エンディングC「人喰らいの海辺」
首を掴まれながらも、銃の存在に朦朧としながらも、あたしは彼を睨みつけた。
……鈴木さん。いいや、鈴木。
この人が、この人が、あたしの街を壊したんだ。
この人が。
無意識だった。次の瞬間、あたしは手に持っていた殺虫スプレーを構えると、鈴木の目に向けて一気に噴射した!
抵抗されるとは思ってもいなかったのだろう、鈴木はあたしの頭に向けて発砲するも−−かすった。
耳の端を噛まれながらも、あたしは鈴木を蹴り上げて銃弾を回避した。
懸命に走り、机の裏に滑り込む。
銃弾が足元を横切る。机に穴があく。
強烈な叫び声をあげながら、鈴木は無差別に発砲し始めた。あたしは体を可能な限り小さく丸めて、銃弾から必死に逃げる。
と、五発も撃たずに鈴木の攻撃が終わった。弾が切れたらしい。
あっけない彼の攻撃の後に、呻きと引き金の音がむなしく響く。
あたしは背中を丸めたまま机の端から鈴木の様子を見やった。
鈴木は天空へと空砲を放っている。そしてついに諦めたのか、乱雑に銃を投げ捨てると、机にすがりついた。
「目が、目がぁっ!」
鈴木は机に付属された水道の蛇口を捻り、必死で目を洗う。シンクに頭を突っ込みながら充血した目玉を洗う哀れなその後姿を、あたしは呆然と見つめた。
こんな情けない、こんな下らない男にあたしの日常が奪われただなんて。悲しみも憎たらしさも絶望もこえて、あたしは嗚咽を繰り返した。そして鈴木を蹴った。何度も、何度も。
どれくらい鈴木を蹴ったろうか。蹴っているうちに増長した虚しさによって、あたしは這って逃げる鈴木の後を追うのをやめた。
「あんたなんか、アリに食われちゃえばいいんだ」
壁の隅っこで蹲り涙を流す鈴木に、あたしは吐き捨てるように言うと、目を瞑った。
今日はもう眠れない、羊だって数えないけど、きっと大丈夫だ。鈴木の薬が出回れば、アリたちはきっと殲滅されるだろう。テレビで観た天気予報のように、週末の雨は朝になればやむだろう。
「ぜんぶ、なんでもなかったように、返してもらうんだから……」
そう祈りながら、あたしは朝を待つことにした。鈴木の目は洗っても痛みを主張するらしく、彼の啜り泣きを聞きながらあたしは、果てのない時間をひたすら待ち続けた。
パソコンのそばに置かれた時計で秒を数えて、分を数えて、一時間一時間を数えて、ひらすら待つ。
そうしてようやく、地下の朝は目立つ境もなくやってきた。
外にはきっと、太陽が昇っている頃。あたしは部屋を出ることを決めた。地下で息を潜めてアリの壊滅を待っていても、誰も助けには来てくれないだろう。ここにいたって、なにもならないのだ。
外で、街で、人々は戦っているに違いない。あたしは武器を持っている。今度は逃げ出さずに、戦うんだ。
「よし、決めた……」
あたしは立ち上がると、ドアへと歩きだした。察してか、弛んだ蛇口のように泣いていた鈴木が、顔をあげる。
「上に行くのか?」
「そうだよ」
「……連れてってほしい」
目は閉じられたまま。どうやら見えないらしい。昨晩の威勢はどこえやら、実に素直だ。
訝しく思って黙り込む。そんなあたしを腫れ物でもさわるように、鈴木は恐る恐る頭をさげた。
「頼むよ。ここにいることを誰も知らないんだ。復旧が遅れれば、餓死してしまうかもしれない。目も見えないんだ」
そう言って瞼を開く鈴木。彼の眼球は白く濁り、赤く充血し、黒目さえ判別できないくらいに淀んでいた。
この場所に来るのに、迷路のような廊下を歩いた。アリだっているかもしれない。まず脱出は不可能だろう。あたしは鈴木の命を握っている。このまま捻り潰すのは、なんて簡単。
「わかった。そのかわり車の鍵を渡して。それに両手を縛る。逃げられないと思ってよ」
だけど殺してなんかやらない。
あたしは狂人でも人殺しでもない。鈴木とは違う。彼を警察に突きだして、あたしはそれを復讐にする。
「あんたなんか嫌いだけど」
鈴木から車の鍵をもらい、縛る。それから、鈴木を先頭にし、入った時よりも気を配りながら廊下への扉を開けさせた。
廊下の様子は殆ど変わりはない。
鈴木を支えるように進ませる。神経が張りつめてゆく。
ゆっくり、確実に。 あたしは注意深く、けれど機敏に、前へ前へ進む。ライトを照らす。アリはいない。進む。また照らす。周囲を見渡す。
薄暗いリノリウムの廊下を抜けて、コンクリートの階段をあがる。鈴木が階段から転げ落ちないように配慮し、そしてなるべく死体を見ないように、一段一段あがる。息を潜めて、目を凝らしながら。
廊下も慎重に進み、あたしたちはついに外への扉の前に立った。
