第二話「逃避」
滝のような、雨だ。
あたしは激しい雨に無駄な抵抗をするハイパーを見つめながら、びしょ濡れの体をこすり合わせた。
「大丈夫? 間一髪だったもんな」
あたしの隣、運転席でハンドルを握り締めながら、男……名前を鈴木さんというらしい、鈴木さんが呟いた。
鈴木さんの言うとおり、あたしは間一髪だった。
壁伝いにマンションを降りると、街は異常事態に混乱していた。
恐ろしい量のアリが街中をせわしなく襲い、あたりは恐慌状態に陥った人々の悲鳴で満ち溢れていた。
地面を容赦なく叩きつける豪雨から逃れるためだろうか、地面から人々の家へと、アリは雪崩れ込んでいた。
アリに覆われた街。 今まで観たことも聞いたこともないような地獄の光景が四方八方に広がっていた。絶望と混乱の嘆きが至る所から溢れかえっていた。
あたしは目を見開き、耳を押さえながら、懸命に蟻のいない方へと逃げた。アリに襲われないようにと川のようになってしまった道をわざと選んだことがあたしの命を左右したらしい。
あたしは今、安全な場所にいる。偶然通った車に拾われなかったら、今頃は。
そう思って、心の底から身震いする。
「本当に助かりました。ありがとうございます」
「いや、気にしないでくれ」 鈴木さんは淡々と車を運転する。車は獣道を走っていた。
走ってさえいれば、アリに襲われることはないだろう。
「あの、すみませんが、どうしてこうなっちゃったか分かりますか?」
あたしは恐る恐る鈴木さんに尋ねた。
悪夢が具現化したような非常事態。何の前触れもなかった、はずだ。
あたしが寝ている間に世界は丸ごとすり替わってしまったんだろうか。
あたしの質問に鈴木さんは少し考え込むと、重たそうに唇を開き始めた。
「信じてもらえないかも知れないけれど、いいか?」
言葉の意味がよく分からない。この人も今起こっている事態に頭がついていっていないのだろうか。
疑問を喉元に引っ掛けながら、あたしは頷いた。
「ラーセン棚氷って知ってる?」
「……えっと、知らないです」
突然放たれた耳慣れない単語に、あたしは素直に答える。
「地球温暖化の影響で世界中の気温が上昇しているのは知っているよね?」
「学校で、えっと今あたし大学に通ってるんですけど、ちょっと習いました」
「そう。ラーセン棚氷っていうのは南極にあるんだけど、それが最近解け始めたんだ」
それとアリにどんな関係があるんだ?
「ラーセン棚氷はある海域を覆っていた。それが解けたことで、ある異変が海に起こったんだ」
「異変、ですか?」
「ああ。海域に封じ込められていた生き物たちが出現し始めたんだ。彼らは独自の進化を遂げていて、非常に奇怪な生態をしていた。一つ目の巨大イカだとか、海亀より大きい団子虫みたいな生き物とかね」
想像しようとして、いまいちうまく出来なかった。あたしの頭のキャパシティーを超えてる。
「もしかして、その、海の生き物が日本に来たんですか? あのアリは海から来たんですか?」
「違うよ」
鈴木さんは冷静に否定すると、言葉を続けた。
「同じような現象が日本の、地下で起こってるんだ。ここ数年、少しずつ地中にあった氷の層が地球温暖化によって溶けていった。更に、いきすぎた都市開発によって地盤沈下が起こり、地中へ続く深い大穴ができた。それらがきっかけになり、それまで氷に包まれた閉塞的な環境で独自の進化を遂げていたアリたちが地上に出現し始めたんだ」
ギアをチェンジして、鈴木さんは更にアクセルを踏んだ。
「信じなくても良いよ。誰も信じなかったから、こうなったんだ」
まるで何もかも知っていたかのような口ぶり。
「鈴木さんは何者、なんですか?」
「さっきも話したとおり。製薬会社のただのサラリーマンさ。……殺虫剤の研究をしてた」
雨に濡れた斜面を、車が勢いよく登る。
坂道を登りきったところで、車は停車した。
豪雨が鉄を叩く音、それを切り裂くようにせわしなく動くワイパー。暗いフロントガラスに、険しい鈴木さんの顔が映る。
二十台半ばのごく普通の男性と、ごく普通の女子大生のあたし。アリの襲撃がウソだったかのようにごく普通の、なんだか自主映画の一場面みたい。
別れ話を切り出すように、鈴木さんは再び重たそうに唇を動かした。
「アリはずっとこの日を待っていたよ。無知で傲慢な人間たちの欲望が、自分たちを閉じこめる氷を溶かす日をね。アリにとっての春が、始まりの季節が、ついに来てしまったのさ」
世間話のようにそういうと、
「さて……、君にはここで降りて欲しいんだけれど」
鈴木さんは外をみやった。
「降りるって、外はアリで溢れてるんですよ!」
冗談じゃない。あたしはシートにしがみついた。
「この先に市民プールがある。アリは水の中までには入ってこられない。そこにしばらく浸っていれば大丈夫だ」
「そんなの、安全かどうか分からないし!」
「今から俺が行くところよりは安全だと思うよ」
鈴木さんはあたしを安心させたいのかぎこちなく笑みを浮かべる。
だけどあたしは笑顔を睨んで跳ね返した。あたしの真剣な表情に、鈴木さんの笑みが翳る。
「言わないでおこうと思ったけど……あのアリはただ異常繁殖してるってだけのアリじゃない。肉食のアリなんだ。モグラ程度なら、ものの数分で骨だけになる」
やっぱり。
街中からあがっていたあの悲鳴は、断末魔だったのだ。
なおさら、ここで引き下がるわけにはいかないじゃないか。
「お願いします。つれてって。いったい何日プールに浸かっていればいいのか、鈴木さんも分からないでしょ?」
あたしは懇願し、シートの上で土下座した。
鈴木さんの表情は分からないけど、苛立ちの含まれた声が下りてきた。
「危険かもしれないんだ。それでもついてくるのか?」
その言葉にドキッとする。
だけど、市民プールにひたすら浸かり続けるよりも、知識と情報を持った大人の男性についていった方が安全だと、あたしの心の天秤はそう判断していた。
あくまで直感。
でもその直感を信じたから、あたしは窓から逃げることが出来たのだ。
鈴木さんについていく。その方が、生き延びる確率は高い……と思う。
ひたすら頭を下げ続けるあたしに、ついに鈴木さんは観念した。
「分かった。もう時間がないから行くよ。後悔しても知らないよ」
「……お願いします」
頭上から、鈴木さんのため息がこぼれた。
「シートベルトをして。飛ばすよ」
鈴木さんはそういうと、再びエンジンを燃やした。




