百六十八歩目 「崩れそう?(III)」
翡翠は父がかつて、自分の母に使った魔法を、使ったのだ。
彼女の髪飾りが左右で違った時、周りには左右同じに見えるように、彼が使った魔法を。
「…………ノアは、信じてた。」
「そうですか。吾輩は、あなたを信じていませんでしたけど。」
「……………どうして、どうして?」
「そんなの、信じられるわけ……記憶が飛べばただの他人に過ぎませんから。」
「…………………酷い、なんで、なんでそんなこと言うの。しかも楽しそうに。」
「あなたを信じていなかったから、そしてあなたが幼稚でおかしいからです。」
「じゃあ、じゃあ、なんでさっき駆け込んできたの?!」
「あんなの………意味なんてない、ただの気まぐれ。」
「嘘だ!!」
「嘘だと証明できるんですか?」
「嘘じゃないとも、証明できないもん!」
「でもそれを本当だと断定することが出来ない以上、立証は出来ません。」
「嘘なの!!ノアが嘘って言ったら嘘なの!!!」
「意味不明です。」
「翡翠ずっと笑顔だもん、だから嘘なの!!」
「くだらない…………」
エティノアンヌは、今にも泣きそうである。
翡翠は子供のような兄の姿を、じっと見つめていた。
「ねぇ、翡翠はノアのこと嫌い?」
「…………一応感謝はしていますが、嫌い……あぁ、大嫌いですね。」
「じゃあなんで、笑うの?!なんで笑うの?!」
「別に……」
「ノアだって………ノアだって………翡翠のこと、大っ嫌い!!!」
兄のその言葉は、弟の心に、深く深く突き刺さった。
翡翠は確かに今、その言葉に、深く深く深く傷ついた………はずなのに、涙は一滴も溢れないし、笑顔も崩れない。
…………悪いのは信頼と愛を仇で返して、ずっと己の本心がわかっていなかった自分。
本心と、表情が、真逆だ。
悪かったと謝ることも出来ず、嫌いなんて言わないでと怒ることも出来ず、ただただ苦い笑みを浮かべる。
無意識に笑顔が作られ、勝手に思ってもいないことが口から出て、自分の感情が置いて行かれるのだ。
「はいはい、そうですね。」
翡翠は、エティノアンヌを宥めようとしたが、エティノアンヌがいつの間にか、どこかに行ってしまったことに気づく。
そして困り果てている雷丸に、笑顔で返した。
「翡翠様、今すぐエレノア殿を探しに………!」
「必要ありませんよ。」
「はい!って…………………えぇ?!」
「どうせ彼が本気を出したら、誰も捕まえられませんから。」
「なるほど、畏まりました。」
「そんなことより雷丸様、すみません。人前で身内同士の喧嘩だなんて。」
「………………いえ。」
「あはは……吾輩は、どうすれば良かったのかなぁ?」
「……………」
「そうだ、雷丸様。」
「は、はい!」
「その煙草というか、ちゃんと言うと………お香に近いものですかね?」
「これが何か?」
「……吾輩、それを知っているような気がするのです。まぁ、記憶を失っているらしいので、気のせいかもしれませんが、何かご存知ありません?」
「…………………………心当たりは、あるな。」
「本当ですか?!」
「これ、結構強めのやつなんで、恐らく……………ここから、送っていた手紙に、香りが残ってたんと違いますか。それを、微かに記憶していた可能性が高いです。」
「手紙………」
「…………それより、俺からも、お聞きしたいことがあるんです。」
「……?」
「どうして、笑顔なのでしょうか。今………笑える状況では、ないと思うのですけれど。」
雷丸は、思い切って本心をぶつけた。