツ伯爵家の縁を繋ぐことが目的。そして、あなたはルードベル伯爵の一人息子。わたしの結婚相手はハリーよりもグレイソン、あなたのほうが望ましいわ」
「でも、僕には子種がなくて」
「子種がない男と、性格が悪くておそらく表に出ていないけど犯罪歴のある男と、どちらが次期領主にふさわしいと思う?」
ハリーは酒場でグレイソンの酒に薬を盛ったと自白していた。探ればそれ以上のこともしているだろう。犯罪者がそれを隠してルードベルの領主になるなど、あってはならない。
「あなたは領主様の子供だから相続権があるし、わたし達の次の代は、あなたの子供でなくてもいいと思うのよ。一族の中から養子を取るとか、何か策を考えればいいわ。今日は領主様も早く帰ると言っていたから、相談してみましょう」
子種がないと判明した時点で領主候補から外れることが慣例となっている。しかし、子種があると言われていても子宝に恵まれない場合も稀にあった。その場合は血族から養子を取ることになる。最初から養子を検討していれば、教育にも時間がかけられていいのではないだろうか。
「ローラは、それでいいの?」
戸惑うグレイソンに、わたしは微笑む。
「わたしも幼い頃からずっと、あなたのお嫁さんになると思っていたのよ。家のためとハリーとの婚約を受け入れたけど、やっとあの小賢しい男が尻尾を出したんだもの。このチャンスは逃がさないわ」
初対面の日、はにかみながら小さな花束をくれたグレイソンを覚えている。
それからも事あるごとに贈られる花束は次第にわたしの好みを踏まえたものに変わっていって。それを貰うことを、わたしがどんなに楽しみにしていたのか、彼に伝えたことがあっただろうか。
二人で手を繋いだまま屋敷に戻ると、領主様と奥方様がわたし達を待ち構えていた。
こちらから出向こうかと思っていたので、不思議に思い、グレイソンと顔を見合わせる。
「父さん、話があります」
「私達からも話があるが、先にお前達の話を聞こう」
四人で、家族用のサロンへ場所を移す。
グレイソンは先ほど酒場で見聞きしたハリーの言動を伝える。
「父さん、僕には子種がないから跡継ぎにはなれないと言われたけれど、僕は、ローラと結婚して、大好きなこのルードベルを一緒に守っていきたい」
「私もハリーについて調査をさせた。今日上がってきた報告はまだ一部だろうが、ハリーの不正が見つかった。身内だからと彼を次期領主候補としたことは、甘い判断だった」
わたしも一緒に仕事をしていたというのに、彼の不正は見抜けなかった。表向き、いつも完璧で隙のない仕事ぶりだったのだ。
「領主の権限で、ハリーは領地追放とする。次期領主は、グレイソン、お前だ」
「父さん、ありがとう」
喜ぶグレイソンに、領主様と奥方様はなぜかもじもじとしだす。
「まぁ、その次の代はアテがあるというか、出来たというか」
奥方様がそっと自身のお腹に手を当てる。
「ま、まさか」
「グレイソンに弟か妹が出来る予定なの」
恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに奥方様は告げる。
一族の跡取り候補の不正に婚約解消と重い出来事が重なった中で、なんと奥方様の懐妊という嬉しいニュースが出てくるとは。
ひとしきり喜びあったところで、わたしは領主様にお願いをする。
「ところで、ハリーの追放は少し待ってもらえませんか?」
「なぜだ? まだ不正を調べきっていないからか?」
「それもありますが、グレイソンもわたし達も騙した分、お返しをしてあげなくてはいけませんので」
そう言って、わたしはにやりと笑う。
彼はグレイソンにわたしとの婚約を伝えていなかったのだ。
こちらも親切にわたしとハリーの婚約が解消になったこと、彼が領主候補から外れたことを告げてやる必要はない。
むしろ、領地から追放される前に良い夢の一つでも見せてやろうじゃないか。
