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赫き剣風  作者: 林来州
9/10

 九


 ――それはもはや『死』そのものと言えた。新三郎を見据える刀治から放たれる気は、殺気などと言えるほど生易しいものでは無かった。

 普段は濁り切った死人同然の瞳は今、何も映さぬ漆黒そのものと化していた。

 一里はある道程を駆けた筈なのに、息も鼓動も眠っているように静かだった。心は激しく燃え盛っているのに、血は氷水の如く冷たかった。

「……そもそも」

 目の前の獲物が、口を開いた。あの日見た、己とは違う、濁った殺意に満ちた目だ。

「お前が両国橋で出しゃばらなければ、何もかも穏便に済んだのだ」

 忌々し気に言葉を吐き捨てる間にも、獲物は隙を見せはしない。

「……(じゃかぁ)しい」

 冷たく、どこまでも冷たく、刀治は言葉を吐き捨てる。

「おどれのようなしょうもない阿保が、ようもやってくれたのぅ」

 刀治の言葉に獲物は眉間の皺を深め、歯ぎしりを立てた。そして、絞り出すように声を吐いた。

「……しょうもない阿保、だと……?」

 獲物の目がより濁り、その身からどろりとした殺気と狂気が一層あふれ出す。だが刀治は動じない。そして――

(たら)しに入れあげる奴や、しょうもない阿保やろ」

 淡々と、鋭く、冷たく、言い放つ。その言葉に、獲物が激怒した。

「――浅ましい浪人風情がよくも! よくも(おれ)の想いを愚弄(ぐろう)したな!」

 熱く、激しく、不死の山が岩漿(マグマ)を吹き出すように、獲物は己を焦がす激情を吐き出す。

「――あんた、まさか、定助様と衆道の関係やったん……?」

 刀治の言葉と獲物の尋常ならざる荒れっぷりに、恐る恐る、鈴が口を挟んだ。


『……正直に申すと、私と新三郎は衆道の関係にあった。だが、私が澪に夢中になってからはぱたりと途絶えた。……恥ずかしくも、今まで美しい者とあれば何度も抱いてきたのだが、心を奪われたのは澪だけじゃった』


 ここに来る前に定助から聞かされた真実が、刀治の脳裏を(よぎ)った。

「おお! そうよ! お主が誰彼構わずに尻を差し出すのと違って、(おれ)はただ、定助様だけにこの身を捧げたのよ!」

 一種の陶酔と、自己憐憫の混じった調子で、新三郎は絶叫した。

「なのに、この阿婆擦れは定助様の寵愛を! 全部! 全部奪い盗ったのだ! 嗚呼、畜生めが! 今まで! 何度も! 深く交わったのに! 何故 (おれ)では無いのだ! 何故!何故! 何故! (おれ)が! (おれ)が一番! 定助様を想うているというのに!」

 獲物は乱れに乱れ、口から泡を吹いて(わめ)きたてる。その様を、澪は恐怖、鈴は憐憫(れんびん)、そして刀治は冷ややかな目で見ていた。

 ――結局は、好色家の不始末に誰もが振り回されているのだと思うと、何もかもがやるせないと刀治は思った。

 だが今は――目の前の嫉妬に狂った哀れな狂人を殺す事しか、頭にはない。前後不覚になっている獲物に、刀治は静かに、疾く、間合いを詰めた。

「うがあああああああああ!」

 だが、一足一刀の間合いまで詰め寄ったところで、獲物は血走った双眸(そうぼう)を向け、驚くほど流麗で正確な剣技を繰り出した。

「ッ!」

 一刀。二刀。三刀。四刀。容赦なく襲い来る斬撃を、躱し、去い なし、隙を探す。


 (シュッ)


