八
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「本当に、この先に定助様が……?」
「はい。もうすぐですよ」
次第に強まりつつある日差しを受けて、鮮やかに輝く新緑の木々に挟まれた、狭い石段。そこを、一組の美男美女――新三郎と澪が並んで上っていた。
「申し訳ございません。定助様と澪様が黙ってお会いになられたことを奥方様に知られると、また酷い目に遭わされると思うと、このような場所しかなくて……」
「いいえ。定助様にお会いできるとなれば、このような苦労、なんともありません」
晴れやかな微笑と、弾んだ声で、澪は嬉しそうに答えた。
「そうですか」
そんな澪の様子を横目で見て、新三郎も薄く微笑んだ。
「それにしても、新三郎様には助けられてばかりですね。定助様が居らぬ間、私を支えて下さったり、乱心した奈津様の刺客から私を逃がしてくれたり。そして今も、私を見つけて定助様に会わせてくれたり。本当に、なんとお礼を申してよいのやら」
「お気になさらず。これも武士の務めです」
「まぁ。ご立派ですこと」
幸せそうに、澪は笑った。しかし、ふと、その笑顔に陰りが表れた。
「……しかし、刀治さんと鈴さんには悪いことをしました。知らぬままに危険を背負わせて匿って頂いたのに、何のお礼も言わずに出て行ってしまって」
「何、礼なら何もかもが落ち着いてから返しましょう。遅れたからといって怒るほど、狭量な方々でも無いでしょう?」
「……そうですね」
些細な後悔は新三郎の言葉にかき消され、澪は再び晴れやかな顔に戻る。
「――おっと、終わりが見えてきました」
新三郎が石段の上を指差す。澪がその先を見やると、その終わりと、古ぼけて汚れ放題の鳥居があった。
「――」
逸る気持ちを抑えきれず、澪は一気に石段を駆け上がった。
(定助様――!)
その脳裏に浮かんだのは、愛しい人の笑顔であった。馴れ初めはただ、己の身体目当てに抱かれただけであった。だが何度も肌を重ねるうちに、お互い、不思議と心から惹かれあってしまっていた。
(定助様!)
今となっては、身分の違いも、恐ろしい正室も気にならなかった。ただただ、愚直に己を慕ってくれる彼に、また遭いたかった。
「――定助様!」
溢れ出る思いは、無意識に声として口から弾け飛んだ。石段を登りきった澪が目にしたのは、ほとんど朽ち果てた古い社と、木の葉が散らかり放題の狭い境内だけであった。
「……定助様?」
想い人は何処か? 目に見えぬ所に居るのだろうか? 境内の真ん中まで小走りし、周りを必死に見渡す。
――故に、後ろにまで気が回らなかった。
「危ない!」
悲鳴のような金切り声と同時に、何者かが澪の背中を突き飛ばす。と同時に、澪の視界の右端で赤い飛沫が飛び散った。
「あう!」
目を白黒させながら、澪は前のめりによろけるも、なんとか転ばず踏みとどまった。そして何事かと後ろを振り返ると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
「――鈴さん!」
澪の足もとに、右肩からだくだくと血を流して倒れている鈴が、そして刃を鮮血で赤く染めた刀を右手に握り、どす黒く濁った眼で己を睨む新三郎がいた。
――人伝に澪と新三郎を追っていた鈴は、この朽ちた神社に先回りしていた。そして、澪を見つけて駆け寄ったところ、新三郎の凶刃が澪に襲い掛かろうとしていたため、咄嗟に飛び出して澪を庇った。その際、新三郎の渾身の袈裟斬りが肩の骨肉を裂き、長い髪も斜めに斬り落としたのだ。
「……全く、薄汚い尻軽めが。あの下賤な浪人と同じく、その阿婆擦れを庇うのか」
冷たい声で吐き捨てるように、新三郎が鈴を罵った。その姿は、澪の記憶にある優しくて気が利く新三郎の姿とはかけ離れたものであった。
「……新三郎様……? あなた、何を……?」
震える掠れ声で、澪は尋ねた。
「……なに、見ての通り、あんたを斬り殺したいだけさ。ああ、あとついでに、そこの阿呆も。嗚呼、別に、あんたを裏切って奈津様に肩入れする訳じゃあないよ。……己があんたを殺したいだけさ」
「な……なんで……」
「それはまぁ、地獄でゆっくり考えてくれや」
新三郎はつまらなさそうにそう言い捨て、楽しそうに真っ赤な刃を振り上げた。
「――させるかどあほ……!」
その時、倒れてから一寸も動きを見せなかった鈴がゆっくりと起き上がり、澪を再び庇うべく新三郎と向き合った。その目は怒りと義侠に燃え、恐れは微塵も無かった。
新三郎がため息を吐き、呆れ気味に口を開いた。
「お前も分からん奴だな。じっと隠れておれば、自分だけは助かったのに」
「舐めてもろたら困るなぁ。ほんな半端な気持ちで、人助けはしてないよ」
「……間抜けすぎて、もはや哀れだな」
鈴の強気な態度に、新三郎は興覚めと言わんばかりにため息を吐いた。その様子を見て、鈴は不敵に微笑んだ。
「あんたこそ間抜けやなぁ。お釈迦様よりも、閻魔様よりもおっかないもんを怒らせたんやから」
「……は。何を言うかと思えば――」
世迷言を。そう言いかけたとき瞬間。
――ず。
周りの木々が波打ち、ざわめく。爽やかな一陣の風を浴びて、新三郎はかっと目を見開いた。――と同時に、何かを恐れるように本能的にその身を翻した。
「――ッ!」
新三郎の眼前に、いつの間にか、一つの黒い影が有った。それは新三郎より五間(約六メートル五十センチ)先で、黒真珠のように澄んだ昏い瞳で新三郎を睨んでいた。
――ずず。
影が、左腰の一本差しにゆっくりと右手をかけた。その途端、新三郎の背筋に激しい悪寒が奔った。
「細川――刀治!」
苦虫を噛み潰したように顔を歪めながら、新三郎は眼前の影に向けて刀を構えた。