ハリーとは婚約はしていたものの、ハリーがルードベル本家の養子になるのは結婚と同時の予定だったので、手続きは婚約の解消のみだった。
恐らく、領主様もハリーやその父である弟に違和感を感じて手続きを進めなかったのだろう。
ギリギリではあったが、彼等の企みに気がつけて良かった。
◇◇◇◇◇
そうして策略を巡らせて、約一月。
まだわたしと婚約をしていると思っていたハリーが、ついに今日、わたしに婚約破棄を告げに来たのだ。
そんなものはとっくに解消されているというのに。
「あなたが愛する女性は、エマニエル・デートリッヒのことかしら?」
「どうしてそれを!?」
「隣国の公爵家の隠し子。正式には認められていないけれど、当主様からは溺愛されて、その財産は三百年は遊んで暮らせるほど。貴重な宝石の出る鉱山を持参金として嫁いで来るという美女。そんな娘、どこにもいないわよ」
驚くハリーに真実を告げてやる。
「わたしが作った架空の人物よ。役者にお願いして、一芝居打ってもらったの。あなたが自分の彼女にグレイソンをたぶらかすようにお願いしたのと同じようにね」
「俺に可愛くおねだりをする彼女は架空だと? 隣国の王家とも深い繋がりがあると、金は腐るほどあると言っていたエマニエルは、実在しない? 俺を愛していると、自分の全ての財産をくれてもいいと言ったエマニエルが、役者?」
「彼女は以前、街で一座のチラシを配っていた時にあなたに足をひっかけて転ばされたそうよ。あなたは泥水に転んだ彼女を鼻で笑って通り過ぎて行ったんですって。わたしの協力依頼に、喜んで手を貸してくれたわ」
もちろん、そのほかにも一座への支援と個人への報酬も用意しているけれど。
ハリーはわたし達の前では品行方正そのものだったけれど、プライベートではそうではなかった。
身分に物を言わせて領民の前では横暴な行いを繰り返していた。質の悪い友人達も多くいたようで、彼らを融通して無理を通すようなこともあったらしい。
しかし、大きな犯罪には手を染めておらず、小物感がにじみ出ている。
グレイソンに子種がないこと、領主候補から外れたことを告げなかったことは罪に問うことはできない。本人が言ったと主張すれば、証拠は何もないのだから。
検査結果の偽造は大きな罪だが、その通知書もハリーが保管していたので、恐らく処分してしまっているだろうことから、こちらも証拠がない。ハリー本人も騙されたと主張する可能性すらある。
領主様は彼を領地追放するとおっしゃったが、その時点でわかっている小さな不正等では追放は妥当ではないと反発されるだろう。
だから、理由を作ってあげたのだ。
ある夜会で美しい令嬢に出会ったハリーは、彼女が隣国の高貴な生まれだと知る。
美しく妖艶な令嬢に、男達は魅了された。
自分と結婚したら多額の持参金の他に宝石の出る鉱山の権利書も、交易の融通もしてあげるという言葉を真に受け、彼女と結婚するために、男達は彼女に甘い言葉を囁き、珍しい物や高価な物を捧げた。
ハリーも例外ではなく、競うように豪勢な贈り物を繰り返す。
彼女と結婚できたら、領地の運営が得意なわたしよりも利があると踏んだ彼は、令嬢の望むまま領地の情報を流し、持ち出し禁止の貴重な書類まで見せてしまった。
令嬢への贈り物の費用を賄うために領地運営の資金に手を付け、書類を横領してやっと、ハリーはプロポーズを受け入れてもらった。
皆が羨む美しい未来の妻と膨大な財力、隣国公爵家の後ろ盾を手に入れたつもりで意気揚々とわたしに婚約破棄を告げに来たのだ。
彼がグレイソンにしようとしていたように、わたしも結婚式当日にハリーにあなたとの婚約は解消になっていると告げてあげようと思っていたのに。
粘着質なハリーからの求愛に恐怖を感じた令嬢役の女性から、これ以上は無理だと訴えられ、計画を進めることにしたのだ。
「ということで、罪人のあなたにはルードベルの領地から出て行ってもらいます。あなたのお父様も色々と罪を犯していたようですので、一家全員で出て行ってもらうことになるので、寂しくないわね?」