 五刀目。獲物の――否、『新三郎』の放った横薙ぎが、刀治の腹を裂いた。臓腑こそ無傷なものの、薄皮と肉を傷つけられ、血がどろりと漏れ出た。

「刀治さん!」

 澪の絶叫が響く。

「ヒハハハハ! おどろおどろしく出てきた割には、大したことないのう!」

 新三郎の顔が嗜虐に歪む。どれほど心が獣と変わり果てようと、その骨身に染みついた技は、紛れもなく『侍』であった。

 だが、刀治は顔色一つ変えず後ろに下がる。そして鈴もまた、刀治の勝利を確信した様子で、その死闘を見届けていた。

 刀治と新三郎。互いの距離は三間(約四メートル五十センチ)ほど。睨み合ったまま、動かない。

「どうした! 始めの方の威勢の良さはどこへ行った! もしや、今更怖気づいたか!」

 先ほどの剣戟で、新三郎は己の技量は刀治よりも勝っていると確信していた。それに気を良くし、口汚く挑発の言葉を並べ立て続けた。

「初めて逢った時、人斬りの眼をしておると思ったが、所詮は浪人風情よな! 大方、辻斬りで力無き者をいたぶり殺したか、そこいらの破落戸(ごろつき)を斬り捨てていい気になったか、そんなところか!」

 だがどれほど蔑まれようと、刀治は何も言わず、唯々獲物を見据えていた。

「怖くて声も出ないのか! ほれ、命乞いくらいしてみてはどうだ! 『申し訳ございません新三郎様! そこの卑しい泥棒猫と、愚かな尻軽の命を差し上げますので、どうかお許しを――」

(じゃかぁ)しい」

 不意に、有無を言わさぬドスの効いた声で、刀治は新三郎の罵りを遮った。

「……松平のごたごたも、おどれの嫉妬も、どうでもええ」

 淡々と、顔色一つ変えず、さも当然と言わんが如く、刀治は左の手で腹の傷を撫でた。手のひらに、べったりと血が付く。

「唯、おどれは、生きとったらあかんのや」

 そして、左手の血を、刀身の先に塗りたくる。その不可解な行動に、新三郎は攻めあぐねてしまった。

「――来い。殺してやる」

 斧でも振りかぶるように、左足を前に、刀を右肩に乗せ、腰を落として刀治は構えた。

(――なんじゃ、あの構えは)

 今まで様々な剣術を見てきた新三郎であったが、刀治の構えは全く類似するものが無いほど奇異であった。

(寄らば斬る、と、それぐらいしか出来ぬではないか)

 腰を落としている。故に、先の先を取れるほど機敏には動けない。

(……苦し紛れのはったりか。腕に覚えがあっても、所詮は野良犬剣法か)

 刀治の構えをそう判断し、新三郎の口元が勝利を確信して吊り上がった。一方、刀治は更に殺気――否、『死気』を強め、静かに構える。

 新三郎が、正眼に構える。前に出ると見せかけ刀治を誘い、空振ったところで突きで仕留める算段であった。

 張り詰めた空気が、両者の間を満たす。この一合で決着が着くと、誰もが確信した。

「――キェェェェェェ!」

 猿叫を上げながら、新三郎が一気に間合いを詰める。それに反応し、すかさず、刀を袈裟斬りに振り下ろした。――新三郎がまだ距離を詰め切らぬほど遠くに居るのにだ。


(あか)き剣風が、虚空を斬り裂いた。


(間抜けめ! 臆して先走ったか!)

 勝利を確信し、新三郎の心臓が大きく脈打った。澪の短い悲鳴が、再び境内に響く。

 ――その時、全くの不意に、新三郎の視界が真っ赤に染まった。

「ぬうッ!」

 本当に――本当に、訳の分からぬことであった。何かが眼に入り込み、新三郎は大きく(ひる)んでしまった。

(――血!)

 己の眼に入り込んだものを、新三郎は理解した。それは、刀治が刀身に塗りたくり、そして剣風で飛ばした血であった。

 しかし、理解した時にはもう既に遅かった。刀治は構えなおし、左下から右上へ逆袈裟に斬り返した。

 ――新三郎の右の脇腹から左の肩まで一直線に斬撃が(はし)り、血が噴き出した。そして、二、三歩後ろによろめいたかと思うと、そのまま力なく石畳に仰向けになり、あっと言う間に事切れた――

「……八ノ型・赫波(かくは)。俺の友が編み出し、俺だけが破った(わざ)よ」

 二人の血で汚れた刀を手拭いで拭いながら、事も無さげに刀治が呟いた。その目はもう澄んではおらず、元の通り濁っていた。

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