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第三話「行動」

 鈴木さんが向かっているのは、勤め先の製薬会社だった。どうやらそこに今回発生したアリの資料があり、鈴木さんはその資料を、急遽設置されたらしい災害対策本部とやらに送らなければならないという。


 鈴木さんの瞳は使命感に燃えていた。誰も信じなかったからこうなったんだと鈴木さんはさっき言っていたけれど、もしかして後悔のようなものがあるのかもしれない。

 製薬会社はちょっとした国立大学並みに広い敷地を持っていた。

 緑に包まれた広大な敷地内に、近代的な建物が並んでいる。製薬会社というのは、そんなにお金になるものなのだろうか。


「さ、そろそろ出るよ。後ろにサンダルがあるはずだから、それ履いて。殺虫スプレーも念のために持ってていいから」


 駐車場に停車する。

 鈴木さんが周囲を懐中電灯で照らし、アリがいるかを確認する。


 春の雨にやむ気配はない。激しい雨によって水浸しになったアスファルトの上にはアリは這っていないようだ。


「よし行こう」

 鈴木さんに促されて、あたしは恐々としながらドアを開けた。

「急ぐんだ」

 殺虫スプレーというイマイチ頼りない武器を片手に、あたしたちは叩きつける雫を切って建物に向かった。


 中はシンと静まっていた。

 そういえば車の時計は三時をさしていたし、さすがにこの時間まで残業をしている人はいないんだろう。

 リノリウムばりの白い廊下にポツポツ灯るのは非常口を指し示す緑の光だけ。


「アリはまだ来てないみたいですね」

 あたしは衣服がびしょびしょになっているのもかまわず鈴木さんの腕を握った。恥ずかしいよりも置いていかれるかもしれない恐怖の方が大事だ。

「油断はしない方がいい。確かにアリが出てきた地盤沈下地域からは遠いけど、距離は街と変わらないんだしね」


 濡れているせいで滑りそうになる足をなんとか前へ前へと進める。

「でも、アリって道しるべフェロモンっていうのがあるんですよね」

 鈴木さんに歩調をあわせて。


「よく知ってるね」

「国語の教科書に載ってたんです、小学生の頃の。お尻からフェロモンを出すから、餌まで行列を作るって。だから道にも迷わないで餌まで一直線で。」

 ……でもここには餌みたいなのないし、と言ったところで、あたしの声は自然にしぼんでいった。


 つまりあたしは、街が餌場だからここは大丈夫に違いない、と言い聞かせようとしているのだ。鈴木さんと自分に。


 だけどそれはあたしが餌だったかもしれないということを意味してる。そしてあたしの大学の友達やバイト先の人だって……。

 自分の発言に怒りと後悔を覚える。

 最低だ、あたし。鈴木さんだって、街に家族や知り合いがいるに違いない。


 あたしは鈴木さんを見上げた。

 鈴木さんの横顔はどこか冷たい。軽率なあたしの発言に、機嫌を悪くしたのかもしれない。

 うまく心情をくみ取れないまま、更に歩を進める。


「もうちょっとで資料室だ。資料室の中は完全に隔離されているから安心していい」


 鈴木さんは地下へとのびた階段をライトで照らしながらあたしに微笑んだ。

 こんな時でも人に、しかも気の利かないことばかり言ってしまうあたしに、気遣える鈴木さんの大らかさに胸が少しだけ痛み、同時に軽くなる。

 あたしもぎこちないながら笑顔で返す。


 そのまま、ふわっとした足取りで、あたしは階段の一段目を踏みおろした。


 と、そのとき、予想していた堅い感覚とは逆のものが、あたしの体を掬った。思わずバランスを崩したところを鈴木さんにサッと抱えられる。


 ああ、あたしって本当に役にたたないな。


 照れながらも感謝の言葉をつむごうとして、

 ……あたしの思考は停止した。


 あたしの足に無数のアリがたかっている。叫びながらあたしは殺虫スプレーを足に噴射した。

 更にバランスを崩して、ついにあたしたちは床に尻餅をついた。

 そして目の前の恐るべき光景を、見てしまった――。