にっこり微笑むわたしに、ハリーは顔面を青くする。
「あなたの子供を宿しているというメアリさんも一緒に連れて行ってあげてくださいな」
ハリーの子供であるかは五分の一程度の確率だろうけれど。似た者同士の二人なら、うまくやっていけるだろう。
わめくハリーはルードベル家の使用人から警備隊へと引き渡され、そのまま関所へと連れて行かれる。そこで彼の家族と恋人のメアリと合流する予定だ。
最低限の荷物は彼の家の使用人達が準備してくれているはずなので、安心して出て行ってくれればいい。
追放処分となった彼らの身分証にはルードベル領地への入領禁止の文字が刻まれている。
他領、他国への関所ではもちろん身分証の提示は必要になるし、仕事を探す時も家を借りる時も身分証は必要だ。
きちんとした宿に泊まる際も身分証がないと宿泊許可は下りないだろう。彼らの手持ちではドミトリーに宿泊するのがやっとかもしれないけれど。
出身地の入領禁止を記されている身分証を持った彼らはまともな仕事に就くことは難しいだろう。小賢しいハリーならば何か抜け道を見つけ出すかもしれないけれど、きっと日の当たる人生を送ることは難しくなるに違いない。
わざわざ彼らの今後を知ろうとは思わないけれど、人脈の広いグレイソンの耳には彼らの行く末は届くことだろう。
そして数日後、わたしとグレイソンの結婚式が行われた。
大好きな焼き菓子を我慢した甲斐があり、ウェディングドレスは難なく着ることが出来た。
学園に通っていた頃に友人となったデザイナーに依頼してくれていたという、わたしの好みをたっぷり反映した美しいドレスを着たわたしを見るグレイソンの瞳が輝いている。
「綺麗だ」
そんな単純な一言が嬉しい。
「ありがとう。あなたも素敵よ」
そう言って、差し出された手を握る。
たくさんの祝福の言葉を受けて、わたし達は夫婦の誓いをした。
グレイソンとの婚約の話が流れ、ハリーと婚約していた数年間を思い出す。
仕事は出来るけれど、わたしに興味も関心もない、どこか裏がありそうな、しかし隙のないハリーとの婚約はお互いの家のためと理解していた。
けれど、グレイソンの温かな笑顔や小さな冗談を言う明るさ、さりげなくわたしの体調を気にしてくれるところ、季節の花束をもらう度、未来のわたしの隣にいるのは彼ではないことが、心にすき間風を吹かせた。
ハリーの人間性を見抜けなかった後悔は否めないが、結婚する前に見抜けて良かった。
グレイソンに妹が生まれた約一年後、わたし達の最初の子供が生まれた。もちろん、グレイソンとの子だ。
今更だが、ハリーがグレイソンに子種がないことを告げなかったことに合点がいく。そもそも、グレイソンは検査の結果、子種があったのだろう。検査結果をすり替え、ルードベル伯爵に虚偽の報告をし、自身が次期領主候補に成り上がった。
グレイソンが検査結果に納得がいかず再検査をされたら、決定が覆ってしまう。そのため、グレイソンには領主候補から外れたこと、わたしとハリーが婚約したことは極力秘密にしていたのだ。
しかし、わたしとハリーの結婚式が近づいても領主の息子であるグレイソンを跡継ぎと思っている者も多く、人望も厚い彼への嫉妬と、もうすぐ結婚すると言う驕りが、婚約破棄騒動を引き起こすきっかけとなった。
跡継ぎの心配がなくなったわたし達は夫婦関係も領地運営も順調だった。
少々強引で手荒な方法を選択しがちなわたしと、穏やかで視野の広いグレイソンはなかなか良いコンビらしく、新しい企画も順調だ。
この企画が形になった日には、きっとグレイソンはわたしの好きな花を集めた花束をお祝いに贈ってくれるだろう。
貰った花束のお礼を言って、あなたと結婚できた喜びを、今を共に生きていける幸福を伝えよう。
もちろん、愛しているの言葉も一緒に。
数ある作品の中から見つけてくださり、読んでくださり、ありがとうございます。
ブックマーク、評価、いいね、どれもとても嬉しいです。