「これを開ければ地上か。もしアリが出現したら、あんたに構わず逃げるからね」
鈴木に吐き捨てるように言うと、あたしは扉の脇へとにじりよった。唯一の武器である殺虫スプレーを構える。
「ドアノブを回して、少しずつ」
鈴木がドアノブに手をかける。
「開けて」
震える手でゆっくりと、扉は開かれた。
一瞬、目が眩んだ。 柔らかな光が扉の間からするりと抜けて、あたしたちを照らす。
湿った地下の空気を切り裂くような一迅の風が吹いて、真っ青な世界に包まれる。
ため息が漏れた。
先ほどまでの雨とうって変わって、外は晴天だ。
温かな空気が光とともに溢れ、爽やかな青をたたえた空が優しく見下ろしている。
「アリはいないみたい」
あたしの声にホッとしたのか、鈴木が再び涙を流し始めた。
「今度はあたしが先に進むから、音がする方向についてきて」
僅かな水たまりを残すだけのアスファルトが広がっていて、アリがいないのは明らか。そう確信して、歩きながら全身の力が抜けていくのが分かった。大地を踏みしめるごとに、体に溜まった悪い気持ちが暖かな太陽光に溶かされてゆく。
まぶしくて空を見上げると、平和の象徴のような鳩たちが悠々と旋回していた。
美しくて、なんて健全な日常だろう。
「あたしが運転するから、助手席に乗って」
車を目の前にして、自然と唇が綻んだ。やっと街に帰れるのだ。街は悲惨な状態かもしれない。それでも単純に、嬉しい。
車のキーのボタンを押し、鍵を解除する。泣き出したい気持ちを抑えながら運転席に向かう。
帰るんだ。
が、足が止まった。
何かがあたしの背後に落ちるような音がして、あたしは停止した。
あたしと鈴木のちょうど真ん中に。空から唐突に、何かが降ってきたらしい音が。
振り向く。鈴木も何事かと頭を揺らしている。あたしはゆっくりと、落ちた何かに視点を切り替えた。
鈴木の顔から胸へ、胸から腰へ、腰から膝へ、足下へ。
そして、何か。
見た。けれどあたしには、それが何なのか全く分からなかった。
「ミミズ……?」
無意識に出た疑問符で、それの正体をなんとなく察知する。とは言っても落ちてきたそれは、本来のミミズとは明らかに一線をかいしていた。
頭上を仰ぐ。
鳩が旋回している。
鳩たちが高度を落とす。
バランスを崩す。
落下。
ボト!
ボトボトボト!
あたしは悲鳴をあげながら鳩の落下を回避した。全ての鳩が落ちたのを確認して、地面を見渡す。
やはりミミズだ。鳩の体をミミズが覆っている。
高い空から落ちたのにも関わらず、鳩の体に絡む大量のミミズは、威勢良く蠢いている。
そしてあろうことか、鳩を喰っていた。
「な、なんなの……?」
あたしがたじろいたと同時に、今度はあたしではない誰かの悲鳴が上がった。
鈴木さんだ、と思う前に、あたしは走り出していた。
枝が折れるような音が響き、鈴木の背中から何かが吹っ飛んだ。
ごろりとアスファルトに転がる何か。……ゴキブリだ。
人間の赤ん坊くらいの大きさのゴキブリ。それが、緑色の汁を噴出しながら節のある太い四肢を蠢かしている。
鈴木がゴキブリの上に倒れた。絶命していると分かるのに時間はまったく必要なかった。何故なら、鈴木の首がL字に折れていたからだ。
ゴキブリの緑色の体液と、鈴木の赤い血液がアスファルトの黒をじわじわと染めてゆく。
後ろを見るのをやめて体勢を建て直し、足をひたすら動かし、大地をけりあげる。
「いやぁ、いやぁ……」
あたしは有り得ない事態に困惑しながらも走った。見渡せる周囲は平和そのもので、辺りには何気ない静けさが広がっている。
いや。
よく耳をそばだてると、静閑な景色の向こうに奇妙な音があった。
ジー、ジーという、独特な音。
聞き覚えがある。
「オケラの、鳴き声?」
声の正体を確認しようとして、あたしはやめた。
いつの間にか建物の裏から、黒い波がこちらに向かってきていた。
アリは建物な潜んでいた。
それだけではない。
アリ以外にも、恐るべき虫たちは存在していたのだ。
「一つ目の巨大イカ、海亀ほどの団子虫……」
車に飛び乗って車の鍵をポケットから探り出す。差し込む。回す。
鈍い音をたててエンジンがかかる。ハンドブレーキをあげ、ギアを変え、あたしはアクセルを一気に踏み込んだ!
――動き出す。また動き出す。黒い悪夢と共に。
人類の想像のキャパシティーを越えて、彼らは大挙してきた。
自らを封じた氷の世界から、遙かな水の世界へと旅立つ。
漆黒の、闇よりも黒い津波となって、すべての日常を飲み込む。人を食べ尽くす。
あたしは呆然と、眠れぬ日々が続くことを思い知った。
この黒い、
人喰らいの海辺で……。
―完―