 目が合った。


 最初は、黒い影かと思った。その影は巨大な黒い芋虫のよう。そしてちょうど顔があるあたりに、影や芋虫にはあるはずのない目玉があった。


 赤く充血した目玉が、ぬるぬるとした光を反射させながら、こちらを凝視している。


 生き物だ、と思った瞬間、鈴木さんが物体へと殺虫スプレーを噴射した。粉塵に振り払われるようにアリたちが床へ落ちる。

 確信したくはなかったが、ソレはなんと人間だった。


 血まみれの眼鏡が階段の脇に落ちている。


 鈴木さんが、高坂、と小さく吐いた。

 高坂と呼ばれた男性はぐったりと恨めしそうにこちらを見つめている。そしてその皮膚はまるで焼け爛れたように浅黒く、所々から血液が流れていた。


 生きたまま殺されたのだ、と解るのに時間はかからなかった。


 目蓋や唇、鼻といった突出した部位は犬にでも喰いちぎられたようにあからさまになくなっており、指先は腐り落ちてしまったかのように骨と爪だけを残している。

 衣服はただの布切れとなって血に染まり、はだけた胸元には白い肋骨が浮いている、というか、飛び出ている。


 人間だ、人間だ。

 アリに喰われた人間だ。


 呆然としながらそれを認めたとき、吐き気が一気に襲った。

 見ないように目を瞑っても、生肉の脂っこい臭いが鼻腔に漂ってきて、とめられなくなって、二度、三度と吐いてしまう。


 そんなあたしの様子に気づいたのか、鈴木さんがあたしを強く抱きしめた。

 背中をさすってくれる。


「大丈夫だ、アリに襲われて、地下に逃げようとしたんだ。そう、大丈夫だ、先に進もう」


 先に進むという言葉に思わず耳を疑う。

 車に戻った方が安全じゃないの、そう苛立ちながらあたしは鈴木さんに目を向けた。


 ……鈴木さんはあの、使命感に燃えた横顔で、じいっと地下を見つめていた。

 命を削ってでも進もうと意気込む瞳。

 真剣というよりも魅了されているような頬。


 鈴木さんを仰視した瞬間、黒いインクがぽとりと落ちたかのように、心が小さな波紋をたてた。インクはみるみるうちにその根を広げる。


 極めて直感的に、そう、直感的に、あたしは思う。

 この人は、なにか、おかしい。


 心のどこかが小さく警鐘を奏でてる。

 そう感じながらも、あたしはついていくしかない。万が一ここから逃げ出しても、アリに襲われてしまうだけなのだから。

 あたしは黒を払拭するように心の中で呟いた。


 大丈夫だ、きっと。

 この状態で精神的に変にならない方がおかしいもん。

 大丈夫、大丈夫だ。


 いつ倒れてもおかしくないくらいに磨耗した心を背負って、あたしたちはひたすら進んだ。慎重に、慎重に足を運ぶ。

 地下は迷路のようで、鈴木さんがいなければ迷ってしまうだろう、と思う。


 心臓が熱くてたまらない、体のありとあらゆる部分から冷や汗が出ているのがわかる、寒さではなく全身が震える。

 キリキリと痛いくらいに恐怖を体現しながら長い時間を歩む。


 そうしてようやく、資料室についたらしい。


「ここだ」

 と、殺虫スプレーを構えながら鈴木さんは言った。


 それは、レントゲン室を彷彿させる頑丈な鉄の扉だった。番号ボタンがドアノブの上についている。鈴木さんは慣れた手つきでボタンを押していく。

 暗証番号制なのか、ずいぶんと長くボタンを打ち込むと、ようやくドアの向こうから鍵を開けるような音が軋んだ。


 鈴木さんはドアノブに手をかけると、ゆっくりと扉を開け始めた。

 中からアリが出てこないことを確認し、一気に引く。


 と、小さな部屋のような場所が広がった。

 アリはいない。

 部屋の奥にもうひとつ扉があった。扉は二重のようだ。

廊下につながる扉を閉めて、鈴木さんは再びドアノブに手をかける。

 同じような動作で慎重に中を確認されてから、ゆっくりと扉は開かれた。


 尾をのばす、心の黒いシミを残しながら。


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